第10話 居酒屋喜輔

 昼食の後、山本事務局長は功を研修生用の宿舎に案内した。

「功ちゃんと真紀は自分の車で来てくれ。西山の車は任意保険を功名義に切り替えたそうだからそのまま乗っていいよ」

 山本事務局長は農林業公社の軽四輪トラックで先行した。

 臼木という集落は山の上の高原状の地形に農地が広がっており、山の麓にある川沿いに点在する集落よりも広々としていた。

 一車線しかない細い道でも地元の人は相当なスピードで走行し、置き去りにされそうになった功は後を追うのに必死だ。

 功は先行する山本事務局長の軽四輪トラックを見失いそうになったが、古びた家並みの中に軽四輪トラックと真紀の車が止まっているのを見つけて安堵した。

 功は自分の車を止めて、先に到着していた山本事務局長達に近寄る。

「山の上なのに結構家があるんですね」

「ああ、むしろ谷沿のエリアがほとんど土地がないから、昔は山の上の民の方が栄えていたのだが、最近はご多分に漏れず過疎化が進んでいる。ここにも小学校があったが廃校になって久しい」

 山本事務局長が示す方向には、木造のこじんまりした校舎と小さな校庭があり、校庭の周囲には桜らしき並木もある。

 功は、山本事務局長が教職員用住宅を研修用宿舎に改造したと言っていたのを思い出し、ひょっとしたらこの近くにその建物があるのだろうかと思って周囲を見回した。

「ここが研修生用の宿舎だよ」

 功の様子を見て山本事務局長は功たちが車を止めた空き地にの脇に立つ建物二棟を指さしたが、功はその建物を見て目を疑った

 そのたたずまいは相当にクラッシックなもので、見た目は廃校になった校舎の脇に朽ち果てそうな木造平屋建て建物が残っているといった風情だ。

 山本局長は功の背中をポンと叩いた。

「そんな顔をするな。これでも使えるようにガス給湯の風呂や、合併浄化槽をつけるのに相当苦労したんだ」

 研修生用の宿舎の中に入ると確かにリフォームされて小綺麗な状態になっていた。

 平屋建ての建物には二部屋にキッチンとバストイレが付いており、不動産屋なら2DKバストイレ付というところだろう。

 建物の外見だけ見て引き気味だった功は、内部の居住環境を見て案外悪くないと思いなおすのだった

「ここの家賃っていくらなんですか」

 功が聞くと、山本事務局長が一本の指を立てて見せた。

「十万円?」

 功は東京の賃貸物件の相場を思い起こし、意外に広々した宿舎の間取りを見ながら自分には不相応な世帯用の物件ではないかと考えて聞き返したが、山本事務局長の顔に笑顔が広がった。

「違う一万円。この田舎でそんなに高い家賃は取らないよ。」

 2DKバストイレ付きで月一万円?と思い功は耳を疑った。

 しかし、ロケーションを考えれば住人が減って学校が廃校になった地区に新たな農業者を呼ぶための研修生用宿舎なのだ。研修生の住居にするためだけに補助金とかを使って整備してくれたのに違いない。

