第12話 マダニの功罪
功が臼木農林業公社の研修生になって一週間が過ぎた。
功にとっては山本事務局長と一緒にあいさつ回りをしたり、農業用機械の基本操作を教わっているうちにあっという間に過ぎた一週間だった。
金曜日の夕方、その日の業務を日誌に付けるように言われた功が、事務所のパソコンで日誌を書いていると、山本事務局長がおもむろに話し始めた。
「月曜日の朝に地区の田役があるんだ。地区の皆さんへの顔見せも兼ねて、功ちゃんに初仕事に行ってもらおうか」
「それって、どんなことをするんですか」
功は画面から顔を上げて山本事務局長に尋ねた。いきなり田役と言われても功には何の事だかわからない。
「もうすぐ田植えが始まるから、地区の住民が共同で農業用水路の草刈りや、土砂を取り除く作業をするんだ。用水路の流れが悪いと田んぼに水を張ることができないから大事な作業だぞ。おれも一緒に行くから一緒に作業をしてくれ」
功に異論があるわけもなく、月曜の朝に功と山本事務局長は、夜も明けきらぬうちから集合場所に出かけた。
早朝に集合したメンバーは各自が持ち寄った草刈り機で水路の周りの雑草を借る作業に取り掛かる。
功も農林業公社の草刈り機を使って作業に参加した。
草刈り機は小さなエンジンからシャフトで回転を伝えて、円形の歯を回して草を刈る機械だ。
迂闊に扱うと近くにいた人に大けがをさせてしまうので、功には真紀が徹底的に取り扱いをレクチャーしたばかりだ。
功はしばらく草刈りを続けたが、勢いよく回っていた草刈り機のエンジンは、息をついたかと思うと、ぷすぷすと止まった。
どうやら燃料が無くなったみたいなので、功は燃料タンクを置いた場所に給油に向かい、まだ惰性で回っている円形の歯を刈り飛ばした草に押しつけて止めた。
さっき野口がやっていたのを早速まねてみたのだ、何だかプロの仕草のようでかっこいい。
功は歯の回転が止まった草刈り機を担ぎなおすと、急な斜面をゆっくりと降りていった。
「ガス欠だろ、ちょうどきりがいいからみんなで休憩しようか」
功の様子に気が付いた野口が声をかけ、皆で休憩を取ることになった。
集落の共同作業のはずなのだが、参加者は少ない。野口君の他には功と山本事務局長、そして、区長の金子区長の総計四名だ。
作業の参加者は思い思いに腰を下ろして、持参した水筒からお茶を飲んだりしており、皆が集まっている近くの斜面には刈り取った草が積み上げられていた。
見た目はふかふかの状態に見えたので、功はその上に寝転がってみようとした。
「そんなところに寝転がったら、切り株が背中に刺ささっちまうぞ」
誰かが言ってくれた言葉の意味が功の脳内で理解されるのと、背中に無数の切り株がぷすぷすと刺さるのはほぼ同時だった。
「いてて」
功はあわてて起きあがったが皆は口々に小言を言う。
「おまえ、草刈りしたばかりなのに、そんなことしたら草の汁が付くだろ。作業服は頻繁に更新できないって最初に言っておいただろ」
「もう少し考えて行動しないといかんよ」
山本事務局長や金子区長にたしなめられて功はなんだかばつが悪い。
「ほら、こっちに来てお茶でも飲めよ」
野口が番茶が入った大きなやかんを掲げて見せたので、功はホッとして彼の近くに座った。
功は、今回の仕事はたかが用水路周辺の草刈りだと高をくくっていたが、用水路は地区から北へ山の斜面に沿って延々と続いている。
「この用水路は一体どこから来ているんです」
よそ者の素朴な疑問だが、区長の金子区長さんは嬉しそうに話を始めた。
「臼木の用水路はここから三キロメートルほど上流から続いている。そこには大きな滝があって滝坪を満たす豊富な水に目を付けた時のまほろば藩の家老の野上兼山が、水の乏しい臼木に水路を引くことを考えたと言われている」
しまった。このおっさん話が長そうだと功は気づいたがすでに手遅れで、心なしか野口が功を見る目が冷たくなったような気がする。
「兼山は滝壺の標高が臼木よりも高いことを測量により割り出した。本来の川の流れはそこから西に流れ、臼木の辺りまで来たときは遥か下の谷底を流れているが、彼が作った水路は山の中腹を通って、現在の臼木の集落まで達し、一帯を豊かな土地に変えたのだ」
山本事務局長と野口は黙ってお茶をすすっており、二人とも同じ話を散々聞かされてきた雰囲気が漂う。
「水路が作られたのは江戸時代の話だ。それまでは、臼木の中程を流れていた川も田植えの時期には水が無くてとても水田が作れるような水量では無かった。それが水路ができたことによって米作りができるようになり、人も増えたのだ」
