第20話 友来る

 功は緑色の流れが小さな渦を巻く川面にパドルを差し入れる。力を込めて水を掻くと、透明なしぶきがはじけ飛ぶ。

 しぶきが上がるような漕ぎ方は下手な証拠で、功のパドル捌きは無駄な動きが多いが、それでもオレンジ色のカヌーは功がパドルを漕ぐのに合わせて舳先を少しずつ左右に振りながら進んでいく。

 進んでいく川面の左右には緑の濃い山肌が続き川岸には大きな岩が連なっている。

 自然の豊かな川でカヌー遊びを楽しんでいる図だが、優雅な雰囲気は背後からの怒声にかき消された。

「ほら、さっさと漕がないと一樹君達において行かれているでしょ」

「それなら自分も漕いだらいいだろ」

「私がこいだらピッチが合わないとか文句言うじゃない」

 声の主は真紀で、二人乗りカヌーの後ろの席に乗り仲良くカヌーに乗っている状況だ。

 功の友人の一樹と美紀そして秀志の三人が夏休みを使ってまほろば県まで遊びに来たのだが、話を聞きつけた真紀が案内を買って出て、早朝に夜行バスで到着した一樹達をカヌー遊びに引っ張り出したのだ。

「いざなぎ川でカヌーに乗らないと、わだつみ町の魅力は語れないわ」

 真紀は、古くからあるレジャーのように話すがいざなぎ川にカヌーセンターができたのはこの春の話だ。

 功は彼女自身がカヌーに乗ってみたかっただけではないかと思ったが口をつぐんでいる。

 わだつみ町が整備したカヌーセンターは安価でカヌーを貸し出しており、功たちは2人乗りカヌーを二艘借りて、功の車のルーフキャリアに無理やり積んで上流まで運んで川下りを楽しんでいた。

