ビューティフル・インセクト

初川遊離

Act 1



     0



 神はいない。

 世界は完璧でなく、誠実でも正当でもない。当然の理が、当たり前に踏み躙られて地に潰れるのが現実だ。私はそのことを、私一人に証明するために今日までを生きてきた。神がいるのなら、最も弱く、最も守られるべき人々が犠牲となっていくはずがない。もとより救い主は不在で、私だけが見捨てられたのではないと、私は自分に言い聞かせ、それを証明しようとした。そうして実際、し続けた。私は大した罰も喰らわずのうのうと今日までを生きた。なのに、今になって、こんな、——これは罰か? 私は今になってようやく、神の目に触れたというのか?

 有り得ない! ならばなぜ、神は私を救わなかった? 私を踏みつけ、最も弱き者を凌辱し、誰にも咎められないままに死んでいったあの男は、ではなぜ裁かれなかったのか。あのとき神が私の祈りを聞き届けてくれさえしたら、私は罪を重ねずに済み、あの男はしかるべき罰と汚辱を受けたはずなのに。なぜ今さら? なぜ今になって? なぜ私一人? こんな闇の中で!


 分厚い壁の向こうから、機械の唸る音がする。私の末路は此処にあり、あと数秒で、終わりが来る。



     1



 狭い街だ。

 昨日も、一昨日も、その前の日も、成長期が始まった頃からほぼ毎日思っていることを、日課のように彼は考え、今日も地下鉄に揺られている。彼の身長はおよそ2メートル。天井とドアの傾斜に頭と首とを押し込めてなお、背が曲がるほどの高さである。左手をポケットに入れスマートフォンに目を落とす彼は、見知らぬ持ち主の家族写真を退屈そうに眺めていたが、やがて興味を失ったのか画面を切った。初期化して売り飛ばせば、それなりの収入になる。

 十八世紀に栄華を極めたこの国の首都が彼の街だ。他の街のことはまるで知らない。だがこの国のどこへ出向いたところで、身を縮こめる羽目になるのは変わるまい、と彼は思っていた。そもそもいま周囲にいる人間の背がのきなみ低い。彼らに合わせて作られた場所が、自分にとって快適である道理はない——なぜ俺ばかりこんな背なのか、もしかして父母も大柄だったか——ふと思ったが、さして知りたくもないことをそれ以上考える気は起こらなかった。そのうち、車内にアナウンスが響く。

 目当ての駅に着いた。彼は高い背を一層かがめ、電車を降り、駅の構内へ出る。人混みでごった返したホームは窮屈なことに変わりないが、それでも首を伸ばすだけの猶予はある。これが階段を上って、改札のある階へ出ると、再び頭上の障害物に気を払うことになる。突き出す案内板はもちろん、場所によっては天井自体、彼の背より低い。

 携帯の画面に目を落としながら、俯きがちに大股で歩き、前を通った人の後について改札を抜けた。切符はない。道なりに進み、ゆるく螺旋を描く階段を駆け上がる。足は迷わず、左手の信号を渡って左折、橋を歩く。幾度となく訪れた場所だ。そして行くたびに、もう縁がないといいのだがと思う。その一方で予想もする。次の来訪は何曜日だろう。

 三ブロックほど歩いた先に目当ての施設はある。彼は携帯をしまい、相変わらず左手はポケットの中に収めたままで、ガラス戸を開けた。

「どうも」歩みを止めずに受付へ向かう。「ガキを引き取りに来た」

「エドワード」なじみの警官が、呆れと脅しと、諦念を同じくらいずつ含んだ表情で応対した。「もう何度目?」

「マヌケ本人に聞いてくれ。もう何回パクられてんだ? ってな」

「帰せないわよ。いい加減、補導で済ますのも無理がある」

「よく言うよ。セコいスリをいちいち捕まえてブチ込む刑務所が、この狭い国のどこに余ってる?」

「舐めるのも大概にしなさい」

「舐めてんじゃない。あんたたちにもどうしようもない現実を、正直に言ってやってるだけだ」

 彼女は今度は苛立ちと、先程から続く呆れ、諦念、そしてほんのちょっぴりの良心の呵責を顔に滲ませ、受話器を取った。内線で、少年課だか刑事課だかに連絡をしているのだろう。見るともなしに眺めつつ、彼は思う——あんたが心を痛めてもな。

 こんなものは一警官にどうこうできる話ではない。一官僚にも、一政治家にも恐らくは解決しようがない。公権力が張る目の粗い網は、本当に幸運な一部の子供しかすくい取れない。犯罪に手を染めない限り生き残れないガキというのは、どうやったって生まれるものだ。

 ほどなく背後で声がした。また名を呼ばれ、そちらに目を向ける。

「お前よくもまあヌケヌケと、署に顔なんて見せられるな」

 今日は刑事課か。鬱陶しい。

「来たくなかったが仕方ない。俺が迎えに来てやらないとそこのガキは一晩中泣いて、刑事さんがたの神経に障るだろうからね」

「減らず口が。いつまでもタダで済むと思うなよ」

「それはそれで結構じゃないのか。少年院なら物盗まんでもメシが食えるだろう」

 刑事は言葉に詰まり、その隙にウォルトが彼の手を離れた。エドワードのもとへ来て、右の手を取り、見上げてくる。ウォルトはまだ八歳そこそこだ。足が遅く、要領も悪い。

「邪魔したな。アンタらの手を煩わせんよう、せいぜい言い聞かせておくよ」

 取られた手を外して、そのままウォルトの頭を撫でる。そうして立ち去りかけた彼の背に刑事が声を投げた。

「エドワード。お前、今年いくつになった」

 彼は立ち止まり、ちょっとのあいだ天井を仰いで、やがて答えた。

「さあ。いつ生まれたかによる」

 続く言葉は何もなかった。ないだろうと、彼も思っていた。



「いい逃げ道教えたろ」

 再び右手をつないで、ふたり、元来た道を引き返していく。ウォルトは唇を尖らせて、ごにょごにょと答えた。

「いこうとしたけど、おいつかれたんだ」

「足遅いからな」

「しょうがねーだろ。エドみたく、はやくはしれねえ」

 口調の割に舌ったらずな発音を右耳で拾い、エドワードはため息を呑んだ。

「ならどうしてやる? 俺が盗る分じゃ足りねえか」

「たりなくねえけど……」

「じゃあなぜ」

「だって……」

 煮え切らない。不満げな顔つきで、つないだ手を前後に揺らしている。エドワードはそんな彼の様子をしばし黙って見つめたあと、ふと気がついたふうに手を放し、彼の体を歩道側へ寄せた。

