第4話レース後編

その後も、信念の殉教者として、フルスロットルで駆け抜けてきた亥。アドレナリンが減少してゆくと、亥の目にさえ見える形で、街並みが変わってきていた。

「なんかデカイ建物が増えたな」

 銀座。我が物顔の高級車がちらほら走っている。銀座は、ニューヨークやビバリーリルズを真似しているみたいだが、昼間は小綺麗にしたババアしかいない街だ。

 日本は全てアメリカの真似である。日本アカデミー賞?くだらない。アカデミーという時点で日本ではない。本場アメリカでは、トップクラスの俳優ですら、長年受賞できない人もいる。役の為に、体重を大幅に増減したり、髪を抜いたり役者のストイックさも違う。それに比べて、日本ではそこらでスカウトされた、グラビア上がりの、頭もアソコもスカスカのスカタン女でも賞を取れてしまう。比較すると、お遊戯会のように茶番でしかない。

 しかし、演歌と相撲だけでは退屈に殺されてしまう。日本は偽物としてしか成り立たない国なのだ。パクれるものはパクり、使えるものは使う。敬語のようにただ使っておけばいいシステムが構築されている。

 現代の日本は、刀を持たない金髪の侍もどきが、サムライジャパンと呼ばれている。しかも格下をボコって喜ぶ始末。自国の誇り(民度)など敗戦と共に捨てたのだ。

 銀座も、そんな日本を代表するフェイクタウンの一角だ。

「しかし、人間が多いな、ぶつかっても知らねーぞ?」

 言ったそばから激突したのは、半開きになった黒塗りの高級車のドアだ。引っ越しセンターではないナンバー8888は、わざとぶつけられるようにドアを開けて、路上に止まっていることがある。

「おうコラ!何してくれてんだ?」

 ローデシアンのパイプを咥えマオカラーのスーツを着た、強面の男が出てきた。

 しかし亥は既に、遥か先を走っていた。東京で猪にぶつかったら保険が降りるのか?そんなこと猪には関係ない。

「だから言ったのによ」亥は東京の夜を走り続けた。


      【マオカラー】古代の人間が着ていたスーツ。中国マフィアのパワーが備わっているが、デザイン性を極限まで削ぎ落とした仕様。


 ジャジーなバーを出ると、外はすっかり夜になっていた。頭がクラクラして、視界もボヤけている。

「今のうちに逃げないと」子は、おぼつかない脚取りで、ゆっくり走り出した。その時、バーからは猫が放り出されていた。

「くっ、酷い目にあった」猫もフラフラだが、子を視界に捉えると、痛みに耐えながら走り出した。子が進む先は、突き当たりがT字になっている。

「右か、左か」左は沢山の音がする。表通りは避けたい。子は右に曲がった。

「い、行き止まり…⁉」

 前方には聳え立つ壁が、立ち塞がっていた。そして壁には、不気味に笑う死神の姿が浮かび上がっていた。死神からは強烈なアンモニア臭がした。

「もう逃げられないぞ、チェックメイトだな」

猫がじわりじわりと近づいてくる。

「選ばれた地位とは揺るがない。それが食物連鎖だ。分かるか?餌よ。生きたままはらわたを貪ってくれるわ」

 絶対絶命とはこのことだ。猫が襲いかからんとする、その時だった!


 壁の背後から、もの凄い風が吹き荒んできた。粉塵が舞い、眩しい閃光に照らされ、目も開けていられない。まるで巨大な扇風機の風を浴びているようだ。そして劈(つんざ)くようなこの音は…。

「ヘリコプター⁉」壁の裏から巨大なヘリコプターが出現した。子の脚は、地面とさよならをして、手を振る代わりに脚をバタつかせた。

「わ、わ、わ〜!」子は風に拐われて猫の頭上を飛び越えた。猫は必死に地面にしがみ付いている。

 どうやらこのゲームは、チェスでは起こり得ないことが起こるらしい。またしても奇跡が子を救った。強烈な風に飛ばされて、子が着地をしたのは表通り。しかも車道のど真ん中だ。運がいいのか、悪いのか。

 答えは最悪だ。なぜかというと、着地したのは車道というだけでなく、その上誰かが吐き捨てたチューインガムの上だったからだ。緑色のガムが、べっとりと右脚にこびり付いて離れない。

 生と死は表裏一体である。境界線はない。歩道のすぐ隣、ビルの屋上、駅のホーム。キッチンの棚の中。常に身近に存在する。

 ピストルで頭を撃ち抜き、目を覚ませばすぐ死の世界だ。たった一秒でも行けてしまう。

 子がいる場所も、まさに別世界への入り口だ。後方に見える信号が赤なのが、せめてもの救いだった。まだ車は停止している。

「何でこうなるんだよ!早く何とかしなきゃ、車に轢かれてぺしゃんこだ」ヘリコプターが去っていくと、猫は何とか目を開けた。「鼠は何処だ?」振り返ると、表通りで身動きがとれない子の姿を目認した。猫は一直線に子に向かって走りだした。


「この付近で姿を見失った猪ですが…。いました!凄いスピードで道路を走っています!」

 ヘリコプターが上空から撮影をしていた。

「この辺りも人が多いな、人間は夜眠らないのか?」亥が感じていた音は、ヘリコプターが追跡していたものだった。亥は、車と車の隙間を、バックミラーをバキバキと割りながら走っている。

 前方の信号は赤だったが、身体の構造的に上は見れない。そもそもから、ずっと無視してきた。亥が信号に差し掛かる瞬間、コンマ遅れて信号が青へと変わった。亥が車を引き連れて走る先には、身動きのとれない子の姿が!亥が走っていたのは新宿だったのだ。

「ちっ、しつこいな」しかし、上空から追いかけてくるヘリコプターに気を取られていた亥には、子が見えていなかった。

「鬼ごっこも隠れんぼもお終いだ!吾輩の怨み受け取れ!」

 子の横からは、猫が飛びかかろうとしていた。子は後方から迫る亥と、横から飛びかかってくる猫に挟まれて、まさに四面楚歌。今度こそ年貢の納め時だと確信した。

 同時に、必死に動物達を探していた未も、ようやく子を発見した。

「子ちゃん、み〜っけ!」子にタッチすると。

「うわぁ‼」そこには、身体を真っ二つに引き裂かれた、無残な子の亡骸が!真っ赤な血が、こちらに向かって流れてくる。

「う、嘘だ…こんな…」腰を抜かして、後退りすると何か固いものに触れた。

《ワレワレハ ウチュウウシダ》そこには、改造され変わり果てた丑が、未を踏み潰さんと襲ってきた!

「助けて〜!」何とか回避して逃げると、目の前にいたのは。

「熱い〜!熱いよ〜!」火だるまになって、苦しそうに泣き叫ぶ寅が!

「なんで…なんで…」未は錯乱状態でその場を逃げ出した。しかし、上手く走ることができない。すると、何かが脚に当たり、未は躓いて転んだ。それは静かに横たわる卯の姿だった。頭部はもはや原型を留めていない。

「卯ちゃん…。なんでー‼」発狂する未の前に、辰と巳が力なく未の目前に落ちてきた。

「二人共目を開けてよー‼」返事は返ってこない。

 窮地の未に、足音が近づいてきた。


「未くん!僕に乗って!」親友の午が助けに来てくれた。

「午ちゃん!良かった!」少し走ると午は大きく体勢を崩し、その場に倒れ込んだ。

「午ちゃん!しっかりして!」よく見ると、午の脚は全てバラバラな方向に曲がっていた。

「未くん…僕を楽にして…痛いよぉ」

「僕にはできないよ!」

「…友達だと思ってたのに…うっ!」午の呼吸が止まった。

「午ちゃぁぁぁぁん‼」未が泣き叫んでいると、暗闇に申が立っていた。

「未、何泣いてんだよ!」

「申ちゃん!」

「お前の身体綺麗じゃないか。見ろよこれ」申がそう言って振り返ると、申の背中は上から下まで、刺し傷でいっぱいだった。

「申ちゃん…」申は膝から崩れ落ち、そのまま倒れて動かなくなった。肉塊と化した申の頭上からは、沢山の白い羽が舞い降ってきた。

「この羽は…酉ちゃんの…」

「骨好き!骨好き!骨好き!」

「戌ちゃん!大変だよ!皆んなが…」

「見て見て!この骨、酉のだよ!あははは!」

 そう言うと、戌はバリバリと骨を噛み砕き、飲み込んだ。すると、戌は苦しそうにうめきだし、戌のお腹を突き破って猪が出てきた。

「うわぁ!」

「俺が勝つんだ!絶対俺が!俺が!」亥は他の動物達の死骸の上を走り回り、心臓が破裂して息絶えた。

「そんな…嘘だ!こんなの嘘だ!神様!何処にいるの!?神様ぁぁぁ‼」


 死を覚悟した子が、無意識に手を伸ばしていたのは、上空から照らす月明かりに向かってだった。その時自然と心から言葉が溢れでた。

「ごめんね猫。…さよなら」

 猫の爪が、子を切り裂かんとしたその時!子の伸ばした手が、亥の角を掴んだ。猫が切り裂いたのは、伸びきったガムであった。子はガムから解き放たれ、亥の頭に飛び乗った。

「ぐぬぬっ!」猫の怨念は、もはや身体に留めておけなかった。それを解放したのは、亥が引き連れてきた車であった。

「あぁ…なんて眩しいのだ」ヘッドライトが天国への光のように映った。

 次々に光が雪崩れ込んできた。猫は光の洪水に手を引かれ、肉塊を残し連れ去られていった。

「おい、丑の次は俺の上か?」亥が声をかけると、子は答えた。

「いや、乗る気はなかったんだけど」

「それよりどうだ?このサングラス」

「似合ってるじゃん」子の言葉に、気を良くした亥は、話を続けようとした。

「これはジョニーって兄貴がくれた物で、兄貴には綺麗な姉貴がいて!そんで俺達はヘルズ…」

楽しそうに話す亥の言葉を、申し訳ないと思いながら子は遮った。

「もっと聞きたいけど、僕疲れちゃったんだ。それにどうやら僕はもうゴールみたい」

「何だと?」

 子の視線の先には、光り輝く小さな渦が発生していた。亥の視点からは見えないようだ。

「僕はこれで肩の荷が降りた。話の続きは天界で聞かせてもらうよ」

「おい!どういうことだ?」

「僕のレースは楽しいものじゃなかった。君が少し羨ましいよ。まだ日にちはある、君は地上の世界を楽しんで」

「ゴールってどういうことだよ!?」亥が、再度質問した時には、子の姿はもうなかった。子は過去の楔を断ち切り、見事ゴールした。


「また子に負けた。あいつ何着なんだ?それになんで子に追いついたのに、俺はゴールできない?」亥は混乱していた。自分が何処を走っているかも、何処に向かって走っているかも分からない。確実にモチベーションが下がっているのを、心のどこかで感じていた。流石の亥も、精神的にも肉体的にも限界を感じはじめた。


