第13話 ライフプランと交付金

 功は夜が明けた直後の研修用のビニールハウスの中でミツバチの巣箱をじっと見詰めていた。

 ミツバチの巣箱の正面には丸い蓋が付いている。

 丸いフタは三つのパートに分かれていて、小さな穴が開いた部分、大きな開口部がある部分、そして開口部がなくてミツバチの出入り口を完全にふさぐ部分となっている。

 今は大きな開口部の部分が巣箱の出入り口に来ており、ミツバチが自由に出入りできる状態だ。

 功は出入りするミツバチが途切れた瞬間に蓋を回して入り口を完全にふさぐつもりで様子をうかがっていた。

「功ちゃん今よ」

 功の後ろから見ていた真紀が囁き、功は素早く巣箱に近寄り、丸い蓋を回して巣箱の入り口を完全にふさいだ。

 これで巣箱の中からミツバチが出てくることはない。

 功は木でできた巣箱をそっと持ち上げると脇に抱えるようにして運び始めた。

 箱の中ではブンという羽音が響き、ミツバチ達が騒ぎ始めた。そして巣の外に出ていたハチ達は何をするんだという雰囲気で功の後を追ってくる。

 功が通り過ぎた後で、真紀は小さな箒を振り回して追ってくるミツバチ達をけん制した。箒は柔らかいのでハチ達が致命傷を負わないというのが真紀の主張だ。

 功と真紀が巣箱を運び出しているのは蜂蜜を盗むためではなく、功の研修用ハウスでワタアブラムシが発生して農薬を散布しなければならなくなったからだ。

 功は運び出したミツバチの巣箱を臼木農林業公社のイチゴ用ハウスに運ぶ。

 西山がイチゴ栽培も希望していたので1アールほどの小さなハウスにイチゴの圃場が設けられていたのだ。

 主がいなくなったイチゴのハウスは岡崎と真紀の手で細々と維持されていた。

 功はイチゴハウスの見通しの良い、明るい場所に巣箱を置こうとしたが、真紀は首を振った。

「そんな直射日光が当たる場所に置いたらハチが皆死んじゃうでしょ。日陰でなおかつアリが来ないところじゃないとだめよ」

 功はミツバチの巣僕を抱えたままで周囲を見回した。巣箱の重量は20キログラム近くあるので結構重い。

「難しいな。ベニヤ板で日よけを作ってはどうだろう。その辺からコンクリートブロックを拾ってきてその上に巣箱を置いて、箱の上にはベニヤ板の屋根を作るんだ」

「そうね。それなら合格かしら。ちょっと待って先に足場を作ってあげるから」

 真紀は先に立って駆けていくと、手近にあったコンクリートブロックを二つ並べ、その上に木の板を渡した。

 巣箱を置くのにおあつらえ向きの台座の出来上がりだ。

 功はミツバチの巣箱をそっとおろすと入り口を開けようとした。

「待って、少し落ち着いてからでないと皆飛び出して来るから」

「そうだね、事務所でお茶してから開けに来よう。屋根もその時でいいかな」

 功は真紀の先に立って農林業公社の事務所に向かって歩き出した。

 功たちの本来の研修開始時間は8時半だが、今はまだ夜が明けたばかりで、事務局長や岡崎が出勤してくるまでたっぷりと時間があった。

「大体、功ちゃんがアブラムシの発生に気が付くのが遅いのよ。発生初期ならマシン油乳剤とか微生物農薬でも抑えられるからハチちゃんを避難させなくても済んだのに」

「ごめん。気が付いたときはナスの一株の上の方の葉が真っ黒になるくらい増えていたんだ」

 ミツバチはナスの受粉用にビニールハウスの中を飛ばせているのだが、ミツバチは農薬には弱く、害虫防除用の農薬を散布したら当分の間ビニールハウスの中に戻すことはできない。

「ネオニコチノイド系の農薬を使ったら、もう今シーズン中はハチ達を入れるのは無理ね」

「え、そんなもんなの」

「そうよ。人には毒性が少ないけどマルハナバチの場合は農薬を散布してから五十日経っていても、バタバタと死ぬのよ」

 功はがっくりと肩を落とした。

 功も研修でナスの世話をするようになると、自分が担当するナスの花が咲き、次第に果実が大きくなることが楽しみになっており、収穫適期となったナスの光沢のある果皮を見ると、その美しさを誰かに自慢したくなるくらいだ。