「だって、」途切れた言葉を継ぎながら、ウォルトは、間近になったエドワードの左手を見ている。それは仕舞われたままだ。

「エド、けがしてる。さいきんずっと」

 彼は立ち止まり、片眉をあげた。そうしてポケットから手を抜き出す。手のひら全体を覆うように、包帯が巻かれていた。手首のあたりにぽつんと丸く血が滲んでいる。

「どうしてわかった」

「だって……へんだよ。ずっとポッケに入れてる」

「不自然か」

「うん」

「どうしたもんかな」

「なんでけがしてるの?」

「大したことじゃない」

「あぶねえことしたの?」

「前からしてる」

「もっとあぶねえこと」ウォルトは注意深く彼の手をとった。「なあ、……」

「お前、」彼は応えなかった。「俺が怪我してるから、自分で盗ろうと思ったのか。金」

 控えめな頷き。エドワードは鼻から息をつき、左手でウォルトの顎をくすぐる。

「かえって手間だ。やらんでいい」

「だって……」また同じ台詞でウォルトは口ごもった。「しんぱいだし」

「お前はまず自分の心配をしてろ。院にしろ、施設にしろ、ロクなところじゃねえんだぜ」

 むくれ気味の表情は変わらなかったが、不承不承、ウォルトは頷き、前を向いた。彼は左手を元の通りに収め、ウォルトはその手首を取ったまま、歩み始める。赤信号を渡る。

「エドは、」ふと、ウォルトが聞いた。「インも、シセツも、知ってるの?」

 通り過ぎた背後の河川から、風が吹きあがってきた。魚の腐れた匂いがする。汚ねえ川だなと、エドワードは思った。



 メイドが窓際に花瓶を置くと、カーティスは不意にペンを止めた。活けられた花を見つめる。白と紫の上品な花が、窓辺の木漏れ日を浴びている。

「ブローディアですか」

「はい。今朝花屋を覗いたら、出ていたので買ってきました」

「夏の匂いを感じますね。良い時節だ」

「はい、ロード。近ごろは空が明るくて、気分がいいです」

「その花瓶は、」カーティスは、薄水色が目に映える細身の花瓶へとペンを向けた。「どこで買ったのでしたか」

「いえ、三日前にか、宅配で届きましたものです。取引先の——」

「ああ、そうか。日本土産でしたね。あちらの陶器は色合いが美しい」

「お気に召したご様子ですと、お伝えいたしましょうか」

「大丈夫。あとで手紙を書きます。ご苦労様」

 再び手元の便箋に目を落とし、筆記を再開する。メイドは一礼して部屋を出ようとしたが、主人がふと何か思い出した気配で呼び止めたので、振り返った。

「今日ですが、このあと、留守にします。人に会うだけなのでディナーの頃には帰りますけれど、そのあいだ、外に出る予定は?」

「いえ何も。お留守をお預かりします」

「ありがとう。よろしくお願いします」

 メイドはもう一度礼をして、今度こそ部屋を後にした。カーティスもまた行末の署名を済ませ、そっとペンを置く。デスクの右手にある出窓から外を覗く彼の碧眼は、花瓶よりも、初夏の空よりも、ずっとずっと眩ゆい青色をしていた。瞳を囲う黒い睫毛が、重なりそうに近づく。

「エドワード、」陽光に輝く庭の景色を眺め、呟く。「エドワード……」

 そして笑った。あんまりな名前だ。少なくとも施設に育ち、養家での暮らしも一年ともたず、スラムに逃げ帰ってしまった孤児が名乗るには、貴族的すぎる。

 しかし、と、彼は続けて思う。その晴れやかな金髪も、海の色に似たターコイズの瞳も、確かにその名には相応しいのだ。かつて養家が勝手に押し付けた名を本人はどう思っているのか、同級生ではあれ、同窓生ですらなかった自分が直截に聞く機会はなかった。尋ねてみようか? せっかく会うのだから。もっといろいろなことを知りたい、……カーティスは今や彼に夢中だった。いや、元を正せば、十年前からずっとカーティスは彼に夢中だったのだ。そしてその十年前に唐突に途切れた縁が、不意に繋がれた今、どう自制しろと?

 彼は微かなため息をつく。そうして少し自嘲する。柄にもない、何を昂っているのか。

 やがて表情は張り付いたような微笑に戻る。絶えず微笑んでいるのは、整い過ぎた顔立ちがもたらす怜悧な印象を薄めるためだ。泣くのも笑うのも苦手な彼は、手を加えずに自然体でいると却って異様に思われてしまう。いくつかの不本意な記憶が彼の推測を裏付けていた。最たるものは二年前……まあ、今思い出すことじゃない。

 どう取り繕っても、作り物めいた不気味さが完全に失せることはなかった。だがちょっとした心がけで思いの外に誤魔化すことができる。日々を暮らす上では、それで十分。

 カーティスは椅子から立ち上がり、部屋の隅にあるコート掛けへ寄った。サマースーツのジャケットを羽織り、ボタンを留め、帽子に手を伸ばし、少し考えてやめにする。育ちのゆえか、どんなに暑くてもシャツ一枚で出歩くというのは気が進まない。他人の装いには何とも思わないが、自分が同じことをしようとすると躊躇が生まれる。実際シャツとは元々は下着として扱われたもので、幼い頃からカーティスは自然とそう躾けられてきた。彼の父もまた同様に、祖父から躾を受けていたはずで、そうして連綿と受け継がれてきた感覚が貴族かれらを市井から隔ててしまっているのだろう。とはいえ〝治安の悪い〟地域に、ソフトハットなど被っていくのは滑稽が過ぎる。

