Act 3



     11



 ピエールが死んだ。飼っていたうさぎ。白と灰色のロップイヤーで、餌を忙しなく食べるところがかわいかった。そんなにあせらなくたって誰も取らないよ、とぼくはよく笑った。生のキャベツをそんな喜んで食べるのなんて、君くらいだからと。

 ピエールはまだ三歳だった。老衰じゃない。姉が殺した。ぼくの目の前で、ピエールを抱き上げ、高い机の上に乗って、腕を伸ばして掲げあげた。ぼくは泣いて謝った。なんでもするから、言う通りにするから、ひどいことをしないで。おねがい。姉はいつものように笑っていて、ぼくがすがるのをただ見ていた。

 ぼくが姉の思う通りにならないと、姉は必ず怒った。そうしてぼくの大事なものを壊した。クリスマスにもらった絵本、パパがお土産にくれたペン、ママが編んでくれた手袋、海で拾ったきれいな貝。そのうち、ママの大事なものも壊すようになった。初めてパパがくれたというピアス、いつも気にいって使っている手帳、おばあちゃんからもらったものだといつだかぼくに見せてくれた指輪。ママが大事にしてるものだとぼくがちゃんと分かっているもの。毎回、泣いて謝って、どうかやめてとおねがいするけど、やめてくれたことは一度もない。自分のものが壊されるのも悲しかったけど、ママがどんなにか悲しむだろうと思ったら胸がずきずきして、目の縁がギュウッと痛くなった。姉さんの言う通りにしなければ、いつもそうなった。

 だからどんなにいやなことでも、逆らわないようにしてたのに。その日姉にされたことにはどうしても耐えられなかった。まだぼくは八歳だったから、それがどんなことなのか、ちゃんとわかっていたわけじゃない。でも「そういう話」になると、ママが嫌そうな顔をするし、その場にぼくがいると、ほかの大人も気まずそうにする。だから、きっと、良くないことなのだと思っていた。それに家族でやっちゃいけないって神父さまも言っていた気がする。なによりとってもくすぐったくて、苦しくて、なんだか怖かった。それで「いやだ」と言ってしまった。姉は、笑顔のまま、すごく怒った。

 姉の手の中で、ピエールはきょとんとして、大人しくしていた。なにも怖がっていないようだった。くりくりした目を不思議そうにして、なんでぼくが泣いているのか首を傾げているふうに見えた。姉は微笑んだまま、不意にピエールを振って、そのまま、床へと叩きつけた。

 柔らかいものが潰れる音。今も耳の奥に残っている。とろけたみたいに床に広がって、ピエールはまだぴくぴくしていた。でももう助からないことは分かった。耳鳴りみたいな音が鳴っていて、頭のなかは空っぽだった。勝手に吸い寄せられるみたいにふらふらピエールへ近づくと、テーブルを降りた姉の裸足がピエールの顔のあたりを踏んだ。一緒に、ぼくの中のなにかもぐちゃっと潰れたような気がした。ただ涙だけぽろぽろこぼれたぼくは、そっとピエールを撫でた。

 いやだ、って言わなければよかった。そしたらピエールは死ななかったのに。

 ぼくはほとほと疲れてしまった。いやだ、と言うことにも、いやだ、と思うことにも。悲しくなったり、悔しくなったり、どうして? って泣きたくなることにも。耳鳴りみたいな音がして、空っぽになるだけ。でもそのあいだは、痛いことも苦しいこともなにもないからほっとする。ぼくは無口になった。笑ったり喜んだりするのも、すごく疲れることだと思った。

 急に無口になったから、パパやママはとても心配した。なんにも楽しそうじゃないのにいつも笑ってる大人のひとが来て、ぼくといろいろ話をしたりした。と言っても、ぼくは聞かれたことにたまに答えるだけで、あとはずっと黙っていて、だから大人のひとも困ってた。大人のひとが、きっと、何かショックなことがあったんでしょう、とぼくの肩に手をやりながら言い、パパとママはそれで、ピエールが死んだことが原因なんだと思ったようだった。パパとママは、姉が殺したなんてことは知らない。不幸な事故だと思っている。

 ある日パパが、ぼくを呼び寄せて膝の上にのせた。そうしてぼくの手に小さな箱をおいた。赤いリボンがかけられているから、プレゼントなんだなと思った。開けてごらんと言われて、解いてみると、中に焼き物が入っていた。なんだろう? 白と灰色の……

「ピエールだよ」と、パパは言った。

「ピエールが死んだ時、焼いて、骨にしただろう。その骨を砕いて混ぜてあるんだ。だから、きっと、その置き物は、ピエールが宿っているよ。これからもずっと一緒にいられる」

 ぼくは箱からそれを取り出した。ロップイヤーのうさぎの形。白と灰色の模様もそっくり。手のひらにのせて、目を合わせた。つやつやした黒い瞳。かわいかったぼくの友だち。

 気づいたら泣いていた。焼き物のピエールをぎゅっと引き寄せ、しゃくりあげるぼくをパパが被さるように抱きしめた。焼き物になったピエールのつるつるした背を撫でながら、ぼくはふと、不思議に思う。

 なぜ大好きなピエールが死んで、姉がまだ生きているのだろう?



「待ってくれ!」

 困惑して立ち去ろうとすると、ジョイスと名乗ったその刑事は必死の態で呼び止めた。険しい表情で振り向けば、ジョイスは片手をエドワードへ向け、宥めるように動かしている。

「思いつきだけで言ってるんじゃない。そう考えると辻褄が合うんだ、犠牲になった二人の選び方も」

「どういうことだ。そもそも、死体が出てきてもないんだろう」

「それはそうだが、——」そこで口ごもり、気を取り直すように咳払いをする。「じゃあ、逆に聞くが。君は二人がまだ無事でいると思うか」

 答えなかったが当然「否」だ。そこまでおめでたい人間じゃない。そもそも彼らにこの街を出る自由も理由もなかったはずだ。ジョイスはエドワードの顔を窺っていたが、返答がないのを肯定と見たのか、そのまま口を開く。

「君たちに共通するのは、金髪碧眼で、綺麗な顔ってことだ。——そんな目で見るなよ、自覚はあるだろ? おそらく最初に狙われたのはロナルド。でも彼は君を指標にすれば、ずいぶん華奢で頼りない。それはつまり狩りやすかったってことでもあったろうが、ロナルドでは満足できなかった犯人は、もっと体躯が君に近い人物を狙ったんだ。それでイーサンになった。そう考えれば、順番もチョイスも納得がいく。はじめに弱い個体、慣れたのでもう少し大物、とステップアップするのは自然な流れだしな」

「馬鹿げてる。だからってなんで俺なんだ。だいいちロナルドはオカマだぜ、イーサンだって男娼街にいたんだろ。売りモンと勘違いされて狙われただけじゃねえのかよ」

「そういう見方もあるかもな。でもだったらどうして金髪碧眼の彼ら二人がいなくなった? もちろん他にも姿が見えないと言われている者はいる、でも彼らの場合は別の街にふらっと出向くことも多いと聞く。いまの時点で失踪だと確実に言えるのはあの二人だけだ。理由があるはずだ。何か目的が」

「目的って、なんだ」

「それは分からない。でも仮に、……仮に、シリアル・キラーなら、奴らは犠牲者をコレクションする」

 思わずぞっとした。思い当たる節ならある。やっぱり、という一言すら浮かぶ。だがどうしても、エドワードには彼に自分を殺す気があるとは思えなかった。正直、彼が過去に人を殺していたとしても驚かない。だがイーサンやロナルドを殺す理由があっただろうか? それで彼がなにを得るというのか。例えば俺の代わりだったとして、殺してしまうんじゃ意味がないはずだ。彼は俺で——「遊びたい」のだから。

「なあ、心当たりがあるなら……教えてくれないか。調べてなにもなけりゃそれでいい」

「心当たりなんてない。ふざけたことをぬかすんじゃねえ」

「君の身が危ないのかもしれないんだぞ。真面目に考えてくれ」

 エドワードはジョイスの言葉を聞いて、その顔をじっと見つめた。そして、大きく舌打ちをする。

「あんたのことは信用しない。他を当たるんだな」

 振り返らずに店を出る。ドアをくぐる背に、焦った様子の彼の声がぶつかる。

「名前を教えてくれ! 少しでも何かあるんなら、」

 返事をせずに去って行く。雨は、小止みになっていた。



 ビリーと別れてしばらくすると、だんだん空が曇ってきた。まったく一日中晴れの日が一年に何度あることか。小さく嘆くエレノアのショルダーバッグが不意に振動し、彼女は立ち止まって携帯を出した。ジョイスから着信だ。メールでもメッセージでもなく。

「どうしたの?」慌てて出ると、電話口の彼はもっと慌てている。

『エリー! 君は、スラム街にいる青年たちの名前は大体知っているの?』

「ええと、たぶん。長くいる子なら」

『金髪碧眼で、恐ろしく背の高い、美形の青年を知らないか。この街にずっといたなら、目に留まらないはずがないような——』

 浮かぶ人物は一人しかいない。怖くなって尋ねる。

「それはエドワード? 金髪碧眼で、体が大きくて、王子様みたいな顔の。背は2メートル近い……」

『きっとその子だ。そんなような子が他にいないなら間違いない』

 悲鳴が出そうだ。「どうして? 彼に何か?」

『いや、今のところは。でも俺の推理が正しければ、次に狙われるのはおそらく彼だ。ロナルドとイーサンを立て続けに狙った奴が、あんな子をほっとくわけがない』

 言われてみれば。もしジョイスが言うように、犯人が金髪碧眼に、「金髪碧眼という容姿」にこだわりを持っているのなら、エドワードに目をつけないはずはない。彼の見た目はある種の典型で、最も「イメージ通り」だろう。

『さっき橋の近くで会ってね。俺の考えを伝えてみたけど、信用してもらえなかった。名前を聞くこともできなくて……君は彼と面識は?』

「ある、一応。でも別に私のことだって信用してはいないと思う、見ず知らずのあなたよりいくらかマシかもしれないけれど。その程度」

『それでもいいよ。話を聞いてみてくれないか。心当たりがあるかと聞いたとき、何か思い出しているふうではあったんだ、否定されたけど。俺が聞いても答えてくれない。君に対してのほうが心を開くのは早いんじゃないか』そこで、彼は少し間を置いた。『時間に猶予があれば、じっくり関わっていくこともできたが、悠長なことはしていられない。そうこうしてるうちに事が起こったら取り返しがつかない。頼む』

「分かった。これから探しに行く」

 電話を切って思案した。ジョイスの様子から、エドワードに遭遇してすぐかけてきたのだと想像がつく。ジョイスは「橋の近くで会った」と言っていたから、エドワードはどこかへ出るか、どこかから帰ってきたところ……街の外へ出て行ったのなら探しようがない。帰ってきたところなら、まずはあの〝家〟に戻るだろうか?