 真紀の言うとおり、一樹達のカヌーは美紀と二人が仲良くパドルをこいでいるせいか、下流に向かって二十メートルほど先行している。

 流れの下流の方には、カヌーを借りたカヌーセンター見えて初め、カヌーを川に降ろすときに使う木の桟橋で秀志が待っていた。

 せっかく来たのだからとカヌーに乗るように勧めたのだが、秀志は泳げないのでカヌーは遠慮するといってカヌーを運んだ功の車の回送役を買って出たのだ。

 カヌー遊びで一時の涼を得たが、周囲の涼し気な景色と裏腹に気温は高い。

 真紀は暑さを感じていたらしく、功の肩越しに自分のライフジャケットを押しつけると言った。

「功ちゃんこれ持っていて、私ちょっと泳ぐわ。」

 真紀は後ろの座席からするりと川に向かって滑り込んだ。

 二人乗りカヌーはそれほど安定が良いわけではなく、功はひっくり返りそうになったカヌーを立て直そうと必死にパドルを操作した。

 功がどうにかカヌーの安定を取り戻したころ、五メートルほど離れた水面に真紀が顔を出した。

「底の方まで潜ったら、冷たくて気持ちいいわよ、功ちゃんも泳いだら」

「カヌーを陸揚げしたらそうするよ」

 功の答えも待たずに、真紀は抜き手を切って一樹達のカヌーに向かって泳ぎ始めた。先行した二人も泳ぎに誘うつもりのようだ。

 功は預けられたライフジャケットを落とさないように片袖だけ通してパドルをふるい、どうにかカヌーを桟橋に横付けした。

 先にカヌーを陸揚げした一樹と美紀はもう川の中程を目指して泳いでいる。

 カヌーがひっくり返るのを想定して皆水着を着ていたので、その気になれば川で泳ぐぐこともできる。

 秀志に手伝ってもらいカヌーを桟橋にあげた功もライフジャケットとTシャツを脱ぐともう一度川に降りて泳ぎに行くことにした。

「せっかくだから秀志も一緒に泳ごうよ」

 断られるのを予期しながら誘うと、秀志は意外と話に乗った。

「そうだな、せっかくだから俺も川に入ってみるよ」

 秀志はいつの間にか用意した浮き袋を片手に桟橋を降りる。

 引きこもり系の彼が旅行に出てきたこと自体珍しいのだが、アクティブな行動が増えているようで功はうれしい。

 桟橋の辺りの浅瀬はぬるま湯のような水温だったが、川の流れに入ると少し積ん托感じられた。

 和樹と美紀はいるか型エアクッションにつかまって流れの真ん中辺りに浮かんでおり、川遊びを満喫している様子だった。

「気温は高いけど景色が良くてわだつみ町最高ね」

 いるかクッションの首にしがみついた格好の美紀の横で一樹が言った。

「さっき真紀ちゃんが言ってたけど、ここって昔、女子学生がおぼれた事があることがあるらしくて、時々出るらしいよ。」

「そうそう、川が増水したときに渡し船が転覆して、乗っていた人のほとんどは助けられたけど、一人だけ行方不明になった人がいるって」

 功たちがいる川の中ほどは、川底が見えないほど水深がある。

 深みを覗き込んだ功は何かがうごめいたような気がして背筋がぞっとした。

 そのときだった、何かが功の足を強くつかんで下に引っ張ったのだ。

 水面下に引っ張り込まれた功が足元を見ると白い服を着た女の子が功の右足をつかんでいるのが見える。

 功は水中なのも忘れて絶叫をあげてじたばたと水をかいた。

 溺れると思ったときに足をつかむ力がゆるんだので功はどうにか水面に顔を出す。

 水を飲んだせいでむせていると。目の前の水面を突き破って人の頭が浮上し、それは真紀だった。

「どお、びっくりした?」

 満面の笑みで真紀が問いかけ、一樹と美紀も歓声を上げている。

「した」

 弱々しく答えた功は、ベタないたずらに文句を言う気力もなくして仰向けに水面に浮かんだ。

 見上げると深い青色の空を背景に、輪郭のはっきりした入道雲が流れている。

 功は大学生に戻ったような気分だが、本当に大学生だった頃でもアウトドア満喫な遊び方はしたことがなかった。

 一見流れがないような川の深みも着実に水は流れており、水の冷たい深みで遊んでいた功たちもやがて流されて、浅瀬に来たのでそこから陸にあがることになった。

「まほろば県って夏は暑いんだね。夏場はいつもこんな感じなの」

 美紀が真紀に訊ねるが、真紀は首をかしげて言った。

「この暑さはちょっと異常じゃないかしら。去年とかこんなに暑かった記憶はないし」

 二人は桟橋に上がって歩き始めた。二人とも水着の上にラッシュガードを着ているのですらっとした足が目につく。

 何だか気がとがめて目をそらしたら功は秀志がガン見しているのに気がついた。

 さりげなく視線を遮るように割り込んだら、秀志は功の意図に気がついて身振りでしきりに謝っている。

 功が彼女に色目を使われて気を悪くしたと思ったようだ。

 そうではないと伝えようとしていたら、いつの間にか気配を察した真紀が振り返っていた。

「功ちゃん、なに一人でタコ踊りしてるの」

「え、いや、アブが飛んでいたんだよ、ウシアブとか言うやつ」

「あーそれって銃で撃っても死なないようなごついやつね」

 真紀はどこかのファンタジーかSFの話と混同しているが、功はうなずいてみせた。

 真紀は納得して再び前を向いて美紀と話し始めた。

 女性二人がカヌーセンターの更衣室で着替えている間に、一樹はアイスを買いに行くと言って功の車で出かけていった。

 残った功と秀志は人気の少ないおみやげコーナーをぶらぶらしていた。

 とりあえず施設内に入ればクーラーが効いているので外にいるよりは快適なのだ。

「なあ功君、農業ってちゃんと生活できるようなものなのかな。実はおれはデイトレだけで食って行く自信が無くなったんで、投資資金の一部を使って自分も農業をしてみようかと思っているんだ」