 携帯を起動し、ショートメッセージを打つ。使い捨ての安物である。約束の時間と場所を確認したのち、彼は手を止めて、もうひとつメッセージを打った。

《午後から雨だそうだ。傘を忘れずに》

 そう伝えておきながら、彼は傘を持たずに出かけた。この国の人間は、よほどの大雨でない限り滅多に傘など差さないものだ。



 エドワードは小さく舌打ちした。使い捨ての携帯を切り、パーカーのポケットへ突っ込む。地下鉄でたった数駅の距離の彼の街はまだ晴れているようだが、エドワードのいる街はついさっき本降りとなり、ウォルトを送り届けるまでに服はすっかり濡れそぼった。待ち合わせ場所へ向かう頃には雨は小降りになっていて、今はもう止んでいるかもしれない。地下鉄のホームで待っている彼には外の様子はまるでわからない。

 狭いデニムのポケットへ左手をねじ込む代わりに、今は着替えたパーカーの広いポケットに両の手を入れ、備え付けのベンチに座っている。いいカモがいればちょっくら仕事をしようか、などと考えていたが、ラッシュアワーでもないこの駅に用のある人間はおらず、ホームはほとんど無人だった。

 暇なので、エドワードはとりとめもなく思い返してみる。初めて再会した時もこの駅だった。「初めて再会」とは、妙な感じのする言葉だな。他に言いようもないのだが、——エドワードがカーティスと連絡を取ったのはほんの二ヶ月ほど前のことだ。ウォルトが言うところの「さいきんずっと」はその時から始まっていて、以来、確かにエドワードは、左手を隠し続けている。

 今日と同様に、その日もエドワードはこの駅で彼を待っていた。呼びつけておいてなんだが、来るわけがないと思っていた。幼い頃の口約束など忘れていたって不思議じゃない。むしろ覚えているほうが、どちらかというと不自然な気がする。実際自分は忘れていた。丁寧な字で電話番号の書かれた小さなメモ用紙が、リュックの底から舞い落ちるまでは。

 しかし果たして彼は来た。成長した彼はさすがにもう少女と見紛うこともなかったが、透けるような肌の白さも整いすぎた顔立ちも、正しく保たれたままだった。そして、あの、ひどく青い目。

「変わらないね」と、彼は言った。「遠くからでも、すぐ分かった」

「どうして来たんだ?」

「君が呼んだのに?」

「呼ばれたからってなんで来たんだ」

「言ってることがめちゃくちゃだ。僕に来てほしくなかったの? エディ」

 聞こえた愛称に眉をひそめる。彼からそんな呼び方をされたことは今までなかった。そもそも、名を呼ばれたこと自体、片手で足りる程度にしかない。

「そりゃ当然だ。会わずに金だけもらえるなら、勿論そうしたかったさ。カート」

 仕返しのように呼んだ愛称は、意図した効果を発揮しない。

「いいね、それ。これからそう呼んで。君はエディで、僕はカートだ」

 瞳を輝かせ、笑みを零す。エドワードはますます不審を覚えた。十年も会ってない、まして元から親しいわけでもなかったのに。ほんの一年、同じ学校に在籍していただけの相手をなぜ覚えていて、なぜ会いに来たのか、——思えばカーティスの俺への態度は常に不可解なものだった、——しかし彼は回想に浸る前に首を振り、用件を告げる。「幾らくれる?」

「タダで渡してもいいのだけれど」と、カーティスは言った。

「なんだ? 体でも売れってか。そういうことならお断りだ」

「ううん、違うよ。僕はあくまで、君に援助をしに来たんだから。でも……」

 彼は言葉を選ぶそぶりで視線を逸らし、またすぐに合わせる。

「僕はこの一回限りでなくて、継続して支援をするつもりだ。けど、君の性格からして、そんな話は信用しないでしょう」

「お前が俺の性格なんて、知ってるのか」

「そうだね。これは僕の予想。でも、そうじゃなかったら、『どうして来たんだ』なんて聞く?」

 彼の言うことは当たっていた。自分に都合が良すぎる話は、その時点で罠にしか見えない。対等な条件ですら疑わしく思うこともある。あまりにも薄いつながりで、他にさしたる理由もなく、金を工面してくれるだなんてにわかには信じ難い。稼いだ金をドブに捨てるのが趣味だと言うならまあわかるが、そんな人間はそもそも金持ちになれない。

「何をしろって?」だから尋ねた。確かにこの青年から、無償で施しを受けるのは、怖い。

「大したことじゃないよ」温かみのない微笑みで彼は答えた。「ちょっとだけ、……びっくりするかもしれないけど」

 内容を聞いてエドワードは、びっくりするというより、引いた。だが同時に少しほっとした。彼が自分に得のありすぎる話を持ちかけてくることに、多少納得がいったのだ。けれども一体どうしようか。彼の提案はなるほど少々気色の悪いものであったが、受け入れられないほどではない。とはいえ。

 これは、体を売るというのと、どう違うんだ?