 エレノアは小走りに、彼らの住む〝家〟へ向かった。幸いそこまで遠い距離じゃない。もしかするとエドワードより早く着いてしまうかもしれない。いや、それはないか? 彼のストライドを思うと、うまく計算ができなくなる。彼の歩幅は自分の倍はある。

 軽く息が上がる程度の速さで歩き、たどり着いた。相変わらず木材はひび割れ、雨滴の跡が染みついたなんとも凄まじいボロ家だが、それでも人が住んでいると不思議に生気が宿るようで、周囲の完全な空き家に比べどこか暖かな空気があった。ただ、今はしんとして、子供たちはいないらしい。無人だろうかと窓を覗きに動こうとしたその瞬間、ドアがガチャリと音を立て、エレノアは慌てて姿勢を正した。

「今度はあんたか」呆れたように言う。「何の用だ。土曜日だぜ」

「ハイ、エドワード。……いま一人?」

「まあな」そこで彼はエレノアの服装に気づいたようだ。ちらりと下半身に目をやって、すぐ戻す。「ずいぶん涼しそうだ」

 エレノアはじんわり頰が熱くなるのを感じつつ、努めて気にせずに返した。「ちょっとね。時間ある?」

「もしかして、あのおかしな刑事になんか言われたのか?」

「ジョイスのことね。まあ、隠しても仕方がないか。ほんとうは何か知ってるんじゃないかと」

「それであんたが担ぎ出されたのか。あいにくだが話すことなんてない」

「心配なの」エレノアはエドワードの碧い瞳をまっすぐ見上げる。「危ない目に遭ってほしくない。人が死んだかもしれないのよ」

 エドワードは数秒、エレノアを見つめ返す。やがてため息をついた。

「心配ご無用だ。仮にあんたらの懸念が正しいとして、俺がやられるタマに見えるかよ」

「確かにあなたは賢いし、ま、たいそう丈夫でしょうけど。どんな相手か分からないのよ」

「俺にサシで勝てるヤツなんてそうそういないぜ」少しだけ誇らしげな響きを聞き取って、エレノアは微笑ましくなる。「何笑ってんだ」

「いえ、違うの、ごめんなさい。ええと……上がっても平気?」

「構わんが、あんたが落ち着けるとは思えないね」

「余計なお世話。コーヒーでも淹れてあげましょうか」

「んな気の利いたもんはない。まあ、いい。好きにしろ」

 言うと、エドワードはドアを開き切った。ストッパーを嵌めるまでもなく開けっ放しになったドアに目をやる。塗装のほとんどが剥がれ落ちたドアは、元々は白く塗られていたらしい。今となっては見る影もない。

 中へ入り、ドアを閉めた。意外なことに廊下がある。リビングへ繋がるドアもまた開け放たれたままでいて、灯りの消えた室内に戸外から陽が差している。フローリングに映る白い光。

「お邪魔します」

「どーぞ」エレノアのほうを見ないまま、彼はテーブルの椅子を引く。

 危うくときめきそうになり、自分自身に嘆息した。そして同時に彼が自分にそうすることの意味を考える。もちろん彼がマナーやエチケット、あるいは紳士的な思いやりから椅子を引いたはずはなく、理由として思い浮かぶのは女性が喜ぶと知っているからか、あるいは〝女性扱い〟をしてバカにしているかだ。とはいえ、彼はあまり陰湿なやり方をするタイプじゃない。

「おおよそ一週間ぶりね」当たり障りのない話題から入った。「最近どうしてる?」

「あんたに関係ない。話したところで、厄介なことにしかならない」

 エドワードはキッチンを離れ、ミックスナッツを盛った器をテーブルに置いた。ごとりと音がする。黄色や青、それから緑でシンプルな模様の描かれた陶器の小皿だ。こういった工芸品には何か名前があった気がするが思い出せない。古道具屋ででも買ったのだろうか? あるいは盗ったか。まあ、知らぬが仏。

「ウォルトはどうしてる?」

「元気でやってるよ」向かいに腰を落ち着けて、彼はナッツを頬張っている。「今どこかは知らんが」

 思えば、何の嫌疑もなく、彼とただ単に向かい合って話すだなんて今までになかった。今日だって聴き取りのために出向いたことに違いはないが、少なくとも彼と自分は、いま敵対はしていない。お互い身構えず話ができる機会は今後ないかもしれない。そう思うと、エレノアはつい、長年の疑問を尋ねたくなった。

「つかぬこと聞くけれど」

「なんだ」

「あなたは、どうしてこの〝家〟に住むの?……つまり、どうして、……子供たちを守るの?」

 沈黙が降り、それは続いた。彼は小皿に目を落としている。時計のない部屋は流れる時間を刻みはしないが、彼の手の指が、一定の間隔ですり合わされて擦れる音が響いている。

「なんで、」思わずこぼれたらしい言葉はそこで閊えた。「なんで、……」

 もしかしたら、いままでに何度も尋ねられてきたことなのかもしれない。そのたびに彼は考えて、それでも結論が出なかったのだ。いや、彼は無駄なことに多くの時間を割くタイプじゃないから、——聴き取りや面談でしか関わってこなかったとしても、もう十年近い付き合いなのだ——手こずるようならその時点で思考を切り替えていたのだろう。今回は、どうするのか。

 再び彼は唇を閉じて、黙り込んだ。もう少し、考えてみることにしたらしい。

 気長に待つ心構えをする。何気なく小皿に手を伸ばしナッツを放りこみながら、三つある窓へ順に目をむけた。どの窓も一様に煤けてヴィネットでもかけているかのようだ。かろうじて透明なままの中央部から日が差している。キッチンの窓辺には、暫定的に置いたのであろう種々の用具——栓抜きや、バターナイフ、缶切り——の他には何も見当たらなかったが、リビングの北と南にある窓辺にはごちゃごちゃといろいろなものが置いてあった。汚れたミニカーや人形、水鉄砲。子供たちが拾ってきたのだろう。

「あんたは、」不意に、声がした。「なんのために生きている?」

 唐突な問いかけに思わずエレノアは目を丸くした。言ってみれば哲学的な問い、それがよりによって彼の口から出てくるとは思わなかった。エレノアは彼やビリーの頭脳を見くびったことはない。ただ、エドワードは実利主義で、「飯のタネにもならないこと」に興味を持つことは稀だった。

「なんのため、」当然、エレノアにしても、即答しかねる。「パッと出てこない」

「大抵の人間は、何かしらの褒美を目当てに生きてるもんだと思ってる。俺はな。うまい飯だの、きれいな飾りだの、そういったもんだ。そういったもんを楽しむことで生きてる。でなきゃ、生きるなんてのは面倒だらけだ。とても続ける気にならない。あんただって好き好んで薄汚えガキに構ってるわけじゃねえだろう。それがあんたの仕事で、それを続けなきゃお楽しみにありつけないから、やってるだけだ」

 言われて、反対にエレノアは、自分がそうではないことに気づいた。しばしば思うことではあったがエレノアはこの仕事が好きだ。少年たちや青年たちとどうにか向き合って言葉を交わすこと、それ自体に生きがいを感じる。もちろん彼の言う「きれいな飾り」や、「うまい飯」にも心惹かれるが。

 だがエレノアは口を挟まなかった。遮ればきっと途切れてしまう。

「俺は、」彼は慎重に口を開く。「俺は、そういうもんを目当てに、生きてみようとしたことがない」

 短い静寂がよぎる。やはり、エレノアは何も言わずにいる。

「ガキの頃は、考えたこともない。生きるのに必死だった。〝それ以上〟なんて分からない。……けど、毎日飯にありつくことがさほど難しくなくなって、気の利いたもんは一つもないが橋の下よかマシな場所を見つけて、なんとか、生きてけるようになった、それで俺は、……特に、最近は、……余裕ができちまった。だから余計なことを考えてる。なんでこうしてるかってのを、……なんでこんなこと、続けてるのかって」

 かろうじて表情を保ちながら、その実エレノアは、背に冷水を浴びせかけられた心地だった。だが考えてみれば当然だ。彼はクスリもやらないし、権力や派閥に興味もない。デカいヤマを当てようと画策している気配もなければ、ビリーのように就学の夢などがあるとも聞かない。そして、彼自身いうように——「うまい飯」や「きれいな飾り」を求めたこともないだろう。求める意味を、知らないから。

「だけど、……だけど、あなたは、……」

「死にそうなくらい真っ青だな」少し愉快げに彼は笑った。「別に死にたいわけじゃねえ。死ぬのは嫌だ。怖いしな。俺は怖いことは嫌いなんだ。痛いことも寒いことも、腹が減ることも当然嫌いだ。他のやつと変わんねえ。わざわざ死ぬなんざ、考えられん」

 先ほどまでの迷いがすっかり晴れた様子で、彼の強張りは解けている。対してエレノアは、自然と首が俯いてしまう。

「ただ、まあ、思うんだよ。俺に理由があるんなら、ここだろうなと」

「……ここ?」

「この〝家〟だ。俺にとって、……なんのために生きてるかっつわれたら、きっと、ここだ。そんだけの話だ。生きるのに、理由があったほうがやりやすい。だから別に慈善事業をして差し上げてるわけじゃない。俺は俺で、俺のために、使ってんだよ。他人をな」

 エレノアは複雑な思いを拭えないまま、またナッツに手を伸ばす。歳をとると、他人を理由にしたほうが何をするにも強い動機になるとはよく耳にする話で、エレノアも既婚者の先輩やら上司やらからその手のことを散々聞いた。自分のために働くのには限界があり、妻のため、夫のため、子供のためと思うからなんとかやっていけるのだと。エレノア自身には所帯を持つ気がないが、確かに自分の食い扶持のためと思ってやるのは限界がある。彼女にとって自分の仕事は、仕事相手——つまり目の前の彼らのために励むものだった。だがそのように考え始めたのは三十を過ぎる頃からだ。それまでは職務として、真摯であろうと努力をしていた。

 エドワードはまだ二十歳そこそこのはずだ。なのにもうその歳で、——

「腹は膨れりゃいい。服は着れればいい。〝それ以上〟する余裕があっても、そうする意味がわかんねえ。が、まあ、そうなると……なんのために生きてんだかな、と思うんだよ。俺一人死のうが生きようが、大差ないだろ。なのに、なんで続けてんのか。で、……そういうときに、まあでも、俺が死ぬと、ガキどもが泣くだろうなと思う。ビリーは怒るだろうし、そうだな、……あんたもそんな風に真っ青になる」エレノアを見て、また彼は笑った。先ほどよりも柔らかな笑みで。

「じゃあ、まあ、やってもいいか、と思う。うざってえことばかりだが、続けてみたって構わねえか、と」

 本人は納得しているらしい。だが胸から不安が去ることはなかった。あまりに危うい動機ではないか? 何かの拍子に、「自分がいなくても大丈夫だ」と思ったら、彼はあっさりいなくなることを選んでしまうかもしれない。死にたいわけじゃないとは言うが、彼の言葉からはその予兆しか受け取れなかった。彼は、どちらかと言えば多分、「やめてしまいたい」のだ。理由があるからやめずにいるだけ……。

 じゃあ、逆に、〝やめる理由〟ができたら?

