Act 2



     6



 エドワードがカーティスに連絡を取ったのは、ウォルトが高熱を出した日だった。その前日、ウォルトは万引きをして逃げる途中につまずき、膝を大きく擦りむいた。すぐに立ち上がり走り出したのでなんとか逃げおおせはしたが、転んだ場所が不衛生な裏道だったから、菌が入ったようだ。消毒をすべきだったのだろうが勝手に住み着いただけの空き家にそんな設備は望めない。水で洗うのがせいぜいだった。

 放っておけば治るだろうとも思ったが、あまりに熱が高い気がした。体温計ももちろんないので自分の手のひらで測っただけだが、ぎょっとするほど熱かったのだ。医者に見せるべきか。だが保険証がない。そもそも保険が利いたところで、薬や治療が必要なら、そんな医療費は払う当てがない。途方に暮れた。

 慈善団体やらNPOやらに、都合の良いところはなかったろうかと、ずいぶん前に受け取った気のするチラシの類を漁っていたとき、不意に、リュックの底から一枚、古いメモ用紙が落ちてきた。何か予感がして拾い上げ、開くと、几帳面な子供の字で電話番号が記されていた。しばし首を傾げ、やがて思い出す。まだ俺が養家にいた頃の——

 メモを渡されたときの約束も思い出した。だがそんなものが有効だとはもちろん思っていなかった。十何年前の、ガキのたわ言だ。それでも電話をかけてみたのは万が一にもこれが「利く」なら、最良の解決法になることは間違いなかったからだ。どうせ結果は数秒で分かる。試すだけタダだ。

 ところが思いがけず、約束は有効で、電話の相手はすぐに現れ、事情を聞くと自身の「お抱え医師」を呼びつけた。幸い大きな病気ではないらしかったが、それでも幼い子供には危険な高熱で、熱さましを処方された。代金は結構だ、と言う。助かった、と思いながらもエドワードは安心できなかった。理由がさっぱりわからない。なぜ彼は俺を助けてくれた?

「待ってたよ」と、彼は言った。「連絡が来るのを、ずっと」

 彼の嬉しそうな表情に嘘はないように見えた。それが余計に不安で、思わずエドワードは眉根を寄せた。なあにその顔、と彼は笑う。エドワードは彼の厚意に後ろめたさを感じつつ、やはり警戒を拭えずに聞いた。

「どうして助けてくれるんだ。ほとんど話したこともないのに」

 彼はエドワードの問いを当然のものと捉えた風で、浅く頷き、それでも笑いながら、少しいたずらっぽく答えた。

「恩返しだよ。僕は昔、君にとっても助けられたんだ。だけどたぶん君は知らないだろうね。君は自分が僕に何をしたか、きっと少しもわかっちゃいない」

 今、自分の手を引いて、うきうきと美術館を歩く彼の後頭部を眺め、エドワードは思いを巡らせていた。いつまでこいつに付き合うべきだろう。彼のお遊びに連れ添うことで手に入る収入は、今の自分の生活においては、バカにならない金額だ。自分は退屈と、「犯罪以外にすることもない」ような時間を支払うだけで、生活の基盤を作れるほどの報酬を得ている。こんなに旨い話はない。だが、だからこそ恐ろしい。自分の人生に何の裏もない幸運が転がり込んでくることを、信じられるほど呑気に生きてはこられなかった。突然現れた彼が、未だに得体の知れない印象を与えてくるのも不安の一因だ。会うようになって二ヶ月は経つが、どういう人間かまるで摑めない。

「すてき。中国の茶器だ」突然、彼はガラスケースの前で足を止めた。エドワードは自分の腰ほどの位置にあるその茶器を見下ろす。

「ねえ、なんて綺麗な純白だろう。もう何百年も経っているのに……」

 薄青い柄のついたその磁器をカーティスはうっとり見つめていた。焼き物が好きだというのは本当らしい。エドワードも分からないなりに磁器を眺めてみたものの、天井から射す強すぎるライトをてかてかと照り返すさまに、何となく白けた気持ちになる。カーティスは立ち去り難そうにしばらくその場を動かなかったが、エドワードの気配を察したのか、鈍い足取りながら歩き出した。

 ここへくる前に観た劇は、茶器の良さ以上に分からなかった。観終わったあと、よほど怪訝な顔をしていたのだろうか、カーティスは聞いてもいないのに解説してきた。曰く、先ほど観た劇は昔から何度も上演されてきた話で、みんな筋を知ってる。だから今になってわざわざ演るとなるとどうしても突飛な演出をしてしまいがちなのだそうだ。とはいえ、男か女かも判然としない妙な衣装をまとい、肌を白塗りにした人々が何か叫んでいるだけのものを一体誰なら楽しめるのだろう。

 歩を進めると、展示の趣旨が少し変わってきた。多少見慣れたデザインが目に入ってくる。幼い頃、養家の食器棚に同じものを見た気がするな、と立ち止まると、カーティスも足を止めてそちらを見た。

「ボーンチャイナだね。この鮮やかさも、それはそれでいい」

「ボーンチャイナ? boneなのか。生まれbornじゃなしに?」

 思わずエドワードは尋ねていた。磁器というのは中国で作られ、輸入されてきたものだと知ったのはほんのついさっきだ。当の展示品に全く興味の持てないエドワードは、せめてもの暇つぶしに説明文を読んでみていた。退屈なことに変わりはないのですぐにやめてしまったが、入口のあたりにあったキャプションによればそうだったはずだ。だったら、『中国生まれb o r n c h i n a』じゃないのか?

「そうだよ。さっき中国の、綺麗な茶器を見たでしょう。あの白さを出すのに必要な原料がこの国では取れなかったから、代わりに牛の骨を砕いたのを混ぜていたんだ」

「へえ」

「だから〝骨の磁器b o n e c h i n a〟。つまりこれは『中国生まれ』とは程遠い。それを真似て作った紛い物なんだ。紛い物には紛い物なりの良さもあるけど……」

 本物だろうが紛い物だろうが、大した差はないとエドワードは思った。どちらにせよ、ただ茶を飲むために使う器にすぎない。そこにどういう値をつけるにしろ、そんなものはその器を買う人間にしか関わりがないし、そもそも買う側の人間が、勝手に優劣をつけているだけだ。

 感慨を口にする代わりに、短く吐き捨てる。「いつ終わるんだ」

「展示? まだ三つ目だよ。全体で七ブースあるから……」

 つまりまだ折り返し地点にすらきていないのか。エドワードはため息を呑んだ。あからさまな態度を取っても構わないような気がしたが、なんとなく彼の楽しみに水をさすのも悪い気がした。スラムの仲間たちに、自分は「甘い」と言われる。それは妥当な評価だとしばしば思う。こうした瞬間に。

「ところで」ふと、カーティスはエドワードの全身に目をやり、ひそかな笑みを浮かべた。

「着心地はどう?」

 エドワードは自らの胴体に視線を落とし、また顔をあげる。「悪くない」

「そう、よかった。とても似合ってる。羨ましいよ、僕もそれくらい背があったら、着てみたい服がいっぱいあった。いや背丈より体格かな、僕はどうも薄っぺらいから……」

 見下ろす首の角度からして、カーティスは決して背が低いほうではないだろう。だが体格については確かに、細身なことは間違いあるまい。エドワードは文字通り「お仕着せ」られた自分の服を見る。はじめ、カーティスはスーツを仕立てたがった。だが自分にしか合わない服を渡されたって困るのだ。エドワードは用が済んだら服はさっさと売るつもりでいた。

 結局、カーティスの側が折れ、既製品を見繕うことになった。そもそもオーダーメイドのスーツなんて作らせたところで、今日のマチネに間に合うはずがない。元はと言えば劇場へ行くにはみすぼらしいという話だったのが、途中からただの趣味になっていた。多少の実益があったところで、徹頭徹尾彼の趣味であることに変わりはないにしても。

 カーティスはブティック街へ出向き、洗い晒しで擦り切れた服のエドワードを平然と連れて、あれこれ商品を持ってこさせ、彼の体に当てては尋ねた。「とっても似合うけど、君はどう? 君は似合わない服がないね」

「知らない」エドワードは困惑した。「動きやすいやつにしてくれ」

「フォーマルな服というのは、動きにくいものだよ、エディ。〝ちゃんとした格好〟をするなら多少の不便は我慢しなきゃ」

「それはお前の都合だろう。どうせ初めからお前の都合でこうして服を買うんだから、俺の意見を聞く気がないなら勝手に買ったらいいじゃないか」

「そう言われると弱るなあ。わかった、少しカジュアルにしよう。肌触りのいい、動きやすい服を探してあげる。それでいて、きっと劇場にも入りやすい服を」

 そして今、エドワードはライトブルーのコットンシャツと、白いデニムを纏っている。今の自分がどの程度〝ちゃんとした格好〟でいるのかエドワードには分からなかったが、訝しげな目を向けられることはなかったから、これでいいのだろう。ついでに腕時計と、靴も与えられた。自分がこれを売りに行ったところで盗品だとしか思われるまい。それならそれで買い手もあるが、足元を見られて買い叩かれるので少々癪だ。店が返品を受けてくれればいいが。

 ふと、妙な考えが浮かぶ。これだけ身なりを整えておけば詐欺の一つも働けないだろうか。自分の外見が人目を引くことは、経験からよく分かっている。だが弁舌の立つほうじゃないことをすぐに思い出した。啖呵を切るのなら慣れてるが、人を信用させるような上手い言葉が浮かぶ才能はない。

「上の空だね」気づくと、カーティスが覗き上げていた。「何を考えてるの?」

「なんでもない。くだんねえことだ」

「話してみてよ」

「嫌だ」

「どうして? くだらないことなら話してもいいでしょう」

「馬鹿げてるから嫌だ。お前に話す気はない」

「笑わないよ。僕は聞きたい。話してよ」

「なんでつっかかるんだ」

「僕は君についていろんなことを知りたいの。全部。なんでも」

 カーティスは一歩迫ってきた。後退りながら、エドワードは、彼といるあいだ薄まりはすれど決して消えない心中の不安がほんの少し増すのを感じた。どうしてか身の危険を覚える。彼の自分に対する興味や、知識欲のようなものが、何となくおぞましい。だが違和感を説明できない。

「鬱陶しい、」としか、言えなかった。「どうしてそんなに俺にこだわる」

「言ったでしょう。君は僕にとって……忘れがたい人なんだ。十年、時を経ても」

 初めて再会した時から、その意味をずっと考えている。でもどうしても浮かんでこない。エドワードはカーティスとほとんど関わっていないのだ。自分がいったい彼に何をしてやったというのだろう。あるいは、反対に、どこかで恨みでも買ってしまったか。これは遠回しな復讐の序章なんだろうか。十年も忘れられない恩を知らぬ間に売っていた、なんて話より、何かの拍子に根深い逆恨みを買っていたと考えるほうが、まだしも自然に思える。