 春先にもそんな話をしていたが、功から見て秀志と農業はイメージがかみ合わない。

「でもデイトレやってたら儲かってるんじゃないの。年明けからアベノミクス効果とかで株価も上がってるじゃん」

「最近は数学的なアルゴリズムを使って大量に売買するボットが増えてきたので相場が読みずらい。下げる動きに便乗できたら稼げるがその先は見当がつかないんだ。春先に株は一旦全部売ってしまったが、もう一度手を出すのが怖くてそのままにしている。」

 話をしているうちに功は「リアル秀志」が降臨していることに気がついた。

 普段の秀志はおとなしい上に言葉遣いも馬鹿丁寧だが、実はそれは彼の傷つきやすい自我が作り出した対人折衝用の疑似人格のようなものが応答しているのだ。

 本来の彼はどこか遠くに潜んで成り行きを見守っている。

 功と一樹は大学時代にそのことに気づいて、本来の彼が現れたときは「リアル秀志が降臨していた」とまことしやかに言っていたのだ。

 少しつきあいの浅い美紀はそこまでわかっておらず、引きこもり気味の彼が出てきただけで「降臨した」と称している。

「農業も、地元の人とのつきあいも大事だし、単純作業が多くて結構しんどいと思うんだけど」

「そう思っていたけど、功がうまくやっているなら、俺にもできるんじゃないかって気がしてきたんだよ」

 随分な言い方なのでさすがの功もカチンと来るものがあった。

「奈緒子ちゃんとつきあってた頃の功は、自分に負い目を感じていたみたいで、ブラックの企業でも無理矢理就職してみたり、何だか背伸びしようとしてばかりだった。今の方が功らしくてのびのびとして見えるよ。そう思ったら。俺も一緒にお米とか野菜を作ってみたくなったんだ」

