第19話 水田を渡る風

 林さんの事件があってから数日後、梅雨も明けて功が臼木農林業公社に来て初めての夏が訪れ、功はナスのハウスの片付けも終わったのでちょっと一息つけるかなと思っていた。

「功ちゃん、林さんの田んぼの草刈りをするから手伝ってよ」

 だしぬけに真紀が草刈り機を二台担いできて一台を功に押しつける。

 林さんの水田は六反近くあって、段差もあるから畦畔の草刈りは大変だ。

 功は考えていることが顔に出やすい性質なので、功が気乗りしていないことに感づいた真紀はさらに草刈り機を押しつける。

「それって、頼まれた業務じゃないじゃん、公社の燃料使ってかまわないの?」

「うるさいわね、使ってもせいぜい五リットルぐらいだから、蒸発とかのロスの範囲内でしょ」

 真紀はどうしてもやるつもりらしく、観念した功は渋々準備を始めた。

 草刈り機のエンジンは二ストロークなので燃料にオイルを混合してやる必要がある。

 草刈り機専用の携行缶に五リットルほどガソリンを入れてから、計量器でガソリン五リットルに対応するオイルを量って加えると今日使う草刈り機用の燃料が出来上がる。

 臼木では草刈り機の燃料を飲料用のペットボトルに入れて携行する人も多いが、それは実は違法であり、臼木農林業公社では赤い携行缶を使っている。

「結局、巻き込まれるんだよな」

 燃料缶と、草刈り機を軽四輪トラックの荷台に積み込みながら功はぼやいた。

 御本人の真紀は功が準備している間に運転席に収まって上機嫌だった。

 林さんの圃場に行くと、畦畔の雑草はかなりの草丈になっていた。

 除草作業は隣り合って作業してると危ないので、道路から谷にむけて続いている棚田の中央辺りから斜面の下に向かって真紀が作業し、功は道路の有る斜面の上側に向かって作業していくことになった。

 草刈り機にもいろいろなタイプがある、肩からベルトで固定してハンドルが付いているのが一般的で、エンジン部分を背中に背負ってトルクチューブで動力を伝えるのもある。

 トルクチューブ付の草刈り機はエンジンの重量を支えなくていいので楽なのだが価格が高い。

 臼木地区でよく使われているのは、ハンドル無しでエンジンと刃先が棒状のシャフトでつながっている軽量タイプだった。

 急な傾斜も多い棚田の畦草を刈るには軽量タイプの方が持ち上げて高い位置の草を刈ることもでき様々な使い方が出来る。

 しかし、燃料タンクは小さめなので頻繁に給油する必要があった。

 何回目かの給油にあぜ道を登っていると、下の方で黙々と草を刈っている真紀が見えた。

 振り返ると道路を挟んで林さんの家が見える。

 春先に田植えまでの作業で時々来ていたのでなじみのある眺めで、休憩時間にお茶を入れてもらったりしたことを思い出すが、今はその家に住む人はいない。

 お隣の矢野さんが田んぼの水管理をしているそうだが、雑草の退治まではとてもできないのだろう。

 次第に雑草がはびこるのを見て草刈りをしようと思い立った彼女の気持ちもわからないでもなかった。

 草刈り機に燃料を補給していると、同じようにガス欠になった真紀も登ってくる。

「お疲れ様、ちょっと休もうよ」

 真紀は、事前に準備していたらしい冷たい茶のサーバーを軽トラックから降ろしたす。

 農作業の休憩時間に水分補給するのは熱中症防止のためにも大事なことだが、大量に汗をかいた作業の後はジュースやスポーツドリンクでは濃すぎるため冷やしたお茶を飲むことが多い。