 閉じ込められてから、どれ程の時間が流れたであろう。卯と有紗は、なす術がなく途方に暮れていた。

「お腹空いたわ」

「うん」

「そうだわ!確かポーチに…あった!」有紗のポーチには、ビスケットが一つ入っていた。

「半分こしましょう」そう言って、有紗はビスケットを半分に割って、卯に渡した。

「ありがとう」

 卯と有紗は仲良くビスケットを頬張った。夢中で食べる卯の頭に、滴が垂れてきた。見上げると有紗が泣いている。

「ママ…きっと心配してる」今まで励ましてくれていた有紗が泣いている。有紗はまだ小学生、当然だった。

「有紗、大丈夫?」

「…うん」

「僕がついてるよ。諦めないで出口を探そう!」

 今度は卯が有紗を慰めた。いつも慰められてばかりの卯は、それが初めてのことだった。自分の口から出た言葉に、自分自身驚いていた。そんな卯の目は、何かを発見した。

「有紗見て!あそこ!」卯は有紗の腕から飛び出し、エレベーターの中へと入った。

「どうしたの?」

 有紗が尋ねると、卯はエレベーターの中央で真上を向いた。

「あそこ、開くかな?」エレベーターの天井には蓋があった。

「でも、私の背じゃ届かないわ」

「あのシートの中は?」壁の隅には、汚いブルーシートが被さった、工具らしき物が置かれていた。有紗は、出口とは関係ないと思いスルーしていたものだった。

「何かあるかしら?」有紗はブルーシートを外した。プレゼントのリボンを解くのとは大違い。埃や粉塵が舞い、有紗は思わず目を背けた。薄らと目を開けると、意外にも今の有紗達にとって、喜ばしいプレゼントが入っていた。

「三脚だわ!これを使えば届くわね!」

「やった!」

 有紗は三脚をエレベーターの中央に運び、セットした。そして、三脚に上り蓋に手を掛けると。

「空いたわ!」有紗は卯を押し上げ、自分もよじ登った。

「有紗、見て!」

 有紗は立ち上がり、卯が見てる方向に視線をやると、壁伝いに梯子があった。梯子は高く上に伸びていた。

「でも、あんな高い所登るの?」

「ここにいても餓死するだけよ。登りましょう」そう言うと有紗は、卯をポーチの中にいれて、梯子を登り始めた。


 一方ママは。満月が夢の国を照らす中。何度呼び出しても、一向に見つからない有紗を必死に探していた。

「全く!当てにならないわ!」迷子センターで待つように言われたが、痺れを切らして飛び出していたのだ。従業員も、無線機を使って連絡を取り合い、懸命に探していたが誰も目撃者はいなかった。

「有紗!何処なの!もしかして…」ママの脳裏に、不吉な考えが芽を出した。

「私に似て可愛い有紗。誰かに拐われてしまったのかしら!?」

 ママが心配していると、近くの従業員が声をかけてきた。

「今無線が入りまして、建設中のアトラクションに、小さなゲロがあったみたいです」

「た、大変だわ!」ママは反射的に走って行った。場所も分からずに。すると、昼間迷子センターに案内してくれた、帽子の男と再び出会った。

「娘さん、見つかりましたか?」

「分かりませんが、建設中のアトラクションにゲロがあったと…もしかしたら娘のかも」

「それは心配ですね…僕もご一緒しましょう!」

「ありがとうございます」

「確かその場所は…あっちです!」ママ達はUターンして有紗の元へと向かった。


 その頃卯と有紗は。

「怖いよぉ」

「大丈夫、下を見ないで」

 梯子の中間地点、約地上から十五メートルの地点にいた。小さな身体で一歩一歩慎重に登っている。もしも有紗が足を踏み外せば、卯諸共あの世へ真っ逆さまだ。

「見て!月の光が差し込んでるわ」出口まではもう少しだ。

 その頃、従業員達はアトラクションの内部を探していた。

「いませんね」

「何処かにいる筈だ。隈なく探せ!」


「着いたわ!出口よ!」有紗は梯子の先の足場に登った。外に出ると、そこは地上三十メートル。脚がすくむほど高い。下には米粒みたいな従業員が集まっている。満月が手の届きそうなくらいに近く感じる。

「あれ!ママだわ!」有紗はママを見つけると大声で叫んだ。しかし声は届いていないようだ。有紗はがっくりと項垂れた。

「もう、だめだわ。私達ここで死んじゃうのよ…あぁ〜ん!」

「有紗…」この時卯は決意した。何故かは分からないが、そうするべきだと思ったのだ。

「有紗、君は帰れるよ!」

「えっ?」

 卯はそう言うと、地上三十メートルから大ジャンプをした。

「兎さーーーーん!」


 三十メートル下では。祈るように天を仰ぐママの目に確かに映った。満月に重なる卯のシルエットが。それを見ていたのは、もう一人。卯はどんどん落下してゆく。

「みんな…ごめんね」でもこれで、皆んな有紗に気づいてもらえる。卯が死を覚悟した時、死神を追い払ったのは、ママの華奢な腕だった。

「兎さん、捕まえた」ママは卯をナイスキャッチすると、卯が飛んだであろう方向に視線を向けた。すると、そこには有紗の姿が。ママは急ぎ近くの従業員に言った。

「娘はあそこにいます。早く助けてください!」従業員は、無線で中の人間に連絡を取り、直ちに上へと向かわせた。


「俺はなんて無力なのだ。いくら考えてもどうすることもできない」

「博識な辰が無理なら仕方ないよ、切り替えて謝ればいいんじゃない?それに祈るだけで何もしない連中も悪いのよ」

「う〜む」いよいよ煮詰まってきた。手立てがないのなら、巳の言う通りにするのが、賢明だと辰は思い始めていた。

「あ、あれ見て!」その時、巳が何かを発見したようだ。

「ん、キノコか。凄い色だな」

「あのキノコ汗かいてるわ」

 そこには怪しげな色彩のキノコが生えていた。ひだの部分に僅かな水滴が滴っていた。

「巳、よく見つけたな。あのキノコ、水分を含んでいるな」

 初めて名前を呼ばれた巳は、内心とても喜んでいたが、クールに切り返した。

「でも毒があるかもね」

「だから村人も食べないのかもな。ヒッピーが食べないってことは猛毒かもな」

「私、毒は平気だし水分をろ過できるかも」

「おお、頼む!」

 巳はキノコを丸呑みすると、口からピューッと、忍法乳しぐれの如く水を出して見せた。

「はは、凄いな!」

「飲んでみてくれる?私は分からないから」

 辰が返答に悩んだり、断ったりしたら深く傷つくことになるが、辰の手助けの為には言うしかなかった。しかし、巳の心配をよそに辰はすぐに返事をした。

「飲ませてくれ」

「死んでも知らないよ?」

「構わない。しかし、入れ物…」

「口開けて」巳は辰に近寄り、水を口移した。お互い初めてのキスであった。

「うっ!」

「辰、大丈夫!?」

「美味いな!」

「もう!脅かさないでよ!」

「わはは!冗談だ。しかし、これなら飲めるぞ!俺が根こそぎ集てくるから待っていてくれ」

「分かったわ、気をつけてね」

 辰は意気揚々とキノコを集めに行った。二匹が信じ合い、協力することにより、希望が見え始めていた。


 静かな夜の森。長い草木を掻き分けると、そこには綺麗な満月が揺らめく泉があった。申は脚をとめて、近くの切株に腰掛けた。

「どうすりゃいいんだよ⁉」頭を抱えて俯く申の足元に、リンゴが転がってきた。

「ん?少し腹を満たさないとな」リンゴを手に取ると、握力を使い過ぎたせいか、ポロリと落としてしまった。リンゴはコロコロと転がり、泉に落ちそうになったが、すんでのところで止まった。

 申がリンゴを拾おうと、かがんだ瞬間、泉から白い手が伸びてきて、リンゴを掴むと泉の中へと持ち去った。

「うわっ!」申が驚いていると、泉の中から女が姿を現した。その見た目は美しくもなく、いや、正直少しブスだった。Cの上といったところだ。

「あなたが落としたのはリンゴですか?それともペンですか?それとも、ペンの刺さったリンゴですか?それともそれとも寺○心の眼球ですか?」

 申は戸惑いながら答えた。

「…リンゴだ」

「正直でよろしい」そう言うと、女は泉の底へと潜っていった。


「なんだったんだ?」申が呆気にとられていると、再び女が顔を出した。徐々に全身が露わになってゆく。なんと、再度登場した女は全裸だった。

「正直に答えたご褒美よ」

 何故だろう?少しブスなくらいが興奮する。

顔の程よいブスさと、綺麗な身体のギャップは、典型的なオカズ女だ。造形が美しすぎる女を、男がオカズにしないのは、美に対する冒涜と感じてしまうのが原因か?