 ぞっとした。思わずエレノアは、テーブルの上に置かれていた彼の手を取って握りしめた。

「ねえ、お願い。危ないことをしないで。あなたのことを大切にして」

「一体なんだよ?」さすがの彼も声を裏返した。眉が大きく寄っている。

「約束して。勝手なことはしないと。少しでも妙なことがあったら私を頼ると。いえ、私じゃなくたっていい、ビリーでも、ジョイスでもいい。一人で決めてしまわないで」

 エレノアの顔を見て、エドワードは黙り込む。ビリーも彼も、子どもの頃から相手の「本気」を汲み取る機微のある子だった。こちらが真剣に向き合えば、その気持ちを軽んじなかった。だからこそエレノアは続けることができたのだ。徒労のような繰り返しも。何度でも信じることも。

 失いたくない。

「何を、必死になってんのか、知らねえが」宥めるような響き。「危ねえことなんかねえんだよ。大丈夫だっつってんだろ」

「だけど、」

「あんたはただでさえ気にしすぎなんだ」ふい、と手を払う。手つきは心なしか優しい。

「でも身に覚えはあるんでしょう? ジョイスは変人だけど、節穴じゃないわよ」

 やや顔を背け、エドワードは渋面を作った。そのうち、観念したように息を吐く。

「確かに、最近、おかしなやつと付き合ってるよ。けど……十年も前の知り合いなんだ。イーサンやロナルドと、関係があるとは思えない」

「十年?……もしかして、」

「そう。あの家にいた頃」小さな頷き。「学校にいたヤツで、本物の貴族だ。ありえねえだろ」

 エドワードが一年間だけ引き取られていた家は男爵家で、彼を名門校に通わせた。結局、息苦しさに耐えきれなくてか、エドワードは逃げ出してしまったが——同じ時期に同じ学校で起こったある事件のことをエレノアは記憶している。口にはしないが、エドワードが関与していたのではないかとも思っている。だが追及する気はさらさらない。暴き立てても——きっと良いことがない。

「そんな昔の知り合いが、どうして急に?」

「俺から電話したんだ。昔、……まあ、ガキの口約束だが、困ったことがあったら助けてやると言われたことがあった。ちょっと前にウォルトが熱を出して、それで偶然思い出して」

 エレノアは奇妙に思った。十年も前の口約束? それを貴族の青年が覚えていて、スラム街のの元へ、約束通りに駆けつけたのか? 同じ疑問は当然ながらエドワードも抱いていたようで、言い訳がましく口を開く。

「妙だと思うんだろ。俺も思ったよ。なんか裏があるんじゃねえかとこの二ヶ月ほど疑ってる、……けど、あいつが俺になんかしようとしてるとは、どうしても思えない。そんな気配ないんだ。やべえやつなんじゃねえかとは、会うたびに思うんだが……」

「彼はどうして助けるのか、理由とか言っていないの?」

「『恩返しだ』と言ってたな。だけど心当たりがない。俺はあの頃、ほとんどあいつと関わってない。話したことだって数える程度だ」

「そう、……ごめんなさい。ちょっと、……素直に納得できないわ」

「構わない。俺も正直、」言葉を濁す。「おかしいと思う。思うんだが……」

 エレノアはなぜ彼が手を引いていないか疑問に思った。少しでも引っかかりがあればすぐに引き上げるから、彼はほとんど捕まらず、また危ない目にも遭わずにやってこられたのだ。それは彼の信条のはずで、なぜ今回だけ曲げているのか分からない。普段の彼なら、今の時点で手を切っている。

「まだ、付き合いは続けるの?」

「今のところは」歯切れが悪い。「そのつもりだ。もうしばらくは」

「そう、……少しでも何かあったら、迷わず手を切るのよ。……名前は知ってる?」

「知ってる。知ってるが、……なあ、」顎を引いたまま、彼は視線だけ上にあげた。

「あんただから話す。意味は分かるな?」

「……分かった。他には漏らさない」

 よろしい、と言わんばかりに彼は鷹揚に頷いて、それから、しかしまだ迷うように目を逸らせた。ややあって、呟く。「カーティスだ。——カーティス・シザーフィールド」

「ありがとう」エレノアの口から、ふ、と息がこぼれた。「話してくれて」

 目を合わさないまま、エドワードはまた軽く頷いた。辞去して、席を立つ。玄関まで歩いていくと、少しして彼が追ってくるのがわかった。ドアの前で振り返る。

「あんた」その目はまるで先ほどまでのエレノア自身のようだった。「あいつに会いに行くなよ」

「どうして?」

「あいつは俺には何もしない。けど……」首筋を搔く。「あんたにだったら、分からない。分からないんだよ、……そういうヤツだ」

「ありがとう、エディ」忠告を重く受け止めながら、つい、エレノアは頬が緩むのを感じた。「だけど、〝心配ご無用〟よ」



 ウォルトは〝家〟から一、二キロ離れたバスケットコートで遊んでいた。と言っても、彼の背丈ではとてもゴールに入れるどころではなく、危なっかしい手つきでドリブルを数回続けるのがやっとだ。ビリーとエディはバスケットが得意で、街のそこここにあるコートへ寄っては二人でしばしば遊んでいる。エドワードの背丈が有利なことは言うまでもないが、ビリーは跳躍力があり、二人の勝負はいつも白熱する。滅多に笑わない彼が試合中はよく笑うから、ウォルトもそれを観ているのが好きだ。

 いつか一緒にやれるくらいに上達したいが、ずいぶん先の話だろう。今日は朝から二人ともいなくて、暇を持て余したウォルトは〝家〟からバスケットボールを持ち出し、秘密の特訓をすることにした。ウォルトの幼い手に、まだボールは重い。自重で跳ね返るバスケットボールを何度か懸命に叩きつけるうち、手のひらが痛くなってきた。

 ボールを抱えて、ベンチに座り込む。遥か頭上にそびえるゴールを見上げてボールに顎をついた。二人ともいとも簡単に投げ入れるけど、とても信じられない。

「ウォルト君?」

 と、背中に声がかかった。男の声だったが、そんな呼び方をしてくる男が知り合いにいただろうか。振り返ると、思わず声が出た。ずいぶん前、熱を出したウォルトのところへやってきた青年だった。

「覚えてる? 僕のこと」つくづくこの街に似合わない身なり。「君は、エディのとこの子だよね」

 身構えつつ、うなずく。彼のことはどうも信用がならない。あれ以来、エドは彼との付き合いを続けているようだが、エドの左手首にある傷はもしかして彼のせいじゃないかとウォルトはだいぶ疑っていた。作り物みたいに青い目も、いつ見ても微笑んでいる顔も、なんか変だ。

「覚えてる」ほとんど睨むようにして、ウォルトは言う。「家にきてた」

「バスケしてたの?」

「おまえにカンケーない」

「そうだね」くすくす、と彼は笑う。「その言い方、まるでエディみたいだ」

 表情は崩さずにいたが、ウォルトは頬がむず痒くなった。

「なんの用?」

「いや、ちょっとね。近くまできたから、この街を見て行こうかと。ぶらぶら歩いてたら君がいた」

 言うと、隣に座っていいかと彼は身振りで聞いてきた。迷ったが、浅くうなずく。聞いてやりたいこともある。

「ありがとう」嬉しそうに言って、彼は腰掛けた。「そのボールは君の?」

「エドの」短く返す。「名前は?」

「僕? ああ、そういえば、この前は名乗らなかったっけ」なんだかわざとらしい話し方だ。「僕はカーティス。カーティス・シザーフィールド」

「ふぅん。じゃ、カートか」

「うん、カート。そう呼んでくれる?」

「気が向いたらな」興に乗って彼を真似てみる。

「ふふ、ほんとにエディみたい。君はエディが好き?」

 今度は少々照れ臭くなった。小さく何度かうなずく。「おまえは?」

「僕も好き。とっても好きだよ」

「なら、」隣を見上げ、ぐっと睨む。「エドにひどいことしないよな?」

 カーティスは目をぱちくりとしていた。それにしてもなんて青い目だろう? きれいなガラス玉や、教会のステンドグラス、あとは何に似てるかな——そう考えるうちに目元が緩みかけ、慌てて睨み直す。

「うん、しないよ。もちろん。どうして?」

「だって……おまえに会い始めてから、エド、ずっとけがしてる。おまえのせいだろ?」

「怪我? ほんとうに?」

「ごまかすなよ。左の手首に——」

「ああ、」納得がいったふうに彼は笑った。「それか。大丈夫、怪我じゃない。あれは献血の痕だ」

「ケンケツ?」

「血を少しだけ分けてもらってるの」

「……なんで?」

「欲しいから」彼は微笑んだままだ。「彼の全部が欲しいけど、彼を傷つけたくはないから」

 意味が分からない。結局のところ、やっぱりエドワードに変なことをしてるんじゃないのか、と問い詰めたかったが、ウォルトは少し怖気付いてしまった。カーティス自身はいつもの微笑のまま平然としている。迷いも疑問も、窺えない。

「ねえウォルト君」黙っているうち、今度は彼が口を開いた。

「なに?」

「人を壊そうと思ったら、何をするのが一番いいか、知ってる?」

 こわす?

 どういうことだろう? ころす、とか、けがをさせる、とはちがうのだろうか。もしそうだったら、きっとそう言うはずだから、たぶんちがうのだ。

「あのね、『心を割く』って言うでしょう」

「心を?」

「知らないかな? 『心を占める』というのは?」

「……きいたことは、あるけど。どっちも」

「同じことを、立場を変えて、言ってるだけだよ。何かを想うということは、心の持ち主から見れば、自分の心を割く、となる。心を割かれる側からは、相手の心を占める、となる」

 カーティスはおもむろに地面を探して、手頃な石を一つ拾った。それから丁寧に円を描く。コンパスで引いたみたいに、とても整ったまんまるだ。

「世界中、みんなのことを、大事に思えるわけじゃないでしょう? 人の心には限度があって、いろんなものにちょっとずつそれを割いている。元から心が大きい人は、いろんなものにたくさん心を割けるだろうし、小さい人は、そんな余裕はないかもしれない」

「……うん」

「エディの心は、どんなだと思う?」

「大きい!」ウォルトは張り切って答えた。「すげー、でかい!」

「僕もそう思う」カーティスはまた石を握った。「も少し、大きく描こうか」

 描き直した円は、カーティスの片足くらいあった。ウォルトはひとまず満足する。

「でも、エドワードは、そんなに大勢に心を割いているわけじゃないよね」円の中を、彼はいくつかに区切った。「少しの人たちに、いっぱい心を割いているんだと思うんだ。君とか、家の他の子とか。ほんの少しに、これくらいたくさん」

 言わんとすることはなんとなくわかった。ウォルトは普段から、エドワードにとても大事にされていると感じる。エドはビリーのことも、家の他のやつらのことも、とても大事にしている。だけど、何人かの仲間や、数少ない認めた人物のほかは、全く意に介さない。心を許すこともない。

「あと、……彼、あんまり……」コツ、とカートは石で地を叩く。「自分のこと、大事にしないでしょう」

 それもウォルトには深くうなずけた。自分に力が足りないことも背が足りないこともわかっていて、それでもエドを案じてしまうのは、彼がそういう人だからだ。

「普通の人が自分のために割いてる分まで、彼は他のだれかに回してる。そういう彼だから、尚更……彼自身がひどい目にあってもそんなに応えないだろう。彼自身が傷ついたとしても、彼の心はあんまり損なわれない。彼はそこに心を割いてない。欠けてしまう部分が少ないんだ」

「でも、傷ついたらだめだ!」

「もちろんそうだ。僕だって、彼に傷ついてほしくないよ。というより、」そこで、カーティスは手を止め、ウォルトをじっと見た。「僕は彼に損なわれてほしくないから、こんな話をしている」

「……どういうこと?」

「いいかい? 誰か、人を壊そう、——めちゃくちゃに傷つけて、砕いて、立ち直れないくらい粉々にしてしまおうと思ったら、その人の大事なものを壊してしまうのが一番いい。片っ端から、全部、何もかも。そうしたらその人自身を攻めるよりずっとずっと多くのものが失われる、よほど自己愛の強い人でなきゃね。エディはその最たる例だ。彼の心は数少ない人物——身の回りの数少ない仲間——に割かれてる。彼の心は、ほとんど全部が君たちによって占められている」目を見据えたまま。「意味、分かる?」

 難しい言葉が多くて、はっきり理解できたわけではないが、何を言われているのかは、分かるような気がした。エドの心は、おれや、ビリーや、他のみんなでいっぱいだってこと?