     2



「この店に来てシュリンプバーガーを頼まないなんて正気じゃない。一体何を見て来たの? あなたがこの店を指定したから、私はてっきりあなたがちゃんと下調べをしたんだとばかり思っていたけど、見当違いみたいね。立地だけでここを選んだと言うならその豪運にむしろ感嘆、でもどのみちシュリンプバーガーを頼まないんじゃ意味ないわ。なにそれ、パンケーキ?」

「エリー、」ジョイスは、彼女が席につかぬうちから放ち始めた言葉をなんとか遮って答えた。

「まあ、ずいぶん前に言ったことだから忘れているのも仕方ないけど、俺は甲殻類アレルギーだ。エビのバーガーなんてもってのほかだよ。それで、俺のほうはずいぶん前に聞いたことをまだ覚えていてね、君の好物がエビだということは先刻承知だったものだから、きちんと下調べをしてこの店にしたんだ。どうかな。疑問は解けたかい?」

 なんだ、と彼女は言って、そのまま席につき、メニューを開いた。

「私ほとんど毎日ここに通ってんのよ。シュリンプバーガーを食べに」

「そうかい。俺がプリップリのエビを食べても蕁麻疹を出さない身体なら君の勧めに従うけどさ。残念ながらそうじゃないからな」

「ヨリ戻そうってんじゃないんでしょ? どういう用事でここへ来たの」

 相変わらずの物言いに呆れ半分、感心半分で、ジョイスは両のカトラリーを置いた。以前は苛立ちを覚えることの多かった特徴であるが、距離をおいて余裕を取り戻してみると、これは彼女の長所でもあるのだと素直に頷ける。いや、実際出会った頃は、彼女のこうした一面に魅力を感じてもいたのだから、長く共にいたことで目が濁ってしまったのだろう。どんなに良い香りの花も、四六時中香っていれば疎ましくなってくるものだ。しかし、と彼は思う——裏を返せば、俺はどんなに良い人物とも長くを共にできないってことか? それじゃあんまり寂しすぎる。

「ああ、君の言う通り。君は変わらず魅力的だが、一度見切りをつけられた相手に追いすがるのはどうもこう、くだらない見栄が邪魔してできない。第一、俺自身に再び関係を続ける自信がない。だから今日の用件は別の、そうだな、どちらかといえば、色気のない話だと思うよ」

「話が長いの変わんないね。用件だけでいいんだけど」

「それは価値観の相違だよ。俺は本題と関係のない無駄な話が好きなんだ。君は単刀直入で効率のいいコミュニケーションを好むけど、俺は会話そのものが一種の趣味で、そうだな、すれ違いや、意思の疎通の躓きも含めてこの関わりを楽しんでいる。つまり俺の話が長いのは完全に俺の都合なわけだな。用件を話すよ」

「そうして。それおいしそう、頼もうかな」

 エレノアはジョイスの前にあるパンケーキをしげしげと眺め、メニューをめくり、探し始めた。毎日通っている店ならばどうして彼女は今までこれを頼まずきたのだろうかとジョイスは思い、きっと彼女のことだから、普段はシュリンプバーガーを食べるということ以外は目に入らず、メニューを開いたことさえろくになかったのだろうと結論づけた。そして自分の解釈する彼女と、目の前でパンケーキを吟味している彼女そのものとに当然あるはずの差異について考え、いや、こんなことを考えているとそれこそ日が暮れると切り上げて、過不足なく、できるだけ手短に、順を追ってことの次第を話してみようと、口を開いた。

「まず俺が飛ばされたところは小さな漁港のある町でね。小さな、と言ってもそれは俯瞰してみればの話で、俺のいる町やその周辺に限っていえばそこそこの規模だ。少なくとも町の人間の大半は漁業関係者だと言えるくらいの、まあそういうところだ」

 彼女はメニューを開いたままで生返事をした。

「で、まあ、そんなこんなで平和だから、事件と言っても軽い物盗りとか、酔っ払いのいざこざとか、夫が女房を殴っただとかさ、いや最後のは大問題だが俺の担当案件じゃないし、大して追い詰められるような事件が起きるわけでもなく。張り合いがないような、それはそれで心休まるような、そんな日々を送っていたんだが。先日、ちょっと妙なことがあった」

「へえ。なに? 死体でも水揚げされたの」

「死体じゃあないが。それが指すものの、意味合いとしてはほぼ同じだな」

 すると、彼女はメニューからようやく目をあげ、ジョイスを見た。片手でメニューをぱたりと閉じて、少し身を乗り出す。

「なんか出てきたの?」

「そういうことだ。俺がよく話す気のいい漁師にマットという若い男がいて、そのマットが世話になっている船の持ち主がジョンソンだ。ジョンソンは年季の入った禿頭のベテランで、ちょっと昔気質だから話しづらいこともあるんだが、」

「私に必要な情報だけに絞って話をしてくれない」

「先日、彼らが水揚げした魚の体内から人の指が出た。恐らくは小指の第一関節だ。船上で食べようと魚を捌いた彼らが偶然発見して、署に報告にきた。気味が悪いからさっさと海に捨てちまおうかと思ったが、もし何かの事件の手がかりだったら困るから、念のために、とね」

「で、あんたがこの街にきたのはなぜ?」

「どういう経緯であれ人の小指が海を漂ってたのは尋常じゃない。望みは薄かったけれどもひとまず身元を特定できないだろうかと指紋の鑑定を依頼したら、なんとデータベースに記録があった。つまり前科者だったわけだな。二年前にギャングの抗争関連で捕まり服役していた。イーサン・コールウェル。聞いたことないか?」

「なるほどね。それで私に連絡?」

「君、確かずっと少年課だろう。いろいろ知ってるんじゃないかと思って」

「確かにイーサンはこの辺のギャング、《ブリックス》っていうんだけどまあそれは後で説明する、とにかくそこに属してた子よ。私が知ったときはまだ十代だったけど、結局服役して、去年出所かな。逮捕までの経緯が災いしてグループからは追い出されたらしい。でも見せしめの処刑にまでは至らなかったはずだけど」

「死体そのものを確認しているわけじゃないが、そうした事情を聞くと既に死亡している可能性が高いと言わざるを得ないな。とはいえギャングの仕業かは不明だ。今わかっているのは、かつてこの街を拠点に活動していた青年の小指が、約30キロメートル離れた港町の魚の体内から見つかったってことだけだ。人にとっての距離はそうでも、海を周る魚にしてみりゃ目と鼻の先ってとこだろう」