「泉の水を温泉に変えました。さあ一緒に入りましょう。リラックスできますよ」

 申は温泉が大好きだ。特に冬場の温泉は骨身に染みる。

「ま、ちょっとくらいいいか」申は温泉に飛び込んだ。

「気持ちいいでしょ?」

「ああ、いい湯だ」

 女が擦り寄ってきた。

「あなた、顔が赤いわよ。照れてるのてる?」

 うるさいなブス、元々だわ。それに口臭せーなと思ったが、なんとか留めた。

「何かしてほしいことある?」

「何でもいいのか?」

「ええ、たっぷりサービスするわよ」

「じゃあ戌を助けてくれ」

 申の思わぬ返答に女は恥をかかされたが、恥の上塗りをしないよう、すぐに切り替えた。

「いいでしょう、では上がって待ちなさい」

 急に貫禄のある口調でそう言うと、女は再び泉の中へと潜っていった。三分後、再度出てきた女は、とびきり美人になっていた。申はその美貌に目を奪われた。

「顔、変わってねーか?」

「先程は相手のレベルに合わせただけです。私の名は森野 泉。さあ行きましょう」森野は小さな復讐に成功した。

「俺は申だ。よろしく頼む」森野 泉がパーティーに加わった。


 目的地は遥か先だ。果たして、こんなペースで間に合うのだろうか?長時間の飛行により、なんとか高度八、八八メートルまでは飛べるようになった酉だが、遅咲きのメッセンジャーが必死に飛び続けるのは辛い。それに辺りは暗くなってきた。

「ここら辺は人間が少ないですわね」酉は地上に降りて休むことにした。降りた場所には、ビニールハウス畑があった。中は暖かそうだ。酉は手紙を脚に括り付けると、ビニールハウスで休むことにした。


「ログハウスは何処だ?」申達は迷子になっていた。

「お前ここに住んでるんだろ?」

「私は泉の精霊です。泉から出たのは初めてですから」

「頼りにならねーな」

「あ?コラ!泉の底に拐っちまうぞ!」

「こわっ!」

「しっ、黙って!」何かに気づいた森野は、申の口を塞ぎ、強制言わ猿シャファカッした。

「なんだよ!」

「しーっ!何か聞こえるのよ」

 申は耳を澄ませた。すると森野の言う通り、茂みの奥で何か聞こえる。何かいるようだ。

「行くぞ」申は先陣を切り、音のする方へ進んだ。頼もしい背中だが、尻は赤かった。申がバナナの皮を剥くように、長い草木を掻き分けると、そこには、見覚えのある顔が目に飛び込んできた。

「午!お前もここにいたのか!」

「?」

 午は不思議そうな顔をしていた。当然だ、そこにいたのは北を目指して旅立ったドープダイレクトだったからだ。ドープダイレクトは、何かを思い出したような表情を見せて、申に質問した。

「レースはどうした?」

「それより戌が大変なんだ!手を貸してくれ!」

 午が言ってたことは本当だった。午には大きな借りがある、返さなくては。ドープダイレクトは心の中でそう決意した。

「俺、いや僕に出来ることがあるなら力になるよ!」ドープダイレクトは、申と森野を背中に乗せた。これで仲間は揃った。後は戌を助けるだけだ。

「さあ、行くぞ!」申は勢いよく言った。

「で、何処へだい?」

「………」


 一方、戌は…。

「わっはっは!よっぽど腹が減っていたんだな!沢山食え!」男と一緒に、ご飯を食べていた。

「だが、骨は返せよ。これは飼っていた犬の亡骸だからな」男は戌がご飯を食べている隙に、ひょいと骨を取り上げた。

 男の名は豪(ごう)田(だ)。豪田は昔ペットを飼っていた。戌が掘り返した場所はそのお墓だった。豪田は犬と言っているが、正しくは馬だ。豪田は、馬を犬だと思って飼っていたほど、豪快な性格なのである。

 投球後のリアクションに困り、ボーリングに行きたくない人間のタイプとは、大分かけ離れた位置にいる。豪田は食事を片付けると、浴槽にお湯を入れてソファーに腰を沈めた。戌も豪田の足元に座ってくつろいだ。

「さて、テレビでも観るか」豪田は太い指のつま先で、リモコンのボタンを押した。

「頭脳は子供、身体は大人、親のお金で今日もパチンコ。その名も迷…」

「アニメか、くだらん」豪田はチャンネルを変えた。

「私はこの赤い青汁を飲んで毎日妻と…」

「ぼったくり商法め!俺は騙されんぞ」豪田は再度チャンネルを変えた。

「ギネス記録です!長らく更新されていなかった四十八手が四十九手になりました!記録を作ったのは、ゲスでクズの極みつけのボーカルの下衆田さんと、元SEX48のメンバーで現セクシー女優の、ゆびはら…」

「情け無い。バック一本で女のケツを叩くのが本物の男だ。叩いて我慢。叩いて我慢だ。分かるか?」豪田は、ジェスチャーを交えて戌に説明した。

「叩いて我慢。叩いて我慢。それが男だ」ブツブツと言いながら、豪田はまたまたチャンネルを変えた。

「明日の第1回珍馬記念の前日のオッズです」

「おお、そうだった」


「一番人気はダントツの1・1倍、ホワイトケタミンですね。調教の様子から万全の仕上がりでしょう。二番人気クリトリスズカ。三番人気はマンペルドンナとなっています。そしてデビュー戦以来、怪我続きのドープダイレクトは、なんと前代未聞の666倍です。買うやつはハッキリ言ってスカタン野朗ですね」

「午⁉」戌は驚いて、ドックフードを吐き出した。

「犬って必ず吐くな。で、それを食う」

 戌は、勿論食べた。

「がっはっは!」豪田は、笑いながらチャンネルを変えた。

「こちらがヘリコプターからの映像です!何処からか現れた猪が東京の街を爆速しています!専門家によりますと、山で餌が取れず…」

「亥⁉」戌は再び吐き出した。豪田も何かに気づいた様子だ。

「この猪、昼間俺にぶつかってきたやつだな!がっはっは!おかげで脚が血塗れになったが、猪の上京とは実に愉快だ!ガッツがあるな!」

豪田の怪我の原因は、亥によるものだった。

「さて、風呂にでも入るか」豪田はテレビのスイッチを切って、お風呂場へ向かった。豪田には風呂に入る前に、必ずトイレに入る習慣がある。豪快な性格とは裏腹に、脚を綺麗に閉じて小便をする姿は、まるで天使のようだ。

 戌は再び、吐き出したドックフードを食べながら思った。

「午も亥もテレビに出るなんて凄いなぁ。それより申は大丈夫かな?あいつ、僕の為に…」

 窓の外は、宵闇の空に満月が浮かんでいる。

「わおーーーーーん!」戌は、言葉にならない思いで、遠吠えをした。


「何の音?」

 巳が辰を待っていると、口笛の音色が巳の元へ流れてきた。

「何かしら?」巳は音色の聞こえる方へ、にょろりにょろり、またにょろりと向かっていった。

「来たぞ!今だ!」

 待ち伏せしていた村人達の手により、巳は捕獲されてしまった。

 一方、辰は夢中でキノコを集めていた。

「これだけ集めれば今日の分は凌げるな。巳のおかげだ。それにさっきのはキスだよな…」ニヤニヤしながら、巳の待つ場所へと戻った。

「おーい!こんなに沢山…」すると、そこに巳の姿がない。

「巳!どこ行った!」 


 その頃巳は、人気のない木陰で、悪事を企み出した村人達に囲まれていた。

「なによ!あなた達!」巳は必死に抵抗したが、人間の力の前では無力だった。

「お前!龍神様をそそのかしているな?龍神様の邪魔をするな!」

「私の息子を酷い目に遭わせて!許さないよ!」

「辰、怖いよ。助けて…」


「今の声は!」戌の遠吠えを申はキャッチした。

「あっちの方から聞こえた!午、急いで向かってくれ!」

「任せて」しばらく走ると、豪田の家が見えてきた。

「見つけたぞ!」

 申達は家の裏手にたどり着いた。すると中から何か音が聞こえる。バチンバチンと、激しく何かを叩きつけるような、痛々しい響きだ。

「まさか戌!さっきの遠吠えは…」申は最悪の事態を想像した。戌の無事を祈りながら、裏窓から中を覗いた。

 そこで目にしたのは、男が風呂場でカウントをしながら、浴槽の縁に股間を激しくぶつける光景だった。

「九十三、九十四…あれ?九十三か?えぇーい!また一からだ!」

「な、なんなんだあいつは…戌が危ない」男の異様な姿に、申はますます不安を募らせた。ごくりと唾を飲み、隣で見ていた森野が口を開いた。

「表のドアに行きましょう。私に任せてください」森野の真剣な眼差しに、申は頷いた。申達は家の入り口へと周った。


「この臭い…申だ!」戌は玄関に向かって叫んだ。

「戌が吠えてる!早く助けないと」

 森野はドアをノックした。

「ごめんください」すると家の奥から、ドスンドスン、べチンべチンと音が近づいてくる気配がする。ドアを隔てたところで音が止まると、ガチャリとドアが開いた。現れたのは、バスタオルを一枚腰に巻いた豪田だった。