「もし誰かが、エディのことを壊してしまおうと思ったら、君たちを壊せば簡単だ。彼の心はあっという間に失われてしまうだろう。君たちがいなくなってしまえば、彼の心もなくなってしまう。君たちのために、割いていた心が」

 ゆっくり、彼の言葉を反芻し、咀嚼しようとする。エドの心は、おれたちでいっぱいで、——もしおれたちがいなくなったら、そのぶんエドの心も、消えちゃう?

「や、やだ」思わず泣きそうになった。「エドが傷ついたらやだ」

「そうだよね。僕もいや、……だからね、お願いだ。気をつけて」

 彼の表情は真剣だった。

「君たちが無事でいることが、エディにとっては重要なんだ。君たちが傷ついたり、ひどい目にあったり、いなくなったりしてしまうと、彼はとっても傷つくし、程度によっては、壊れちゃうかもしれない。僕はね、彼に、そんな思いは、してほしくない。君だってそうだろ?」

 何度も何度も、激しくうなずく。しゃくりあげそうになるのを堪えた。

「きをつける。あぶないこと、しない」

「ありがとう。……困ったことがあったら、僕のことも頼っていいよ。危ないことしなきゃいけないふうになったら、その前に僕に相談して。僕じゃなく、エディのためだ」

 そう言って彼が差し出した携帯を、ウォルトは受け取った。エドやビリーがよく使っている使い捨てのものだ。

「三、四回、電話できるようにしてあるから。いつでも新しいのを渡すし、気軽に使って」

「うん、……どこにかけりゃいいの?」

「連絡先を一つだけ登録してある。出た人にウォルトだって名乗ってくれれば、僕につながるよ」

 ウォルトは連絡先を確かめ、大事にポケットにしまった。カーティスは石を足元においてから立ち上がり、ぱんぱん、と軽く服を払った。

「お話をありがとう。また会えたら、付き合ってくれる?」

「いいよ」ボールを抱え直す。「ひまだったらだけど」

「嬉しいな。それじゃ、……また今度」

 最後にニコッと笑顔をつくり、それからカーティスは歩いて去っていった。その背中を見送りながら、ウォルトはボールをぎゅっと抱きしめる。彼のために何かすることよりも、自分が無事でいることのほうが、大事——それは今までウォルトが考えたこともなかった話だった。けれど、素直に納得できる。

 エドは今、何してるのかな。ぼんやりと考えていると、じわじわ視界が潤んできて、ウォルトは慌てて、首を横にふった。



     12



 セカンダリースクールから、僕は全寮制の学校に入った。全寮制! なんて希望に満ちた言葉! それはすなわち、僕が姉の手の届かない場所で暮らせることを意味していた。夏休みとクリスマスには帰らなくちゃならないとしても、そのほかの全ての時間、僕は彼女から自由だった。

 入学の日、まだ親元を離れることに寂しさを覚える子も多く、それに関しては僕も同じだった。父と母は行き来の仕方を教えるつもりで共に汽車に乗り、校舎まで送っていってくれた。一人で校門をくぐる時、こんな風にパパとママと三人で暮らせたらいいのに、とふと思ったが、そんなのは夢のまた夢だ。後ろ髪を引かれつつ、僕は寮へと歩いていった。

 入学の日には気づかなかったが、彼の存在はじき知れた。だって目立つんだ。容姿がじゃなくて、振る舞いや人への態度なんかが。とはいえ僕が最初に彼を見とめたのは容姿ゆえだった。僕はそれまで金髪を綺麗な色だと思ったことがなかった。それは常に、姉の色だった。

 僕と彼とはクラスが違ったが、三クラスずつが一緒になって受ける授業では同じまとまりだった。と言ってもそんな授業は聖書以外になく、学園の敷地の隅に建てられた小さな教会で、神父さまの話を聞くのだ。神父さまは通いで何人かいて、曜日によってどの神父さまの話を聞くのかは異なるらしい。僕らの聖書の授業は金曜日にあった。せめて月曜日だったら、みんなと一緒に落ち込めたのに。

 僕にとって聖書の日は、楽しみと憂鬱の両方が心を占めて、大変疲れる日になった。楽しみというのは、彼に会える数少ない機会だったからだ。彼は神父さまの説教なんか一秒だって聞いていなくて、寝ているか、窓の外を見てるか、たまにそんな様子を窘められて鋭い言葉を返すかだった。そのとき彼が使う言葉を、おそらくその場にいるほとんど全ての人間が理解できてなかった。それは僕らのような暮らしをしている人間が聞くことのない単語だ。当然使うことだって、おそらく一生ないだろう。

 だけど大人の面々は、そんな彼に寛容だった。理由はすぐに窺えた。彼の複雑な事情——スラム街にある養護施設で育ち、最近さる男爵家に養子に取られたという話——を考えれば、それは当然の処遇だ。彼の乱暴な言動を受け入れながらも正し、教育することが、大人の面々の使命だったのだ。そしてそれを察した僕らも、多少は大目に見ることにしていた。

 僕の中で、彼はライオンだった。あるいはチーター。ヒョウかもしれない。鷹のようだとも思ったし、——僕はなんとなく、鷲より鷹のほうがかっこいいと思っていたので——オオカミにも似ている気がした。僕にとって彼は正反対の何か、全く交わらない孤高の何か、絶対に僕には真似できない別の生き方、それらの象徴だった。誰も見てないし絶対にバレやしないと思うのに、お菓子の持ち込みひとつできない僕とは違って、彼は学生手帳に書かれた規則を上から順に破っているような始末だった。目が、吸い寄せられた。

 憂鬱というのは、今でもあまり、思い出したくないことである。

 それは聖書の日、つまり、神父さまの来る日には、必ず起こることだった。絶対に僕だけ呼び止められて、昼休みの時間、そこにいることを強いられる。もっと別のことも、……僕は、正直、ひどくがっかりしていた。これじゃ家にいるのと変わらない。姉がいないだけで、同じじゃないか。

 それでも週に一回だから、まだマシなのかもしれなかったけど。



 画面に映った通知を見た瞬間、心臓がずきりと疼いた。翌日の予定を決まった時間に知らせてくるカレンダーアプリ。一年ごとの周期で繰り返すよう登録してあるその日付は、ジョイスにとって、永遠に消せない十字架のようなものだ。——主なるイエスさえ、この罪を帳消しにはできまい。この罪は俺の心臓に杭のように打ち込まれていて、カレンダーアプリが通知をするたび新たに深く打ち込まれる。

 また一年が経ったのか。あの事件から。ジョイスはベッドに腰かけたまま、画面が自然に消えるまで身じろぎもせず眺めていた。きっと今晩は、あの日の夢を見ることになる。事件の直後は毎晩のように見ていたのに、たった数年で〝記念日〟にしか魘されなくなった自分が、人でなしのように思える。

 それは、今回と似たような連続失踪事件だった。事件が発覚した、というより立件されたのは一人目の死体が出てからで、それまでに何名いなくなったのかも不明、聞き込みから分かる情報によれば失踪したのは娼婦ばかりだった。本庁から派遣されたジョイスは当時ようやく半人前といったところだった。将来を期待され、勉強してこいと送り出されたのだ。

 捜査は難航した。そもそもが、公認のクラブやキャバレーに所属していない女たち、つまり〝違法〟の売春婦たちで、被害者や失踪者の身元特定さえすんなりとはいかない。加えて、彼女らは人目につかないところ、言い換えれば足のつかないところで巧みに商売をしていたから、彼女らを買った客の身元だってそうそうすぐには判明しない。遺体は河からあがっていて、発見現場と事件現場が同じとは考えにくかった。手がかりがまるでなかった。

 そんな中、娼婦たちが活動していた街での聞き込みで、ジョイスがふと、違和感を覚えた人物がいた。彼は社会福祉事業を営み若者の貧困対策に奔走しているという三十代の男で、今回の件にとても心を痛めているとジョイスたちに語った。だがその口ぶりに不審を感じた。何かを敢えて語らずにいる。同行した上司に印象を伝えたが、特に取り合ってもらえなかった。

 気になって、ジョイスは追った。何度も彼のもとへ足を運び、何か知らないかと探りを入れた。男は初め親切を装い粘り強く対応していたが、そのうちあまりにしつこいとクレームを入れてきた。疑うに足る根拠がないまま先走るなときつく注意された。もう単独で会いに行くなと。ジョイスはやめなかった。不審は拭い去るどころか、ますます強まるばかりだったのだ。

 やがて男は訴えを起こすと言い出した。上司に怒鳴られ、それでもジョイスは彼が怪しいと言って聞かなかった。しばらく休んで頭を冷やせと短い謹慎を喰らった直後、新たな失踪者が出た。今までで一番若い少女だった。

 固く目をつぶる。忘れてはならない。だが今は過去の泥濘に足を取られていていいときじゃない。

 過ぎたことは戻りはせず、ただ見送るほかない。学生時代、ジョイスは日本文学に興味を覚え、いくつか講義をとった。どの授業でだったか、日本の古典に相当する随筆文の書き出しとして知った一文が脳裏をよぎる。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」——なんと美しい書き出しだろうとジョイスは感心したものだった——流れ去ってしまった水はもう掬いようがない。追いかけてもそれは取り戻せない。いずれ海へと還るだろうと、遠く思いを馳せるだけだ。

 けれども、今日一晩は、彼女に捧げることになるだろう。ジョイスは深く息をして、そのまま、背からベッドへ沈んだ。



 夏と冬にしか会えなかったのはもうずいぶんと前のことなのに、いまだに季節が巡ってくると、あの時期の浮ついた気持ちが蘇ってくるようだ。休憩時間にビルを出て、かんかん照りの道路で陽射しを堪能しながらふとオリバーは、母に電話をしてみようかと思いたったが、この歳になって、なんの理由もなく母親に電話をかけるのは面映く、何気ない風を装ってメッセージを打つにとどめた。ハロー、母さん。調子はどう?