「つまりイーサンは、この辺に沈められてるって、そういうこと?」

「俺の見立てではね」

 そこで彼は残り三分の一ほどのパンケーキに目を落とし、店員に目配せを投げる。近づいてきた彼女にアイスコーヒーを一杯頼むと、エレノアもついでにパンケーキ(それはジョイスが食べているものとは違う種類だった)とアイスカフェオレを頼んだ。店員は無言のうちに一つ頷き、離れていく。

「ところで、」

 エレノアは店員が去っていくのを一瞬目で追ったあとすぐにジョイスに向き直り、前のめり気味の姿勢で尋ねた。

「どうして死んでると判断したの? いえ、例えば何か揉め事で、小指の先を切り落とされて、それが河に捨てられただけってこともあるじゃない。トラブルですらなく事故の可能性もある。むしろそうやって考えるほうがいくらか自然な話じゃないの? あなたは死体が水中にあると仮定している。いったいなぜ?」

 ジョイスはふむ、と息をついてから答えた。

「確かに、いきなり殺人と考えるよりは合理的かもね。だけど仰る通り俺には根拠がある。疑問への答えだけれど、魚の体内から見つかった指は普通の状態じゃなかったんだ。なんにせよ飲みこんだばかりだったんだろうとは思われる。ほとんど消化もされずに残っていたしね。さほどふやけることもなく、指紋を採取できる状態で残っていたのは、まさしくその偶然ゆえだろうし、被害者もなかなか運がいい」

「死んでる時点で不運でしょ。で? 普通の状態じゃないって?」

 そこにドリンクが運ばれてきた。ジョイスは店員に礼を言い、店員はそれを黙殺した。添えられたシロップ類には手をつけず一口飲んで、ジョイスは座席に背を預ける。

「骨がなかったんだ」

「骨?」

「抜かれてたんだよ。小指の骨が。魚の体内にあったのは、小指の肉と、皮、だけだ」



     3



「久しぶり、エディ」

 顔を上げると彼がいた。反射的に眉をひそめ、それから、諦めたように開く。

「よう、変態」

「ご挨拶だね」

 柔らかく笑みをこぼしながらカーティスは隣に座った。一瞬、体をそらそうか迷い、そうした反応をあからさまに取ること自体が不用意に思われてやめる。代わりに舌打ちをした。

「今日のご要望は」

「さあ? 何をしよう。特に決めてない。街でも歩こうか? 服を買うから、着てよ」

「そんな金があるなら直接もらいたいね」

「つれないなあ。なら服を買って、その代金も上乗せして君にあげる」顔を寄せる。「いくらでもあるもの」

 どこか少女めいた響きを持つ彼の声に、そっと目を移す。間近に迫る整った顔は、彼に対して理性が感じる警戒心を弱めてしまう。

「まあいい。あんたの道楽に付き合うってのが契約だしな」

「よそよそしい。カートって呼んでよ。それか、お前、とか」

「実際近しくない。恋人ごっこがお望みなら俺は降りるぞ」

「けち、……少しくらいサービスはないの?」

 ま、いいけど。拗ねた風な口ぶりでつぶやき前方に目をくれた彼は、すぐさまパッと顔を輝かせエドワードを見上げた。

「観劇はどう? マチネがあるよ」

「マチネ?」

「昼下がりに上演する劇だ。ちょうどいい頃だよ。そうしよう」

「いいけど、こんな格好で行ける場所なのか」

「だから相応しい服を見繕ってあげる。そしたら急がないと。立って」

 腕を引かれて立ち上がり際、正面の壁に貼られたポスターが目に入る。彼はこれを見たのか。タイトルからしてどこぞの女の話らしいが、演劇に疎いエドワードにはなんの作品か分からない。

「劇は分かんねえぞ」

「分からなくていいさ。僕だって、分かった気になっているだけ」

「寝ちまうかも」

「僕はいいけど、役者に失礼だからどうかな」

「役者か。そういえば一度だけ、劇を見たことがある。路上でやってた」

「へえ! なんて劇団ところ

「なんだっけ、」記憶を探ってみたが、一文字も思い出せなかった。「話は覚えてる」

「どんな話?」

「王族のところに男が一人捕まっていて……門番たちが娘の話をしてる。そのうちその娘が出て来て、捕まってる男にあれこれ言い募るが、相手にしてもらえない。最後には思い余って首を切っちまう」

 彼の住むスラム街の、それでも表通りの道端で、彼らは上演していたのだった。慈善事業のつもりなのか集金用の器などもなく、妙に出来のいい衣装を見るにおそらくプロの集団だった。古臭い魔術師のような、重いローブを纏った役者たち。

 ちょうどその時、エディは人待ちをしていて、時間を持て余していた。白茶けて輝く昼過ぎの陽の下、ほとんど車の通らない車道にはみ出し声を張り上げる彼らを、反対側の歩道から、ぼんやり眺めていた。

「今から見に行くの、同じ話だ。縁があるのかもね」

「よくわからん言い回しばかりで覚えてないが、嫌いじゃなかったな」

「そう? でも、そうだね。ちょっと独特かも」

「さあな。……あんたが使う言葉だって、俺にはいまいちピンとこない」

 上りと下りの線路に挟まれた浮島のようなホームの上で、カーティスはいま乗ってきたのと反対の側に歩み寄り、電光掲示板を見る。掲示板には一〇分ほど前の到着予定が示され、つまり、もう来る頃だった。