「どなただね」

「私は森野と申します。こちらに…」森野が話をしている途中で、申はドアの隙間から中へ入った。森野を信用しなかった訳ではなく、居ても立っても居られなかったからだ。

「戌!」

「申、来てくれたんだね!」

「無事か?」

「うん、豪田さんに優しくしてもらってるよ!」

「え?」

 ドアの前では豪田と森野が話している。

「うちの猿が突然すいません」

「君の猿だったのか、まあ寒いから中に入りなさい」豪田は森野を歓迎した。

「ん?後ろの犬も君のか?入れてやりなさい」

若干疑問に思ったが、森野はスルーしてドープダイレクトも中に入った。

「では、お邪魔します」


「こんな格好で申し訳ない。今着替えてくるから、ソファーで寛いでいてください」

「ありがとうございます」森野はソファーに腰掛けた。ドープダイレクトも、暖炉の前で腰を下ろした。すると、不思議そうに戌が問いかけた。

「あれ?午どうしたの!?さっきテレビで君を見たよ。競馬に出るって」

「ああ、実は俺は午じゃないんだ」

「どういうこと?」

 戌は勿論だが、申もドープダイレクトが何を言っているのか、さっぱりだった。ドープダイレクトはこれまでの経由を説明した。

「なるほどね」 「なるほどな」

 納得したところで、申が戌に尋ねた。

「あの男殺人鬼じゃないのか?骨が埋まっていたし、血がこびりついていたじゃないか」

「骨は昔飼ってた犬のだって。僕がお墓を掘り起こしちゃったみたい。あの血は亥とぶつかって怪我したみたいなんだ」

「なんだ、そういうことか」申は全ての事情を把握すると共に、安堵感から全身の力が抜けた。

「僕達仲が悪いのに、君はなんで僕の為に駆けつけてくれたの?レースの最中だよ?」戌は野暮な質問を投げかけた。

「俺にも分かんねーよ、だけど連れ去られるお前を見て、見過ごせなかったんだ」

「申、ありがとう」

「な、なんだよ。別にお礼なんていいよ」

 喧嘩するほど仲がいいという言葉もある。仲が良くなければ傷つけ合うことなどないのだ。犬猿の仲は、もどかしながらも、打ち解けたようだ。

「私を忘れてない?」

「この女は森の泉の妖精、森野泉だ。お前を助けようと協力してくれたんだ」

「そうだったんだね、ありがとう森野さん。よろしくね」

「どういたしまして、よろしくね戌くん」

「こいつ、怒ると恐いから気をつけろよ」

「申、なんか言った?」

「いや、別に」

 申達が談話していると、豪田が戻ってきた。森野はこれまでの全てを、豪田に説明した。

「なんと、森の泉の妖精とは。しかも動物と話せるなんて、これは愉快だ。がっはっは!」

「私の役目は終わりましたわ」

「今日はもう暗い、皆んなで泊まっていきなさい」この時既に、大人の駆け引きは始まっていた。

「そうしようぜ!」

「賛成!賛成!」

「俺もできればお願いしたい」

 動物達は長い一日に疲れた様子だ。

「では、お言葉に甘えさせていただきます」


「今日はもう休もう。しかし上空からついてくるあの音。何処かに隠れないと厄介だな」得体の知れない何かに付け回されるのも、精神的にはきつい。どこかに休める場所はないかと見渡していた時、ヘリコプターはちょうどビルの影に隠れた。

「音が消えた。今が隠れるチャンスだ!」亥の目に飛び込んできたのは、コインランドリーの光だった。虫は光に集まる。月曜日から深夜のコンストに行く、はぐれ部隊のように。

しかし、そんなことは関係ない。亥は隠れる為にコインランドリーへと入った。中には見たことのない機械が並んでいる。その内の一つのドアが開いていた。

「あそこなら安全そうだ」亥は洗濯機の中に入り、眠りについた。


 辰は、急ぎ村に戻り、孫張に掛け合った。

「どうなされました?雨は降りそうですかな」

「蛇を見なかったか?いないのだ!水を用意するには蛇の力がいるのだ!」

「さあ、分かりませんな」

「ちゃんと考えてくれ!」

 孫張は村人達の言葉を思い出した。

「恐れながら、あなた様を信じない村人が何人かおります。確か蛇があなた様を唆しているとおっしゃっていました」

「それは誰だ!」

「その内の一人は、あなた様が失神させた子供の母親です。かなり怒っている様子でしたぞ。何か悪事を企んでいるかもしれません」

「その者の家に案内してくれ!」辰は孫張と共に、母親の家へ向かった。家には母親の姿はなかった。いたのはベッドで眠る悪ガキと、頭を抱えて椅子に座る父親だった。

「おい!母親はどこにいる!?」辰が尋ねると、父親は縋るように言った。

「俺は止めたんだ!あいつ、いや、あいつらは蛇を誘き寄せて、あなたから引き話そうとしています!…殺して」

「なんだと!?」辰は驚愕の事実を知ってしまった。

「早く案内しろ!」

「分かりました!」父親の案内で、急ぎ巳の元へ向かった。


 辰達がその場所へ到着すると、言葉無く横たわる巳の姿がそこにあった。

「おい!巳!しっかりしろ!」辰が懸命に呼びかけると、巳はあっさり目を覚ました。

「もういなくなった?」

「良かった!無事で本当に良かった!」

 巳は何故無事だったか、その経緯を語り始めた。


「よし!龍神様はいないよ!やっちまいな!」

「え?俺が?」

「そうだよ!あんたが言い出しっぺだろ?」

 村人達は、誰が巳を殺すか揉めていた。

「意気地なしだね!」母親は、近くにあった毒キノコをむしり取った。女と言えば毒殺だ。母親は巳に毒キノコを食べさせた。巳は暴れ回り、ぐったりと息をひきとる演技をした。

「これで龍神様も集中して雨を降らせられるわね」

「さっさと引き上げようぜ!」

 蛇の心音を確かめるほどの気狂いはいなかった。こうして、巳は村人達がいなくなるまで、死んだふりをしていたのだ。

「あたし女優になれるかもね!」巳はニコリと笑って見せた。

「すまなかった。もう離れないからな」辰は巳を抱きしめ涙した。二匹は抱き合って天高く昇っていった。辰が流した涙は小雨となり、少しの間地上に降り注いだが、巳が辰の涙を拭うと雨はピタリと止んだ。それを見ていたのは、孫張と父親、それと…少し離れた物陰から見ていた母親だった。

 二匹は地上に降りた。

「孫張よ、もう少し待ってくれるか?明日の昼頃までには水を何とかする」

「ありがとうございます」

「もう夜も遅い、皆休まれよ」

 村長達を家に帰すと、二匹はキノコの採取にあたった。そして、ありったけのキノコを集めると、身を寄せ合い眠りについた。


「…トーラン!トーラン!」

 ベアリンの呼びかけで目が覚めた。

「気を失ってたみたいだけど、大丈夫か?」

「ああ、すまない、大丈夫だ」

 辺りは真っ暗だった。

「おい!今何時だ?」

「もう夜の十時だよ」

「ステージはどうした⁉」

 ベアリンは、やれやれといったジェスチャーをした。

「ステージは明日の昼だろ?」

「………」

 その時、頭の中で声が聞こえてきた。

「俺だ、トーランだ」

「今夜あるはずだったステージはどうなったんだ?」

 急に独り言を話し出した寅に、ベアリンは不思議そうに尋ねた。

「おい、誰と話してるんだ?」

 寅は、しーっとジェスチャーを送った。

「お前がここで見てきた記憶は、俺の記憶と混濁している」

「どういうことだ?」

「つまり、俺の昔のリハーサルの記憶と、今のお前の記憶。俺が憑依した時には、俺の記憶が色濃く反映されている。分かるか?うまくは言えないが、お前が見たのは俺が入団したての記憶だ」

「なんとなく…な」

「最後のステージの本番は明日の昼だ」

「では、まだ覚悟を決める時間はあるな」

「ああ、それに今こうして意思の疎通ができてるってことは、俺達はもう一心同体だ」

「なるほどな」寅は状況を飲み込めてきた。

「お前に頼みがある」

「なんだ?」

「ベアリンに伝えてくれ。お前は誰よりも努力をした。尊敬してる。美香留のサーカスを一緒に盛り上げてくれてありがとう。そう伝えてくれないか?」

「お安い御用だ」

「ベアリン聞いてくれ。俺はトーランじゃない。だけど、トーランは俺の中にいる」

「何となくは分かっていた。信じるよ」

 寅はトーランの言葉を伝えた。それを聞いたベアリンは、キラリと男泣きした。

「大好きだぜトーラン!お前は俺の誇りだ。俺の方こそ、本当にありがとう」

 トーランの涙が、寅の頬に伝った。寅は笑顔で、一言付け加えた。

「明日のステージ、一緒に頑張ろうな!」

「おう!」ベアリンは、とっても嬉しそうだ。再びトーランが、寅に語りかけた。

「もう一つ頼めるか?」

「なんだ?」

「美香留と一緒に寝たい。彼女の温もりを最後に味わいたいんだ。幼い頃のように」

 寅は、意外なお願いに少し戸惑ったが、出来ることなら叶えてあげようと思った。

「ああ、分かったよ」

「ありがとう。美香留は何かあってもすぐ出られるように、檻の鍵はいつも閉めない。だから出られるはずだ」

「ベアリン、あのさ…」

「分かってるよ、行ってやれ」寅は檻を出て、美香留の楽屋に向かった。

「なあ、トーラン。その前に少し会場を見てもいいか?」

「構わないよ」

 寅は観客席に降りた。

「凄い数だろ?」

「ああ」

「俺達がステージに立つと、子供から大人まで大はしゃぎするんだ。夢中になって喜んでくれる。それはもう最高の眺めさ。会場中に幸せな空気が蔓延するんだ。一体になるのさ」

 寅は黙って会場を見渡した。

「ちょっと、緊張してきたな」

「大丈夫だ。俺達は密林の?」

「ああ、ハンターだな!」

「弱い自分をハントするんだ!俺も最初は怖かった、当たり前だ。怖さを携えて跳ぶ。その勇気が人々を感動させるんだ」

「おう、明日こそはバッチリ決めるぜ!」

「だな!」

 寅とトーランはすっかり意気投合した。


 一方、美香留はシャワーを浴びていた。

「トーラン、大丈夫かな?それにトーランはもう…。あの虎はやっぱりトーランじゃ…」夜の静寂が、美香留のセンチメンタルにそっと囁く。

「いけない、何があっても信じなきゃ!ここまで何があってもこれたじゃない!」美香留は、シャンプーと共に不安を洗い流した。お風呂を出た美香留は、化粧台に座った。肩まで伸びた髪を乾かす姿は、どこにでもいる普通の女性だ。パジャマに着替えた美香留は、トーランを心配していた。

「気絶しちゃったけど、大丈夫かな?ちゃんと寝返りをうって眠っていたようだけど、心配だわ。もう一度見にいこう」

 寅とベアリンが気づかない間に、何度か様子を見にいった美香留だったが、眠りにつく前にもう一度トーランの様子を見に行くことにした。美香留がドアを開けた瞬間。そこには寅がいた。