 一、二分して返信がきた。〈元気よ、オリバー。とてもいい天気〉

 母マリアは、女手一つでオリバーを育ててくれた人だ。幼い頃にはその苦労を解さず、自分に寂しい思いをさせたと内心なじることもあったが、今となってはなんと幼稚な考えだったのかと思う。父の死で下りた保険金で足りない分を彼女は必死に稼ぎ、自分をパブリックスクールに入れて、大学まで通わせてくれた。その真心に応えるために自分も今日まで必死にやった。あと数年して稼ぎが増えたら、母にも楽をさせてやりたい。

 母は現在も家政婦の仕事を続けている。元来世話好きな人だから、単純に性に合っているのだろう。つい最近、新しい雇い主のところへ職場を移したと言っていた。なんでも伯爵家の若き当主だそうだ。近頃の貴族はひところと比べてずいぶん市民に近くなっている。まあ、地球から土星までの距離が、火星に移った程度のものだが。

〈新しい雇い主はどう?〉ジャケットを左肩に持ち、オリバーは片手でメッセージを打った。

〈いい人よ、気品があって。それにとっても頭がいいのね。なんだかあなたに似ているわ。優しいところも〉

 気恥ずかしくなる。〈そう。よかった。しかし伯爵か、俺の知り合いだったりするかな〉

 直接の知り合いでなくとも、知り合いの知り合いまで辿れば高確率で行き着くだろう。上流階級の社交は狭い。住んでいる地域を考えればもしかすると同じスクールに通っていた可能性もある。すれ違ったことくらいはあるのかもしれない。

〈そうねえ、もしかするとねえ。年の頃も同じくらいだし〉

〈へえ! ほんとに若いね。それで伯爵家を切り盛りなんて〉

〈ほんとにねえ。あなたももう立派な大人だけど、わたしはちょっと心配になるわ〉

〈はは。まあ、母さんから見れば、まだまだ子供なんだろうね〉

 スクールにいた当時、中流階級の人間はオリバー一人ではなかったし、上流階級の人間がわざわざこちらを苛んでくるようなこともなかったが、やはり互いに理解しがたい存在なのだろうとは思った。根本的に住む世界が異なり、もはや別の生き物のようで、だから却って衝突もしない。別の水槽にいる魚同士、ついばむこともないのと同じ。

 平和な子供時代だった。ひとつのことを抜きにすれば。

〈同級生だったらどうしよう? 母さんをよろしく、とビスケットでも贈るか〉

〈あらあら、彼の口に合うものをあなた探せる?〉

〈どうだろう。ねえ、名前って聞いてもいいもの?〉

〈問題ないでしょう。アイゼルレイン伯よ〉

 アイゼルレイン?

 返信を打ちかけた指がふと止まる。アイゼルレイン? 聞き覚えのある響きだった。もちろんこれは苗字ではなく、所有する土地に由来する爵位のほうだが、いったい誰のものだったろう? きっとスクールで耳にしたのだ。アイゼルレイン伯爵ロード・アイゼルレイン、——不意に、鼻腔を薔薇の匂いが過る。それは記憶の底から立ちのぼった香りで、自然と鼓動が速くなっていく。指先が震えた。

〈もしかして、〉

 オリバーは自分の予想が外れていることを祈りながら打った。冷たい汗が背筋を流れる。母の返事を待つ間、生きた心地がしなかった。だが一方で早くも脳裏が少し先の未来を悟り始めている。お前は正しい。お前の予想は、きっと当たっているはずだと。

〈ええそうよ〉無情な一文が返る。〈彼は、シザーフィールド伯爵〉

 薄れかけていたはずの少年時代の一幕が、瞬く間に息を吹き返し、立ちのぼる薔薇の生々しさはもはやあの場所に帰ったようだ。いつしか遠い、悪い夢のように思えていたもの。よりによって、……よりによって!

〈どうかしたの?〉

 続く言葉を見てもなお、オリバーは文字を打てなかった。真夏の太陽を背に浴びて、彼の顔はひどく青ざめていた。



「どうしたのかしら」

 息子からの返信が途絶えたのを見て、マリアはつい口に出していた。久々のやり取りで心が弾んでいたのだが、急に呼び出しか何かされたのかもしれない。息子の仕事についてマリアは詳しくを知らないが、証券取引に関わるものだとは聞いていた。きっと忙しいのだろう。同じ職に就く人に取材したネットの記事かなにかで、一分一秒も気が抜けないと語られていたのを覚えている。

「何かありましたか」

 と、そこに、雇い主の声が響いた。マリアは慌てて席を立つ。カーティスは困ったように笑い、気にしなくていいんですよ、と言った。

「空き時間は自由にしていてください。どなたかとご連絡を? 早退などはご遠慮なく」

「いえ、はい、失礼いたしました。久々に息子からメールが来たものですから」正確にはそれはメールではないが、マリアにとっては似たようなものだ。

「それはいいですね。ご子息はおいくつですか」

ロードと同じくらいなのですよ。もしかしたら全く同じかしら」

「そうなのですか。ということは二十二?」

「ええ、そうです。今年でその歳」

「はは、ほんとうに同じですね。飛び級などがないのなら、同級生だったかも……」彼はふと何か思い起こすように目を宙へ向けた。「それにしても、今日はたいへん陽が強いですね。ミセス・ランバート、お子さんが幼い頃は、夏にご家族で避暑地など行かれましたか?」

 これは、『どのあたりのご出身ですか』という意味だ。もっと言えばこの場合、息子さんの出身校はどちらですか、ということになる。ステータスに関わることを直接に尋ねるのは、多くの場合、下品なことだ。

「夏にどこかへ出掛けることはあまりなかったのです、なかなか涼しいところでしたから。息子は夏と冬のホリデーに帰ってくるばかりでしたけれど、鉄道で二時間ほどのところで、帰省はさほど苦でなかったようで」

 ここまで言えばおおよその場所の見当はつくはずだった。卿はほう、と息をついて、当たり障りのない返事をしたあと、本題であろう話題に触れた。「でしたら、もしかすると、僕と彼とはほんとうに同級生かもわからない。名前に聞き覚えが……」

「まあ、なんと。不思議なお導きですね」

「僕も驚いています。ひょっとして、ご子息のお名前はオリバーですか? オリバー・ランバート?」

「ええ、まさに。あら、まあ。こんなことが」マリアは心底驚いていた。「息子と卿が同学でしたなんて」

「懐かしいな。嬉しいです。卒業以来彼とはあまり関わる機会がなかったものだから」

 それはそうだろう、とマリアは思う。優秀な成績を修めた生徒には違いないが、息子は中流階級ミドル・クラスなのだ。上流階級アッパー・クラスの中でも上位の雇い主との接点は絶無に等しかったろう。反対にマリアは、なぜこのうら若き雇い主が息子のことを覚えていたのか、とても不思議に思った。

「つかぬこと、お伺いしても?」しかしマリアは親心から来る好奇心を抑えられずに聞いた。「オリバーは、学校ではどんな様子でしたか。寮でのあの子が分からなくって」

「あはは。きっと、ミセスのよく知るオリバーが、そのまま学園にいたと思いますよ。善良で、思慮深く、優しさゆえに少し弱気だけれど、至って真っ当な良識と正義感の持ち主……」言葉を聞くマリアの表情を見とめ、カーティスは柔らかく笑んだ。「ね。やはり、ご存じの通りだ」

 オリバーと卿との間にいかなる交友があったのか、マリアはもっと聞いてみたかったが、さすがに出過ぎた真似であろうとどうにか堪えた。オリバーが卿の名を知っていたのもそれゆえか。その割に、返信が妙に遅かったような気もするが。爵位のほうにはあまり馴染みがなかったのかもしれない。

「そうでしたか。ありがとうございます。まさか卿から、息子の話がお聞きできるなんて……」

「僕の知っていることでしたら、いつでもお話ししますよ。彼にもぜひ、よろしくと」

「ええ、伝えておきますわ。あの子もきっと喜ぶでしょう」

 マリアは何気なく答えたが、何故だか息子にこのことを伝える気にはなれなかった。どうして自分がそのように考えるのかが分からない。得体の知れない不安がちらりと胸の表面をかすめたあとで、マリアはいつもの通り、考えすぎだと思うことにした。



     13



 先週のうちにエレノアから報告はもらっていた。彼女は彼、——エドワードに話を聞いてすぐ電話を寄越し、大方のことを話してくれた。とはいえそれは全てではなかった。

「つまり、やっぱり心当たりはあったと?」

『まあ、そうね。彼は一年だけ養子に取られていた時期があって、その時の知り合いがこの前訪ねてきたんだそうよ。以来、少し関わっていると』

「養子にね……彼の資料はあるの?」

『エドワードの? まあね。また送る?』

「お願いするよ」今度もあの〝前時代的〟なデータが送られてくるのだろうか。「その知り合いについては?」

『貴族だってことくらいしか。本物の貴族、って言ってたかな』

「名前は?」

『聞いてない』とエレノアは言った。『教えてくれなかった』

 嘘だな、とジョイスは思った。だが深く聞く必要はない。言わないのには相応の理由があるはずだ。きっとそれは彼女の業務に関わる。

「貴族ね……せめて階級だけでも分かればな」促してみたが返事はない。これについては本当に知らないのかもしれない。「ありがとう。また連絡する。君はやっぱりすごいな」

『何が?』

「俺が話したときは、なんというか、取りつく島もなかったから」

『初対面でしょう、当たり前よ。彼らは相手を慎重に選ぶ』子供たちの遊ぶ声が遠くで聞こえた。『じゃ、またあとで』

 そして週明けの今日、メールにPDFが添付されて、ジョイスのもとへ届いた。ジョイスはカフェの窓際の席でタブレットを立て、その資料を読み込んでいる。どうやら今回の資料はエレノアがごく個人的に編集し保存しているもので、警察組織のフォーマットは無視され、所々に彼女の私的なコメントなども加えられていた。


 氏名、エドワード・スティールバード。生年月日不明(戸籍上は二十二歳だけど、二十二にしては大人すぎるし、反対に子どものように思うこともある。ほんとのとこどうなのかしら)。十一年前の二◯——年にキルフェアリー養護院から男爵家・スティールバード家に引き取られ、一年間だけ——校に所属。この際、便宜上、十一歳と定められたのが戸籍上の年齢となっている。約一年後の二◯——年七月十五日、突然——校から脱走し、以後数年行方不明に。この間、スティールバード家は捜索願を出していない。書類の上では彼らの養子縁組は続いているが、実質関係は絶たれたものと見られる。だがしばしばエドワードは、自身の身元として彼らのプロフィールを利用している節がある。

 愛称は、エディ、エド、テッドなど。また通称として『イーグル』がある。スラムコミュニティ内での存在感は大きいが、ギャングとのつながりは希薄で、意図的に距離をとっていると思しい。恐らく、ストリートチルドレンの一部を匿い、ともに生活しているために、彼らの身の安全をはかっている(でもなぜそんなことしてるのかは不明。確かに優しい子だと思うけど)。

 麻薬には手を出さない。本人の使用も売買も今のところ確認されていない。どちらかというと嫌っているように感じられるが、かと言ってジャンキーを殊更遠ざけるわけでもない(別に憎んではいないけど、関わりたくはないということ?)。

 身長はおよそ六フィート五インチ(正確には196センチメートル)。色の明るい金髪と碧眼が特徴。率直に言って容姿端麗。初めて会ったときは驚いた。この印象はあながち、私個人の好みだけによるものでもないので、おそらく周囲の人間に与えている影響としても、同じことが言えるはず。