 食べ物はおいしいし家賃も安く田舎暮らしも悪くないと考えながら、功は二人に手伝ってもらい部屋の掃除を始めた。

 つい最近まで人が住んでいたので部屋の内部はそれほど汚れてもいない。

 しばらくすると宅配業者の車が宿舎の前に到着し、功が埼玉の実家からから発送した功の布団や着替えなどを玄関に運び込んだ。

「なんだ要領が良いやつだな。俺は仕事に戻るけど真紀は夕方まで手伝ってやってくれ」

 山本事務局長は軽四輪トラックに乗って事務所に帰ろうとしたが、なにかの紙袋を持って戻ってきた。

「そうそう、これをわたすのを忘れてた。いつまでも学校のジャージで作業するわけに行かないもんな」

 それは真紀や局長が着ているのと同じタイプのベージュ色の作業服と作業用の長靴だった。功のために準備してあったらしい。

「私はちょっと残念だな、あのジャージでトラクターに乗る功ちゃんの勇姿を地区のみんなにも見せたかったのに」

 真紀が混ぜ返すが、功は拘泥しないで受け取った作業服を検分している。

「支給品だけど二年に一回ぐらいしか更新できないから大事につかってくれ」

 山本事務局長は機嫌よく事務所に戻り、功と真紀は部屋の掃除を再開した。

 功が部屋の中をほうきで軽く掃いてから荷物をほどこうとすると、真紀が見とがめた。

「信じられない、これから自分が住む部屋なんだから雑巾がけぐらいしなさいよ。西山さんが掃除してなくてダニとか増えていたらどうするのよ」

 西山はひどい言われようだが、功はそんなもんかなと思いながら素直に畳やフローリングの上を雑巾がけしていた。

 しかし、てふと気がつくと真紀は前の住人が置いていったキャンプ用の折りたたみ椅子にふんぞり返って寛いでいる。

「何で手伝わないでのんびりしているんだよ」

 功が問いかけると彼女は椅子に座ったまま答えた。

「私が適切な指示出しをするからてきぱきと片付くのよ。ありがたく思ってほしいわ」

 真紀は功の手に負える相手ではなさそうで、功はなんだか疲れた気分になり休憩したくなってきた。

 宿泊施設の入り口には自販機があったことを思い出し、功が飲み物を買いに行こうとしたら、真紀の声が追いかけてきた。

「私の分はホットのカフェラテにしてね。」

 功は手伝ってもらっているから何か買うつもりだったが、当然のように言いつけられると何だかむっとする。

 宿舎の外に出た功は、屋外に設置してある自動販売機でカフェラテを買いながら、こんな場所に設置して電気代相応の売り上げがあるのだろうかと余計な心配をしていると、背後から男性の声が響いた。