「目を覚ましたのね!よかったわ!」美香留は、溢れるような笑顔を見せた。

「ちょっと待ってて、ベアリンの様子も見てくるからね」そう言うと、美香留はクーラボックスから何かを取り出して、ベアリンの元へ向かった。


「ベアリンも起きてたのね!お腹空いたでしょ。サーモン持ってきたよ。うふっ。食べたらまたゆっくり寝るんだよ。」

「大好物のサーモンだ!」ベアリンは嬉しそうに、サーモンに齧りついた。

「ベアリン、あなたは最後の団員だけど、一生懸命頑張って追いついてくれたね。明日で最後だけど、一緒に頑張ろうね!あなたがいてくれて、本当によかったわ」美香留はベアリンを精一杯の愛情を込めて撫でた。

 涙の川でサーモンが滲んでいた。ベアリンはサーモンしか食べたことはないが、愛のテイストが効いたサーモンは、今まで食べた物で一番美味しいと思ったのだった。

 美香留はベアリンに「おやすみ」とキスをすると、控え室へと戻っていった。


 寅が待っていると、美香留が戻ってきた。

「お待たせ!トーランもお肉食べて元気つけてね!」

 寅はお肉に齧りついた。そこである疑問が浮かんだ。

「あれ?牙があるぞ?」不思議に思う寅に、トーランが話しかけた。

「そりゃそうさ、あれは俺がまだ野生が抜けきれてない時の記憶だからな」

「え?じゃあ美香留を噛んじまったのか?」

「いや、大丈夫だ。お前の本能が美香留をいい人間だと分かっていたのさ」

 寅は胸を撫で下ろすと、肉をペロリと平らげた。

「良かった!食欲もあって!」美香留は嬉しそうに言った。寅は食事を終えると、美香留のベッドに飛び乗った。

「トーラン、一緒に寝ようね。今日は本当に甘えん坊さんだね。うふふ」

 美香留は、化粧台の引き出しから、何かを取り出して電気を消した。寅の待つベッドに入ると、ベッド脇の暖色電球をつけて、取り出したものをトーランに見せた。

「お父さんが撮ってくれた写真覚えてる?」

「ああ、勿論だよ」とトーランは思っていた。

「まだ私達小さかったね。プリンで一緒に遊んでるね」

 そこには、ピンクの象のぬいぐるみで遊ぶ、美香留とトーランの無邪気な姿があった。寅の疑問は、点と点が線で繋がった。しかし寅は、美香留とトーランの邪魔をしないよう、黙っていようと決めていた。

「あなたが死んでしまった時。寂しくないように、プリンも一緒に埋葬したのよ」

「ああ、仲良くやってるよ」

「でもあなたが、再び現れた時は本当に驚いたわ!今でも夢みたい」

「………」トーランはしばらく沈黙した。

「分かってるわよ、あなたの目を見れば。ずっとずっと一緒だったじゃない。明日のステージが終わったら、あなたは…」寅は、美香留の涙を舌で優しく拭った。

「俺は、明日のステージが終わっても側にいるよ。プリンも一緒だ。ずっと美香留を見守ってる」

 美香留とトーランは抱き合った。幼い頃のように。トーランの言葉は、美香留に伝わっていた。匂い、感触、その愛しい全て。世界で一番の安らぎに包まれて、美香留とトーランは眠りについた。


 ママが下から心配そうに有紗を見ていると、一人の男が現れた。そこに現れたのは従業員ではなく、帽子の男だった。

「助けに来たよ、さぁおいで」

「…ありがとうございます」

 有紗は男に不穏な空気を感じた。レーレレのおじさんのような、得体も底も知れない不気味さを感じた。しかし逃げ場はない。ついて行くしかなかった。梯子を降りて下に着くと、従業員がボーリングのピンのように倒れている。有紗はその光景に驚きを隠せないでいた。すると男は有紗の腕を力強く掴んだ。

「痛いっ!」

「来い!」男の表情が一変した。男の目は、髭を蓄えた社会主義者の目のように、狂気を帯びている。

「離して!」男は有紗を、ぐいぐいぐぐいのぐいぐいぐいと引っ張っり、従業員からくすねた鍵を使って、非常口を開け階段を登り裏口から外に出た。

「有紗!」

「ママ、助けて!」

 男は有紗を引っ張り、パレードで人が賑わうメインストリートへと逃亡した。ママは卯を抱いて、有紗を連れて逃げる男を追いかけた。

 男は人混みを掻き分け、パーキングへ向かった。有紗を車に押し込むと、急発進し、パーキングのバーをへし折り逃走した。ママ達も急ぎ車に乗った。

「行くわよ!掴まって!」ママは素早い動作でギアを入れた。しかし、男とママの息を飲むカーチェイスが待っていることはなく、代わりに待っていたのは車の修理代だった。

「あらやだ、バックだったわ」ママ達は男を見失ってしまった。


「どこに連れて行くの!私を帰して!」

「それは無理な相談だ。ちょっとでも逃げようとしたら…分かるな?大人しくしてろ」

 男は四十分ほど車を走らせ続けた。あれ?この辺は見覚えがある。有紗は窓からの景色を見てそう思っていた。すると男は車を止めた。男が車を止めたのは、有紗の家から数メートルしか離れていない、駐車場付きの一軒家だった。

「さあ来い!」

 有紗は男の家に連れ去られてしまった。家の中はそこそこに広く、掃除が行き届いている綺麗な部屋だった。リビングには仕事机のような物があり、机の上には、男と娘さんだろうか?幸せそうな笑顔の写真が飾られていた。白い壁には賞状らしき物が沢山飾られている。リビングの中央には、テーブルを囲うようにソファーが並べられていた。

 男は有紗をソファーに座らせると、家の鍵をガチャリと閉めて、有紗の正面のソファーに腰をおろした。


「乱暴にしてすまなかった」

「…私を帰してください」

「いじめられているね」

 男の突然の言葉に戸惑った。

「え?…」

「夢の国に逃げても現実は変わらない」

「そんなこと分かってます!」

「君をいじめているのは、転校生の威(い)路女(じめ)さんだね?」

「…何で知ってるんですか…?」有紗が不思議そうに訪ねると、男は少し躊躇いながら話始めた。

「僕の娘はね。威路女にいじめられて自殺したんだ」

「え!」

 男の言葉は衝撃的な発言だった。

「君は、お母さんに相談をしたか?してないだろう」

「…はい」

「いじめられている子は恥ずかしがって言えないみたいなんだ。私は娘の変化に気づいてやれずに悔いている」

 有紗は言葉を失った。

「君は今どんな気持ちで日々を過ごしている?誘拐犯に話すなら恥ずかしくないだろう?」

 有紗はしばらく沈黙した後に、静かに語り始めた。

「私、お風呂の中に潜るのが日課なんですけど、たまにそのまま息を止めてしまいそうになって慌てて出るの。息を止めている間は幸せだけど、お風呂から上がると恐ろしい現実が待っているから…」

 男は真剣な表情で話を聞いている。

「ママにも心配かけたくないから言えないし…でも、生きているのも辛い…」

 有紗は心に閉まっていた本音を打ち明けた。

「辛いだろう…。威路女は何も反省していないようだね」

 そう言うと男は、机から何かを取り出し、キッチンから水を持ってきた。

「これを飲みなさい」

「これは何ですか?」

 男は壁に掛けてある賞状を外し、有紗の前に持ってきた。

「私はカウンセラーをしている。この薬は精神を安定させるお薬だ。君に危害を加えようなんて思っていないよ。だったらとっくにしている」

「………」

 この際抵抗しても仕方ない、それに杷には妙な安心感がある。有紗は男の差し出した薬を飲み込んだ。

「娘と君の仇はとってあげるよ」

「どういうことですか?一体…」有紗は急激な眠気に襲われた。

「明日、学校に来れば分かるよ」

 有紗の意識は今在る場所から離れていった。

「いい夢を」


 ママは有紗を必死に探したが見つからず、捜索願いを出して自宅に帰った。そして卯を抱きしめ不安な一夜を過ごした。


 深夜一時。豪田家でスヤスヤと眠る動物達。

ロフトの軋む音に、戌の鼻がピクリと動いた。

「…叩いて我慢。叩いて我慢。叩いて我慢」


 気がつくと、どうやら丑も眠っていたようだ。そして女も目覚めた。女は丑をまくらのようにして、携帯をいじりだした。

「何時かな?もう夜中のニ時半じゃん」


ー 時刻は草木も眠る丑三つ時 ー


「げっ、充電あと三パーセントしかないし。果汁じゃないんだから!しかも化粧もボロボロじゃん。あんたのせいだからね!」

 少なくとも充電は関係ないと丑は思った。

「ちょっとあたし、トイレ行ってくるから」女は少し駆け足気味に、雑木林の中へと消えて行った。

「しかし、薄気味悪いわね。なんだか、寒気がしてきたわ」真夜中の雑木林は、鬱蒼とした不気味な空気が漂っていた。


…カン、カン、カン…

「ん?何の音?」

…カン、カン、カン…

 何かを打ち付けるような音が、聞こえてきた。

「こんな所に、誰かいるの?」女は音のする方へ歩いて行った。


 カン、カン、カン!…

 カン!カン!カン!カン!


 近づくに連れて、次第に音は狂気を帯びて響いてきた。すると、一本の木の前に誰かいるようだ。しかし、こちらに背を向けていて顔が見えない。女は気配を殺して、その様子を伺おうとした…その時。

「ぷぅ〜、ぷすっ!」女はオナラをしてしまった。すると、その音に気づき、その何者かがこちらを振り返った。

「みぃ〜たぁ〜なぁ〜‼」


 一方、丑は自身の萎れた乳を見ていた。

「しかし遅いな〜、何処まで行ったんだ?もしかしてうんこかな?」帰りの遅い女を心配していると…。

「きゃあぁぁぁぁぁ‼」

 静寂を切り裂くように、悲鳴が響き渡った。

急ぎ身体を起こし、悲鳴が聞こえた方へ走り出した。

「お〜い!もしかして紙がないのか!?下痢してても俺のせいじゃないぞ〜!」息を切らし草木を掻き分け、女の元へ辿り着いた。

 そこで、丑が見たものは…。「な、何だこれは…」そこには、夥しい血の痕跡と、仁王立ちする牛の後ろ姿があった。



 【丑の刻参り】とはご存知だろうか?