 以下、交流の確認される人物たち。——


 人物名にざっと目を通す。定かじゃないが、ビリーというのはもしや以前ジョイスの財布をスッた彼だろうか。必要だろうと思ったのか、エドワードと交流のある人物一覧に名がある者について、エレノアはそれぞれのプロフィールをまとめてくれていた。名前と外見、一、二行の説明のみだが、実にありがたい。ずいぶん小さい子もいるらしい。これじゃ確かに、養っていてもさして得はあるまい。

 直接相対したときはヒョウのようだと思ったが、こうして資料を読んでいると慈悲深い母熊にも思える(もちろん彼は男だから父熊と言いたいところだが、熊にたとえたいと思えば母熊と言うほかはない。オスの熊は子育てしないどころか遭遇した子熊を襲う。即ち、〝一部の〟人間のオスと大差ないわけだ。閑話休題)。とはいえこの資料にはエレノア個人の考えが強く反映されている。人物判断はさておくとして、問題は件の貴族だ。

 もちろんエレノアからの資料に、彼に関する記述はなかった。まずは——校周辺を洗って、エドワードと交流のあった人物がいないか探すべきだろうか。なかなか気の長い話だな、とため息混じりに窓外を見やると、二車線を挟んだ向かいの歩道の消火栓に子供が座っていた。黒人で、八歳前後に見える。慌ててタブレットに触れた。エレノアの資料にあるストリートチルドレンの一人と、特徴が一致している。

 急いで荷物を整え、コーヒー代を置き、店を出る。行き交う車に目を向けながらなんとか隙間を縫って渡り、ゆっくりと近づいて、その少年に声をかけた。

「やあ、君。ちょっといいかい」

 少年はジョイスの身なりを見ると反射的に身を引いた。やはりスーツやトレンチコートの着用はしばらく避けるべきか。どちらにせよこの暑さでは、むしろ喜んで脱ぎたいくらいだ。

「いや、待って。何もしないから」言いながらジョイスは後悔した。こんなセリフで誰が安心する?「逮捕しにきたとかじゃない。ただ、……君、ウォルトくんかな? ちょっと聞きたいことがあるんだ」

 少年は依然身を引いたまま、目だけを細めた。睨んでいるのかもしれない。

「俺は、ジョイス。ジョイス・ハーディ警部」手帳を開いて、少年に見せる。「話を聞いてもいい?」

 時間にしておよそ十秒のたっぷりとした沈黙のあと、ウォルトは少し強張りを解いて、ふいと車道に目をやった。構わないということだろうか? ひとまず、隣にうずくまる。

「なにがききてえの」やがて、返事がきた。

「ええと」どこから言ったものか。「最近、この街で、人がいなくなってるのは知ってる? 俺はその件について調べている」

「なんで?」

「え? いや、」ジョイスは少し口ごもった。「いなくなった人の体の一部が、俺のいる署の管轄内から見つかったんだ。それでたどると、この街にぶちあたって、——」

 はたと気がつく。彼はもしや、俺が〝越境〟していることを訝しんでいるのだろうか。この辺の警官じゃないはずなのにと。そこを突かれると、大なり小なり嘘をつかざるを得なくなる。普段不正を取り締まる側に立っていると、どんなに些細な不正でも自分でするのは躊躇ってしまう。

「この街で」と、彼は言った。「だれかがいなくなったからって、ちゃんと探すようなやつ、いないよ」

 ジョイスは、ゆっくりと彼の顔を見た。擦れているわけでも、拗ねているわけでもない、ただただ普通の表情カオをしていた。

「——そうかな。捜す人もいるよ」

「ふぅん。ひまなの?」

「暇ではある。でもそうじゃなくて、」

「いなくなったやつのこと、おれ、あんま知らねーけど」

「……うん。彼らについて聞きたいわけじゃない。君がよく知っている人が、もしかしたら、狙われるんじゃないかと」

 途端に彼は目を見開いた。噛みつかんばかりの勢いで、ジョイスのほうに身を乗り出してくる。

「知ってるひと? ねらわれる? だれ?」

「ええと。君、確かこの街の北部で、」

「エドワードのこと? いっしょに住んでる。なあ、エドのこと? やっぱり、あぶない?」

 宥めるように何度も頷き、そこでジョイスは動きを止めた。やっぱり?

「心当たりがあるのか?」

「……わかんない。あいつ、べつに、悪いやつじゃないかも」

「聞かせてほしい」今度はジョイスが身を乗り出す。「何もなかったら、それでいいんだ。でも何かあったら取り返しがつかない」

 ウォルトはしばらく迷っていた。足をぶらぶらとさせ、俯いている。ジョイスは辛抱強く待つ。

 やがて彼は、ぼそりとつぶやいた。

「さいきん、エド、よくわかんないやつとつきあってる」ややあって、言葉を継ぐ。「悪いやつじゃない、……気がするけど、でもいいやつかはわかんない。なんか、ヘンだ。金持ちなのに、こんな街になんどもくるのも、イミ、わかんないし。それにエドのこと好きだって言うけど、どうしてなのか、ぜんぜん、わかんない」

 そいつだ! そいつが俺の探してる男だ。

 ジョイスはウォルトの両肩を掴んで揺さぶりそうになったが、必死でこらえた。「そう。名前は?」

「えっと、」ウォルトは視線をうろつかせた。「えっと……」

 頼む、思い出してくれ。我知らず唾が湧き、飲み込む。ジョイスはウォルトの横顔を凝視していた。ウォルトの顔に、少し焦りがにじむ。慌てて息を吐き、身を引く。

「ごめん。ゆっくりでいいよ、大丈夫」

「カート」と、ウォルトは言った。「カーティス、って言ってた。カートって呼んでって。苗字は、……思い出せない。なんとかフィールド、だった気がする。長くて……」

 苗字が聞ければ最高だったが、名前さえわかれば十分だ。「ありがとう。助かった、ほんとに。あとは自分で探すよ」

「やっぱり、あぶないやつなの?」

「分からない。ただ、何か知ってるんじゃないかと思ってる。それを聞きに行きたいんだ」

「エドから、聞いてないの?」

「話してもらえなくて。嫌われちゃったかな」

「べつに、きらいなわけじゃないと思う。エドは用心深いんだ」

 訳知り顔で彼は頷き、再びジョイスと目を合わせた。

「でも、……そんなエドが、いっしょにいるなら、悪いやつじゃあないのかな。平気なのかも」

「大丈夫、迷惑はかけない。念のため調べるだけだ」

「うん、……」ウォルトの表情に、どことなく影が差している。「あんまり、悪いこと言わないでくれよ。あいつに。悪いやつじゃないかもしれないから……」

 不思議だ。こんな幼い少年でも怪しいと思うようなヤツなのに、なぜだか同時に庇われてもいる。思えばエドワードという青年、彼もカーティスという男のことをどこか庇っているように見えた。「心当たり」として明確に彼の脳裏に浮かんでいながら、そんなものはないと突っぱねたのは、俺に対する反感もあろうが、カーティスへのなんらかの情が理由でもあっただろう。どんな男なんだ?

「変なことはしない。約束する」

 ジョイスはウォルトにそう答えた。守れそうもない約束をするのと嘘をつくのとじゃ、いったいどちらが罪深いのかと、密かに疑問に思いながら。



     14


 

 オリバーはオフィスの机について、冷えた両腕を掴んでいた。低下した体温は冷房のためばかりではない。身体の芯が温度をなくし、何を羽織っても温まりそうになかった。あちこちで鳴り響く電話のベルと応対、ジングルが、遠い背後にしりぞいて意味をなさなくなっている。確かに聞こえているのに、実感がない。

 カーティスのことは、もちろん覚えている。彼が自分を忘れてくれてたらこんなにいいことはないが、きっと覚えているだろう、そして恨んでいるに違いない。いや、もしかしたら恨んでいないかもしれない。結局どちらでも関係はないのだ。オリバーの身を凍えさせるのは自らの内にある罪で、糾弾の予感ではなかった。自分の中にあるものだから、鎧で守ることもできない。

 何もかも忘れて、自分はそこそこいい人間だと思って生きてきた。でも、——どうなんだ? これはそこまで責められるようなことなんだろうか? 俺だって子供だったんだ。どうすればいいか分からず、怖くて何もできなかっただけで、——違う。どうするべきか分かっていた。分かっていたのにやらなかった。巻き込まれるのが嫌だったから。

 あのとき見たものは覚えている。忘れたふりをしてきただけだ。

「オリバー?」

 弾かれたように振り返る。上司は身を竦ませて、それを誤魔化すように苦笑いをした。

「どうした? 人でも撥ねてきたみたいな顔をしてるぞ。まだ休憩中だろ?」

 目を逸らし、呼吸を落ち着ける。「ええ、はい。でもあまりにも暑くて」

「確かになあ。こう暑くちゃのんびりランチを探す気にもならない」上司は手に持ったコーヒーを一口飲んで、「お前、五階の新しい店は行ってみたか? 韓国料理屋。なかなかいいぞ」

「五階、……いえ、まだ」入った初日に行った。「ちょっと行ってみます」

「そうしろ。体調が悪そうだ、崩す前に対処しないとな。知ってるか、コリアのサムゲタンってヤツを? 東洋医学のナンタラで、風邪などすっかり治っちまうらしい」

 東洋医学のナンタラで、この冷え切った芯は温まるだろうか。それなら試してみてもいい。上司に礼を言い、鞄を持って席を立つ。確かにこのままオフィスにいるよりいくらか気分はマシになりそうだ。

 オフィスのある高層階から五階まで降りて店へ行ってみると、客は二、三人いるだけだった。雑談していたウェイターのうち一人がこちらへやってきて、人数を尋ねる。一人だと告げると、お好きな席をどうぞ、と言われた。わずかな客からも遠く離れた窓際の席を選んだ。

 サムゲタンを待つ間、脳裏を占めていたのはやはり過去のことだ。十年前の記憶。当時、オリバーは寄宿生だった。家から最も近い場所にあるパブリックスクールに入り、母と離れる心細さを押し殺して過ごしていた。入学のその年、同室となったのが、カーティス・シザーフィールドだった。

 一般庶民の出だった己が彼の立ち位置を知るまでにはやや時間が要った。もちろん彼は自ら階級をひけらかすようなことはしなかったし、周りの対応や噂話から爵位を察したのはしばらく経って、寮生活にも慣れてきた頃だ。彼は校内で基本的には「シザーフィールド」と呼ばれていたが、「未来のアイゼルレイン伯」だとか、そんな言い方をされているのを聞いた覚えがなくもない。先ほど脳裏に引っ掛かったのもその記憶だろう。

 そもそもパブリックスクールでは滅多に下の名を呼ばない。自分も「ランバート」と呼ばれていた。しかし上流階級アッパー・クラスの人間と違ってこちらは家系もなにもないから、たまたま同じであるからと言って——母の名前を見て——カーティスが俺を思い出したかは分からない。いや、思い出したはずだ。そして雇う人間の素性くらい調べているに違いない。オリバーという名の息子があの学校にいたと分かればそれは確実に俺となる。つまり、彼は、……俺の母だと、百も承知で雇っている。

 寒気がひどくなった。

 どういうつもりだ? 何をするつもりで? それとも深い意味なんてない? そんなわけがない、何の意味もなく、彼が俺とつながる相手を身近に置いておくわけがない。やはり恨んでいる? 見殺しにしたと。でも言わないでと言ったのは君じゃあないか、——そんなの逃げだ。助けてほしかったに決まってる。俺はそうしなかったのだ。全部分かっていて、——そもそも、俺はちゃんと知っているじゃないか。