「信じてくれていいのに」

 周囲を憚って声を抑えつつ、その分距離を詰めて、彼は囁く。僕は君が好きなんだ。好きな人には、ひどいことはしない。



 冷蔵庫を開けるのはこれで何度目だろう。小さなドアを開くと、中段の真ん中にピザの箱が一つ入っている。記憶が正しければ中には七切れ。だがウォルトはそれに手をつける気になれなかった。今朝、一切れ頬張りながらエドワードはこの箱を持ってきて、テーブルに投げるように置いた。余った分は好きに食え、と言う。見ると箱の中に八切れ入っていた。その場で一切れもらって、それで我慢するつもりでいた。だが何となく口寂しく、何か口に入れられるものはないだろうかと探している。何度開けても、当然ながら、冷蔵庫の中にはその箱しかない。

 ピザを買ったのはエドワードだ。盗ってきたのかもしれないが。でも最近の彼には一定の収入を得るあてがあるらしく、あまり盗みをしなくなった。だからたぶん買ったのだと思う。恐らくほとんど自分たちに食べさせるために。彼が大食らいなのは知っている。ピザを一、二切れ食べたところで満足なんてできないはずだ。丸々一枚食べるくらいでなきゃ。だからウォルトは残りのピザを全部エドワードにとっておくつもりで、他のやつら——同じ空き家に住む子供たち——にも取られまいとしている。と言っても、目的を話せば大抵、ウォルトに協力してくれるだろう。

 エドワードのもとに転がり込んだのは一年ほど前。冷え込んだ真冬、拾った毛布では暖を取れずに駅の構内で震えていた。そこに彼が通りかかった。彼は少し足を止めて、しばらくこちらを見つめ、やがて声を投げた。

「おい」

 ウォルトは彼を見上げた。睨むような目になった。

「ついてくるか」

 意味が分からなくて、眉をひそめた。エドワードは気怠げな、特に感情の窺えない表情でいて、何も読み取れなかった。その表情のまま彼は「好きにしろ」と言い、歩き出す。

 ついていったことに、ちゃんとした理由はない。ただなんとなくつられるように立ち上がっていた。後を追いたくなった。何を期待したわけでもなく、ただ悪いことは起きない気がした。

 エドワードはこちらを振り返らずに歩き続けて、ボロい一軒家の前で止まった。ドアを開いて入っていく。開けっ放しのドアを前に、もう一度少し考えてみたが、部屋の中は地下鉄よりはマシに思えた。おずおずと入り、ドアを閉める。

「おかえり!」

 響いた声に顔を上げると、彼は廊下の先にいて、近くに子供が二、三人いた。みなウォルトよりは年上と見えたが、エドワードよりは幼いようだ。エドワードは軽く応じて、リビングへと進んでいく。ふと、子供たちのうちの一人が、ウォルトを見とめる。

「エディ、あれ誰?」

 彼が振り返る。こっちへ来い、とでも言うように顎をしゃくる。

「知らん。ついてくるかと聞いたらついてきた。増えてもいいだろ」

「いいけど……いいのかよ? アイツ小さいぜ」

「テメエだって大して違わねえ」

「ちゃんと盗れんの?」

「お前が鍛えろ」

 話しながら部屋の奥へ消えていった彼らを、慌てて追った。狭い室内に五人ほど。一人がテーブルについてコーラを飲んでいた。彼とほとんど歳が変わらないように見えたが、少し若いのかもしれない。その青年はウォルトを見つめ、面白そうに尋ねる。

「また拾ってきたのか?」

「いたのかビリー。久々だな」

「たまには帰ってこようかとね。よう子猫ちゃん、お名前は?」

 汚れた毛布をギュッと握る。何も返せない。

「どうした。名前ないのか? つけてやるよ。ほれ。ちょっとこっちに来い」

 人差し指で招かれる。固まっていると、冷蔵庫の中を覗いていたエドワードがドアをバタンと閉めた。左手にコーラの瓶がある。

「取って食いやしねえ。ビビんな」

 言って、王冠を弾き飛ばす。溢れ出した泡を押さえるように、口をつける。

「来い、来い。なんもしねえからよ」

 やっと、足が動くようになった。恐る恐る近づくと、青年はウォルトの顎を摑み、右へ左へ傾ける。

「丸っこい顔してやがる。どうすっかなあ」

「何でもいいだろ、別に」

「これからずうっと使う名前だぜ? 適当ってわけにゃいかねえよ」

「律儀なこった」瓶の中身はもう半分もない。

「何握ってんだ?」青年はウォルトが握りしめている毛布に目をやる。「拾ったやつか」

 顎を掴まれたまま、頷く。青年は手元をしばらく見ていた。

「よし、お前。『ウォルト』だ。どうだ? 悪くねえだろ。『ウォルト』。気に入ったか?」

 テーブルの近くに戻ったエドワードが、同様に、ウォルトの握る毛布を見つめた。何かに気づいた風に顔をしかめる。

「何だよ。お前も適当じゃねえか」

「適当? 冗談じゃねえ。偉大な芸術家だぜ」

「馬鹿馬鹿しい」言いつつ、ウォルトを覗き込んでくる。「それでいいか」

 ウォルトはまた浅く頷いた。実際、悪くないと思った。

「なら、今日からウォルトだ。よろしくな。俺はエドワード。まあ、好きによべ」

「俺はビリー」青年が手を放す。「お前の名付け親だぜ」

 エドワードを中心に集まっている子供たち——もうそんな歳じゃない者もいるが——は、全体で何人いるのか、ウォルトにはまだ分からない。というのもエドワードは自分が見つけた家を「使っていい」と言っているだけで、そこに居ついている者ばかりじゃなかったからだ。それでも、たまに立ち寄るだけの者も含め、うっすらとした連帯はある。エドワードやビリーなど年嵩の青年たちは家に食料を置いていってくれるし、何かあれば世話をしてくれる。全く、何の理由もなく。

 そうすることで得をしてるとは少しも思えなかったから、ウォルトはエドワードに尋ねた。どうして面倒を見てくれるのか?

 エドワードは珍しく、困ったように目を逸らし、ぼそりと返した。「分からん。何でかな」

 ビリーに聞いてみたときは、けらけら笑ってはぐらかされた。「恩を売ってんだ。いつか役に立つだろ?」

 答えは得られないままだ。だが、彼らからひどい目に遭わされることはないと確信している。ビリーははっきりとは言わなかったが、彼の場合恩を売るどころか、返しているのではないか、と思う。返すとはつまりエドワードに。きっとビリーはエドワードに助けられた記憶があるのだ。だから同じように自分たちのことも助けてくれる。じゃあ、……当のエドは?

 ウォルトはたまに不安になる。彼が傷ついたり嫌な思いをしたりしないことを祈っているが、自分では彼の助けになれないことは明らかだ。もし何か、恐ろしいことが起こったら、そのとき自分はエドワードに何もしてあげられないんじゃないか。いやきっとそうだ。迷惑をかけるばかりで、彼になんにも返せていない。自分なりに何かしようと試してみてもうまくはいかず、危ないことをするなと叱られる。この前もそうだった。却って苦労をかけてしまった。警察署なんて来たくなかっただろう。顔見知りは多いようだったが、いい思い出があるとは思えない。

 ピザを食べずにとっておきながら、ウォルトは何となく察している。たぶん彼はピザを買うときに、自らの分も別に買っていて、もう平らげたあとだったんだろう。冷蔵庫の中にあるピザは自分たちのために買ったもので、だからこんな我慢をしてても、何バカなことをしてんだと、呆れられるのがオチなのだ。

 はやく大きくなりたい、と思う。今の自分では足りなすぎる。彼ほど大きくなるのは無理でも——自販機の上に顔がくるような背の人はほかに見たことがない——せめて、キッチンの棚に届くくらいには。



     7



 スリの帰りに声をかけられてビリーは一瞬どきりとしたが、そいつは自分を追っかけてきたというわけじゃなさそうだった。なんだい、と返したら、改めて警察手帳を出される。署の名前を言われたけれど知らない町だった。西にあるそうだ。

「ジョイス・ハーディ警部だ。君、この辺に住んでいるのかな」

「そうだよ刑事さん。俺はビリー。しっかしそんな遠い町から何の用だ? そりゃあここは、日夜犯罪がウヨウヨ湧き出るお土地柄だけどさ。何を追ってんの?」

「君はずいぶん話が早いな。ここらの人はみんなそう?」

「メイビー。多かれ少なかれ」喉元で笑う。「警察はみんな顔見知りさ。『トムとジェリー』みたいにね。俺なんかもう友達のような気さえしてるよ」

「そうかい。いや、ちょっと人を探してて。彼を知ってる?」端末を見せてくる。「イーサン・コールウェル。最後に見たのがいつか、覚えていないかな。結構前だろうが」

 イーサン、——ビリーは記憶を巡らした。確か二年ほど前に捕まって、去年出所したのだったか。元々は《ブリックス》にいたが下っ端も下っ端だったし、ヘマをやらかしたのを機に追い出されたと聞いたが、よく覚えていない。出所直後にチラッと見かけた気もする。どうだったろう。

「イーサンのことは、もちろん知ってる」素直に返す。「けど最近は見てないな……出所してすぐの頃、一度見たような気はする。ううん、」と、そこで思い出した。「ああ、そうだ。見たよ。数ヶ月前」

「それは嬉しいな。詳しく聞かせて」

「刑事さん、女買ったことある?」

「は」

「あ、ない? なんだかんだ言って、買ったことあるヤツが大半だと思ってたぜ。ほんとにないの?」

「いや、俺はそういうのは……そうか、ええと。それが関係する?」

「ここから二、三ブロック離れたあたりに売春街がある。流しばっかりいるところ。ほとんど女だけど、ちょっと奥行くと、男の売り場もあんだよ。そこでさ、……ウロウロしてるのを見た気がするなあ。まだ肌寒い、……四月ごろかな」

「ふむ……彼は、その、」

「いや? アイツはれっきとした女好き。モテたもんなあ。だから、まあ、売るつもりでいたんじゃねえかな。声もかけづらくってさあ。組追い出されて、参ってたんだろう」

 従来のように仕事を回してもらえなくなっただけでなく、新たに仕事を取るというのも相当やりづらくなっていたはずだ。盗みを働いたところで、イーサンからは買い取らないと突っぱねる者もいただろう。この街で《ブリックス》に睨まれるのはだいぶ生きづらい。ビリーやエドワードだって、付かず離れずの距離を保ちつつ、目をつけられないよう気を配っている。