「ああ、そうだ、劇場の近くに、美術館がある」カーティスは手を引いたまま、半歩後ろに立つエドワードを見る。

「中国王朝の、……なんて言ったかな。企画展をしているはずだ。帰りに寄ろう」

「中国? 何を見るんだ」

「陶磁器がたくさん来ているんだよ。僕は焼き物が好きで。中でも花瓶が」

「花瓶?」

「そう。花瓶なら、ガラス製のも好きだけれどね。いや、やっぱり焼き物がいいな。磁器の質感はとても美しい」

 返答に困っていると、列車の轟音が響いてきた。美術館の中ではずっとこんなふうに気まずいままか——エドワードはいささか憂鬱になったが、それで得られる金銭を思えば、安いものだと、すぐに考え直した。



 ジョイスと別れたのち、エレノアは署に戻ってイーサンのデータにアクセスした。昨今の捜査資料はほとんどが電子化されていて、PDFをダウンロードすれば難なく資料のやりとりができる。とはいえ、彼は一応署外の人間で、これはまだ正式に始まってはいない捜査だった。明言されたわけではないが見当はつく。彼は中央に戻りたがっている。〝デカいヤマ〟の気配を感じ、邪魔が入る前に手早く動いたのに違いない。

 エレノアはジョイスが〝流刑〟に遭った経緯いきさつをよく知らないが、どうやら上司との折り合いが悪かったらしい。それを思えば、そもそも小指の発見のことすら上に告げているのかどうか。二人一組が基本のはずの初動捜査で、パートナーも連れず一人で遠征に来ているのもおかしい。有給休暇を費やして捜査の時間を設けたのかもしれない。

 イーサンの最近の動向は確かに不明で、ギャングの少年たちの口から名前が出るということもなかった。グループにいられなくなったのだから当然とも思えるが、彼らはそう簡単に住む世界を変えられない。それは意思や覚悟だけの問題ではない。生まれや育ちがどうしようもない壁としてそそり立っていて、誰しも一生その壁を越えられないのがこの国だ。時たま壁にかけられる「梯子のように見えるもの」は、大抵、登りかけた途中で外され、より深くまで叩き落とす。

 エレノアは頬杖をつき、イーサンのマグショットを見つめた。ブロンドの髪に緑の瞳。人を小馬鹿にしたような、それでいて奥底に怯懦きょうだの覗く薄ら笑いで、首を傾げ気味に写っている。かなり俗悪ではあるがそこそこの二枚目で、スラム街の少女たちには人気があった。そういえば、とエレノアは、今朝会った少年を思い出す。本当は彼はもう少年という歳でもないが、出会った頃の記憶がつい、認識を阻害する。

 イーサンの緑の瞳を見るたび、エレノアはグリーンのグミベアを思い出していたが、今朝の彼——エドワードの眼にはよくモルディヴの海を思った。もちろん行ったことなどはなく、ウェブや雑誌の広告で見かけた写真を思うだけだが、エドワードはそれこそ雑誌で見るような〝特別スペシャル〟な美形だ。複雑な立場で接しつつ、心が弾むのは避けられない。だが、彼の落ち着いた瞳は、そうしたこちらの浮つきを見透かしてもいるようで、言葉を交わしてしばらくすると、じわじわと羞恥が湧いてくる。

 二人とも、ブロンドの髪に緑の瞳。二枚目で、体が大きい。だがエドワードとイーサンは、周囲と築く関係性がまるで違った。イーサンは、さして深い繋がりのない少女たちには好かれる一方、仲間内から信頼を得ることはついぞなかった。へらへらと調子ばかりよく、旗色が悪くなれば逃げ出す——彼への評価はおおよそそんなところで、実際彼はエレノアたちに仲間を売ったことが何度かある。確たる証拠はなくとも、売られた側はそれを察していた。対して、エドワードという少年は……

 エレノアは今日受付で見た光景を思い出す。週に一度か二度、エドワードはスリや食い逃げで捕まった子を引き取りに来る。今朝、刑事課のアレックスに連れられてきた少年・ウォルトは、手を放すと同時、一目散にエドワードへと駆け寄っていった。エドワードはそんなウォルトを受け止め、ごく自然な動作で頭を撫でた。

 彼はスラム街の子供たちとの間に一種の〝ファミリー〟を築いている。刑事課の男に答えた通り「いつ生まれたかを知らない」彼は、当然親の顔も覚えていない。だが〝ファミリー〟の子供たちにはずいぶん親身に接していて、まるで親代わりのような立ち位置だ。なんの利益もないであろうその行為に、エレノアはごくたまに、慈愛すら感じることがある。

 どうして彼は子供たちを守っているのだろう。自分が生きていくだけで、精一杯のはずなのに。

 エレノアは画面に映るイーサンにまた目をやった。取調室や街角で話したときの彼の様子がとりとめもなく浮かんでくる。聞き込みの際、エレノアはいつもチョコバーをイーサンに渡した。あげると彼は喜んで、すぐ封を切って食べていた。ありがとう、と弾んで返す彼の声がふと耳を突き、エレノアは咄嗟に、強く目をつぶった。



「お客さん。これじゃ足んないけど」

 店員に言われてジョイスはトレーの上のコインを見た。硬貨の種類を一枚間違えている。詫びを言ってコインケースを探り、正しい硬貨と取り替える。店員が改めてコインを数えるのを待っていると、ポケットの中で端末が震えた。

 取り出して、画面を見る。昼間に会った元カノE x - f r i e n dからメールが届いているのだった。添付ファイルを示す表示があり、頼んでおいた資料であるとみえる。会計が終わり、台に置いていたクリスプを摑んで店を出た。いったん端末をしまい、封を開ける。ビネガーの匂いが鼻をつく。ジョイスは昔からこの味しか食べない。

 駅構内にベンチを見つけ腰を下ろす。メールには案の定、イーサン・コールウェルについての捜査資料が添付されていた。だがデータベースから直接ダウンロードしたファイルではなく、なぜかそれを開いた画面を撮影した画像ファイルだ。確かに彼女は〝前時代的〟なところがあるが、それにしたって——とジョイスは思ったが深く考えず、ところどころモアレの生じたその画像をじっくりと眺める。