 秀志は功の気持ちなど気づく素振りも無く言葉を続けるが最後まで聞くと功の苛立ちは収まったのでアニメキャラのセリフで混ぜ返すことにした。

「認めたくはないものだな。若さ故の自らの過ちというものは」

 秀志は当然出典元も知っており微笑を浮かべて功に言う。

「その手のセリフが出るのも元気になった証拠だ」

 どこか人をいらつかせるところがある「リアル秀志」だが、彼が降臨するのは信用している人間の前だけだ。

 本音を打ち明けて相談してくれたのが功はなんだかうれしい。

「僕がまほろば県に最初に来たときに受講した体験研修を紹介しようか。ネットを使って受講できる農業の通信教育もあるみたいだし」

「そう言ってくれると思っていたよ。俺は急がないから少しずつ情報を集めてチャレンジしてみるよ」

 秀志はうれしそうにつぶやき、そこに着替えが終わった二人が戻ってきた。

「地元の方は荷物の制約がないから、差を付けられちゃうわ。功ちゃん彼女の装いはどう。」

 言われるまでもなく、功はノースリーブの白いワンピースとつばの広い麦わら帽子で現れた真紀に目を奪われていた。

 いつもと違う、避暑地のお嬢様スタイルがやけに似合っているが、功の口から考えているのとは裏腹な言葉が出てしまった。

「どうしたのさ、普段は作業着しか着ないくせに」

 功はしまったと思ったが、一度口から出た言葉は回収することはできない。

「なによ。私は作業着だけ着てればいいっていうの」

 真紀はむっとた表情でして言い返すが、険悪なやりとりに発展する前に美紀が持っていたビーチサンダルをハリセン代わりにスパーンと功の頭をはたいた。

「今時の小学生の方がもっと気が利いてるわよ、草食系なのは仕方がないにしても、もう少し口の利き方に気をつけなさいよ」

 美紀の剣幕に頭を抱えて謝る功を、アイスを抱えて戻ってきた一樹が怪訝な顔で見ていた。

 夕方、わだつみ町に戻った功たちはわだつみ町中心街に行き居酒屋の喜輔に出かけた。

 マスターは地物のカツオのたたきやイサギの刺身に腕を振るって見せる。

「いいなあ、こんなにおいいしいのに値段は安いし」

 美紀がつぶやくと、無骨なマスターのひげ面に笑みが浮かんだ。

 真紀と別れて宿舎に帰る間、秀志は学生時代によく歌ってた、何だかわからない曲をわめいていたが、東京から来た三人は旅の疲れが出たのか早々と寝入ってしまった。

「ローリングロックスのナンバーをわめいている奴がいたな、なかなか良い趣味だ」

 功が荷物の片づけをしていると山本事務局長がふらりと訪ねてきた。

 狭い集落なので功の所に県外から友人が遊びに来ているのはあっという間に知れ渡っていたようで、差し入れにビールを持ってきてくれたのだ。

「あの曲ってあいつのオリジナルだと思ってたけど原曲があるんですか。」

「ローリングロックスのサティスファイドって曲だよ。知らなかったのか」

 功は山本事務局長が博識なのに驚かされる。

「昼間、岩切君に短期研修の問い合わせしただろ。研修受講希望者ってひょっとして彼のことか」

 起こしたら気の毒と思ったのか、支所長は秀志達がいる居間には入らず、入り口からのぞき込んでいる。

「そうなんです。とりあえず短期研修に行ってみてはどうかって勧めているんですけど」

「同級生なら社会人だろ、仕事何してるの」

「定職には就いていなくて、自宅でデイトレードして生活してるみたいですね」

 あまり聞かれたくない所だったが、功は正直に答えることにした。

「ふーんそんなので生活できるやつって、どんな頭の構造してるのか俺には理解できんな。でも功ちゃんの例もあるから来る者は拒まず。とりあえず受講者歓迎だって岩切君も言ってたから。早いうちに来てもらえばいい。あそこは四月入学とかじゃなくて随時受け入れできるから、長期研修に放り込んじゃえよ」

 山本事務局長の言葉は功のことを、けなしているのか持ち上げているのか判然としない。

 しかし、功は秀志のことをいきなり拒絶されるのではないかと思っていたので意外だった。

「あいつが、農業できると思いますか」

「そのために、研修を受けてもらうんだよ。二、三日研修受けただけでやっぱり向いてないからとかいって帰っちゃうやつもいるし、本人は絶対やりたいと言い続けても、周囲から見たら、作業が遅くて用事にならないのが目に見えてるからやめさせる場合もある」

「歓迎しているのかと思ったら、意外とシビアなんですね」

「前にも言っただろ。設備投資とかいろいろお金がかかるから、借金抱えて身動きが取れなくなるよりは、やめとけって言ってやるほうが親切な場合もある。研修施設なんてなかった頃は就農したものの気がついたら借金だらけで取引先も家族も困りはてたこともある。結局ご本人の栽培への熱意と経営者としての手腕にかかってくるんだな」

 秀志の話以前に自分は大丈夫なのだろうかと功は不安になっていた。

 山本事務局長は功にビールを渡すとあっさりと帰り、一樹達は翌日は海水浴も楽しんでわだつみ町の夏を堪能した。

 社会人が使える休みは少なく、お盆の帰省客が都会に帰るタイミングより少し早めに一樹たちは東京に戻ることになった。

 功は三人をわだつみ町のJRの駅まで送った。

「暑かったけど自然を満喫できたよ。また機会があったら遊びに来る」

 一樹が美紀と並んで手を振りながら無人の駅に入っていき、秀志も続く。

 ホームから手を振る三人に答えながら、功は、昨日の支所長の言葉を考えていた。

 秀志が希望どおりに就農することはできるのだろうか?それ以前に自分も農業に向いているのだろうか?そんなことを考えているうちに、駅に特急列車が入り、ホームの向こうにいた三人を遮って見えなくしていた。

 列車が発車した後、引き上げようとした功は、駅のホームに秀志が残っていることに気が付いた。

「秀志どうしたんだよ」

 功が駅舎の中から呼ぶと秀志はゆっくりとホームから戻ってきた。

「功の紹介してくれた研修所で長期研修を受けようと思うんだ。善は急げというからこのまま残って研修を始めてしまおうと思ってね」

 秀志は、照れくさそうに告げた。

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