 お茶の種類は地元産の番茶を冷やして使うことが多く、時間がない時は麦茶の水出しパックも活躍する。

 道縁に二人で座り込んでお茶を飲んでいると、林さんの田んぼが見渡せた。

 まだ十分に実っていない稲穂は軽くて風によくなびき、風が吹き抜けていくと田んぼの海を波が渡っていくようだ。

「子供の頃ね、おじいちゃんの田んぼを見て、『ねこのバスが通ってる。』って喜んでたのを思い出すわ。」

「へ?」

 功は真紀に聞き返してから、彼女も功と同じ景色を見ていたのだと気がついた。

 世の親が子供によく見せるアニメの一場面のことを言っていたのだ。

「そうだね、風が渡っていくのが見えるみたいだ。この辺の山だったら、人外のなにかが棲んでいてもおかしくないような気がする。」

 その時、目の前の道路を妙な動物が走り抜けていった。

「今通ったの何?タヌキか」

「違う。犬でしょ、首輪していたみたいだし。野口君が飼っている犬じゃないかな」

 後ろ姿を見てもタヌキみたいに見えるが、尻尾をクルッと巻いている。

 子供の頃飼っていた豆柴のチョビを思い出した功は、チョビを呼んでいたように口笛で呼んだ。

 すると、用ありげに走りすぎていったその犬は立ち止まって、先ほどよりゆっくりとした足取りでこちらに戻ってきた。

「何をしたの。他所の家の犬なのにどうして功ちゃんが呼ぶことができるわけ」

「犬ってそういうものなんだよ」

 功はオカルトは信じないが、ユングの本は読んだりする。

 犬の潜在的無意識に呼びかけるからだとか、シンクロニシティーだとか大仰な理由を考えたが、説明がややこしいので真紀の問いは適当に受け流した。

 その間に近くまで来た犬は、「呼ばれたから来たけどあんた誰?」と言いたそうな表情で功の方を見ている。

 その犬は柴犬を一回り大きくしたような姿で毛色はこげ茶色が基調だ。

 功が手を差し出すとフンフンと匂いをかいで、見かけによらず人なつこい。

「こいつを野口君の家まで連れて行ってやった方が良いかな。」

 真紀は少し表情を硬くして返事をしなかった。

 功が重ねて聞くことはしないで犬の頭撫でると、犬は身をよじって少し距離を置いた。

「ほっといて大丈夫なんじゃないの、イノシシ猟に連れて行くようなやつなんだし」

 真紀がボソッとつぶやくのを聞いて、功はこれ以上深追いしないことにした。

 功は犬に、何も持っていないよとてのひらをみせると犬は「用がないならもう行くぜ」と言うように一瞥をくれて元の方向にかけだしていった。

「功ちゃんのことはただのアニメおたくだと思っていたけど、これからは犬寄せの術を使う辺境の犬使いという肩書きを加えることにするわ」

「適当な肩書きを増やさないでくれよ」

 功は妙なことで感心されて苦笑したが、その時二人の目の前に見かけない国産のセダンが止まった。

 運転しているのは病院であった林さんの息子さんで後ろの席には山本事務局長が乗っている。

「おまえたち何をやってるんだよ」

 山本事務局長が窓を開けて訊くのを見て、功は思わず真紀の方を見た。

「以前、林のおばあちゃんに頼まれてたから、畦の草刈りをしてるのよ」

 真紀は功と違って心臓が強いタイプのようで、平然と答える。

「そうだっけ、お疲れ様。これから林さんと土地の関係の相談で役場まで行ってくるよ」

 林さんは功達に会釈しながら車を出した。

 林さんの水田の草刈りが終わり、事務所に帰ると山本事務局長はまだ帰っておらず、理香が出迎えた。

「おかえり、今日はどこに行っていたの」

 委託業務の予定に無いことをしていたので、功達は所在不明になっていたようだ。

「林さんの畦畔管理にいってたの。面積が広いから大変で・・・」

「そう、お疲れ様。今お茶を入れるから待っていて」

 理香も真紀の嘘をあっさりと信じたようだ。山本事務局長も理香もアバウトすぎるのだが功は臼杵の人々のそんなところが好きだった。

 夕方になると事務所には集落の人がフラッと来て立ち話をしていったりすることも多い。

 その日は野口が入ってきたが、彼は何だかあわてているようだ。

「うちで飼っている太郎見かけなかった?さっき見たら犬小屋から脱走したみたいで姿が見えないんだよ。」

 犬の話をしながら、野口の目はチラチラと事務所の奥にいる真紀を見ている。

 例の一件のあとで野口は大仰に謝罪をしようとしたが、山本事務局長はその件はもう蒸し返さないでくれと止めていたのだ。

「見たわよ。あのタヌキみたいな毛並みの犬でしょ。前の道を中の川の方に走っていたみたいだけど」