「あんた農林業公社に研修に来る人だろ」

 功は飲み物を自販機から取り出すと慌てて立ち上がった。

 いつの間にか宿舎の前に軽四輪トラックが止まり、この辺りでは珍しく思える二十代後半に見える男性が立っている。

「俺は野口っていうんだ。この先のビニールハウスで野菜を作っている。よろしく頼むよ」

「ぼくは宮口功といいます。こちらこそよろしくお願いします。まだ来たばかりだからいろいろと教えてください」

 功は、営業モードのスイッチを入れて挨拶する。

「今日引っ越してきたんだろ?。朝方、真紀ちゃんが駅まで迎えに行くと言っていたのを聞いたよ」

「ええ、彼女も手伝ってくれて掃除したりしてるところです」

 それを聞いた野口は功に詰め寄ってきた

「やっぱり彼女も来てるんだな。俺も引っ越しを手伝ってやるよ」

 功はめんどくさいことになりそうな気がして、断ろうとしたが、野口はさらに言葉をつづけた。

「ところで、真紀ちゃんて美人やろ、そう思わない?」

「そうですね」

「そうだろう。でも手を出すなよ。俺が先に目をつけてたんだからな」

 妙に人なつこい「野口君」は功に言いたいことを言うと、ずかずかと研修用宿舎に上がり込んでいく。

 カフェオレとジュースの缶を抱えた功は慌てて野口を追いかけた。

 室内に入ると、野口を相手に真紀が早口でまくし立てているところだった。

「野口君あんた何でこんなところで油売ってるのよ。明日の朝も収穫と出荷があるんだから。夕方までに圃場の管理しないとだめじゃないの」

「新しい研修生が来たって言うから様子見がてら手伝いに来たんだよ。大事にしないと西山君みたいに夜逃げして帰ってしまうぜ」

「功ちゃんはもう後がない人生を歩んでいるみたいだからそんな心配いらないわよ。それにお掃除もあらかた終わったから、野口君に用はないわよ」

 後がない人生とか勝手に決めつけられて功は気分を害しながらご要望のカフェラテを真紀に渡す。

 真紀はサンキューと鷹揚に受け取ってカフェラテを飲み始めた。

 野口はめげずに真紀を相手に今度映画見に行こうとか口説いているが、どうも脈はなさそうだ。

 手伝うほどの用事が残っていなかったこともあり、野口は早々に帰っていった。

「この辺りに映画館なんてあるの?」

「あるわけないでしょ。野口君はまほろば市にあるシネコンに行こうって誘っているのよ。彼はいい人だけど、私からみると、おっさんくさいところが目につくのよね」

 功は彼女に年下と思われていたので複雑な心境だが、おっさんくさいと言われるよりはましかと気を取り直した。

 掃除が終わった後で、功は真紀と一緒に事務所に寄ってから役場に転入手続きに行くことにした。

 事務局長が電気や水道を使えるようにしてくれていたので、どうにか今夜から寝泊りが出来そうなので山本事務局長と真紀にそのことを告げる。

「今日の午後は予定空けてるから、役場まで案内してあげる。局長それでいいでしょ」

「いいよ。真紀はそのまま直帰していいからな。研修用ハウスは俺が閉めておくよ。五時に閉めたらいいんだな」

 真紀は機嫌のよい表情でうなずき、彼女と事務局長の関係が良好なことを伺わせる。

 功は真紀の車に先導されて入手したばかりの自分の車を駆ってわだつみ町の中心部に向かった。前を走る真紀の車は型落ちのブルーのインプレッサで、テールにはSTIのバッジが光る

 功の車がワンボックスの軽自動車なのに彼女はあまり頓着しないでスピードを上げ、功は遅れまいと懸命に軽自動車を走らせた。

 わだつみ街の中心部にある役場に着くとあっという間に転入手続きが完了し、功は何か食料を仕入れてから帰ると言って真紀と別行動を取ろうとした。

しかし、真紀は自分も買い物があるからとスーパーマーケットまで案内してくれた。

「小さな街だから顔見知りばかりになるわよ」

 彼女の言葉どおりにスーパーマーケットの駐車場では野口と鉢合わせし、スーパーマーケットの隣が農協の購買部や出荷場になっていることが判明する。

「俺は液肥を買いに来ていたんだ。今からちょっと飲みに行かないか。喜輔に地物のカツオが入ったらしいよ」

 何気なく誘ってくれた野口の言葉に、日頃はつれなくしているはずの真紀が食いついた。

「もしかしておごってくれるの?野口君気前いい!」

 明らかにおごる気はなかった彼は功の方を見てたじろいだが、男気を見せて言った。

「もちろんだ。新人君の歓迎のためにご招待しよう。お昼前に港に入ったカツオなんて港町でないと食えないからね」

 喜輔というのは野口の行きつけの居酒屋のことで、町の真ん中を抜ける二車線の道路に沿って歩けば五分もかからない場所に有ると言う。功は二人と共に歩くうちにこの町の主要な機能は駅前の半径百メートルほどのエリアに集中していることに気が付いた。

 ほとんどの商店や飲食店もその辺に集まっているから便利だ。

 野口が案内した居酒屋喜輔はわだつみ町中心エリアから少し外れたところにあり、少し薄暗い店内には発泡スチロールやガラス製の浮き等の漁具が天井や壁のあちこちからぶら下げてある。