 頭に蝋燭を巻き白い着物姿で、呪いたい相手の写真を貼ったり髪の毛を入れた藁人形を相手に見立て、木に打ちつけるという昔からある呪術である。はじめに誰がこんな奇妙なことをやりだしたか分からないが、いつの時代もパイオニアはいる。


ー 女が雑木林に入る十分前 ー


「忌々しい牛め!僕をコケにしやがって!許さないよ?許さないよ?」そこに居たのは、丑にコテンパンにされた鈴木君の姿だった。頭にはリコちゃん人形を巻き、クレーンゲームの景品で取った、自滅の八重歯の着物を着て、牛の着ぐるみを木に打ちつけていた。


【自滅の八重歯】優男が敵地に勇ましく単独で乗り込んだにも関わらず、卑怯にも罠を仕掛け異常者集団がリンチするという、社会現象を巻き起こした大ヒット漫画。アニメにもなり、テレビの前の子供達は生首が飛び交う光景に夢中。


 鈴木君がオナラの音に気づき、振り返るとそこにいたのは…。

「あの時ヘブンにいた、たわわな胸の女!」

「あんたは、へっぽこ店員ね。何してるの?アホみたいな格好して。それにまた同じ眼鏡してるし。キモっ!」

「うるさい!僕はあの憎らしい牛に、呪いをかけてやるんだ!邪魔するな!」

 女は呆れた表情を浮かべた。

「だからあんたモテないのよ、男の癖に情けないったらありゃしないわ。あんたの器はデブのイチモツ以下ね」

 鈴木君は女の一言に、完全にぷっつんした。

「君だってオナラしただろ!女の癖にオナラなんかしやがって!オナラ女め!」鈴木君は、最低を最高に極めた。

「あんたさ、女だってオナラくらいするわよ。前からも後ろからもね。それに、うんこもするし電マも買うわよ。ちょっと夢見過ぎなんじゃない?あんたブリ童貞でしょ」


                  【電マ】基本男の敵であり、時に強い味方。


「もしかして、レンタルビデオ店の一角でオナラの臭いがして、そこに女一人しかいないのに、スカした顔してビデオを選んでいるのは…」

「そうよ、女がしてるのよ」

 鈴木君の顔が、月光の影に飲まれて蒼白くなってゆく。

「あんたみたいな、自分が気持ち悪いくせに、人には完璧を求める屑野朗が何でも周りのせいにして犯罪を犯すのよね。言っとくけど、あんたは造形不良品の醜いハエ男だよ」

「五月蝿い!五月蝿い!五月蝿い!いいから黙っておっぱい触らせろー‼」鈴木君は我を忘れ、女に飛びかかった。女は華麗に身をかわして、鈴木君の鼻っ面を、持っているバッグの角でぶっ叩いた。

「きゃあぁぁぁぁぁ‼」そして、倒れる鈴木君の股間を、容赦なく蹴飛ばした。鈴木君は悶絶し、強烈な痛みで一分近くゲロを吐き続けた。

「女にモテたかったらね、そのダサい眼鏡を外して整形費用でも貯めるか、大金持ちにでもなることね。ま、コンビニでフライを揚げてるようじゃ一生無理ね。私があんたなら潔く首吊って来世に期待するわ」

「マ、ママぁ〜‼」

 鈴木君は、鼻と股間を押さえながら、雑木林の奥へと走り去った。それ以来、鈴木君は勃起恐怖症になってしまい、テレビでワ○メちゃんを見ただけで、痙攣をおこす身体になってしまった。

 そう、丑が聞いた悲鳴は、鈴木君のものであった。女は木陰で用を済まし、鈴木君が打ちつけていた牛の着ぐるみを身に纏った。

「これ、あったかいじゃん」

 そこへ、丑がたどり着いたという訳だ。

「あら、どうしたの?見てこれ、あんたとお揃い」

「なんだ、びっくりさせるなよな」

「さ、自撮りするよー!」恒例の自撮りをしようとした時だった。

「ちょっとあんた、動かないでよ」突然、丑の鼻がブルブルと震え出した。

「鼻が勝手に動くんだよぉ〜!」

 丑に付けた銀の鼻輪が、激しい振動と共に、眩い光を放っている。すると、丑の脚が大地から離れだした。

「う、浮いてるよ〜!」

 女が上空に目をやると、銀色のバカでかい円盤が浮遊していた。円盤からは鼻輪に向かって一直線に光を放っていた。女は慌てて丑の後脚を掴んだ。

「ちょっとなんなのよこれー!もしかしてUFOじゃない!?」

「分からないよ〜!」

 巨大なUFOが放つ光に、吸い上げられるように、丑と女は高く高く舞い上がっていった。

 その時!丑の乳首からは残乳が滴り、風に乗って飛ばされ、お地蔵さんの頭に垂れた。

 お地蔵さんは、頭から垂れてきた牛乳を舌でペロリと舐めた。

「う、うまし!」

 丑の身体がUFOに近づいた時、円形のドアのようなものが開いた。丑と女は、UFOの中へと吸い込まれていった。

 そこで目にしたものは…。

「牛なんだけどウケる」

「宇宙空間超越装置、鼻輪にしちゃってるし、まじウケるんですけど」

「こっちに女の子もいるよ。着ぐるみマジ可愛いじゃん」

 そこには、三人のギャルが乗っていた。


 ギャルが突然現れたのは千九百九十年代。

ど派手な化粧とガングロ姿で、パラパラという坊さんも腰を抜かすような、奇妙な踊りを踊り日本を明るくした。

 また、ルーズソックスのゴム有りゴム無し論争も、各地で巻き起こった。

 ギャル星人は、最初は皆んな黒い。黒ギャルは絶え間ない努力をして、進化した後に、落ち着いた白ギャルになっていくのだ。

 ギャルは、ギャル星から日本をポジティブにする為にやってきた宇宙人だっだ。地球人は気づいていないが、地球には既に、昔から多種多様な宇宙人が沢山住んでいる。聖徳太子からマイケルジャクソン、芦田○菜まで。


 ギャルの一人が女に話しかけた。

「その服何処で買ったの?マルチュー?可愛いね!」

「ありがとう。渋谷のマルチューだよ。てか、携帯の充電器ある?貸してくれない?」

「いいよー。携帯貸して」

 丑が動揺する中、女は全く怯んでなかった。それどころか自然と打ち解けていた。

「てか、何で牛?」

「ちょっとなり行きでね。可愛いでしょ」

「牛に喋らせようよ」

「そんなことできるの?」一人のギャルが、緑色のまんじゅうを持ってきた。

「このまんじゅうを食べるとね、宇宙の七万三千兆の言語を習得できるのよ。ただ死ぬほど不味いから誰も食べないんだけど、実際何人か死んだし」ギャルズジョークは処女よりキツい。冗談以外はユルユルだが。

「俺はもう、まんじゅう食べたくないよ〜」丑はプイッと、そっぽを向いた。

「ほらほら、いい子だから口開けて」嫌がる丑の口を、ギャル達は強引に開けて、緑色のまんじゅうを口内に放り投げた。

「酷いじゃないか〜。おえっ!」

 ギャル達は爆笑している。一人は笑いすぎて気絶してしまった。ギャルの笑いのツボは、わざわざグループを作ってボランティア活動する偽善者集団より浅いのだ。

「ごめんね、でもあんたの声聞こえるよ」女が丑に語りかけた。

「え?人間語話せてる?」

「うん、ばっちり」

「お前、写メ加工しない方が可愛いぞ」

「あ、ありがとう」女は少し照れながら言った。

「自己紹介まだだったね。あたしは付松 蹴子(つけまつ けるこ)。改めてよろしくね!」

「俺は丑。よろしく〜」

「まんまじゃん。ウケる」

「お前もな、ウケる」と声には出さなかった。


 三人のギャルの自己紹介を聞いた。

 槍(やり) 満子(まんこ)。略してヤリマン。

 陳(ちん) 奈(な)愛子(めこ)。略してチンナメ。

 黒井(くろい)カッツォ阿蘇子(あそこ)。略してクロ。

 彼女達は渋谷の帰りに、宇宙空間超越装置を落としてしまい、探していたらしい。

 宇宙空間超越装置とは、その名の通り宇宙の端から端まで、瞬時にしてワープして行ける移動装置だ。

 彼女達の住むギャル星は、地球から七百四十三兆三千四百九十八億六千四百七十万光年かかるみたいだが、宇宙空間超越装置を使えば、一瞬で行けるようだ。ギャル星人は、皆んな渋谷に買い物しに行くらしい。

「充電回復したよー」

「ありがとう」

「私達自分の星に帰るけど、よかったら遊びに来ない?」ヤリマンは提案した。

「あたしは、いいよ。どうせ帰る所ないし。でもあんたはどうするの?」蹴子は丑に聞いた。丑はレースの途中だ。少し悩んだ結果。

「じゃあちょっとだけ行くよ」

「よし!決まり!」

 さっきまで気絶していたクロは、何事もなかったかのように起き上がり、宇宙空間超越装置を起動させた。この丑の選択が、後のレースの結末に影響を与えることになる。時間は幻想。常に瞬間の連続だ。つまり瞬間だけ切り取れば、この世に音痴は存在しないということだ。