 しかし、ミツバチがいないと功自身が、ナスの花一つ一つに植物ホルモン剤をかけるか振動を与えて花粉を飛び散らせないとナスの実が着かない。

「それじゃあ、あのハチ達はこれからどうするの?」

「そうね、イチゴの花の蜜でも集めてのんびり暮らしてもらったら」

 真紀は他人事のように答え、功は仕方なく自分ミツバチの代わりに受粉作業を行う覚悟を決めた。 

 ミツバチを無事にイチゴのビニールハウスに移動し終えて、功と真紀は本来の研修開始時間まで一休みすることにした。

 臼木農林業公社の事務所には職員と研修生がお金を出し合ったドリップ式のコーヒーサーバーがあり、功と真紀が買い置きのお菓子をつまみながらのんびりコーヒーを飲んでいると、山本事務局長が事務所に現れた。

 彼の普段の出勤時間よりかなり早い時間帯だ。

「お前達ずいぶん早いな。どうしたんだよ」

「午前中に農薬散布するからハチちゃんを避難させていたのよ」

「感心だな。俺が早めに出てきてやっておこうと思ったのに」

 山本事務局長は機嫌のよさそうな顔をして腕組みをしていたが、やがて功と真紀に向かって言った。

「今日は二人の研修計画の件で一緒に役場まで行くけど、その帰りに昼飯おごってやるよ。心がけがいいから、サービスしてあげよう」

「本当に?、おごってくれるなら私は石窯焼きピザがいいな」

 真紀は遠慮なく店のリクエストを始めていた。

 研修計画というのは、功や真紀が農業を始めるために技術を身につける計画だ。

 功は研修期間中は国の交付金として毎月十二万五千円の研修手当てがもらえると聞いていた。

 国の交付金は県と町役場を経由して農林業公社から功に支給されるのだが、そのためには申請手続きが必要になる。

 役場の二階にある小さな会議室で功と真紀は町役場の職員や県の出先機関の職員から制度の説明を受けた。

 功や真紀は研修機関でもある臼木農林業公社の研修生となるので、研修の実施についてはほとんど問題がなかった。臼木農林業公社は国の交付金を使うことを視野に入れて研修カリキュラムを整備していたから、そのまま国の制度に乗ることができるという。

 二人が考えなければならないのは、研修終了後に就農してからのライフプランに他ならなかった。

 功は最初は農林業公社の職員として働けると思っていたが、それは勘違いだと判明していた。

 研修が終わったら自分で農業経営を始めなければならないとしたら、国や県の支援制度が使えるか否かが重要な問題と言ってもよかった。

「榊原の話とか聞いて不安があるかもしれないが、臼木の農林業公社としても責任をもって就農後も青年就農給付金の制度に乗れるように努力するよ」

 山本事務局長は真面目な表情で語った。

 無論、功もわだつみ町に来て以来自分で経営を始めるプランを考え始めている。

「その給付金っていうのは一体どういう内容なんですか」

 功が尋ねると、まほろば市にある県庁から事業説明に来ていたという植野氏が鞄からパンフレットを取り出して説明を始めた。

 功は農業人フェスティバルで彼と会ったのを思い出す。

「青年就農給付金というのは年齢が四十五才以下で独立自営就農に対して強い意欲を持っている農業者に、研修期間は二年間、経営開始時期は五年間を限度に年間百五十万円を給付する制度です」

 植野氏は慣れているのかスラスラと説明する。

「農業を始めるには技術を身につける研修が不可欠ですがその間は収入が無くなるので本来なら生活費をためておく必要があります。そして、技術的に未熟で経営が不安定になりがちな就農直後の時期も出荷が思うようにできずに生活費に事欠くことも考えられます。その時期を乗り切るための給付金です」

 功が違和感を感じたのは、給付金と言う言葉だった。

「それは、育英会の奨学金みたいに時期が来たら返済しなけらばならないお金ですか。」

 功の問いに町役場の森永さんが答えた。

「給付金は貸付金じゃないから返さなくていいんですよ。使用目的にも制限は付かないから安心して使ってもらえます。」

 功は年間百五十万円のお金をただでもらえるということを理解して驚いた。

 功がコンビニでバイトして稼げるのがせいぜい年間百万円程度でありアルバイトで一年間しんどい思いをして稼げる以上の金額がポンともらえるなんてあり得ないような気がしている。