「そんな時代によく高低差を測量できたもんですね」
功が疑問を口にすると野口君はこれ以上余計なことを言うなと言いたげに功をにらんだ。
そして山本事務局長がお茶を飲んでいる金子区長が再び口を開く前に説明を始めた。
「それはな、夜に提灯を持った人を水源まで並ばせておいて、谷の反対側から見て高さを目測したんだよ」
金子区長は自分の代わりにあっさりと説明されたので不満げだったが、再びお茶を飲み始めた。
しかし、水路というのは素掘りで幅四十センチメートル程度の溝でしかない。
それが延長三キロメートルも山の中腹の斜面をのびている訳で、当然のように途中で斜面から崩れた土砂によって埋もれかけたり、周囲が草に覆われたりしている。
それを雑草を刈り払い、詰まった土砂を綺麗に掃除して水が流れるようにするのだから、一大事業と言っても過言ではなかった。
しかし、今日集まった人数はわずかに四人だ。
功は午後からどこまで進めるか考えてみたが、どう考えても一日では終わりそうになかった。
とはいえ、集まった者は作業をするしかなく功たちは休憩を終えると再び作業を開始した。
金子区長の計画は、先に水路の全長にわたって草刈りを済ませてその後で水路の掃除にかかるつもりのようで、功たちは水路の両側に分かれてひたすら草を刈って進んでいく。
作業をしながら山の斜面に沿って回り込んでいくと、功たちが作業をしている水路からほど近いところで、高速道路の延伸工事が行われているのが見えた。
高さが数十メートルに達するクレーンやシールドマシーンという掘削装置が持ち込まれてハイテクを結集した高架橋やトンネルが作られている。
高速道路は隣のいざなぎ町から長いトンネルとなっており、橋脚高い高架橋で谷をまたぐと再びトンネルに入り臼木の集落を素通りしていく計画だ。
高速道路の工事現場を見ていると功は土を掘った水路を補修するのがなんだかばかばかしくなってきた。
高速道路の予算をほんの少し分けてくれたら全面コンクリートの水路にできそうだと思ったからだ。
お昼近くになって、功たちはどうにか水路の延長の半分を過ぎる辺りまで進んでいた。
「それにしても、今日は集まりが悪いね。この出役には毎年少ないと言っても十人ぐらいは集まってくれる。十人いれば班分けして区間を割り当てて作業を始めるからもっとはかどるんだよ。金子さんちゃんと集落のみんなに知らせた?」
山本事務局長が金子区長に尋ねた。
くま手をもって、刈り取った草を集めに行こうとしていた金子区長は立ち止まると一呼吸置いてから振り返ると言った。
「もちろん、区の予算を使って対象者全員に通知をしたよ。わしもこれほど人の集まりが悪いのは何故だろうかと訝しんでいるところだ」
金子区長は一息ついていてからさらに続ける。
「今日のうちに終わらなかったら、日を改めてやり直す時間はないから農林業公社に業務委託して最後までやってもらいたいのだが」
「田役ってそういうもんじゃないでしょ。もう少しちゃんと皆に周知しておいてもらわないと」
野口君はいつになく厳しい意見を口にする。
そのとき、集落の方向から岡崎と真紀が歩いて来るのが見えた。
水路沿いには自動車が通れる道はないから歩いて昼食を運んできたのだ。
「皆さんお疲れ様。飲み物と弁当を持ってきました」
お弁当と飲み物は金子商店の品物だ。区長が自分の商店に発注したら問題になりそうな話だが、他にお店がなければ仕方がない。
とりあえず食事を始めようとする皆の横で、岡崎が言った。
「今朝から公社の事務所に、自分は田役に出なくてもいいのかって問い合わせが何件も来てるけどどういうことかしら」
岡崎の言葉を聞いて山本事務局長は改めて金子口調を問い詰める。
「金子さん一体どんな文面でお知らせを出したんだよ」
皆の視線が金子区長に集まり、彼は仕方なく話し始めた。
「実は、高齢者は作業を免除すると付け足した」
「そんなことを書いたら誰も出てこないよ。臼木の集落は町まで勤めに出ている者を除いたら六十五才以上高齢者がほとんどじゃないか」
野口君が指摘すると金子区長さんはうなだれた。
「去年の水路役の後で、しばらくしてから今西さん方のじいさんが肺炎で亡くなっただろ。わしは、あれが水路役で無理したのが祟ったのじゃないかとずっと気がとがめていた。八十を超えるような人は無理して出てこないでくれというつもりで書いたんだよ」
それを聞いて皆はしん静まった。何となく気づまりな空気の中で沈黙を破ったのは山本事務局長だった。
