里を継ぐもの
第26話 二人の生活
夏が過ぎて朝夕にほんの少し涼しさを感じ始めた頃、功は天井にポリエチレンフィルムの天井被覆を張ったばかりの自分たちのビニールハウスを内側から眺めていた。
野口が自分のビニールハウスで育苗し提供してくれた苗は、四月と六月の二度に分けて定植して順調に生育している。
ビニールハウスの中には幅の広い畦が仕立てられ、その上はマルチと呼ばれる白いシートで覆われている。
マルチには一定間隔で穴があけられており一つの畦に四列のニラが整然と並んでいた。
功と真紀が育てているニラは、定植した頃は爪楊枝のような細い葉だったが、今では株がしっかりと充実して市場に流通しているニラと比較して見劣りしない。
「みんなが二回に分けて定植するのは何故かしら」
いつの間にか功の横に来た真紀が植穴に生え始めた小さな雑草を見つけて引き抜きながらつぶやく。
「野口さんの話だと一度に植えると収穫が追いつかないのだって。収穫が追いつかないと成長しすぎたニラが倒れたり、害虫のネギアザミウマが大量発生したりして品質が低下するし、そうなると作業がさらに遅れて悪循環に陥るというんだよ」
功と真紀は春先に野口のビニールハウスの出荷しきれないニラを貰って「そぐり」と呼ばれる出荷調整作業の練習に明け暮れたが、鷹揚な野口は仕上がったニラは功たちの名義で出荷してよいと言ってくれたので、自分たちのニラが出荷できる秋までほとんど収入がない功たちには貴重な収入源となったのだった。
真紀に疑問があるように、功もニラ農家の多くがビニールハウスの天井に張ってあるポリエチレンフィルムを夏場はわざわざ外してしまうことを不思議に思っていたがそれは、水の供給と害虫退治のために不可欠な処置らしい。
雨が多い高知の気象を活かすために、天井を張らずに雨に打たせることで潤沢に水の供給を受けたニラの苗は生育が良くなり、それに加えて水に弱いネギアザミウマを減らす効果があるというのだ。
「プロの農家になるにはまだまだ勉強しなくてはいけないんだね」
功はいつになくもっともらしいことを口にしたが、真紀の意識は既に別のことに飛んでいたようだ。
「そんな事より功ちゃん例のブツを買って来てくれるよね」
「ええ?あれを僕が買いに行くの?」
功は自分がそれを持ってレジに並ぶ姿を想像して躊躇したが、真紀は引かない雰囲気で功に強要する。
「私がその辺で買ったらわかりやすすぎるのよ。町役場の辺りまで行って大きなドラッグストアでこっそり買うのよ」
功が住んでいるわだつみ町は平成の頃に二つの町が合併した自治体であり、町役場の本庁舎があるのはもともとの隣町に当たるため周辺住民の目には付きにくいという理屈らしい。
功はしぶしぶ引き受けることにした。
「あそこまではちょっと距離があるから私の車を使って。功ちゃんの車で事故でもしたら即死だもの」
功が使っているモスグリーンの軽四輪自動車はキャブオーバー型ワンボックスワゴンという形式なのでエンジンは運転席と助手席の下あたりに位置し、運転席の前にクラッシャブルゾーンは存在しない。
何かと衝突した時に運転者を守ってくれるのは鉄板一枚しかないため、真紀は自分の車を使えと言っているのだ。
「わかった。今から買いに行くよ」
功は腹をくくって自分が購入役になると決めて出かけることにした。
町役場があるエリアは功たちが買い物に行く港町からさらに自動車で二十分ほどかかる。て
功は目的のドラッグストアに到着すると真紀の愛車インプレッサを駐車場に止めて、おもむろに店内に入って目的の品物を探した。
しかし、普段買う品物ではないのでどこに置いてあるかがわからず、探し出すのに苦労することになった。
功が生真面目な顔で店内を何か探しながらウロウロする様は店員の目に付いたようで、白衣を着た女性店員が功に尋ねた。
「何をお探しですか」
功は思わず口ごもったが、逃げるわけにもいかず女性店員に答えた。
「妊娠検査薬を探しているのです」
女性店員は功の挙動不審な雰囲気に合点がいったのか表情を明るくして功を手招きする。
「それでしたらこちらですよ。使い捨ての検査キットになっておりますので説明書を読んでからお使いくださいね」
店員が示したのは体温計を思わす細長いキットを印刷した細長い箱だった。
功は数種類あるうちから適当に一つを選ぶと店員に礼を言ってからその場を離れる。
レジで代金を払った功は車に戻るとそそくさと自分たちの家を目指したのだった。
功と真紀の家は、地域で代々農業を営んできた林家の屋敷を借りたものだ。
功と真紀は六月に町の農協会館で披露宴をあげたばかりだが、その際には両家の家族もわだつみ町を訪れている。
二人の営農計画を聞き、秋以降の出荷作業には人手がいると聞いた真紀の両親はわだつみ町への移住を検討し始めているが、新婚の二人が住む家に同居するのは気の毒だと、自分たちが住むための住居を探している状態だった。
家に帰った功は真紀と夕食を食べた後おもむろに妊娠検査キットを使うことにした。
真紀が妊娠検査キットを使ってから功の元に戻り、二人が見つめる前でキットにはくっきりと二本の線が現れた。
「こ、これって妊娠しているってことだよね」
真紀は勢い込んで功に尋ねるが、功は使用説明書をもう一度読み返してから再びキットに目を戻し、そこに現れた二本の線を眺めて真紀に言う。
「これは妊娠していることを示す反応だと思うよ」
真紀の顔にはその瞬間嬉しそうな表情が広がるが、彼女はすぐに表情を引き締めると功に告げた。
「まだ、確定したわけではないから今度、産婦人科の病院に行って確かめてみようね」
真紀の言い方は功にというよりも自分自身に言い聞かせるような感じが強い。
「この辺に産婦人科のお医者さんっているのかな」
「それがね、わだつみ病院で看護師をしているおばさんに聞いたのだけど、この辺では個人営業の産婦人科クリニックはあまりないからいざなぎ市にある県立病院に行くしかないんだって。」
県立病院までは片道一時間近くかかるが、それでも県庁所在地があるまほろば市よりは距離が近い。
「その時は僕も一緒に行くよ」
功は自分と真紀の子供が出来たかもしれないことにまだ実感がわかないままに真紀に話したが、真紀は穏やかな笑顔を浮かべるのだった。
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