第31話 野口の苦悩

 野口は農協の出荷場を後にして軽四輪トラックを運転していた。

 早朝にニラを収穫し、母親や雇用している近所の人達が調製してコンテナに詰めたものを、夕方に農協の出荷場まで運ぶのが野口の毎日の日課だ。

 昼間の間にニラの畑に発生する害虫や病気を退治するために農薬散布をしたり、施設の管理を行うのだが、父親が元気な頃は早朝から働いている野口を気遣って昼過ぎに仮眠を取るように皆が勧めてくれたものだった。

 その父は春先に体調を崩してあっけなく亡くなり、父が受け持っていた水稲の作業が野口にのしかかっていた。

 水稲の作業は機械化されているとはいえ、水田の水管理等もあり、おちおち昼寝もしていられないのが最近の状況だ。

 忙しいのは仕方ないとあきらめながら、野口は出荷場で顔を合わせた功とその妻の真紀のことが気がかりだった。

 真紀が身ごもった子供を流産して、一時は彼女が失踪する騒ぎになったのだが、その原因に自分が絡んでいるのではないかと気にしていたのだ。

 野口は以前、真紀に想いを寄せていたことが有ったが彼女を野口の自宅に招いた際に野口の母が彼女が原発事故の際に放射線を浴びているから嫁にもらってはならないなどと言いはじめ、あまつさえそれを真紀に聞かれてしまったのだ。

 彼女との関係はそれで終わったが、流産した時に自分の母の心無い言葉を思い出しているに違いないと胃が痛くなるような思いをして昨夜はあまり眠っていない。

 しかし、自分の立ち位置を考えると、顔を合わせても真紀に慰めの言葉一つかける訳にいかず、努めて普段通りに振舞うしかなかった。

 幸い真紀は普段通り出荷を手伝っており野口はホッとしたのだが、彼女の表情が微妙に暗いように見え、そのことで気をもんでいたのだ。

 自宅に戻り納屋の軽四輪トラックを止めると納屋の奥には父と自分が使っていた乗用車の他に、トラクターや田植え機、そしてコンバインと水稲用の機械が並んでいる。

 コンバインなどは一台が四百万円を超える値段で、最近買ったためにまだ支払いが残っている。

 そのほかの機械も相応に高価なもので総額は家一軒建つほどのものだった。

 野口の家は周辺では大きな農家の部類なのだが、水田の面積は全部寄せ集めても二ヘクタールに満たず、お米の売り上げで機械の購入代金を稼ぐことは不可能だった。

 それでも、父は農林業公社に作業を頼むと稲刈りをしたいときには他の人も希望が重なって使えないので、自分の機械が必要だと全て新しく買い替えたのだった。

 買った機械が壊れるまでは自分がお米の作業もしなければなるまいと考えながら野口は母屋に向かった。

 古くからある田舎の百姓家はかつては作業の折々に働いてくれる人たちに食事を提供する機会も多かったため、広い空間があるのだが、母と祖母と三人住まいの今は無駄に広い感が否めない。

 野口が帰ったことに気づいた母は台所から顔を出した。

「おかえりなさい。晩御飯の準備をするからお風呂に入ってきなさい」

 野口は適当に返事をして、言われたとおりに風呂場に行こうとしたが、母親は話を続けていた。

「以前あなたが家に呼んだことがある真紀ちゃんは良い子だったみたいね。さっき農林業公社の山本君と話をしたけれど、一緒に研修した他県から来た子と結婚してここに住み着くことを聞いたわ」

 野口は何をいまさら言いだすのだと、母親に苦言を呈したい気分だったがあえて口には出さないで足を止めた。

 真紀の失踪騒ぎは関わった皆が他言はしないはずなので母が知っているとは思えない。

 それなのに何故母が真紀の名前を出したのかと不思議に思えた。

「功と真紀はこれからも一緒に農業をやっていく大事な仲間だからな」

 野口は思いをそのまま口に出したが、母親が続けて口にした言葉は昨日からストレスをためていた野口に追い打ちをかけるものだった。

「あなたも、早くお嫁さんを貰って跡継ぎを作らないとだめよ」

 野口は自分の心の中で何かがぶちッと音を立てて切れたような気がした。

 そこで、口を開いて母に向かってかつての恨みつらみをぶちまけてしまえば気が晴れたかもしれないが、野口にはそれが出来なかった。

 母が長年連れ添った伴侶を亡くして気落ちしたままこの数か月を過ごしたことを知っているからだ。

「わしは今日の晩飯はいらん。喜輔の大将の顔を見に行くつもりだ。風呂に入ったら出掛けるけん」

「そう、調子に乗って飲み過ぎないようにするのよ」

 母とのやり取りで、野口はさらにストレスがたまったが、それでも母に当たることはせずに風呂に入った。

 野口は一緒に暮らしている祖母が大好きだが彼女は既に八十歳を超え、認知症の兆候が見え始めている。

 母も祖母もこの先自分が背負って行かなくてはならないと思い、最近の野口は自分の想いを押しつぶす場面が多い。

 野口は風呂に入り、着替えをしてから再びわだつみ町の街に向かった。

 乗用車で出かけて喜輔で酒を飲んで憂さを晴らし、帰りは代行運転サービスを頼むつもりだ。

 それは馬鹿にならない出費なのだが、自宅で一食に夕食を食べてビールなど飲んだら母親を相手に大喧嘩をしてしまいそうなので外に出て頭を冷やしたかったのだ。


 野口が居酒屋喜輔に到着すると、同級生であるマスターはひげ面に笑顔を浮かべて野口を迎えた。

「野口ちゃんひさしぶりやね。親父さんが亡くなったのを聞いたけど大変だったろう」

 野口はマスターに弱弱しく微笑んだ。

「いろいろあったから村井の顔を見ながら飲もうと思って出かけて来たよ」

 喪主として父の葬儀を出した後も、初七日とか四十九日の法要や納骨が続き、落ち着いた頃に初盆といった具合で葬儀関係の儀礼が途切れることが鳴なく、その合間に一人かけた状態で農作業もこなさなければならず野口は喜輔に出かけてくる暇もなかったのだ。

 マスターの村井は他の客の対応をしながらさりげなく野口に気を配っていたが、野口がおとなしく飲んでいるもののアルコールの摂取量が多すぎるのを見て取った。

「野口ちゃん。経営者として飲み物の方が利益率が高いからありがたいのだけど、つまみも食べずに焼酎のロックを立て続けにあおるのははあまり体に良くないよ」

 村井は商売なので客である野口の気分を害さない程度にブレーキを掛けたのだが、野口は別の意味に捕えたようだ。

「そうだな。カツオの新しいのがあったら皮付き刺身でもらおうか。アニサキスはいらないよ」

「そんなもん客に出さないよ」

 野口が軽口をたたくので村井は安心したのだが、それでも野口の飲酒のペースは速いままで、店に来てからあまり時間も経過しないうちに野口は席を立って勘定を払う。

「野口ちゃん飲み過ぎているけどちゃんと帰れるのか?」

マスターの村井は心配して呼びかけたが、野口は片手をあげただけでそのまま店を出たのだった。


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