 真紀が普段と変わらないトーンで告げると、野口の顔にホッとしたような表情が広がる。

「うそお、また青木さんの鶏くわえて帰ってきたら、どうしよう」

 野口は大仰に頭を抱えて見せたが、言葉とは裏腹に少しうれしそうな顔をして礼を言って事務所を出て行った。

 功は野口と真紀が険悪な関係になるのではないかと心配していたので、二人が当り障りない接し方をするのを見て安堵する。

 その時、山本山本事務局長が勢い込んで帰ってきた。

「真紀、大変だ。ちょっと来てくれ」

 山本事務局長は持っていたバッグを自分の机に放り出すと、理香さんが入れた番茶を湯飲みについで飲んだが、熱かったらしく無言でもだえている。

「一体どうしたのよ山本事務局長。少し落ち着いたら」

 真紀が山本事務局長をいさめ、どうにかお茶の熱さが収まってきた山本事務局長は真紀に告げた。

「林さんの息子さんが、家の周辺の土地を全部お前に貸してくれるって言うんだ。それだけじゃない、もし真紀が、使う気があるなら、家まで貸してくれるつもりらしい」

「どういう事、私そんな話を頼んだ憶えもないのに」

 山本事務局長が続ける。

「林さんが息子の幸司さんに相談して決めたらしい。林さんも硬膜下血腫の後遺症は軽くて日常生活に支障がないところまでは回復するらしいけど、農作業を続けながら一人暮らしは無理だと本人が割り切ったらしい。誰かに土地を貸すのだったら、真紀に貸したいということになったらしい」

「ふーんそうなんだ」

 山本事務局長の気合いの入り方と対照的に真紀はしらけた雰囲気で平然とお茶を飲んでいる。

「ふーんって、おまえ来年春には就農する予定なんだし、林さんの農地は全部集めたら八反以上あるんだからいい話だと思わないのか」

「別に。返事をする前に少し考えさせて」

 そう答えた真紀は、湯飲みを置いた。

「今日は疲れたからもう帰る」

 真紀は、そう言い残すとそそくさと事務所を出て行った。

 駐車場からインプレッサのエンジン音がしたかと思うとあっという間に遠ざかっていく。

「一体どうしたんだよあいつは、せっかく農地を貸してくれる話が来たっていうのに」

 山本事務局長は農地を借りるために苦労した榊原の例もあるので真紀が就農するための農地が見つかって自分のことのように喜んでいたのだ。

 それなのに真紀本人が気乗りのしない態度を見せたことが納得いかない様子だった。

「ちょっと真紀の家まで行って話をしてくる」

 山本事務局長が出かけようとするのを理香が襟首をつかんで引き留めた。

 何をするんだという顔で振り返る山本事務局長に理香がゆっくりとかぶりを振ってみせる。

「何で止めるんだよ。先方に返事もしないといけないのに」

 山本事務局長は不満げにつぶやいた。

「少し考えさせてと言っているんだから、一晩くらいは時間をあげなくちゃ。真紀ちゃんも遠い場所の出身だから、ここにずっと住むことになるなら、いろいろと思うこともあるはずよ」

 理香がやんわりと山本事務局長をたしなめた。

 山本事務局長と彼女は中学校の同級生だが、大事な場面では理香がお姉さん的にイニシアティブを取るのが何だかあやしい雰囲気だ。

 翌日の朝、功が事務所に行くと真紀と山本事務局長が向き合っていた。

「真紀、どうするつもりか話してくれないか」

 山本事務局長は強気に話を進めようとする。

「私は林さんが体調を崩して倒れたのに、その土地をちゃっかり使うみたいな感じがして抵抗があるのよ」

 真紀は生真面目な表情で山本事務局長に訴えた。

「でも、林さんだって真紀を見込んで貸してくれるつもりになったんだぞ」

 山本事務局長の言葉に真紀は首を振った。

「わかっているけど、林さんがどうしても手に余る土地を貸してもらうのと、倒れたからその後を占領するのでは気分が違うのよ」

 山本事務局長が黙り込んだ。その横で理香がゆっくりと話し始めた。

「占領すると言うのは言葉が悪いわね。林さんは真紀ちゃんのことを気に入って、名指しで使ってもらいたいと言っているのよ。林さんの意思も汲んであげないといけないわ。」

 真紀も口をつぐんだ。しばらくして真紀はぽつりと言った。

「わかった。林さんの土地を貸してもらう」

 山本事務局長の表情が安堵して緩むのがわかった

 真紀が意思を決めたことで彼女は臼木で農家として生活することに一歩踏み出したのだった。

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