 エレノアの読みは大方当たっていたが、少々想像が行きすぎている。ジョイスが〝デカいヤマ〟の気配を感じ、有給を費やして「個人的に」捜査を行なっているという点は間違いない。だが理由は出世のためではなかった。あわよくば、という思いもなくはないが、そもそも今回の件を事件として扱わせてもらえなかったのだ。ジョイスには久々に「当たり」を引いたという確信があった。調べがいがあるはずだ。少なくとも市場の魚泥棒が誰かを捜査するよりは。

 資料を眺めつつ、ジョイスは考えをまとめる。イーサンと少なからず交流があったらしいエレノアには気の毒だが、恐らく彼はもう死んでいる。死体さえ出てくれば立件は容易いがそう簡単には見つからないだろう。ギャングの処刑なら、必ず〝分かるように〟晒される。それを思えばイーサンの死にギャングたちは関わっていない。そもそも、彼は去年の四月の時点でグループを追い出されている。殺すならそのときだ。今更手を出す理由もない。

 骨が抜かれた、小指の先端だけが、海を漂って魚に呑まれはるばるジョイスの赴任先まで届いた。単に海に沈めたのではない。骨がついた状態の指を魚がつついたのであれば、もっと細かく裁断されて皮膚片になっていたはずだ。何かの拍子に、小指の先の皮がちぎれてそのまま海を漂ったから、指の形が保たれたまま魚に呑まれることになった。つまり、どこまでかは不明だが、骨は「事前に抜いてあった」のだ。そんな加工を施すというのは明らかにおかしい。誰が何のために? 

 ジョイスは膝の上に置いていたクリスプを一枚つまんだ。指についたかけらを舐めとり、スプリングコートのポケットを探って中のハンカチにこすりつける。右手に持ったままの端末にはイーサンの顔が表示されている。下品な印象は否めないが、なかなかの二枚目だ。金髪碧眼で背が高い。だが恵まれた体格の割に、どこか卑怯な表情をしている。こうした階級の男性、特に白色人種プア・ホワイトは、特権意識と同居する裏腹なコンプレックスによって極端な虚勢を張るのが常だが、彼の場合はどこか様子が違う。気弱な性格だったのかもしれない。

 あとでエリーに彼の印象を尋ねてみよう、と思いながら、ジョイスはそっと腰をあげた。まずは足取りを追うしかない。死体もないのに死亡推定時刻が割り出せるはずもないが、最後に目撃された地点まで辿り着ければ少しは推理できる。彼女からのメールには、去年の出所以来、イーサンの名がスラム街の者から挙がることはほとんどなかったとあった。だがそれは単に存在を無視されていただけのことで、目にした者がいないはずはない。

 彼は変わらずこの街にいた。ここを出ることはできなかったのだから。



     4



 帰りがずいぶん遅い。夕飯までには戻ると言っていたが、いったいどんな用事だろう——マリアは食器を磨く手を止めてしばしの物思いに耽る。若い主人は物腰柔らかで、気品があって礼儀正しいが、やはりどうにも若過ぎて、マリアはついつい息子に対しているかのような気持ちになってしまう。こんなことを思うのはおこがましいと分かってはいるが、自身の息子も若い主人に負けず劣らずよくできた子だ。小さな頃から聡い子だった。夫が心筋梗塞で倒れ帰らぬ人となった時、マリアはどんな無理をしてでも息子を大学へいかせると決めた。その頃からすでに家政婦の仕事はしていたが、並の金持ちに仕えていても学費は到底稼げない。伝手を辿って、懸命に勤め先を探し、なんとかある公爵家に迎えてもらうことができた。気づけば息子は無事に大学を卒業し、就職している。荒波のような二十年。あっという間に過ぎていった。

 新たな主人に仕え始めたのはつい最近だ。元の雇い主からの勧め、というより頼みを引き受けたような形だった。元の雇い主は今の主人の御父上と深い親交があり、この間大学を出たばかりといった年齢でもう家を継ぐことになったその息子を心配していた。自分の息子も同世代だから、気持ちは痛いほど分かる。それに自分を評価して、頼りにしてくれたことも嬉しかった。なので長年勤め上げた家を出て彼の元へやってきた。自分がこの家を守るのだと気負い過ぎなくらいに張り切っていたのに、蓋を開ければ案ずる隙もないほどしっかりした人で拍子抜けした。だが息子ほどの歳の主人のため働くのはなかなか張り合いがある。郊外の大邸宅と比べればこぢんまりとした、都市部の暮らしも悪くはなかった。なにせ、掃除が楽だ。

 マリアはダイニングの窓辺へと目を向ける。かつていた邸は、家のどの窓からも邸を囲む森が望めた。今の住まいからは、せいぜい家々の合間にある小さな公園が目に入る程度。とはいえ今の主人のこの家はほとんどオフィスのようなもので、実家のほうは前の勤め先と似たり寄ったりのおやしきだろう。主人はたまに帰っているが、マリアはまだ行ったことがない。そちらはそちらで、家の古くからの使用人たちが管理しているそうだ。

 貴族というものは、その家に生まれついただけで、あとは何もしなくても一生安泰に過ごしていられる身分の者たちだと思っていた。実際、少し前まではそれは事実であったようだが、この国が世界に名だたる大帝国ではなくなってからもうずいぶんと経つ。最近の貴族たちは資産を保つためにあれこれ奔走しなくてはならないらしい。今の主人は、維持するだけでなく積極的に増やしていこうともしているようだ。もちろん優秀な人材を雇い任せているだけではあるが、だとしても彼本人にもそれなりに仕事があるようで、全くの有閑貴族たちとはだいぶ様子が異なっている。目減りしていく黄金に足元をぐらつかせながら、その不安を直視できずに、逃げたり、半端な足掻きをしたりと、決断できない者が多い中、彼は必要なことにすぐさま手をつけた。賢い人だ。