「流しの男娼か……」刑事が呟く。「その、売春街だっけ。詳しい場所を教えてもらえる?」

「いいよ、連れてこうか?」

「助かる。……親切なんだな。警察に親切な人は珍しいから驚いてしまうよ。裏があるわけじゃないよな?」

「はは! 俺は誰にでも親切なだけだよ。あと今、暇なんだ」

 定職についてるわけでもないから、時間は有り余っている。ジョイスを先導しながらビリーはイーサンのことを考えていた。親しいわけじゃなかったが、同世代だったし、付き合いは長い。何かにつけてずるいところがあって信用はできなかったけど、でもそんなに悪いヤツじゃなかった。女にモテるのを鼻にかけてる時だけはちょっとイヤミだったが、あまり人を傷つけることは言わなかったし、しなかった。この辺りでは珍しいタイプだ。もしかすると仲間を売るのも、自分だけ助かろうとか逃げ切ろうとしてというよりは、〝悪いこと〟を隠しておけないタチだっただけかもしれない。度胸がないのは否めないが、皆が言うほどの悪人じゃない。

 たぶん、死んでしまったんだろう。刑事が探してるのはそのせいだ。

 デカい悪事を働けるような勇気はアイツにはない。だから、遠くの署にいる人間がはるばる遠征してくるほどの事件を起こしたとは思えない。この妙な雰囲気の刑事が変わり者なだけって説もあるが、少なくとも彼はイーサンのことを疑ってるそぶりを見せなかった。犯人だと決めつけてかかるヤツらばかりじゃなくても、大なり小なり、相手のことをどう思ってるかは透けてくる。この刑事はイーサンのことをかなりフラットに見ているらしい。ならきっと犯人候補じゃない。犯人でないのに足取りを追われるとしたら、被害者だ。死体は出てきてないだろう。出てたら街の誰かが気付く。

 どうして死んでしまったのか。刑事が探してるってことは、事件性とやらがあるはずだ。まさか、殺された? 誰かに殺されかねないような大胆なことを彼がするだろうか。何かを見てしまったんだろうか。もっと偶然、巻き込まれた? あれこれと想像は浮かぶが、結局のところ数ヶ月前に見たきりだから、何もわからない。この街はよく人が死ぬ。それでも、ギャングもマフィアも絡まない、しかも死体が出てこないような殺人は、そうそうない。

 路地裏をいくつか進んだあたりで、ビリーは足を止めた。前方の細い通りを指差す。今は日中で、まだ人は少ない。それでも数人が路端みちばたにいる。

「この辺一帯がそうだよ。あんま目立つなよ、買う気ねえならなおさら」

「ご忠告どうも。親切にありがとう、また何か聞くことがあるかもしれないが、よろしく頼むよ」

「おう。……なあ、アイツ、……死んじまったの?」

「どうしてそう思う?」

「デカいことできるタマじゃなかった。刑事さんみたいな人が追うようなこと、すると思えない」

「なるほどな。……そうだ。彼、イーサンってどんな人だった? 君の印象でいいんだけどさ」

「どんなヤツ」ビリーは自分が彼を評することに躊躇を覚えた。だって、結局、深く知らないのだ。どんなヤツかなんて、「俺の印象が合ってるのかも分かんないけど……」

「それでいいよ。いろんな人に聞いていくつもりだ。どんな物質も一面から見たって形はわからないだろう?」すると、刑事は急にペラペラ喋り出した。

「俺は人間ってのはぐちゃぐちゃっと雑に固めた粘土のかたまりみたいなものだと思っていてね、つまり、ある一方から光を当てたときの影のでき方と、反対側から当てた時と、まずその一面についてだって見え方は様々だ。それが別の面になれば当然また印象が変わる、同じように三百六十度、全方向に無数に顔がある。光は出来事やタイミング、かたまりを見るのが俺たちだ。でも裏側を隠すやつもいるし、滅多なことがなきゃ光が当たらない部分だってある、そもそも別の方向から相手を見てみようだなんて自分から思う人はそういない。誰か一人の印象なんてほんの一部分でしかない。だから君一人の意見で全部決めたりはしないよ。俺は、データをとってるだけ。いろんなやつが言ういろんな〝イーサン・コールウェル〟を集積して解析してやっと自分なりの彼の像を作る。ほんと、簡単な印象でいいんだ」

 正直ビリーは刑事の言うことをほとんど聞いていなかった。「オーケイ」

「話、長かった? つい喋りすぎちまう。俺の悪癖だな」

「いや、別に。えーと、イーサンについてだったよな。そうだなあ。あんま評判よくなかったけど、俺としちゃ別に悪いヤツじゃあなかったと思うよ。根がイイっつーかさ。臆病チキンだってのは確かにそうだが、俺は他人が言うほど卑怯なヤツだったとは思ってない。小狡いところはあったけどな。うん。なんつーか、下手なんだ」

「下手?」

「そ。空気読むとか、うまく誤魔化すとか。そーいうことができないっつーか」言っているうちに、ピンときた。「そうだ、下手だったんだよ、きっと。ずるいことしたり裏切ったりはみんなしてるけど、うまく隠してるのに、アイツは隠せなくてバレちまう。だから、そんなとこばっか目につく。そういうことじゃねえかな」

 刑事は頷きつつ聞いていた。なるほど、と呟く。「ありがとう。参考になった」

 片手を上げて辞去した彼に、同じくひらりと手を上げて返し、ビリーは元来た道を戻った。ポケットに入れていた手を抜き出し、革の財布をひらく。パンパンに膨らんだ二つ折りの財布だが、現金は百五十ポンドしかなかった。とはいえ予想はついていた。ここまで膨らんだ財布というのは大概がショップカードのせいで、キャッシュレスの進んだ昨今、大金を持ち歩く人間は稀だ。クレジットカードを使うのは勘弁してやることにして、紙幣を抜きとった財布を路地裏のゴミ箱に置き、ついでに石を拾いあげる。壁に矢印を引っ張ってメモを残しておいた。『刑事さん、落としてたぜ!』



 やられた。トラッシュカンの上にある自身の財布を見下ろして、ジョイスは思わず額に手をやる。当然紙幣はないだろう。クレジットカードを止めなくてはと中身を確かめてみたら、そちらは取られていないようだった。ビリーにしてみれば、聞き込みの駄賃をもらっていったと言ったところか。痛い出費だが諦めはつく。

 それより——ジョイスは娼婦街でのやりとりを思い返した。ビリーの記憶は正しくて、確かにイーサンは二、三ヶ月前、男娼が立つ通りの辺りをうろちょろとしていたらしい。白昼の路端にしゃがみ込みタバコを吸っていたその娼婦は、ジョイスの身なりを上から下までジロリと見てから、紫煙を吐いた。

「イーサンね。確かに見たけど。何? なんかやらかした?」

「いや、ちょっとね。行方を追ってる。最後に見かけたのはいつだった?」

「いつだったかなあ。覚えてないな。引っ掛けた女にでも刺されたんじゃないの? いい加減なクセに気弱で、しょーもないヤツだったよ」

「ふぅん?」

「どっかでのたれ死んでんならそろそろ誰かが見つけそうだけど……急ぎなワケ?」

「特別急ぎってわけじゃないが、」ジョイスはさりげなく手帳を取り出し、ページを開く。「見つかる保証もないからね。こちらとしてもやれることはやろうってことだ」

「ご苦労ね。まあ、アタシが見たのは……春先だったかなあ。夜中にさ、このへん冷やかしに来やがって」

「冷やかし?」

「そーよ。アイツが金で娼婦なんか買うわけない。何しに来たんだか……」忌々しげに顔をしかめて、娼婦はまたタバコを強く吸う。

「オカマの立ちんぼがいるあたり、覗いてたけど、用があるはずないしね。もしかして売りにきたのかな?」言って、ケラケラと笑う。「五十ポンドくらいならアタシが買ってもよかったんだけど。顔は悪くない」

「なるほどなあ。どれくらいの期間ここにいた? 一日だけかい」

「いや? 数日は見たね、日を置いて。三日にいっぺんくらいかなあ。目障りでしょうがなかったよ。ただでさえ客が来ねえのにさ」

「不景気だからね」言ってから、我ながら酷い相槌だと思った。しかし娼婦は気にする風もなく、短くなりすぎた吸殻に舌打ちをして、下水溝へ投げた。

「刑事サンは稼ぎ時でしょ? みんな、お金なくてさあ、いいことなくて、ウンザリしてさ。誰だって人の一人くらいは刺してやりたいと思ってるよ。きっと」

「君もそう?」

「アタシは……いいかな。それより綺麗な服を盗みたいね」

 ジョイスはふと思いつき、一旦手帳とペンをしまうと、代わりにタバコの箱を取り出した。エレノアと付き合っていた頃、彼女は喫煙者を嫌っていて、ジョイスは努めて彼女の前では吸わないようにしたものだった。しかし、デートの途中に喫煙所へ寄ってもいいかと聞くときの、あのイヤそうな顔——

「ぬるいタバコ吸ってんねえ」パッケージを見上げ、娼婦がぼやく。

「それなりに健康にも気を配っているんだよ。まあ、吸ってる時点で意味がないけど」

「どうせ吸うならガツンと吸いなよ。どっちつかずでナヨナヨしちゃって」

「手厳しいな。気分転換に吸う程度だから、俺にはこのくらいでいいんだ」

「きれいな黒髪ねえ」不意に、口元をにやりと緩めて娼婦は言った。「アタシ、〝ブルネット〟の男とあんま寝たことないんだよねえ」

「お褒めに与りまして。君のブラウンヘアも素敵だよ」

「素敵だよ、と来たもんだ」呆れたように吐き捨てる。「やってらんない」

「悪かったな」ライターを開けて、火をつけた。「よく言われるよ」

 箱を差し出すと、娼婦は黙って一本抜き取り、胸元に挟み込んでいたライターを取り出した。縁にファーのついたベビードールだ。見ているだに肌がむず痒くなる。毛足の長い生地はベルベットだろうか、ゴワゴワと固まって、鈍いオーキッドに光っている。

「春先か……三月の半ばごろってところかな」

「そうねえ。そのくらいかな。少しは夜中に立ちやすくなってきた頃だよ。寒いと足がね」

「生脚だもんな。風が冷たいだろう」

「バカね。指先だよ。水が滲みたりして凍てつくんだ。ボロのブーツじゃ水たまりも踏めない……」

 と、そこで何かを思い出したのか、娼婦は口に咥えたタバコを上下に揺らせて遠くを見た。様子に気づいたジョイスが見下ろすと、人差し指と親指で挟むように摘んで、タバコを取る。

「もう一人いるんだよ。最近、見なくなったヤツが」

「へえ? なんていう子」

「男娼でね。ロナルドって言ったよ。線が細くて華奢でねえ、きれいな子だった。人気あったんだ。アタシらとオカマは大抵仲悪いんだけどさ」軽く叩いた指が、灰を落とす。「ロナルドは気立てが良くて、いい子だったんだよ。かわいくってさあ。ノンケの客まで盗っちまうからそういうところは好きじゃなかったが、姐さん姐さんって、甘えてきて……」