 しかし、観光客を意識しているわけではなく、地元住民が気兼ねなく飲食できるお店のようだ。

「いらっしゃい」

「今日は山本さんのところの新しい人を連れてきたよ」

「あそこも農林業公社にかわったんだね。何かと大変だな」

 カウンター越しに野口と話しているマスターは功と真紀に会釈して見せる。

「こいつは同級生なんだ。昔はろくでもないやつだったけど、ちゃんと居酒屋を経営しているから大したもんだよな」

 野口が功と真紀にマスターを紹介した。

「余計なことは言わなくていいんだよ。最初はビールでいいのかかな」

 マスターは髭の濃い顔に柔和な微笑みを浮かべて突き出しにの小鉢を出す。

 中に入っているのは見慣れない海産物とムールー貝を一回り小さくしたような二枚貝だ。

「これっていったいなんていうものですか?」

 知らないものを食べるは勇気がいるので、功は野口に海産物の正体を聞いた。

「私もこれ見たことはあるけど、食べるのは初めてだと思う」

 真紀も、どうやって食べたらいいのか分からない様子だ。

「これはカメノテというんだ。見たところがカメの手首みたいだろ。食べ方っていってもこうして中身を出せばいいだけだよ」

 カメノテは、は虫類的なきめの表皮をした「手首」状の部分に爪のような殻が集まってできた「手」がくっついている。

 野口がカメノテを手に取って平たくなった「手」の部分を縦に圧力をかけるとパカッと割れて中身が出てきた。

 手首部分の中身はピンク色の肉質なのだが掌部分は何だかもじゃもじゃしたエビの足みたいなのが詰まっている。

「どの部分を食べるんですか」

「ピンク色の部分がおいいしいけれど、先の方も食べられるよ。貝はムラサキイガイと言って真ん中にはみ出してる糸くずみたいなところをつまんで食べるといいよ」

 エイリアンの解剖でもしているような趣の功に、野口が苦笑しながら言った。

「甘エビの塩辛みたいな味でおいいしいですね」

 カメノテを食べた功は思わずコメントを漏らした。

 カメノテは塩茹しただけなのだが、濃厚な味でなかなかおいしく、ムラサキイガイも多少小粒だがムールー貝のような味で美味だった。

 真紀も自分の小鉢のカメノテをその姿に臆することなく食べている。

「他所で食べていなくてもおいしい食材ってあるんだよな。他県ではヒトデがごちそうっていう地域もあるらしいよ」

 野口は二人の食べっぷりを見ながらマスターにつぶやく。

「大将。ご自慢のカツオとアオリイカを刺身で出してやって」

「はいよ。野口も農業仲間になってくれる人は大事にしないといけないからな」

 マスターは人数分のジョッキを置きながら答えるが、功はジョッキの大きさに目を丸くする。

「うん。西山君は大阪に帰ってしまったし、その前にいたシキミ君は結局、居つかなかったからな」

 榊原だろ。野口がアバウトな話をしているので功は心の中でつっこみを入れた。

「そういいえば、あんたは、何で東京からわだつみ町に来ようとか思たんだ?。わざわざこんな片田舎にこんでも仕事はありそうなものなのに」

 野口は功に訊ねた。急に話を振られ手功は少し慌てる。

「そう簡単ではないんですよ、実は半年ほど前に勤めていた会社が倒産したんで、新しい就職先を探したけれどなかなかいいところが見つからなくて」

 日本の就職システムは、中途採用を軽視しているため、大卒で入社した会社がつぶれてしまった功は正規ルートから弾かれて、なかなかいい仕事には就けないのだ。

「県がお台場で新規就農相談会をしている時にたまたま近くを歩いているところを農業体験研修所の職員につかまってスカウトされたって聞いたわよ」

 真紀が余計なことを言うので、功はなんだか居心地が悪くなった。

 農業に対して熱意があるようなことを言わなければと考えていると、野口がおもむろに口を開いた。

「そんな中途半端な気持ちで研修受けて大丈夫なのか。農業を始めるには初期投資も必要だから借金だってしないといけない。一旦経営を始めた後で農作業がしんどいとか言って投げだしたら、周囲に多大な迷惑をかけることになるんだぜ」

 野口の口調は厳しく、功は自分の気持ちを見透かされたような気がして凍り付いた。

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