 マリアはまた自分自身の息子のことを考え始めた。住み込みで働く仕事柄、ほとんど構ってやれなかった。そもそも息子は全寮制のスクールに通っていたのだから、仮にマリアが毎晩家へ帰れる稼業だとしても、顔を見ることはできなかったのだが。年に二度、夏と冬の休暇を小さな家で共に過ごすだけ。電話はしばしばしていたが親子の時間はほぼなかった。それでも、息子は自分を慕い、大切にしてくれる。折に触れマリアは、彼が自分の息子なことが信じがたい奇跡に思える。

 そういえば、今の主人と会ったのは、彼の両親の葬儀の折だった。

 二年前。前の主人に連れられ、挨拶も兼ねて参列した。人々は口々に彼の両親の話をしたが、いかに葬儀の場といえど、二人を讃える参列者の口ぶりに嘘はないようだった。こうした地位も財産もある人の葬儀には珍しいことだ。場は哀悼に包まれ、しかし、そこに流れる穏やかな空気にかの人柄が漂うようだった。

 だが、口さがない言葉を耳にしなかったわけではない。それはもっぱら若い新たな当主へと向けられていた。彼らは歳若くしてシザーフィールド家を継いだ当主を、「不気味だ」とか「人形めいている」と言い、中には両親を葬ったのは彼なのではないかとまで低声こごえに呟く者もいた。彼の両親は自動車事故で亡くなったのだが、トラックとの正面衝突をどのように仕組んだというのか、是非にもお尋ねしたいものだ。

 喪服姿の彼を遠目に窺ったときはハッとした。人形めいた、という形容は、確かに彼の容姿にはぴったり当てはまるものだった。アイリッシュらしい黒髪と、併せ持つのは稀な碧眼。それも並大抵の青さではない。ガラスでもはめ込んだかのような素晴らしい色だ。しかし、だからこそ、少々薄気味悪いというのも頷けてしまう。

 距離をとって眺めていると、彼の表情の移り変わりに気づく。人といるときは場に相応しいどこか寂しげな微笑を浮かべ、物柔らかに相槌を打っているが、周りに人がいなくなると、まるで感情を伴わない全くの無表情となる。葬儀の場で、親を失ったばかりの子に、しかもまだ二十歳そこそこの青年になんてことを言うのかと密かに憤慨していたマリアは、本人を目の当たりにして得体の知れない不安を覚えた。

 けれどもそれも、直に話してみると、だんだん霧散していった。彼の声は澄んで柔らかく、マリアは春霞を思った。やはり悪い人には見えない。そこでマリアはあれこれ疑うよりはと、先ほど感じた違和感を素直に問うてみた。とはいえ直接に切り込んだのではない。

「それにしても——お父上とお母様は、たくさんの人に慕われてらしたのですね。この場にいるだけでもわかります。こうも多くの方に次々、失礼のないようお話しするのは、いささか、骨が折れるのじゃありませんか。いえ、私の両親のときは、ずっと少ない集まりでしたけど、少し気疲れしましたもので……」

「ああ、……ええ、正直を言えば。僕は生まれつき、なんというか、感情を表に出すのが不得手で、……心のありように、顔や身振りが伴わないのです。だから、仰るとおり、失礼のないよう振る舞うだけで、少し疲れてしまいますね。誰も仏頂面の人と話したりはしたくないでしょう。であれば目鼻のついて見える街路樹とでも歓談したほうが、まだしも心が和むというものです」

 冗談めかした返答だったが、本音であるとマリアは思った。考えてみれば、深い悲しみに囚われているとき、果たして表情など作る余裕があるものだろうか。私だって息子を亡くしたら、むかし映画で観た能面のように、心の抜け落ちた、まっさらな顔になってしまうだろう。思いを隠すことが難しいように、思いを表に出すこともまた、気力の必要なことなのだ。

 あのとき、彼が悲しげにこぼした言葉を憶えている。それを聞いたときにマリアは、胸がきゅうっと絞られたものだ。もし自分の息子が彼と同じような境遇であったら、と思うと、とても堪らなくなった。可哀想に。まだ幼いのに。陰口は当然彼の耳にも届いていたのだろう。その声音には、ほんのり悔しさも滲んで聞こえた。

「僕は、本当に両親のことが好きだったんです。本当に、……僕は、……彼らのことだけは」

 耳に何かが引っかかった。だが同情に胸を痛めたマリアは、すぐにそれを受け流して忘れた。



     5



 男は震えながら扉を閉めた。鍵を壁に掛けようとするが、ぶるぶると震える指が言うことを聞かず、それは叶わない。四、五回の失敗を経て、男は鍵を靴箱に置いた。しばらく、その場で立ち止まったあと、やがておぼつかない足取りで風呂場へ向かう。制服を脱ぎ、眼鏡を外し、給湯のスイッチも入れずにシャワーを浴びる。呆けたように冷水を浴びて、そのうち石鹸を引っ掴み、身体中を擦り始める。半狂乱になって、何かを削ぎ落とそうとするように懸命に肌に手を滑らす。いつまでも。いつまでも。

 混乱が頭を支配している。起こったことが信じられなかった。それでもその目に見たものが彼の網膜に焼きついて、何度も何度も閃いた。彼はなぜ神の御前で、あのような蛮行に及べたのか。なぜ神は、目前に見ているはずでありながらあの少年を救わなかったのか。そして、そう、私のことも——告発すれば神はきっと報いを与えてくださると、信じるべきなのに、それができない。あの男は、一定の地位と評価を得て神学校の教師に収まり、私は一生徒として、素直に彼を慕っていた。他の教師よりは歳が近く、親しげに話せる、気さくな先生——信じていたのに。あの男をじゃない。私は、神をただ信じてきたのに。

 身体を何度も洗いながら、男は考え続けていた。声を上げることだけはする。だがこの叫びが届かないのなら、私の一生は神ではなく、神への深い絶望と共に、歩むものに成り果てるだろうと。

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