 灰が目にでも入ったのだろうか、娼婦は突然乱暴に目をこすって、それからぷいと横を向いた。

「アンタ、イーサンのことなんか探すなら、ロナルドを見つけ出してやってよ。きっと悪い客を取っちまったんだ。気を付けろって言ってたのにさ。こんなところに住んでるくせに、人を信じすぎるヤツでね。客に騙されるなんかしょっちゅうだった。ちゃんとお金もらえなかったりさ。それでアタシらは心配で……まだ子供だったんだよ。十代のバカなガキンチョだ。かわいそうじゃないか。どうせ探すなら、あの子を見つけ出してやってよ。イーサンなんかどうでもいいだろ」

 ジョイスはほとんど確信に近い直感を得ていた。その少年は無関係ではない。

「わかった。その子のことも探してみる。ロナルドだったな、どんな見た目だ? 写真とかあるといいんだけど」

「そんなもんわざわざ撮らないよ。残しておきたいことなんかないしね」娼婦は盛大に顔をしかめたが、すぐに直してため息をついた。

「色の薄いブロンドで、真っ白な肌をしててね。薄ぅいブルーのつり目なんだ。きれいな子だった。十にもならない頃に父親が死んで、母親と再婚相手がひでえヤツらで、逃げてきたんだ。だから名字は聞いたことないよ。ロナルドってのも偽名かもね。でも、ここらのヤツにならそれで通るはずだ」

「なるほど、」呟きながらもジョイスは胸の高鳴りを抑えきれなかった。そう、全く不謹慎だが、それは間違いなく高鳴りだった。なんだって? また〝金髪碧眼〟?

「最後に見たのはいつ?」

「イーサンよりは前だね。真冬……一月だったかな。月の初めだったよ。特別寒い日があって、骨まで凍りそうでね。通りの向かいに立ってたんだ。唇が真っ青で、凍え死んじまうんじゃないかと思って見てたら、姐さん、唇が紫だよ、って笑うんだ。アンタが言えた口かいってアタシは言い返して……それが最後かな」

「一月、……わかった。ありがとう」

「ねえ、」娼婦はジョイスを見上げ、その目を見つめて、強く言った。「ねえ、見つけ出してやってよ。必ずさ。アンタできるだろう」

「最善を尽くすが、」ジョイスもまた、彼女とまっすぐ目を合わせて、聞いた。「どうして、そこまで?」

「ヤなんだよ。ちっちゃいガキが、しかもアタシらの仲間がさ、……死んでまで、暗いところに置き去りなんて。耐えらんないよ」



     8


 

 エドワードは養護施設の前に捨てられた孤児だった。おおよその人権を無視していたその施設で幼少期を過ごし、十を数えるくらいの頃(と言っても正確な年齢じゃないが)、とある貴族に引き取られた。その貴族は三代前が事業で成功し大金を稼ぎ、土地を買って爵位を得たばかりで、名実共に上流階級の仲間入りをしようと必死だったが、市井出身の人間だから、見え透いた下品な〝点数稼ぎ〟しか思いつかないというわけだった。養護施設を運営していた男は彼と旧知の仲で、施設で一番見栄えのするガキを彼に差し出した。だがうまくいくはずもない。エドワードはじき耐えきれなくなり、ある出来事をきっかけに一年ともたず逃げ出した。その一年弱、エドワードが押し込められていた学校にいたのが、カーティスだった。

 男子の制服を着ていたにもかかわらず彼は少女に見えた。いかなる汚れもつきそうにない透き通った肌、艶のある黒髪、そして、不気味なまでに青い目。確か養家の長女の部屋にそんな人形が置いてあった。顔立ちも、立ち居振る舞いも、異様なくらい「お手本通り」だ。……その整った容貌はエドワードの興味を少し引いたが、遠くから姿を眺める程度で、関わるつもりは微塵もなかった。

 だが先方は違ったようだ。あるとき、エドワードが授業をさぼって校舎裏の林で休んでいると、背後から気配がして、見ればなぜかカーティスがいた。何の用だと、訝しげに半身を起こし振り向いた彼にカーティスは、距離を置いたまま話しかけてきた。

「具合悪いの?」

「別に」

「そう、……授業中だよ。どうして寝てるの?」

「寝たいから寝てる。お前はなんで?」

「僕?」

「そう。なんでここにいる?」

「美術の時間なんだ。スケッチをしに来て……君を見かけた。それで気になって」

 上下揃いの黒い制服と、水色のリボンタイ。真っ白なシャツは彼本人の肌の色とほとんど違いがない。膝上の半ズボン、校章が捺されたソックスガーター、ラインの入った紺のハイソックス、そして黒の革靴。自分も同じ格好をしているが、他人の目で改めて見るとなんてあほくさい服装だろう。

「側に行ってもいい?」ジャケットの裾を摘みながら、彼は尋ねた。

「なんで」

「なんで、……ええと、近くに行きたい、から」

「だから、なんで」

 睨みつけると、彼はたじろいだ様子で、視線を足元に投げた。そのまま瞳をさまよわせ、やがて、窺うように目を上げる。

「僕、……興味があるんだ、君に。どんな人なのか、気になっていて……」

 エドワードのほうは彼に対して格別の思いはなかったが、それでも話は漏れ聞こえてくる。優等生。いい子。神父さまのお気に入りb l u e - e y e d b o y。なるほど大人に逆らうこともしてこなかっただろう少年が、思いつく限りの規律を端から破っている自分を新鮮に思うというのは自然な話だ。

「近くに寄ったところで、何がわかるってんだ」

「うん。分かる気は、しないけど……」躊躇いがちに彼は言った。「もう少し近くで見てみたくて。君は、——」そこで、言葉を呑んだ。

 片眉が上がる。なんて言おうとしたんだ?

 しかしそれ以上の関心はなかった。答えないまま目を逸らし、うたた寝に戻る。カーティスはしばらくその場にいたが、やがて誰かから声をかけられ、立ち去り難げに、そちらへと向かった。それでおしまい。

 日は暮れて、東の空が夜の藍色に染まり始めた。西から広がる日没の赤が天頂でぶつかり、滲んでいる。二つの光が混じり合うからトワイライトt w i l i g h tと言うのだと、先ほど、別れ際、カーティスは弾んだ声で言った。

 エドワードはポケットに仕舞い込んでいた左手を抜き出す。そこには今朝の包帯の代わりに絆創膏が一つ貼られている。いちいち新品に張り替えるのは不経済なので包帯をしていたが、ウォルトに気づかれる始末では目立ちすぎと言わざるを得ない。思えば懐は潤っているし、そこまで切り詰めることもない。

 ガーゼに滲んだ赤い丸を見つめる。次の採取は土曜日だと言われた。痛みには強いほうだが、痛いことが好きなわけではない。むしろ「極端に嫌い」と言っていい。たかだか採血用の針を通されるだけと分かっていても、少し憂鬱な気分になる。痛いと分かっているものを待ち受ける時間が嫌いなのだ。

 カーティスと再会したあの日。待ち合わせの駅からウォルトの元へと行く前に、彼が告げてきた条件というのは、「自分の遊興に付き合うこと」。そしてもう一つ、「血を採ること」だった。目的は全く不明だ。悪用はしないと言うから深く尋ねずに済ませている。知らぬが仏という予感もする。自分の血をどう使うにせよ、抜かれちまったものならもはや与り知らぬことと割り切っていた——割り切れたふりをしていた——そして納得した。これは確かに街角に立つ娼婦たちですら応じるまい。

 けれどもエドワードにとって、それはセックスと引き換えにするよりはマシな話だった。穴を貸すにしろ竿を貸すにしろ、エドワードには耐え難いことで、そうしなければ生きていけないという段にまで追い詰められたら死んでやるとすら思っている。自分の血を売り払うことが、本質的にどこまでそれと違うのかというと微妙な気もしたが、今の自分がそれでいいと思うのだから、別に問題はない。

「問題はないが、」思わず独りごち、すぐに口をつぐんだ。ないが、不安だ。これで本当にいいのか。

 考えたって仕方ない。カーティスの目的や意図は何度考えてもさっぱり読めない。悪意があるにしては回りくどいし、そもそもこんな立場でこんな境遇の人間をこれ以上、突き落として一体何になるのか? 人の悪意には敏感なほうだと自負しているが、今のところ、カーティスが向けてくる不可解な好意はそれでいて間違いなく好意ではあって、害意や敵意を悟ったことはない。ここまで警戒していてなおそうということは、彼の気持ちは恐らく、本心だ。

 理性的に考えれば案ずる必要はない。というのに、直感がざわめき続けている。そのわりに強く警告を発してくれないものだから、エドワードはずっと悩んでいる。引くべきか。逃げるべきか。否か。

「エディ!」

 物思いを破ったのは、聞き慣れた声だった。ハッと顔を上げ、左手をしまう。目に映った黒いシルエットは手を振って近寄ってきて、不意に立ち止まり、エドワードの頭から爪先までを物珍しげに眺めた。

「ヒュウ、どうした? いいカッコしてら。いつにも増してホットだぜ、イイオンナでも見つけたか」

「うるせえな、野暮用だ。もう済んだから今から返す」

「んだよもったいねえ、似合ってるぜ。お高い店に盗みに行くのに、その身なりならやりやすいだろ」

 エドワードは思わず手を打ちそうになった。そうだった。普段の服装じゃ警戒される店でも、この身なりなら入り込めるかもしれない。当然、高級店での盗みは、安いボロ店での仕事より何倍も利率がいい。

「そういやそうだな。とっとくか。詐欺にでも使えるかとはチラッと思ったんだがな」

「詐欺ねえ、それもいいかもな? 俺が口上考えてやるから上手く言えるよう練習するか」

「馬鹿言え。お前が自分でやったほうがずっとマシだよ。俺にはできない」

「だろうな。言ってて思った。お前は、すーぐ顔に出ちまうんだから。仏頂面はお得意だけどよ」

 愉快そうに声を立てたあと、ふと、ビリーは神妙になって、エドワードを見上げる。

「なあ、イーサンのこと、覚えてるか? 最近見かけた?」

「イーサン?……ああ、《ブリックス》の。追い出されて捕まっただろ。一昨年だったか。去年出所だっけ」

「うん、そう。んじゃやっぱ知らねえかあ」

「アイツがどうかしたか」

「刑事が追ってんだよ。たぶん犯人じゃなくて——やられたほう」

 ヒュッと、寒いものが胸を通る。エドワードは遊ばせていた右の手を、首筋に当てた。

「そうか、……確かに。同じ街にいるのに、とんと噂を聞かなかった」

「俺が見たの、何ヶ月か前でさ。それが最後なのかどうか……」

「俺は服役から一度も見てない。しかし妙だな。そんな危ういことに手を出せるタマじゃなかったろ」

「だよな? 俺もそう思って。変だよな、《ブリックス》が今さらちょっかい出すのはおかしいし、出してんならもっと派手にやるだろ? チンケな揉め事で死んだにしても、じゃあなんで死体が出ないんだって話」