 丑一行は、一瞬でギャル星に到着した。見渡す限り、どこもかしこも、ギャルしかいない。

「すごーい!皆んな超可愛い!」

 蹴子が珍しくはしゃいでいる。丑はその様子を見て、心が喜びと切なさに包まれていくのを感じた。

「私達んち行こうよ」三人は共同生活をしているらしい。

「チュッパチョップスまだあった?」

「昨日買い溜めしたから余裕であるよ」

チュッパチョップスとは、玉に棒がぶっ刺さった、ギャル専用のおしゃぶりキャンディーである。丑一行は、軽やかなノリで三人の住む家に行くことになった。


「少し散らかってるけど、テキトーに座って」

 これを少しというなら、彼女達に料理はさせられない…と丑は丑なりに思った。

 そして、たわいもない話が続いた。サイズがどうの、サイズがこうの、丑にはさっぱりだった。しかし蹴子は、とっても楽しそうだ。

「一つ空き部屋があるんだけど、蹴子も一緒に暮らそうよ!」ヤリマンの一言が静寂を生んだ。

「あたし…」蹴子は、丑をチラリと見て言葉を詰まらせた。

「蹴子はここが似合うよ」丑はすぐに言葉を返し、そして話始めた。

「蹴子に話してなかったけど、俺はやらなきゃいけないことがあるんだ。それを本当の意味で、思い出させてくれたのは蹴子だよ」

「丑…」

 丑と蹴子は旅の中で、人と動物の垣根を越えた深い絆ができていた。体積の小さな中心が、温かい気持ちで満ち溢れていく。すると、丑の身体が微かに発光した。

 丑は直感でゴールが近いことを理解した。

「蹴子、そろそろお別れだよ〜」

「また、逢えるよね」

「勿論だよ。皆んな、蹴子をよろしくな〜!」

「任せてよ!」

 蹴子は涙を拭って、携帯を取り出した。

「最後は笑って写メ撮ろうよ!」

「ああ、でも加工するなよ?」

「丑の顔、ギャル風にしちゃおっかなー!」

「やめろよ〜!」

 蹴子は天高く携帯をかざした。

「丑、ありがとう!元気でね!」

「蹴子、こちらこそありがとう。またな〜」

 蹴子がボタンを押すと、丑は眩い光を放ち姿を消した。

 その後蹴子は、三人のギャル友と、いつまでも仲良く楽しく暮らした。蹴子の汚い部屋の電マの横には、丑との写真が飾られてあった。加工もせず、とても幸せそうな顔をして。




『三十一日  午前四時』


「何時まで寝てんだ」厩務員の瀬羽月が来た。

「全く緊張感のないやつだな」ホワイトケタミンは既に起きて飼葉を食べていた。

「いただきまーす!」午はもぐもぐと飼葉を食べた。それを見ていた瀬羽月さんは、神妙な表情で言った。

「最後の晩餐だ。味わって食べろよ」

 食事を済ますと体温を測られた。異常はないみたいだ。

「ちょっくら散歩するぞ」瀬羽月は午を連れて厩舎内を歩いた。

「調子はどうだ?」

「バッチリだよ!」

「良さそうだな、良かった」瀬羽月は安心した様子だ。

「お前はいつも女のケツばっか追いかけて、ラチにぶつかって怪我して…。ホワイトケタミンとの新馬戦もドーピングで勝ったり。今日はちゃんと走れよ?ま、世話の焼けるお前が可愛いよ」瀬羽月は心配そうに言った。

「大丈夫だよ!」午は瀬羽月の口調から、ドープダイレクトとの絆を感じた。ホワイトケタミンが何故そんなに執着しているのかも理解した。瀬羽月の為にもドープダイレクトの為にも、今日のレースは絶対勝つと、改めて心に強く誓った。


「おはようございまーす!」酉は朝起きると必ず叫ぶ。人間からは「コケコッコー!」と聞こえるようだ。

 酉は慣れない飛行を続けたことで、筋肉痛になっていた。手羽先やムネ肉が少し引き締まった感じだ。

「辛くても苦しくても目的を果たしますわ」酉は目的地を目指し羽ばたいた。


 亥は息苦しさを感じて目を覚ました。洗濯機の中は、ベージュやブラウンの下着で埋め尽くされていた。

「ふぅ〜、これで全部じゃわい」眼の悪いおばあちゃんが、亥に気づかずに洗濯物を入れていた。そして、白い粉が大量に振り撒かれた。

「おえっ!」亥は洗濯が口に入ってしまった。

「スイッチはどれじゃったかのぅ?」おばあちゃんは、お没いた手つきで、スイッチを探した。そして、おばあちゃんが、ツンツンと押していたのは亥の鼻だった。

 亥は、おばあちゃんの腕をクイっと持ち上げてスイッチに導くと、直ぐに後脚で蓋を蹴り飛び降りた。

「おぉ、動いた動いた」

 亥は何も言わずに、コインランドリーを出た。今日は上空から追跡されていないようだ。

「明日の朝までか。他のメンバーはどれだけゴールしてる?」亥は、直ちに走り始めた。

 都会の朝は、特に他人に無関心だ。道ゆく人間は、フィリピンパブに紛れたロシア人のように無表情で、小さな機械を弄りながら俯き歩いている。蟻のようにランダムに歩いていても、なぜかぶつからないのは、あの機械にセンサーでもついているのだろうか?亥は、口からシャボン玉を放出しながら、そんなことを考えて走っていた。


「辰!朝だよ!」

「ん?もう朝か」

 二匹は目を覚ますと同時に、キノコのろ過作業に取り組んだ。村人達は、孫張の家に集まっていた。

「村長、もう水も殆どないぞ」

「大丈夫、昨日龍神様がわしに約束してくださった。もう少し待とうじゃないか」

 蛇を殺してしまった罪悪感で、反対派も声を上げることはなかった。期待と不安が入り混じり、張り詰めた空気が流れていた。

 すると、一人の村人が声をあげた。

「今日も唄って踊って、龍神様を応援しようじゃないか!」

「そうだな、俺達にできるのはそれくらいだ」

「楽しく過ごしましょう!」

 村人達は、いつものように、龍神の像の前で唄って踊ることにした。皆んなが楽しく踊る中、悪ガキの母親だけは納得のいかない表情を浮かべていた。


「さあ、二頭共頑張ってこいよ!」

「行ってきます!」

「今日も余裕で勝ってくるさ」

 午とホワイトケタミンは瀬羽月と別れ、馬運車に乗り込んだ。

「うわ〜僕車に乗るの初めてだ!」

 ホワイトケタミンはドープダイレクトの変わりように、頭がイカれたのかと若干思っていた。

「お前、レース前にあんまり興奮するなよ?」

「分かってるよ!」

「俺は万全のお前に勝ちたいんだ」

「大丈夫、今日はズルしないから」

「ほぉ、それは楽しみだ」

 二頭は馬運車に揺られて、東京第二競馬場へと運ばれていった。


「お前達、朝飯だぞ」豪田の声量のある一言で、動物達は目を覚ました。森野も既に起きていて、コーヒーを片手にくつろいでいる。なぜだか森野の肌は、昨日よりも艶っぽい感じがした。

 皆んなが朝ごはんを食べている中、申は浮かない表情を浮かべていた。

「俺達、仲良くなったけど、天界では酉に迷惑ばかりかけてたよな」

 戌も悩ましげに答えた。

「僕も自分のことしか考えてなかったよ、酉はどう思っているかな…」

 霧がかったように、重苦しい雰囲気が食卓を包んだ。動物達の事情を知らない豪田は、いつものようにテレビをつけた。

「最後新宿に出没して、注目を集めていた猪ですが、あれから目撃者はいません。山にでも帰ったのでしょうか?」

「やっぱり猪に都会は合わないか、わっはっは!」豪田は楽しそうだ。

「亥はゴールできたのかな?」

「さあな、無事だといいけど」

 申と戌の会話を聞いていた、ドープダイレクトが口を開いた。

「お前達さっきから聞いていれば、ネガティブなことばかりだな。もっと仲間を信じたらどうだ?仲間のことは俺より良く分かってるだろ」

 最もなご意見だった。

「そうだな!」

「うん、信じないとね」

 ドープダイレクトのおかげで、申達は気持ちが少し楽になった。

「賑やかで結構、わっはっは!」しかしこの後、ピースフルな空気をぶち壊す事件が巻き起きるのであった。


 寅は天使の囁きにより目が覚めた。

「トーラン、おはよう」

「美香留、おはよう」

「あはは!あんた口臭いわ!」

「そうかそうか、くらえ〜!」

 美香留とトーランの、最後の一日が幕を開けた。

「さ、しっかりご飯食べて今日は本番よ!皆んなで一緒に食べましょう!」

 美香留達は、最後の食事を楽しんだ。

「トーラン、すっかり顔色も良くなったな!」

「ああベアリン、今日は美香留やお客さんの記憶に残るような、最高のステージにしようぜ!」

 そうは言っても落ち着かない。メンバーそれぞれに緊張感を抱いていた。


ー 午前十時 ー

「おえぇぇぇっ!」

 馬運車から降りると、午はゲロをぶちまけた。

「おいおい、お前大丈夫か?顔がシナチクみたいだぞ」

「全然だいじょ…おえぇぇぇ!」午は自身の口から吐き出した物を見て不安を覚えた。

「うわぁ、ゲロが緑色だよ!」

「当たり前だろ、草食ってんだから」

 それから二頭は待機馬房でチェックを受けた。

「ドープインパクト四百キロ。マイナス…五十キロ!?」午は大分やつれていた。


ー 午前十一時 ー 開場まで三十分。

 美香留はエロティックボンデージに着替えを済ませて、鞭を眺めていた。

「お父さん、これが終わったら譲り受けた鞭、返しに行くからね。お母さんと見守っててね。あたし達の集大成を」

 美香留が祈りを念じている時、ベアリンも想いに身を投じていた。

「俺は、皆んなに支えられて、一員になれた。いい演技をして恩返しをするんだ」

 そして、ベアリンの横で、寅は自分に言い聞かせていた。

「俺は虎だ。できる。できる。できる」

 精神を統一させていた寅に、トーランが話しかけた。

「万が一失敗しても、誰も責めやしないから安心していい。もし…」

 寅はトーランの言葉を遮った。

「大丈夫。俺は…いや、俺達は必ずできる。だろ?」

「ああ!」

 寅達が勇ましく吼えると、ベアリンも初めて雄叫びを上げた。美香留も鞭をビシッと引き伸ばした。


ー 午前十一時半 ー 開場。

 お客さんが入場してきた。なんと、予想以上に続々と入ってくる。席が埋まっていくと、会場の空気は段々と薄くなった。SEもないステージで、気づくと席はほぼ満席の状態になっていた。美香留はその様子を、幕の裏から覗いていた。