 カートが人を、殺せる男だと。



 十一年前、——校の一年生だった爵位持ちの〝カーティス〟。これだけ情報が揃えばフルネームを探すのは簡単だ。関係者や学校を訪ねていくにも及ばない。現代のネット社会では、いくつかのキーワードを検索すればすぐに身元が分かる、……フェイスブック様々である。

 ジョイスはアプリを使って「カーティス・シザーフィールド」のアカウントページにアクセスした。しかし登録はしているものの、彼は投稿の全てに鍵をかけていて、最低限の使用にとどめている。アイコンもデフォルトの人型のままだ。基本的なプロフィールが確認できただけだった。後のことはもう少し時間をかけて調べねばならない。

 あれこれとページを辿るうち、十一年前に——校の一年生だった学年が使っているハッシュタグを見つけた。それを遡り数多の投稿を読み込んでいく。投稿そのものよりもむしろコメント欄が参考になる。人間関係はそこから滲み出る。それからいいねL i k eをつけている人物。フォロー関係。自分が鍵をかけても、ほかの繋がった人間があけっぴろげでは意味がない。刑事の身としては助かるが。

 彼のことを詳しく知っている人間をまずは見つけたかった。カーティスが映っている写真はないかと探る。育ちの良さとネットリテラシーにそこまで関連はないらしく、顔の分かる画像を上げている者はわかる範囲だけで何人もいた。ある女性が投稿したクルーズ船の写真から、ようやくカーティスの顔を突き止める。粗さのない端整な顔立ち。ともすると少女のようにも見える。黒髪に真っ青な瞳。かなり珍しい組み合わせだ。投稿者の女性やパーティーの列席者とは、あまり交流がないようだった。付き合いで一度参加した、という程度のことらしい。

 スクロールしていると、不意に集合写真が現れた。三年前の同窓会だそうで、アカウントは同窓会の企画運営のために有志が作ったものと思われる。小洒落たカフェやダイナーの店先を彷彿とさせる、レタリングを用いたアイコン。集合写真は何枚かあり、そのうちの一枚にこんなキャプションがついている。

〈お次は、一年の時の同室同士。肩を組んでパシャリ!〉

 カーティスの姿を探す。見つけ出すまでに時間がかかった。派手な特徴があるならともかく、整った顔をしている者は存外に見つけにくい。整っているとは裏を返せば引っ掛かりがないということだ。こうした集合写真であると映る顔も小さいから、印象がなく、埋没してしまう。

 端のほうにカーティスはいた。誰とも肩を組んでいない。

 コメントを眺める。いくつかのくだらないやり取りの後ろに、非公開のアカウントからのコメントがついていた。もしかしたらカーティスかもしれない。それに対して誰かが返信している。ID : Richard_good_boy。《ランバートは残念だったな、お母様が風邪引いたんだとさ》。

 もう一度写真を眺める。カーティス以外に、相手が不在の者はいない。

 いくつかのキーワードと共に「ランバート」を検索する。ヒット。「オリバー・ランバート」。出身校や卒業年度のほか、大手証券会社の名前がある。それから母子家庭というワード。ずいぶん苦学したのだろう。ツイッターとインスタグラムもやっているようだ。大変助かる。仕事柄か、つぶやきは大半が日常の雑事で、仕事についての言及はほぼない。だいたい隔週に一、二度つぶやいている。少し遡ると、去年の夏の投稿に写真が貼ってあった。妙齢の女性と頰を寄せ、ホテルのプールを背景に楽しそうに笑っている。リプライがいくつかついていた。

《いいなあ、お母さんとバカンス?》

《そう! たまには親孝行しないと》

《オリバー、麗しきマリアによろしく》

《ジェフが今年も自家製ピクルスをご所望らしいって伝えておくよ》

 つまり母親はマリア・ランバート。あるいは息子にだけ夫の姓を使わせている可能性もあるか。彼の父とは死別だったのか、それとも離婚であったのか。年齢的に活発にSNSを使っているとは考えにくいが調べはつくだろうか。いや、何も彼の母親を詳しく調べる必要はない。まずは彼と連絡を取り、カーティスについて聞き出さなくては。

 ここから先が問題だ。つまり、俺は、何と言って協力を願えばいい?——これは〝事件〟の捜査ではないのに。



 とにかく眠い。生理前は何をしていても気もそぞろで、仕事は捗らないし、常になんとなくイライラとする。月に一度五日間、前後を含めればむしろほとんど半月も気分が優れないとは、あんまりな格差じゃなかろうか。人生のほとんど半分は体調が悪いということだ、初潮前と閉経後を抜きにすれば。実際のところ、閉経後は閉経後で様々な支障があると聞く。馬鹿にしている。創造主とやらは、よほど才能がないかあるいは、救いようもないセクシストに違いない。

 こんな日に真面目に仕事を進める気になどなれるわけがない。だからエレノアは勤務中というのにずっとスマートフォンをいじっている。幸い最近は、少年たちによる犯罪がややなりを潜めている。……失踪のことが影響しているのか。慎重に動くようにしているのだろう。

 ツイッターのタイムラインを辿る。ほとんど見る価値のあるものはなく、こんな風に時を費やすのはただただ惰性の一言に尽きる。それでもしっかり気合を入れて仕事をするエネルギーはないから、ついつい画面を見てしまう。こんなことをするくらいならいっそ昼寝でもしたほうがマシだ。そう思うことでさえ気分が塞ぐ。悪循環だ。

 誰がリツイートしたのやら、それともツイッター社の広告か、あるいはトレンドに載っているからご親切に伝えてきているのか。特に興味のない話題が次から次へ流れていく。一応、硬派な報道雑誌が載せた情報には立ち止まる。とはいえ今の自分には関係がないものばかりだ。がんの新しい治療法についてはがんになってから知ればよい。

 と、ある見出しが目について、エレノアは指を止めた。普段は見かけないアイコンだ。フォローしていない雑誌のアカウント。取材力はあるようなのだが扱うネタが玉石混淆で、あまり品のない印象がある。今回は玉のほうだろうかと貼られたリンクにアクセスしてみる。

『ライデンナッツの皮剥ぎ魔、保釈 半年前ひそかに』

 ライデンナッツの皮剥ぎ魔。そういえば少し前、一時期ニュースを賑わしていた。地方部の事件とはいえなかなかショッキングだったから、都市部で報道されたのも納得だ。地方と言っても、著名な繁華街があり、まあまあ活気のある地域である。かなりの人数を殺したはずだが多くが証拠不十分で、一人か二人の分しか起訴できなかった上、逮捕時に警察側に不手際があったそうで、かなり犯人に有利な判決になったところまでは覚えている。そうか、保釈されたのか。腹立たしいことだが、どうしようもない。連続殺人だったよな。標的はどんな人だったか——

「エレノア」

 背後で警部の声がして慌てて画面を消した。振り返ると、少年課の課長であるソフィア・コリガンその人が、じっとりした視線を据えている。

「いやしくも勤務中ですよ。何をしてらっしゃるの」

「すみません。つい……」

「気分が悪いのでしたら自己判断で休みなさい。勤務中にだらけていていい理由にはなりません」

「はい。失礼しました」エレノアは恥ずかしくなった。気づくと身が縮こまっている。

「そういえば……」ふと、彼女は呟いて、それからあたりをさっと見回し、周囲の目がないことを確かめた。「報告書を読みました。失踪ですって?」

「あ、はい。詳細は不明で、断定できはしないのですが……気になりますので。少し調べています」

 先日、イーサンやロナルド、それから黒人男娼たちの姿が街に見えないことについて、報告書を出しておいた。ジョイスから告げられた小指の件は伏せている。本当は伝えたほうがいいが、その件は彼の手柄だ。横取りするようで気が進まなかった。とはいえ全てを黙っているのも得策じゃないだろう。この件は、おそらく、本当に〝事件〟だ。

「いなくなっているのは、身寄りや戸籍のない子たちね」

「はい。成人が主ですが」

「そう……」ソフィアは言いながら、人差し指を口元へやって、爪を噛んだ。「最初の失踪と思しい人物がいなくなったのはいつだったかしら」

「今年の一月です。推定ですが。とにかくまだまだ不明点ばかりで」

「報告ありがとう。引き続き調べて。何か分かったらすぐ教えて頂戴」

 忙しなく言うと、ソフィアは足早にその場を去った。その背中へ遅れて頷きながら、エレノアは意外な感じがした。今の段階でこれほど前のめりに調査を求めるとはどういうことだ。ただでさえ業務はパンク寸前、正式に立件された事件の捜査すら疎かになっているのが現状なのに。多分、重大な情報が、上層部にだけ上がっている、——

 もしかして、私たちは何か、大きな思い違いをしている?



     15



 カーティスは実家に戻っていた。無数にある小部屋のうちの一つに落ち着き、ハーブティーを飲んでいる。部屋には花瓶がいくつも飾られ、窓辺やマントルピースの上を彩っていた。中には花瓶でないものもあるが、いずれにせよ陶器や、磁器の類いだ。カーティスの陶磁器趣味は彼独自のもので、親にそれはなかった。だが古い家ゆえ、流行した時期に遠い先祖が集めた物は多く存在している。木漏れ日を肌に映した窓辺の磁器を眺めながら、カーティスは思いを巡らす。

 先日、マリアと交わした会話に、彼は大いに満足していた。これでリスクが一つ減った。マリアを雇う段階で、その息子がオリバーであることはもちろん把握していたが、そうした認識が表に出ればあらぬ疑いを招くだろう。というより、そもそも、順序が逆だ。オリバーの母親だからマリアを雇った。運任せのやり方だったが。

 マリアが家政婦として優秀なことは間違いないが、その家に重宝されるには、やはりひとところに長く勤めることが肝要だ。卒業後、オリバーの母・マリアの勤め先が懇意の公爵家と知ったとき、いつかはそれを利用して彼女を手元に置きたいと思った。そのきっかけが両親の死となったのは悲しいことだが、思いがけず早く実行できたのは自分にとって幸いだった。両親の死から葬儀までの間に、かの公爵に助けを求めた。

 両親の死を機会に、居住地を都心に移そうと思う。だが家の管理は今までどおり馴染みの者たちに任せたいから、新たに一人雇い、連れて行きたいと考えている。とはいえ有能な者がいいし、素性の知れた、信頼できる者であることが大切だ。おこがましい願いなのだが、公爵の家に勤める者の中に、適任はいないだろうか。代替わりをするにあたって、家としてでなく個人として頼れる者が必要なのだ。

 公爵は気のいい人で、カーティスのことを息子のように可愛がってくれていたから、誰か一人譲ってくれるであろうことは確信していた。問題はそれが誰になるか。家に長くいる使用人は家そのものの宝である。だから最重要の人物をこちらに寄越すわけはない、——彼の寛大さゆえに気前よくそうされても困るので、言い方には少し気を付けておいた——マリアが公爵家にいた期間は十五年弱。ちょうどいい立場のはずだ。