 それも制度をフルに使えば総額は一千万円を越えそうだ。

 功は信じがたい思いとともに、自分がその給付金をもらえる立場であることを理解した。

「もっとも、経営を開始してからの給付金は、所得制限があります。独立自営就農後の農業所得が二百五十万円を超えると給付は停止されます」

 野口の所得は一千万円を軽く超えており、功は彼らの言う所得が売上高なのか、経費引き後の純利益に相当するかが気になった。

「農業所得って売上高のことですか」

 森永と上野が顔を見合わせ、直接の窓口となる町役場の上野が説明する。

「いいえ、売り上げから諸経費や専従者給与を引いた金額ですよ」

「所得制限を超えることを心配しているんですか。頼もしいな」

 植野が嬉しそうな表情でつぶやいた。

「それはそうだろ、こいつは基幹農家を目指しているのだから。給付金をもらうために所得が二百五十万円を超えないような経営計画を五年分作るのは制度の主旨と違うと思うな」

「その通りですね」

 山本事務局長が何となく偉そうに話すのを、植野が謙虚な表情で聞いている。

 独立自営就農と言うと大仰だが、経営を初めてうまくいかない場合のセーフティーネットができたということだった。

「それでは川崎さんも宮口さんも農林業公社で二年間研修を受けた後に、ニラの施設栽培で就農するという計画ですね。施設は県のリースハウスを使い、町も義務負担金を予算化するということで間違いないですね」

「公社の研修生ですからそれは大丈夫です」

 植野と森永が、公的機関の予算が絡む堅い話をしている横で、真紀は山本事務局長の袖を引っ張った。

「ねえ。私ナスの栽培の方が好きなんだけど、なんでニラの話になるのよ」

 苦情を言う真紀に、山本事務局長はぼそっと言った。

「後で事情を話すから、このまま通してくれ」

 真紀は不満を抱いた表情のままだがとりあえず口を閉じた。

「四月に始まる人・農地プランの話し合いの時に、この二人の新規就農の話もするのですか」

 森永の問いに、山本事務局長は固い表情で答えた。

「集落営農法人結成の件でもめた挙句に話が流れた後だ。農地集積のためにプランを作りましょうなんて話をしたら紛糾するのは目に見えているから、研修生の就農給付金のためにプランを作ってくださいと言ったほうがすんなり話が通ると思う。どのみち、人・農地プランというのは作らないわけにいかないのだろ」

「そうなんです。うまく話をまとめてくださいよ」

 役場の森永は山本事務局長に頭を下げた。

 功達の計画を立てると言いながら、既定路線の確認のような話し合いが終わり、山本事務局長は真紀と功を連れて役場を出た。

「私のナスの話はどうなるのよ」

 外に出るなり、真紀は山本事務局長に食い下がった。

「真紀がナス栽培が上手なのは認めるが、あれは加温栽培だ。最近の原油高で重油がどんどん値上がりしているから経営収支が成り立たなくなってきている。一生懸命作っても赤字にしかならないようでは仕方がないだろ」

「そんな。それだったら何故研修メニューに残しているのよ」

 真紀は真剣な表情だったので、山本事務局長も真面目な顔で説明を始めた。

「国の研修用給付金も、去年まで使っていた町の補助金も支給要件に年間一千五百時間の研修時間が義務付けられていた。ニラ栽培の作業だけでは研修時間が稼げないんだよ。お前達は賢いからわかってくれるだろ」

 山本事務局長の言葉を聞いて、真紀は唇をかんで俯いていたが、やがて顔を上げて言った。

「仕方がないわね。ニラの計画で認めてあげるから約束通りピザおごってよ」

 彼女はいつもの表情に戻っており、思いのほか立ち直りが早いようだ。

「いいとも。早速行ってみよう」

 いい雰囲気に戻って食事に行こうとたときに、役場のサイレンが鳴り始めた。

 どうやら正午の時報として使っているらしいが、都会なら確実に近所から苦情が出る音量だ。

 サイレンを聞いた真紀は心なしか表情を曇らせて海の方を眺めた。

 局長が彼女の顔をのぞき込みながら何か声をかけるが真紀は手で局長を遮った。

「大丈夫。いつまでも変な気の使い方をしないでよ」

 真紀は功に手招きしながら役場から高台に上る坂道を歩き始めた。

 局長は怪訝そうに見ている功に気づくと、苦笑して彼女の後を追う。

 真紀と山本事務局長が目指していた店は、石窯焼きピザ「フェデリコ」と看板がかかっていた。

 丘の上の高台にあるのでわだつみ町の港や海岸線が見えるロケーションだ。

 遠くまで続く白い砂浜と松林、そしてコバルトブルーの海のコントラストがきれいだ。

 真紀のおすすめは地元産サルエビをふんだんに使ったシーフードピザだった。

 真紀と山本事務局等は余ったピザの争奪戦を繰り広げて騒々しい。

 しかし、功は話の合間に真紀が遠い目をして海を見ているような気がしていた。

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