 相槌を打つ。ビリーの言うことに異論はない。酔っ払って海にでも落ちただけかもしれないが、そんなくだらない内容で刑事がわざわざチンピラ一人探し回るとは思えない。いなくなったところで誰が困るでもなく、所轄のオマワリは厄介ごとの種が減ったと息をつくだけだろう。

「刑事と話したあと、俺も気になってさあ。メイに聞きに行ってみたんだ。俺が最後にアイツを見たの、あの辺だったんだよ」

「メイ? 娼婦街か? なんでそんなとこに」

「わかんねー。食うに困って体でも売ろうとしてたんじゃねえかって俺は思ってる。メイもそうかもって」

「あの女好きがねえ……んなことできたのかね」

「さあ。アイツだったら受けたとしても後からやっぱ無理ってなって、適当な理由でっち上げて逃げ出しちまいそうだけどな」ビリーは喉を鳴らして笑う。が、すぐ、真顔になった。「でも……メイが言うには、そのちょっと前に、ロナルドもいなくなっちまったって」

「ロナルド?」エドワードは目を見張った。「マジかよ。アイツまだ……」

「十五とかか。……一月にさあ、雪降ったろ? すげえ寒い日あったじゃんか。あの日の夜に見たきりらしい」

 河に架かる橋を渡りながら、エドワードは黙考する。ロナルドとイーサンの間に接点があったかは不明だ。片や男娼、片やギャングの下っ端。言葉を交わしたことくらいはあってもたいした結びつきじゃないだろう。二つの失踪——恐らくは死——に関連はあるのだろうか。同じ事件に巻き込まれたとしたら、それは一体どんな事件だ? しかし二人とも最後に見られたのは娼婦街で共通している。誰かが男娼を狩っているのかもしれない。そうそうあることではないが、戸籍もあやふやで、いなくなっても捜す人がないこの街の住人は、しばしば獲物となる。殺す相手としちゃ都合がいい。

「似ても似つかねえ二人だよなあ」ビリーは空を仰いでいる。「ロナルドはみんなに好かれてたけど、イーサンはどっちかってーと、嫌われてたしさあ。女にモテるってだけで」

「ロナルドはひょろひょろ小っこかったが、イーサンは割りにデカかったよな」

「お前が言えた口かよ? 俺、首それるくらい見上げなきゃなんねーのなんてお前くらいだぜ」

 舌打ちを返しつつ、うっすら二人を思い浮かべる。華奢で可愛い顔をしていたロナルドは人懐っこいヤツで、一度エドワードたちの〝家〟にも遊びにきたことがある。その一度きりで以後、寄り付かなかったが、いい場所だねと彼は笑っていた。「でも、ずっとここにいたくなってしまって、ちょっと辛いな」。

 エドワードはイーサンのほうが面識があった。実を言うと、お互い何かと引き合いに出されてもいたのだ。ぱっと見の印象が似ていることは頷けたが、一緒にされたかないというのが正直なところだった。少なくとも、自分は仲間を売ったりはしない。

 ロナルドと、イーサン。共通点は——

「そういやブロンドだなあ」思いついたようにビリーが言った。「二人ともさ。そんで青い目で、顔もいい」

「なるほどな……言われてみりゃそうか」

「おい、」ぱっと足を止めた彼が、こちらの顔を覗き込んでくる。「なあ、ここにもいるじゃあねえか?」

「なんだよ、」

「『金髪碧眼の美人』」

 告げるやいなや、ビリーは声を上げて笑い、エドワードはそれを膨れっ面で見下ろしていた。息を切らしながら、一頻り腹を抱えて騒ぐと、だんだん、彼は静かになって、ゆっくりエドワードを振り向いた。街灯に後ろから照らされたその顔は、笑っていたが、どこか強張ってもいた。

「なあ、でも、エディ。気を付けろよ。もう二人もいなくなってんだ。今ちょっと、マジにヤバいかもだぜ」



     9



 階下で姉を呼ぶ声がしている。ぼくの胸はますます動悸がして、息が止まりそうになる。姉は平然と鏡を見つめている。立派な木の柄の大きなブラシは、ぼくの手には重たくて、もう腕がだるい。だけど、休む時間はない。

 姉の金髪を丁寧に梳いて、もう一度、ゴムで結ぶ。耳の上、高い位置で姉は髪を二つに結ぶ。ゴムをしっかり留めてから、赤いリボンでそれを隠す。だけど束ね損ねた毛が一本でもあると、姉は笑顔のまま、やりなおし、と言う。位置がずれているのもダメ。束ねた髪の太さが同じでなければダメ。リボンの結び目の大きさが揃って、きれいに整っていなければダメ。ぼくの手はまだ小さくて、うまくできない。なにかしらしくじってしまう。

 今日は食事会だ。パパとママと、姉さんは三人でパーティーに出かける予定。家を出なくてはいけない時間が近づいている。姉さんは、つやつやした赤いドレスを着て、ドレッサーの前に座っている。ぼくは小さな踏み台に乗って姉さんの髪を束ねる。何度も。

「そろそろ、車に乗らなくちゃ。わたし、お母様に叱られてしまうわ」

 姉が告げる。身がすくむ。心臓がどくんと痛み、ぼくは泣き出しそうになる。

「ねえさん、ぼく、上手くできない、……出かけるの、間に合わないよ」

「そしたら、わたし、行けないわね。いっぱい迷惑かけちゃうけれど、今日のパーティーはお休みしなきゃ」

 許してくれないことがわかって、ぼくの肺はまたきゅっと縮む。

 今度こそ、上手くやらなくちゃ。ぼくは鏡を見ながら、慎重に、左右の束の位置を確かめた。左の束はもう結ってある。同じ高さで右の束を結べば、リボンを整えるのは、そんなに大変じゃない。集中して、用心して、完璧に。ちゃんときれいに。

 片方の手で束を支えて、丈夫なゴムを、空いた手にかける。指に力を込めて押し拡げ、束に通す。ゴムはとても硬い。指の付け根が痛くなってくる。でも焦っちゃダメ、また失敗しちゃう。注意深く交差して、また一巡、束に通して、——

 ばちん。

 息を呑む。ゴムが指から外れ、束の形が崩れてしまった。また、と思うと同時、心が真っ暗になる。喉が締めつけられたみたいに狭まっていく。息ができない。やがて目の縁がひどく熱くなった。もういやだよ、姉さん。もういやだ……。

「やりなおし」姉は、やはり笑っている。



     10



 台形に張り出した背の高い窓ガラスの外は、初夏の陽が注ぐ広大な庭だ。霞むほど遠くまで延々続く芝生の先に、緑の深い森が控えている。小さな応接間の立派な椅子に腰かけ、左腕をテーブルに投げ出し、エドワードは外を眺めていた。手首に通った管は傍らのスタンドへ伸び、血が重力に逆らって流れ、頂点に吊り下がる、透明な袋へ収まっていく。

 土曜日。エドワードはカーティスに呼ばれ、郊外にある彼の邸宅まで連れてこられた。いつ見ても、馬鹿馬鹿しいほど大きな家だ。門を入ってからもなお邸の近くまで車で走り、ようやく手前に着いて降りる。中庭の噴水を避け、物々しい階段を上り、両開きの扉へたどり着く。ドアマンが小さく頭を下げて二人のために扉を開き、足を踏み入れれば仰ぐほど高い天井が待っている。何度来ても、目に映る全てに現実味がなく、くだらないコントでも見ている気になる。

「お加減、いかがですか」

 席を外していた看護師が戻った。軽く肩を竦めて答える。一度針を刺してしまえば、あとは退屈なだけで苦痛はない。看護師が管を高く掲げる。血の流れが速くなった。

「あとどんくらいで終わる?」

「もう少しですよ」

「さっきもそう言われた気がするが」

「そうでしたか」

「いいよ、もう。暇つぶしできるもんないの」

「本や雑誌でしたら」

「んなもん読まねえ」

「となると、特にありませんね」

 エドワードは嘆息した。何一つすることがない。呼びつけたのは彼なんだからもてなしくらいしたらどうなんだ、——カーティスは普段都市部に住んでいて、実家であるここへはさほど帰ってきてないらしい。だからかエドワードを連れてくるたび、ついでとばかりに家の用事を済ませ始める。いつもほったらかしだ。

「あいつは今は何をしてんだ」

ロードですか。さあ、私は看護師ですので」

「馬鹿でかい家だよな。どこに何があるかわかってんの?」

「恐らく、家のメイドたちならば。私は正直、把握していません」

 無聊を持て余し気味に適当な言葉を投げると、看護師は律儀に返してくる。おおかた、相手をするようにとでも仰せつかっているのだろう。白い肌にうっすらそばかすが散って、神経質そうな目はさっきから少しも瞬きをしない。エドワードは珍しく口の端を上げて彼女を見つめた。

「あんた、名前は?」

「マクナルトンです」

「苗字はいいよ」

「リンダ。リンダ・マクナルトン」

「血って何に使うんだ」

「普通は輸血に使うものかと」

「輸血ってな、誰にでもできんの」

「いえ。血液型の一致や、その他もろもろの条件があります。あなたはO型ですから、使い勝手がいいんですよ」

 エドワードはそこで初めて自分の血液型を知った。うちのやつらはどうだろう。見た目で分かったりするだろうか。

「O型だと、なんでいいんだ?」

「O型だけは他の血液型にも輸血が可能なんです。うまくいかない場合もありますが」

「へえ。便利なんだな」

「そうですね。あなたは疾患もないし、体も丈夫ですから、献血には適しています」

 ということは、うちの誰かが例えば怪我して大出血したとしても、俺の血を使える可能性があるってわけか。いい話を聞いた——エドワードはゆるく何度か頷きながら、また戸外を見やる。庭の芝生の所々に白い小さな円盤が見え、なんだろうと思っていると、突然、水を噴き出し始めた。スプリンクラーか。

「おつかれさまです」看護師が言って、管を外した。「終わりました」

 絆創膏を受け取る。渡されるとき、彼女の手の小ささと自らの手の大きさが絆創膏を介してはっきりし、女ってのはつくづく脆そうな生き物だなとエドワードは思った。娼婦街にいる知り合いのルビィ——パンパンに膨らんだ風船、あるいはイーストを混ぜてほっときすぎたパン生地のようなシルエットの女——でさえ手は随分と小さく、どんなに豊かなクッションに埋もれている体であっても、エドワードにしてみれば容易に壊せてしまえそうに映る。