 果たして予想は的中した。公爵は葬儀の席に彼女を伴って現れた。

 だがしばらくは相続の諸々で大変忙しく、転居や雇用は二の次だった。ようやくあれこれが落ち着いて、つい数ヶ月前に彼女を雇った。以来、自分がオリバーを知っていることをマリアに悟らせる良い機会がないか、ずっと窺っていた。これで彼について気兼ねなく話せる。

 雇い主と息子との意外な縁を喜んだ母が、それを息子に知らせるまでにそう長くはかからないだろう。もしかしたらすでに伝えているか。自分の母親が僕に雇われていると知ったら彼はどう思うだろう。おそらく怖がるに違いない。彼は僕が彼のことを恨んでいると思っている。彼の性格を考えれば当然そうなる。損な性質たちの人だ。

 僕はただ、今までと変わらず、黙り続けてほしいだけだ。

 物思いを破るように、端末が鳴った。カーティスは驚いて、机から拾い画面を見つめる。表示名を確かめると、すぐさま通話ボタンに触れた。

「アシュリー。どうかしましたか」

『ご機嫌よう、ロード』温かみのある女性の声が聞こえてくる。『ある程度のことが分かりましたので、一旦ご報告をと』

「ありがとうございます。お待ちしていました」

『まずエドワード様の近辺ですが、特に注意すべき人物は確認しておりません。彼と親しい間柄にある警察関係者は、エレノア・ピアースという女性警察官くらいのようです。彼女とエドワード様の関係は良好と思しく、信頼関係があるようですが、彼女は少年課の所属であり、放置しても問題はないものと見られます。また、彼と関わりのあるスラムの関係者についても、危険人物、もしくは強い悪意のある人物は確認できておらず、エドワード様に差し迫った危険等は見受けられません』

 ほっと息をつく。面倒ごとや厄介ごとの恐れは今のところないらしい。

 アシュリーは父が存命の頃から雇っていた人物の一人で、父の死後に存在を知った。小さからぬ規模の資産を所持している者であれば、このような人材を一人や二人は確保している。

「当面は支障ないということでしょうか」念を押すように返事をすると、意外な答えが返ってきた。

『差し迫った問題はないかと。ただ、気になる点が』

「なんでしょう?」自ずと声が強張る。

『一週間ほど前からエドワード様の周辺に浮上した者がいます。遠方に所属の刑事のようです。エドワード様は直接の捜査対象ではないようですが、件のエレノア・ピアースを含め周辺人物との接触が多数。また先日、直接の接触も確認いたしました。氏名は押さえました。彼について調査いたしますか』

「お願いします。詳しい状況を調べてください」少し考えて、付け足す。「脅威となる可能性があれば、過去や因縁も」

『承りました。現在わかっていることについては書類にて別途ご報告します。例の刑事については、近日中に』

 慇懃かつ過不足のない返事でもって通話は切れた。気にはなるが、詳しいことは、報告を待って検討すると決める。近日中などと言ってはいたが、纏まった報告書は一日もすれば手元に届くだろう。携帯を机に置いたとき、扉をノックする音がした。はい、と向こう側に呼びかける。背の高い影が室内に入る。

「ロード」淡々とした低い声が響いた。「準備ができました。医務室へどうぞ」

 近ごろ雇ったばかりの女性だ。名前はリンダ・マクナルトン。職務に忠実で、余計なことに興味を示さない人物を探したのだが、どうやら正解だったと見える。カーティスが彼女に依頼していることは法を犯してはいない——あるいは犯していたとしてもさほど問題にならない——はずだが、一般的な感覚からして異様であるのは言われるまでもない。詮索されたくなかった。どう言ったってきっと理解しない。

「ありがとう。今行きます」

 応えて、ティーの残りを飲み干す。席を立ってシャツのカフスを外しながら彼女に続いた。彼女は前を見据えたまま歩いて、無駄のない動作で扉を開ける。医務室と言っても元々あった小部屋をそれに割り当てただけで、他の部屋と変わらぬ内装にただ医療器具が置いてある。窓に近い椅子に腰をかけた。

 輸血の用意は整っていた。袖をまくり、腕の内側を晒す。リンダがアルコールを含んだ脱脂綿を太い血管の上に滑らせ、見事な手際で針を刺した。医療用のテープで固定する。

「体に異変があれば仰ってください。拒否反応が突然出るということも考えられますので。携帯にかけてくだされば出ます」

「ありがとう、何かあったらすぐ伝えます。おつかれさま」

「パックが空になる頃にまたお伺いします。それでは」

 言うべきことを言い、彼女は出て行った。ありがたいことだが笑ってしまう。言えた義理じゃないけれど、彼女、やっぱり変わっている。

 カーティスはついこぼれた笑みを仕舞おうとして努めつつ、輸血パックを見上げた。透明な袋に白いインクで記入用の枠が印刷されている。そこにはリンダの筆跡で、油性ペンの文字が記されていた。O型、二十代男、疾病なし。

 律儀なことだ。僕しか使わないのに。



 疲れている。色々なことが立て続けに起こり、考えても結論が出ない。学があれば違ったろうか。だがどんな教養もこんな問題を解決する手助けにはならないだろう。むしろスノッブどもには分かるまい。これは俺たちの領分だ、——生き延びるための判断や、直感。

 エドワードは無人のリビングで、一人をいいことにため息をついた。エレノアが訪ねてきてから数日経つ。警察はカーティスについてどれほどのことを調べ上げたのか。彼は、明らかにどこかおかしいが、それが罪を伴うものか、悪意に満ちたものなのかどうか、エディにはいまだに答えが出ない。付き合えば付き合うほど、彼はそんなに悪い人間じゃないような気がしてくる。そう思う自分を危険だとも思う。いつもビリーに言われているだろう、俺は「甘い」と。すぐ情が移ると。

 思った直後、反駁したくなった。本当にそうなのか? 俺は今まで人に裏切られ、こっぴどく損をした覚えはほとんどない、——ガキの頃を除けば——俺は信じられる奴しか信用しない、裏切るような奴は信じないだけだ。目や顔を見れば性根は透ける。心からの言葉か、すぐ分かる。

 戸口で物音がした。身構えると同時、馴染みの声がする。「よう、エディ。いるか?」

「いるよ、ビリー」大声を返す。それにしてもビリーの声は、なんとまあよく通ることか。車が飛び交う大通りの向こうから声をかけられても、彼の声はまっすぐ突き抜けてくる。

「お、いたいた。ナゲット買ったんだ」やがて両手両腕に荷物を抱えた彼が入ってきた。揚げ物の強い匂いがする。「ガキどもと一緒に食うかと思ったんだが、いねえのか?」

「いねーな、どっかで遊んでんだろ。食い逃すとは運の悪いやつらだ」

 最近ガキどもは示し合わせて、早くから外へ出ているようだ。夜にはちゃんと帰ってくるので構わないが、チームで盗ることにしたのだろうか。

「ってかエディ、髪伸びたなあ」テーブルに荷物を置くと、ビリーはハサミを切る仕草をした。「また切ってやろっか? さっぱりさせてやるぜ」

「そのうちな」渋い顔になった。ビリーも同じように顔をしかめる。

「そう言ってっとまたやらねえだろお? 目にかかっても知らねえぜ」

「もうかかってるよ。じっとしてるのがヤなんだ」

「どうせほっといても動かねえくせに。同じことだろ」

「動かねえのと動けねえのとじゃわけが違えんだよ」

「超高速で終わらせてやるぜ? 俺の神がかった手さばきでさあ」

「それでめちゃくちゃにされても困る。まあ、気が向いたら頼むよ」

 並べられたナゲットに手をつけながらおざなりに返すと、一生気が向かねえくせに、とビリーは拗ねたように言った。思わず笑う。ビリーは誰にでも友好的だが、一方で設けた壁を滅多に越えないところがある。ある意味自分と似ているし、ある意味、自分と逆とも言える。

「しかしまあ、最近、やりづらいなあ」ナゲットを二、三個、一気に頬張ってビリーは言った。

「やりづらい? 何が」

「いろいろだよ。なーんか街が妙な雰囲気だ。あのヘンテコな刑事のおかげか、みんな失踪のことを知ったし……みんな不安がってる。不気味だもんな」

「お前はどう思う? 誰が犯人だ」

「分かりっこねーよお。エディはどうなの? お前頭いいじゃんか」

「嫌味か? だからお前に聞いたのに」

「いやいや、マジに。エディは勘がいいし」

 勘か。自分の感覚で言えば、間違いなく〝彼〟は犯人じゃない。

 けれどもやっぱり変なのだ。彼には不可解が山積みで、得体が知れず、信じきれない。『金髪碧眼』が狙われてるとするなら、そしてその真の目的が俺だというなら、確かに彼が怪しい。だがはっきり消えたと言える者以外にも見当たらない者はいるし、彼はあくまで俺にしか興味がないようにも見える、——自惚れだろうか?——結局のところ全ては彼のその〝好意〟が問題なんだ。なんで俺なのか、理由さえ分かれば。

「そういえば今日だよな」

「は?」

「お前がガッコーを出た日だよ。ずいぶんご陽気な日に出てったもんだぜ」

 窓の外を眺めながら大げさに目を細める彼に、エディはうんざりしたように返す。

「俺が出た日は雨降ってたよ」

「マジ? せっかくの夏になあ。そろそろ休みって頃だろお?」

 はっきりとは言わないが、ビリーはなぜエディが学校を出たのか、知りたがっている。だがエディがそれに答えたことはない。あまり思い出したくはないし、正直、記憶が曖昧だった。混乱していて焦っていた。あのあと、どうやって外へ出たのかも……

 何かが引っかかる。思わずナゲットを掴んだ手を止め、布をたぐって確かめるように、エディはその引っ掛かりを探った。なんだ? 何が、……ああ、そうだ。電話番号のメモ。ウォルトが熱を出したとき、リュックの底から出てきたもの。カーティスが渡してきたのはあの日だった。あの日、バス停で、彼が隣に——

 なぜだ?

 なぜ、彼はバス停にきた? 俺がバス停にいると分かった?

 血の気が引いていくのが分かる。不意に固まった自分を、ビリーが訝しげに見つめていた。「どうした、エディ? 顔色が悪いぜ」。うるせえ、分かってるよそんなこと、……考えてみればおかしいじゃないか。あの日どうしてカーティスは俺が逃げ出したと気づいたんだ。あれは聖書の授業のあとで、もう昼食の時間だった。他の生徒はとっくにみんな食堂へ移っていたはずだ。彼一人あの場にとどまって、一部始終を見ていたとでも考えなければ辻褄が合わない。彼だけが、残っていた。どうして?

 ああ、なんだ。そういうことか。

 エディは金縛りが解けたような気分になった。全て理解できた。むしろもっと早く気づいてもよかったようなことだ。分かればなんでもない。急に緩んだ顔を見て、ビリーの眉間の皺が深くなる。おかしくなって喉を鳴らすと、今度は彼は身を引いた。気味悪そうに問う。

「何笑ってんだ?」

 エディはそれには答えずに手に持っていたナゲットを頬張り、しばらく無言で咀嚼していた。と言っても笑いは依然として彼の目元と口元に残り、ビリーはとうとうふてくされたような顔つきになる。やがてナゲットを飲み込んで、エディは満足げに口にする。

「なるほどね。俺は、救世主ヒーローってワケだ」

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