「世間一般では六十五才以上は高齢者とされているからな。理香ちゃん事務所に帰ったら問い合わせしてくれた人たちに電話して、昼から作業に来てくれるように頼んでやって」
「わかった、そうするわ」
岡崎は温和な笑顔を浮かべる。
岡崎と真紀が事務所に帰ろうとしたときに真紀が功の腕をつかむとぐいと引き寄せた。
「これ何?ほら功ちゃんの耳の下にくっついてるやつ」
皆が功のまわりに集まった。
「それはダニじゃ。さっきその辺に寝そべったときに着いたんだろ。最近イノシシやらシカやら増えたからダニも増えて獲物が来るのを待ちかまえていたのだな」
金子区長が断言するが、功は自分で見えない位置なので気になって仕方がない。
「誰か取ってくださいよ」
「いや待て、素人が取ると口の部分がちぎれて皮膚の中に残って腫瘍ができると聞いたことがある。犬神の診療所にいって見てもらった方がいいよ」
「そう言えばマダニが媒介するウイルス病で重症になったニュースを最近見たような気がする」
皆の話はどんどん物騒な内容になっていき、先ほどから何となく寒気がしていた功がそのことを話すと山本事務局長は功に宣言した。
「おまえは、もう作業はいいから病院に行ってこい」
支所長の療養宣告が出て、功は診療所に行くことになった。
しかし、一キロメートルを超える距離を歩いて帰り、自分の車で診療所に行くまでの間マダニは功の血を吸い続けている。
診療所で診察を受けるときには、功は誇張ではなく涙目になっていた。
初老に差し掛かった温厚そうな診療所の医師は、功の訴えを聞いてから診察に移った。
「これは見事なダニが三匹も食いついてるね。一体どこの藪の中をうろついていたんだい」
「地区の田役で水路の管理作業をしていたんですよ」
「そうか、それは感心だ。ちょっと痛いかもしれないが辛抱してくれよ」
医師は功の視野の外で何かの器具を使ってダニを皮膚から取り除いている。
「除草作業中にやられたみたいで、何だか寒気がするんですけど、変な病気に感染していませんよね」
功は必死で訴えるが、意思は意に介していなかった
「ウイルスで症状が出るのは、もう少し後になってから。あんたは動いて汗をかいたのに着替えもしなかったせいで風邪を引きかけているようだね」
どうやら診療所の医師は心配ないと言っているようだ。
「ほれ、これがあんたに食いついていたダニだ」
そう言って銀色のトレイに乗った三つの物体を見せてくれた。
「こんなにでかいんですか」
功に食いついていたダニは、一センチメート近くありそうな丸い球体だった。
丸い胴体に比べて小さな頭部付近に足がまとまっていて何だかグロテスクな形態だ。
「血を吸うとふくれるからね。無理に取ると口器が皮膚の中に残るが、満腹になると勝手にとれる。こいつらは満腹になっていたから簡単にとれたよ。記念に持って帰るか?」
ダニを差し出す先生に。功はいりませんと断った。
「今日は帰って休みなさい。何日かたってから高熱が出たらまた来ればいい」
功は医師に礼を言ってから診療所を出ると、森の中で寝転がるのはやめておこうと心から思っていた。
功はその夜微熱が出たが、ただの風邪だったようで翌日には治った。
しかし、集落では功のことが田役の最中にダニにやられて倒れた研修生として、話に尾ひれが付いて広まっていた。
翌朝、功が農林業公社の近くを歩いていると、突然生垣越しに声をかけられた。
「ここに来たばかりなのに、ダニにやられて倒れるなんて気の毒にね。体調に気を付けて無理しないようにしなさいよ」
腰の曲がったおばあさんが気の毒そうな顔をしてこちらを見ていた。そこは、これまでに何度も通って人の気配がないと思っていた家だった。
そこから少し歩くと、目の前にホウレンソウの束が突きだされた。
「昨日は大変だったみたいだな、これを持って帰って食べなさい」
先ほどの家の隣の家から現れた高齢の男性だった。
功はほうれん草を受け取ってから礼を言って歩き始めたが、ここに引っ越して来て以来、集落の住人たちがひそかに自分を見ていたことに気が付いた。
ラッシュ時の新宿駅の西口辺りに居たら目に入る範囲に数百人の人がいるはずだが、自分に注意を払う人など皆無のはずだ。
しかしここでは、集落外から来た人間は注目の的なのだと功は気が付いた。
山本事務局長達が集落の人に会ったら挨拶をしなさいと言っていた由縁だ。
功にとってダニに刺されたのは災難だったが、集落の共同作業に参加している最中だったおかげで、集落の皆に好印象を与えることができたのかもしれなかった。
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