 剥離紙をめくると、ぺりりと音がした。

「昼食のリクエストはおありですか。卿に伝えてきますが」

「肉。あとは腹にたまるもん」

「かしこまりました」看護師は、エドワードの手首にちらと目をやってから言った。「失礼します」

 スタンドがガラガラとキャスターを鳴らし、去っていく。ドアの閉まる音がする。エドワードはだいぶ斜めになった絆創膏を矯めつ眇めつし、小さく嘆息して、スプリンクラーを眺めた。



「いい食べっぷりだね」

 骨つき肉を手摑みで食べるエドワードを見て、カーティスは笑う。

「豪快でいい。なんだか胸がすくな」

 バカ長い食卓の中央、短辺のほうだというのにずいぶん距離のある向かい合わせで二人は座り、真っ白なテーブルクロスの上に豪華な食事を並べている。エドワードは顎を黙々と動かしながらカーティスを睨め上げ、一応口の中のものを呑み込んでから、口を開いた。

「他にどう食べるってんだ。ナイフとフォークでかちゃかちゃやるのか?」

「そうだよ。でも、まあ、却って食べにくいし、音も立つし、効率が悪いね。僕もそう思ってた」

 言うと、カーティスはカトラリーを置き、鳥の羽の先を摘んでみせる。

「君に倣おうかな」

「やってみろ。細かく刻んでお上品に噛んだところで、食べた気がしねえ」

「その通りかもね。せっかく骨つきだし」

 邸宅の大広間だ。いや、より大勢が一堂に会するためのスペースがこの広い邸のどこかにまだあるのかもしれないが、少なくともエドワードには、二人きりで飯を喰らうのに向いた広さとは思えない。壁紙は深い紅色で蔦の模様が刷り込まれている。相変わらず天井は高く、白くて、話にしか聞いたことのないシャンデリアなぞが垂れ下がっていた。新たな部屋に入るたび、エドワードはつい物珍しげに内部を眺め回してしまう。その都度、隣でカーティスが密かに鼻をうずうずさせていることに気付いて、慌てて興味のないフリをするが、じんわりとした羞恥があとから顎のあたりに湧いてくる。それは妙にむず痒い。

 広間は家の南端にあり、庭に面する側には窓が作られていた。エドワードは促され、そちらに座った。

「なんて鳥だ?」

 彼はいま、カーティスがさっきからbirdと言う意味を考えている。そういえばchickenの味じゃない。鳩くらいはその辺にいるのを捕まえて焼いたことがあるが、正しい処理の仕方も知らないから食える味にはならなかった。いま食べている鳥は、市販の鶏に比べれば独特の臭みと弾力があるが、これはこれで、なかなか美味い。

「キジだよ。森にいたのを撃った。風味があっていいでしょう? 君も気に入った?」

「まあ、悪かない」

「よかった。またきたとき出してあげる」

 カーティスは恐る恐る、摘んだ肉を持ち上げて、かぶりついた。そのまま引きちぎろうとあれこれ挑んでいたが、特有の硬さに苦戦して途中からもう片方の手を添え、やっとのことで噛みちぎる。しばらく無心に顎を動かし、やがて呑み込んで、にこりと笑う。

「うん、いいね。こういう食べ方も」

 何となく胸をざわつかせたまま、曖昧に頷く。

「そういえば君は仲間内から、『イーグル』と呼ばれているんだって?」

 と、突然そんなことを言い出すので、エドワードはつい顔をしかめた。

「なんで知ってる」

「聞いたんだ。もう半年も前かな、君の街に行ったとき」カーティスはくすくすと、思い出し笑いをした。「君ってば有名なんだもの! みんな知っているってさ。かっこいいね。鷲だなんて。でも鷹のほうが似合いそうだけど……どうして『イーグル』なの?」

「うるせえな」気恥ずかしくて顔を逸らす。「頭文字だよ。イニシャルと字数が同じだから、それで」

「字数? でも、君の名前は六文字だろう」

「エディのほうだ。俺のことを、そんなバカ丁寧に呼ぶ奴はほとんどいねえ」

「そうか、」カーティスは指についたソースをナプキンで拭きとった。「E–D–D–I–E、E–A–G–L–E……それで『イーグル』!」

「くだらねえ呼び名だ。あいつらだって茶化すときにしか使わねえよ」

「そう? 僕が聞いたときは、なんだか憧れるみたいに口にしていた気がするんだけど……思い違いかな」

 一体誰から聞き出したんだとエドワードは呆れ半分、いまいましさがもう半分といった心地で聞いていた。おおかた女たちだろう。カーティスは見るからに金を持っている男だから、ちょいとひっかけてやろうと女どもが寄っていくのは不思議じゃない。逆にいえば、街の男たちが、彼に好意的に接する理由は一つもないのだ。俺のあだ名のことなんて誰も話したりしないだろう。いや、ビリーならありえるか。あいつは誰にでも〝親切〟だ。

「お前に余計なことほざいたのは誰だ」

「さあ、なんていったかな。かわいい子だったよ。小さくて細くて」

「かわいい子?……思いつかねえな」

「ねえ、君は、誰と仲良くしてるの?」不意に勢い込んで、彼は尋ねてきた。「どんな人が周りにいる?」

「なんでんなこと言わなきゃなんねえんだ」

「言ったでしょう。僕は君のことなんでも知りたい」

「俺は教えたくない。だいいち、一度〝家〟に来ただろ。俺が関わる相手ってな、あそこにいた奴らくらいだ」

「ふうん……あそこにいた人たちが、君の仲間?」

 仲間。一番狭い範囲では、確かに彼らが〝仲間〟なのだろう。だがあの街にいる人間は、本質的には誰しもが仲間である、とも言える。いま目の前にいる男と違って。

「さあね。仲間ってほど親しくもない。程々に付き合ってるだけだ」

「どうかなあ。君は恥ずかしがり屋だから」——そんなぬるい形容を使われたことがなかったエディは思わず身震いした——「でも、そうだね。あそこにいたの、ほとんど小さな子だったし。面倒を見てるの?」

「そうでもない。居ても構わないと言ってるだけだ。飯だってほっといてる」

「だけど、ほら、僕が行ったとき……」カーティスは少し宙を見つめて、思い出すような間をとった。

「ずいぶん、慌てていたじゃない? あの子が熱を出してただけで」

「それは、」言い返そうと口を開いたはいいが、思いつかなくて一度閉じる。「死なれると、面倒だろう。警察沙汰になっちゃ困る」

「ふぅん、それだけ? ほんとかなあ」

「だったらなんだってんだ」

「いや、別に。でも君はやっぱり優しいね。僕は昔から、そう思ってた」

 結局手摑みで食べるのは彼の性には合わなかったようで、カーティスはカトラリーを手に取り今まで通りの食事を続けた。エドワードもまた自分のスタイルをまっとうしつつ、ふと投げかける。

「お前、花瓶が好きっつってたよな」

「うん? そうだよ。花が好きなんだ。花も器も好きだから、どちらも楽しめる花瓶は、特に好き」

「へえ」聞く前に答えが返り、エドワードはやや白けた。「そうかよ」

「『西洋の歴史は、自然をいかに支配するかという歴史である』」

「何の話?」

「『ガーデニングgardening』の話。僕ら国民は庭が好きでしょう?」

 それはお前らみたいな階級の人間だけだ、とエディは鼻白んだが、口には出さなかった。代わりにさりげなくカーティスの背後、物々しい装飾に満ちた蔦の壁紙へと目を向ける。深いワインレッドの壁には飾り棚や大小さまざまの絵画、今や使ってはいないであろう重厚な暖炉などがあり、十分な距離があってなお、圧迫感がのしかかってくる。後ろを振り向けばそこにあるのは背の高い大窓で、それは壁一面に等間隔に並んでは、初夏の陽光ひかりを余すところなく取り込んでいた。ここにいると、自分がさほど、でかい図体でもないように思える。

「僕らの庭づくりは、日本のそれと似ているんだってさ。いたずらに形を矯正なおすんじゃなく、自然そのままを表すような姿にすることを目指してる。でも他と比べて少しは自然を尊重していると言ったって、やってることは結局、変わらない。自分好みに管理して、支配して、所有する。むしろ余計にグロテスクだと言えるかもしれないね、そのままの価値を称賛しながら、手元におこうと言うのだから……」

 ガーデニングの歴史などエドワードは興味がなかったが、彼の言っていることは頷けるものでもあった。というより、なんだ、わかってるんじゃないかと、感心するような呆れるような却って腹が立つような、何とも言えない気持ちになった。エドワードは、彼に対してしばしば感じる苛立ちの正体をほぼ摑んでいながら、表す言葉を知らなかったが、知っている者が代弁すればそれは『傲慢』の一語になる。

「動物園や水族館も同じ。生態を知ろうだとか、種の保存だとか言ったところで、摂取しやすい形に自然を押し込めてることに変わりない。でも僕は、それが悪いこととは思わない。ただ誤魔化すのが馬鹿らしいだけで」

 鳥を摑む手を止め、彼を見る。彼の口元に浮かぶ微笑が先ほどまでと少し違っている。

「何が悪いの? 美しいもの、素敵なもの、綺麗なもの、魅力的なもの、手にしたいでしょう、それの何がいけない? 暴力的だの、傲慢だの、悪趣味だの、……あれもこれも、誰が決めたこと? ? 意味なんかあるの? たかが人間のやることに、たかが人間が口を出してるだけだよ。こんなに馬鹿馬鹿しいことってない」

「……じゃあ、何してもいいって言うのか? 欲しいものを手に入れるためなら」

「うん。そう」ごく自然に、頷く。

「奪ってもいい。壊してもいい。閉じ込めてもいい。何をしてもいい。だって欲しいでしょ。手元に置きたい。美しくって魅力的で心惹かれる素敵なものは、何をしてでも僕のものにする。反対に、嫌で苦しくて気持ち悪くて見たくもないものは、消してもいい。やりたくないことからは逃げてもいい。守りたくないルールは、無視していい」

 いよいよこの男は危ないかもしれない——と、冷静に思考する一方、エドワードは初めて彼にはっきり好感を抱いてもいた。分かっているなら構わない、好き勝手をしたらいい。御託を並べて人を責め立てる割に、自らの罪に頓着しない人間よりはずっといい。所詮ちっぽけな存在のくせに、お高く止まって格好ばかりつけるヤツよりは、ずっとマシだ。

 食べ終わると、エドワードは濡れた指先を舐めとった。大きな椅子にもたれかかり、向かいの男と同様の笑みを片頬に宿す彼の背でスプリンクラーが作動する。同じ高さに刈りそろえられた柔らかな緑の上に、まんべんなく、水道水が降る。



 シュリンプバーガーにかぶりつき、エビの身が歯に挟まれてぷりりと弾ける感触を楽しむ。エレノアは休日の午前中に起きれたことで気分がよかった。いつも貴重な休日を半分以上寝潰したと気づき、やり場のない不満と憂鬱にせっかくの休暇を台無しにされる。前日、一念発起して早くに就寝し、八時間眠って、今朝はきれいに目が覚めた。おかげで身支度と簡単な家事を済ませてもまだ午前中で、このまま朝食を用意するか悩んだが、窓の外に光り輝く新緑が心を惹いた。光に満ちた清々しい季節は、あっという間にすぎてしまう。

 気に入りの白いTシャツを被り、一瞬躊躇した末にデニムのショートパンツを穿く。十代の娘のような格好だが、エレノアは自分の脚が密かに自慢だった。鏡で姿をチェックしてから、小さなショルダーバッグを手にとり財布と携帯を投げ入れる。鼻歌まじりに扉を開けた。

 そして今、行きつけのダイナーで好物を頬張っている。この前きたときに気まぐれに頼んでみたパンケーキも美味しかったから、腹に余裕があれば頼んでみようか。あのときは——エレノアは彼女を「エリー」と呼ぶ気取った元カレを思い浮かべる——彼が向かいに座っていた。相変わらずの有様に呆れるような懐かしいような、妙な感覚だった。

 ジョイスとは元々警察学校でも同期だったし、だから存在は知っていたものの、当時は特に接点もなく、また卒業後も職場は違った。お互いに働き始めて一、二年経ったころ、本庁にいた彼からエレノアのいる署まで問い合わせがきた。彼が追っている事件に、こちらの街に住む少年が関わっているかもしれないとのことで、情報を送ったのがきっかけで、やりとりをするようになった。ジョイスはとにかく鬱陶しく面倒くさい男だったが、なぜかエレノアはそういうところを嫌いにはなれなかった。彼のあまりの長広舌も、うんざりすると同時に面白く、そしてちょっとだけ、可愛らしいと思った。

 交際したのはさほど長い期間でもなく、そのうちいっときの興味が疎ましさに変じて、ごく自然に嫌になっていっただけの話で、それはあちらにしたって同じことだろう。エレノアとジョイスはそもそもほとんど正反対のタイプだった。だからこそ興味を持ったのだが、当然それゆえ合わない部分が多く、無理に関係を続けてもお互い嫌いになるだけだからと傷の浅いうちに離れた。だから、今でも「変わり者の友人」くらいの距離感でいられる。どうかと思う部分は多々あるが、依然、面白い人だとも思う。

 刑事としての彼はそこそこ優秀なはずだが、いま調べている事件の進捗はどんなものなのだろう。残りわずかになったバーガーを手にしたまま彼女は考える。イーサンだけでなくロナルドも行方知れずだと聞いたのはつい先日のことで、少なからずショックを受けた。ロナルドのことももちろん知っていた。まだ年若い少年だ。ここ最近、娼婦街では何もトラブルがなかったから、気づいていなかった。自分の迂闊さが薄情にも思え、また怠慢のようにも思えた。

 もし二人の失踪が同じ原因によるものなら、他にもいなくなってしまった子がいるのかも分からない。だが基本的にスラムの人々は警察を信用しない。彼らにしてみれば、邪魔をしたり傷つけるばかりで助けてくれたことなどないのだから、そう思うのは当然だ。身近な人が消えてしまったとて相談しにくるわけがない。受け身で待っていても誰の手も摑むことはできないのだと、もう嫌というほど学んだはずなのに。また忘れていた。日々の忙しさにかまけて。

 エレノアは食べかけのシュリンプバーガーに目をやった。その残り五分の一ほどを急いで口の中に収めると、勢いよく咀嚼して、最後はレモネードで流し込む。代金をトレーに置き、バッグを摑んで店を出た。どうせ今日の予定などないのだ。珍しく早くに起きれたのだから、有意義に時間を使ってやろう。

 まずは誰に会いに行こう? 今日の天気とおんなじに、陽気な人がいいかもしれない。



 スラムに生きる少年たちは、望もうが望むまいが、警察というものを深く知ることになる。つまり、「警察」というある種の偶像ではなく、そこにいる実在の個人について。これは警察に限らず政治家、福祉活動家、NPO、養護施設の職員——あらゆる職種に言えることだが、どんな場所にも様々な人間がおり、どんな人間と関わるか次第で、その集団への印象も変化していくことになる。とりわけ、初めに出会った人物によって。

 ハズレくじばかり引いている、あるいは忘れ難いハズレくじを引いてしまった者は別として、「警察である様々な人間」と関わってきた少年たちは、自ずと「警察にも色んな人間がいる」ということを実感していく。やな奴もいれば、いい奴もいる。ちょろい奴もいれば怖い奴もいる。そして、信用出来ない奴がいるように、信用出来る奴も、稀にはいる。

 ビリーは街角のベンチに座り、アイスクリームを食べていた。春夏限定のフレーバーで、ストロベリー味のビスケットがバニラアイスに混ぜ込まれている。ぽかぽかとした陽に包まれてアイスクリームに歯を立てつつ、ビリーはベンチの背に腕を預け、初夏の快晴を楽しんでいた。こんな日はエディと一緒にバスケットでもしたいところだったが、今日は何やら用事があるとかで朝早く出かけていった。最近、妙な取引先と付き合ってるようで少し心配だ。

 彼は勘がいいし頭も回る。自分が余計な気を回す必要はないのかもしれない。だが彼は変にほだされやすく、脇が甘いのも事実である——そもそも気持ちの甘い人間でなけりゃ、小銭一枚も稼げないガキの面倒を見るはずがない——自分だって同じように面倒を見られた人間なわけだが、あの家にいる連中の中では自分が一番歳が近く、ほとんど対等に接している。だから心配する筋合いもあるだろうと思う。

 密かに進学を願っていた自分に、アルファベットを教えてくれたのはエディだった。

 近くの本屋で辞書をくすねてきて渡してくれたのもエディだ。彼は孤児院で育ち、たった一年間ではあるがまともな教育を受けもしたから、文字と簡単な言葉ぐらいは知っていた。だがそれを教えることで彼に得なんてないはずだった。ないはずだったから驚いた。そして大抵のスラムの人間がそうするように、疑った。

「何企んでる?」

「いらねえなら返せ」

「いるよ。なんのためだっつってる」

 訝しげに見やる自分に仏頂面を向けつつ、彼は、困っているようでもあった。実際言葉を探しあぐねて眉間の皺を深くするばかり。最後まで間に合わせの理由すら口から出ずに、「いらねえなら返せ」と、もう一度、怒った調子で言うだけだった。それでビリーは、こんな調子では、うまいこと人を騙すなんてのはこいつにゃ無理だと思い直して、素直に受け取ることにした。ビリーがエディに借りを作ったのは、そんな経緯でだった。

 本人が言葉にできずにいるから、なぜ彼が自分を助けてくれたか理由はいまだにはっきりしない。たまにビリーもあれやこれや推測してみたりするものの、どんな仮説もしっくりこなかった。結局、彼は人を助けるのに、理由が必要な人間ではないのかもしれない。自分にそれをする余裕さえあれば。

 それにしても天気がいい。ビリーは首を反らし目を細める。雨天曇天の多いこの国で雲の気配もない空は貴重で、ただ晴れているというだけで今日が特別な日に思えてくる。悪いことが起きる気はしないし、きっといいことが起きると思える。なんの根拠もなく。こんな日に、外でアイスクリームを食べる幸福についてビリーは考え、俺は案外幸せに生きているのかもしれないと思った。エディなら呑気なやつだと片頰で笑うことだろう。

「ビリー?」

 と突然、聞き慣れた声が耳に届き、ビリーは右方へ目を向ける。予想した通りの人物がずいぶん涼しげな格好で歩道の真ん中に立っていた。普段のスーツ姿とは大違いなのでビリーは目を見開き、それから自然と笑顔になって彼女に手を挙げる。

「エレノア・ピアース! 久しぶりだなあ」

「ええ、ビリー。署で会うようなことにならなくて嬉しいわ」

 彼女はひらひらと手を振って、ビリーに近づいてきた。「アイス食べてるの?」

「そう。このご陽気な空といい感じの風を浴びてたらこれはぜひともアイスを食べなきゃならねえと思い立ってさ、街中走って、アイスのバンを探して、ちょうどさっき一台出会って喜び勇んで買ってきたところ、エリーに会うならついでにもひとつ買えばよかったなあ。エリーは何が好き?」

「私はライム味が好き。売っていたっけ?」

「ライムはどうかなあ。レモンならあるけど」

「それもおいしそうね。隣いい?」

「もちろん! 座って」ビリーは背もたれにかけていた腕を外して招いた。「今日はどうしたよ? 休日だろ?」

「ええそうよ」隣に腰を下ろすとき、エレノアは座面の熱さにやや顔をしかめた。

「私も同じ。このいい天気に、ふと、思い立って」

 エレノアは、初めてビリーがスリで捕まった際の担当尋問官だった。それまで何度も成功していたが初めてしくじり、しょっ引かれた。だが当然ビリーは自分は初犯であると言い張った。さんざん𠮟言こごとを言われた末にどうせおとがめ無しとなることは分かっていたし不安もなく、ただ鬱陶しいと思っていた。つい先日まで高校に通ってたような若い女が担当官というのもしゃらくさい。

「本当にこれが初犯なのね」

「だからそうだっつってんだろ。何度聞いたって変わんねえぜ。ぶっ叩くたびにチャンネルが変わるブラウン管とは違うんだ」

「洒落たこと言うのねえ。ユーモアのある人は好きよ」

 淡々と必要事項を確認していく彼女もまた、当然自分の言い分を信じてなどいなかった。こんなものは日々の流れ作業で、一連のお決まりを繰り返すだけの無意味な時間だ。だが、最後の質問に来て、彼女は不意にビリーの目を見た。

「ビリー。もう、スリはしない?」

 しない、と判で押したような返事を軽くしてやるつもりだった。だが彼女のブルーアイズがあんまりまっすぐ自分を見るので、ビリーは言葉に詰まってしまった。結局、用意していた言葉を返すには違いなかったが、それでも躊躇いを感じた。

「しないよ」

「しないのね」

「しないっつってんだろ、」八つ当たりのように苛立ち、吐き捨てる。「何度も聞くんじゃねえ」

「分かったわ」エレノアは、まっすぐビリーを見たままで、凛と告げた。「あなたを信じる」

 その言葉が嘘ではないことを、ビリーは感じた。感じることができた。彼女はビリーがこの先スリをと分かっていて、それでもビリーを「信じる」のだと。偽りなく「信じている」のだと。裏切られると分かっていて、それでも信じると「決めている」のだと。ビリーはゆっくり、彼女と目を合わせた。青い目は少しも揺らがなかった。

 その後、言うまでもなくビリーは様々な罪状で何度も追いかけられては逃亡し、あるいは捕まってエレノアと顔を合わせたが、その度に彼女は、同じことを繰り返し、そして同じようにビリーを信じた。だからってビリーが食い扶持を得るすべを変えるわけではないけれど、何度でもビリーの言うことを信じてくれる人がいることが、ビリーをどこかで支えていて、完全に崩れそうになるとき、踏みとどまる助けになった。最近はスリもずいぶん上手くなり、エレノアを裏切る機会もなくなっている。無論正確には、裏切っていることがバレる機会が減ったということだが。

「思い立って、何をするんだ? アイスのバンなら西に行ったぜ」

「アイスはあとで気が向いたら買う。今日はちょっといろいろなこと、出会った人に聞こうと思って」

「いろいろなこと?」

「あなたも知ってる? 最近、街から人が消えてるの」彼女は唾を飲み込む。「私の知っている子が」

 ビリーは少し表情を変え、彼女に向き直った。拍子にアイスが垂れてきたのに気づき、慌てて舐めとる。

「うん、知ってる。この前ヘンな刑事さんに声かけられて、ちょっと聞いたよ。噂じゃイーサンと、ロナルドが消えたって。はっきりしないけど他にも何人か」

「そう、……そのヘンテコな刑事は、黒髪の癖っ毛ね? 私も知ってる。イーサンやロナルドのことを聞かれて、協力した」

「エリーも? そっか、……ヤバい感じだよなあ。理由の見当がつかないからさ。みんなあんまり話さないけど、なんとなく不安そうだ」

「やっぱり、理由は分からないのね?」

「うん。最近は抗争もないし、そもそも抗争だったとしたら巻き込まれそうもない奴らで……死体がないってのが気味悪ィ。死んじまうことはしょっちゅうだけど、見つかんないなんてほとんどないよ」

「そうよね。警察のほうじゃまだ、正式な捜査はしてないの。失踪届も出ていないし」

「出すヤツいないからなあ。そんでエリーは、自分で調べてみようとしてんの? 危なくねえ?」

「ちょっとだけ。せめて、誰がいなくなったのかだけでも……二人がいなくなったこと、私、全然気がつかなかった」

 それが後悔の言葉であることは難なく読み取れた。そんなの、同じ街に住む自分だって気付かなかったのに。

「俺が聞いた話じゃ、他にギルやレックス、ミックも見てないって。でもあいつらは街をしばらく移ることもあるからわかんない。たまたま今いないだけかも」

「そう、……みんな黒人ね? イーサンやロナルドとは違うのかな」

「〝色〟が関係あんの?」

「そうじゃないかってジョイス、——あのヘンテコ刑事は言ってる。プア・ホワイト狙いのヘイトクライムか、シリアル・キラーかもって」

「ふぅん……イーサン以外はみんな立ちんぼなんだけどなあ。イーサンはどっからどう見ても違うしな」

「まあ、そうね。この街に住んでる人なら彼の女好きは知ってるだろうし……」

 エレノアは俯き、眉根を寄せた。——この街で何かが起きていることはおそらく間違いないだろう。だがこんなことは初めてで、誰しもが戸惑っている。日々の生活に犯罪が織り込まれているビリーたちにすら見当がつかないとなると、もっと常軌を逸した何かが蠢いているのかもしれない。

 不意に、エレノアはジョイスが心配になった。単独でこんな事件を追って、危険な目に遭わなければいいが。とはいえかつて本庁にいた刑事課の人間として彼には相応のプライドがあり、たかが少年課の女刑事と共同捜査などする気はないだろう。腹立たしくないわけではないが、大して力になれない気もする。

「エレノア。あのジョイスって人は、できるヤツなの?」

「どうかな、よくは知らないんだけど。でも少なくとも間抜けじゃないはずよ、彼本人はちょっととぼけてるけど。刑事としては優秀だ、って」

「そっかあ。じゃあ、そのすごい刑事さんが、みんな見つけてくれたらいいなあ」

 ビリーはほとんどを食べ切ったアイスのコーンにかじりついて、言った。

「いつ生まれたか分かんないのに、いつ死んだかも分かりませんじゃ、ほんと、いなかったみたいだからさ」



「困ったな」

 その頃。晴天に恵まれた街角のベンチの数キロ先、地下鉄で一つ離れただけの街の軒下に雨宿りしながら、ジョイスは暗い曇天を見上げた。早くに止んでくれるといいが、雲がずいぶんと分厚く見える。今日のうちに回りたい場所はまだあるものの、少々予定を変更せざるを得ないだろう。経費のおちぬ身にタクシーは厳しい。

「さて、どうするか……」

 人がいないのをいいことに、ブツブツと独り言をいう。ジョイスは手帳を開いて今までの成果を見直した。もはやジョイスにとって今回の疑惑は完全に〝事件Case〟だった。スラム街に住む金髪碧眼の白人二人が姿を消している。しかもどちらも男娼街で目撃された姿が最後——ジョイスは他にも被害者がいるだろうと考えていた。あるいはまだ始まったばかりか? すでに消えている二人の足取りを追うと同時、ほかの行方不明者についても聞き込みを続けている。関連ははっきりしないが、いくつか気になる情報もあった。

 不明なのは動機だが、現時点で確実に失踪している二人——イーサンとロナルド——に『金髪碧眼のプア・ホワイト』という共通点以外何もないのを見れば、そこにあるとしか思えない。一種のヘイトクライムか? あるいはシリアル・キラー? まるでドラマだ。だがこの街は世界的に最も有名な連続殺人鬼が〝大活躍〟した場所でもある。そんなまさか、と切り捨てるにはまだ早い。いかなる可能性も。

 ジョイスの脳裏に苦い思い出がよぎった。直接的に左遷の原因になった事件だ。それを思い出すと今でもはらわたが煮えくりかえる。自分には珍しいことに。

 当時ジョイスは本庁にいて、重大犯罪を扱っていた。シンプルな事件が主だったが、時に尋常ならざる事件に関わることもあった。もちろんいくつもあるものじゃない、けれど、あれはそういう事件だった。俺ははっきりと疑っていたのに、——それはどんなに根拠に欠けていても結局のところ正しかったのだ。上司の顔が思い浮かんだ。忌々しいあの澄まし顔。あいつがもっと俺に自由をくれていたら。批判を恐れなかったら。ある程度の規約違反を必要と認める度胸があれば。だがとどのつまり一番腹が立つのは、どこかで自分を信じ切れていなかった自分自身だった。そのせいで失ったものを考えたら、左遷ごときどうでもよかった。いっそ職を失ったとしても。失ってもいいから、独断で、もっと早く動くべきだった。他の誰かを頼るべきじゃなかった。

 全て過ぎたことだ。それより、同じ過ちを犯さないように。

 頭を振って、切り替える。書き留めたメモを読み返し、何か閃かないか期待する。とはいえ今の時点では、情報が少な過ぎた。死体がある場所の見当すらつかない。水の底だろうということしか。この辺りに沈められたのだったら、当然ドブの臭いを発するあの濁り切った河だろうが、確実な証拠もないのに端から端まで捜索隊を出せるわけがない。しかしこの街の範囲に限って河の底を浚うだけでも、余計な死体がゴロゴロ出そうだ。

 全体に窪んだ石畳には雨水がたっぷり溜まっている。そこをタクシーが勢いよく走り、飛び散ったしぶき——もはやバケツの中の水をぶっかけられたに等しかったが——に舌打ちをする。店はどこも明かりを消していて、そもそも人が居るのかどうかも分からなかった。空き家だらけだ。

 人影を求め、左右を見る。すると、東の橋の向こうから、誰か歩いてくるのが分かった。

 距離が詰まるにつれ、その人影は、相当大きな体躯であると気づく。彼は雨粒を避けるように黒いフードを被り紐を締め、両手をデニムのポケットに突っ込んでいた。もちろん機嫌がよさそうには見えない。俯きがちの額にかかる前髪は明るい金髪で、曇り切った空の下でも太陽を思わせる。

「なあ、君」

 躊躇はしたが、呼び止めた。だが青年は向かいの歩道を平然と通り過ぎていく。この雨だから音がうるさくて気づかなかったのかもしれないと何度か声を張り上げたら、やがて舌打ちをして立ち止まった。軒下から面倒そうにジョイスを見やる。その頭は張り出した屋根に当たらないよう屈められている。

「すまない、呼び止めて。そっち行っていいかな。いろいろ聞いて回ってるんだ」

 彼は数秒ジョイスを見つめて、それから流れるように『Closed』の札がかかったドアを蹴り開けた。驚きつつも後を追い、道を渡る。その一瞬でずぶ濡れになる。

 テーブルの一つに彼は座っていた。椅子にではなく、テーブルの上に。

「誰」

 青年はフードを被ったままだ。ジョイスは濡れた頭を振り、手で払って、彼へと歩み寄る。胸ポケットから手帳を出した。

「ダウンシー署のジョイス・ハーディ警部だ。ここは君の家?」

「くだらねえ」

 軽いジョークを一言で切り捨て、青年はジョイスを見つめる。自分は立っていて、彼は座っているのに、あまり頭の位置が変わらない。脚は地についてなお余っている。かなりの身長だ。

「ダウンシーってどこだ」

「ずーっと西の港町さ。知らなくって当然だ、君は都会っ子だろう?」

「そんな町からなんの用」

「実は、この街に住んでた人の体の一部が見つかった。俺のいる署の管轄内でね。それではるばる出張ってきたんだ。彼についての聞き込みをしてる」

「イーサンか」青年は頷き、それからフードの紐を解いた。「あんたが捜してんだな」

 大きな手が黒いフードを摑み、無造作に、振り落とす。軽く頭を振り、濡れた前髪を鬱陶しそうに彼は掻き上げた。そうして現れた相貌にジョイスは思わず息を呑む。顔立ちそのものにも驚いた。だが問題はそこじゃない。

「君、」声が上ずったのを、慌てて抑える。「名前は?」

「名乗る理由がない」訝しげに眉をひそめる。細まった眼は海の色だ。

「どこに住んでる? この街のどのあたりにいるんだ」

「なんでそんなこと聞きやがる? イーサンを探してんじゃねえのか」

「君かもしれない」

「は?」

「君かもしれない」もう一度ジョイスは言った。確かな手応えを感じながら。

「イーサンとロナルドが誰かに狙われて殺されたなら。同じ犯人が理由をもって彼らを選び殺したのなら。その犯人が追い求めている理想像が明確にあるなら——」

 ジョイスは戸惑いを浮かべている青年の顔をまじまじと見る。輝くような金髪、精悍な体躯、緑がかった碧眼、そして、特別に整った、誰の目にも華やかな容姿。その持ち主を、——エドワードを。

「それは、おそらく、確実に。君だ」

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