「こんなに沢山の人が集まるなんて…。これは過去最高だよ」

 美香留は最後に化粧を直して、ハイレグのVゾーンをチェックした。寅とベアリンはそれぞれ檻でスタンばっている。

 美香留は、寅とベアリンの前に立つと、鞭で思い切り床を叩いた。

「あんた達!何があっても正真正銘これが最後のステージだ!気合い入れていくよ!」

 一同は声を上げた。「おう‼」


ー 午後十二時 ー 開演。

「待ってたよー!」

「お父さんの代からずっと応援してたよ!」

「頑張ってねー!」

 会場からは、あたたかい声援と、沢山の拍手が巻き起こった。そして、照明は消え。幕は上がった。

「レディース エーン ジェントルマン!」

 広い会場でも通る、美香留の溌剌(はつらつ)とした声でボルテージが上がると、ショーは始まりを告げた。

「今日は、私達最家サーカス団による、最後のステージです!最高のエンターテイメントを贈りますので、皆さん応援よろしくお願いします!それでは、早速、わたくしのトランポリンから始めたいと思います!」

 美香留はお客さんに挨拶すると、中央のトランポリンの上に乗った。美香留が何度か跳ねると、その高さは五メートル近くまで到達した。

 最高到達地点で、くるりくるりと縦、横、斜めに回ってみせた。ステージ脇で見ていた寅も、美香留のパフォーマンスに目を奪われた。

「美香留すげーな!」

「そうだな、団員がいないから一人の負担は大きいよ。二つはやらないとな」

「え?俺は火の輪を潜るだけだよな?」

「まさか。俺はお前が寝てる間、もう一つのリハもやったぞ」とベアリンは言った。

「ちょっと待ってくれ」寅はそう言うと、トーランに話しかけた。

「おい!聞いてないぞ!」

「悪い。忘れてた」

「………」寅が少しの間沈黙した後、トーランは慌てて言った。

「大丈夫だ。ロープの上を渡るだけだ。簡単過ぎるから、いつもリハをしないんだよ。美香留はお前を俺だと思っているからな」

「ま…それならできるかな」


 拍手の音が、トランポリンの終わりを教えた。美香留はトランポリンを片付けると、フラフープを持ち、ベアリンをステージに呼んだ。

「さあ!お次はうちの可愛いベアリンによる、フラフープです!どうぞご覧あれ!」

 美香留はマイクを置き、フラフープをベアリンに渡した。ベアリンがフラフープを回す光景は、つい先日見たような、長い間見てきたような、不思議な感覚だった。ベアリンがショーを行なっている間、美香留はトーランの綱渡りの準備を始めている。

「次は俺達の番だ、準備はいいか?」

「成せばなる!」

 ベアリンが役目をこなして戻ってきた。

「良かったよ!」

「ふ〜、緊張した。次はお前だな、頑張れよ!」

 ベアリンの檄を受け、寅がステージに出ていくと、観客は大喜びした。

「やっぱりあいつは華があるな!」ベアリンは祈るように寅を見つめた。

「さあ!次は我々サーカス団のアイドル!トーランの綱渡りです!」

 美香留がマイクを置くと、小さな声で「頑張ってね」と呟いた。

 寅はロープが張られた台の上に飛び乗った。流石虎だ。その姿だけで迫力がある。

「慎重にな」頭の中でトーランが囁く。寅は前脚をロープにかけた。そして二歩目を踏み出した時!

「結構簡単だな」と思った。なんなく中央付近に差し掛かると、急にロープが揺れ出した。

「うおっ!」

「だから慎重にって言ったろ!」ロープは振り子のように揺れている。

「こうなったら勢い任せだ!」素早く渡り切ろうと、勢いよく中央に脚を置いた時、脚を踏み外してロープにしがみついた。元々のロープの揺れと、あまりに派手に転んだ力の伝導が相まって、ロープはグルグルと回りだした。

「うおぉー!目が回るー!」視界に映るお客さんが、上下にクルクル。遠心力により、寅の身体は天高く空中に投げ出された。天井スレスレまで舞い上がったが、さすがは虎。ケンゾーも真っ青な、見事な着地を決めた。

「ま、結果オーライだな!」その瞬間、客席からは大きな拍手が湧き上がった。寅はその光景に、言葉にならない感動を覚えた。

「これがお前の言ってた景色か」

「ああ、最高だろ?」

 ステージ脇へ戻る際。寅は両眼に、嬉しそうな表情達を焼き付けた。


「トーランによる綱渡りでした!それでは、少々の間お待ちください!」美香留もステージから穿けた。ステージ脇では、美香留もベアリンも大喜びだ。

「トーラン凄いよ!」

「いつの間にあんな技を?」

 寅は、トラボルタ並みのニヒルな顔を見せた。

「さ、いよいよ大詰めよ!ベアリン準備は大丈夫?」

「任せろ!」そう言うと、美香留の協力でベアリンは自転車に跨った。

「まさか?」驚く寅にトーランが語りかけた。「そのまさかさ、あいつの努力の結晶。目に焼き付けろよ!」

 ベアリンが準備OKの合図を出すと、美香留はステージに戻った。

「さあ、続いては熊のベアリンの自転車ショーです!どうぞお楽しみくださーい!」美香留がベアリンに目を向けると、ベアリンはペダルを漕ぎ出した。

「行ってくる!」ベアリンは自転車を漕いで、ステージに登場した。

 熊が自転車を漕ぐという、なんとも不思議な光景に、会場も大盛り上がりだ。ステージの周りを器用に周って見せた。

「すげー!すげーなあいつ!」

「だろ?あれがベアリンさ」

 壇上の美香留も涙を浮かべて、ベアリンの最後の姿を見守っていた。

「あ、り、が、と、う」ベアリンはステージの中央で、五回ベルを鳴らすと、深くお辞儀をした。

「ベアリンによる、自転車散歩でしたー!皆様大きな拍手をお願いしまーす!」

 会場からは、割れんばかりの拍手が巻き起こった。美香留とベアリンは観客に手を振り、ステージ脇へと穿けた。

「すげーよ!ベアリンカッコ良かったぜ!」

「へへっ」

 ベアリンの成長は、美香留の頬を一筋濡らした。溢れた瞳をハンカチで拭うと、美香留はベアリンを優しく抱きしめた。

 会場からは、人々の声援が聞こえてくる。

「クマさんすごーい!僕も明日から補助輪外す!」

「凄いなー!ベアリンに買い物でも頼みたいよ、わっはっは」

「俺は三十六回も見てるんだぜ!」客席は歓喜の騒めきで溢れていた。

「さ、次はいよいよ俺達の番だ。」

「ああ、最家サーカス団のラストステージだ。華々しく飾ろうぜ!」トーランが促すと。寅は覚悟を決めた。

 すると、寅とトーランに不思議な感覚が流れ込んできた。そして二匹は悟った。終わりが近いことを。

 寅は美香留に近寄った。美香留も何か悟ったようだ。見つめ合うだけで、数えきれない想いが、お互いの心を駆け巡る。

「トーラン」

「美香留」

 胸が張り裂けそうな気持ちだった。どんな時もずっと一緒だった。またトーランが居なくなってしまう。だけど、美香留は泣かなかった。トーランも最後の大仕事。その目はまさしく密林のハンターだ。美香留は静かに鞭を握った。

「さあ、あたし達の人生の集大成!見せてあげようじゃない!」

「おう!」

 美香留は先にステージへと歩いていった。


 寅はベアリンに近寄った。

「ベアリン、今まで本当にありがとう。鞭子をよろしくな」

「トーランお前…」

「ああ、そろそろ本当にさよならだ」

 寅とベアリンは見つめ合った。

「今まで楽しかったよトーラン。天国でもまた会おうな!」

「おう!約束だ!」


「なんだここは?」亥は、とある会場の前にいた。中からは大きな歓声が聞こえてくる。しかし、目の前には困り顔のお姉さんが立ち塞がっていた。

「もしかしてこの中から逃げ出しちゃったのかしら?困ったわね」

 口からシャボン玉を出す猪を前に、お姉さんはどうするべきか、少し厚めの唇に人差し指を置いて考えた。

「邪魔だなこいつ」亥は、考え中のお姉さんを躊躇なく張り倒して中へ入った。

 そこで亥が目にしたものは!


「さあ!お客様!今宵のステージいかがだったでしょうか?今日初めて来たという方も、長い間応援してくださった方も、これが最後のショーとなります!そして…。私の大切なパートナー。トーランの最後の勇姿をご覧ください!」

 大歓声の中、トーランはステージに上がった。

 美香留は大輪に炎を灯し、ステージの端へ寄ると、寅も美香留の前に背を向け座った。炎がパチパチと音を鳴らしている。凄い熱気だが、寅はもう恐くはなかった。火の輪の向こうに、眩い光が覗いている。

「あれが、ゴールだな」寅は振り返った。

「トーラン、さよならは言わないよ?」

「さよならなんてしないさ。ちょっくら先に行くだけだ。ずっと見守ってるから笑顔でいてくれ。それが俺にとって何よりの幸せだ」

「うん。ずっと一緒だよ」

「おう!じゃあアドリブよろしくな!ビシッと締めてくれ!」

「任せな!さあ、トーランお行き!」美香留は全身全霊を込めて、床を叩いた。乾いた音の合図で、寅は勇ましく吼えると、炎の中へと消えていった。

 少しの静寂の後、観客は総立ちして惜しみない拍手を送った。

「今回は最後ということで、マジック仕掛けにしてみました!これで私達のショーは終演となります。今まで本当に、本当に長い間ありがとうございました!」

 美香留は深々とお辞儀をした。その様子を見ていたのは、観客だけではなかった。招かれざる客とも言うべきか。


「ちょっと待ったー!」


亥は、寅が火の輪を潜り、光の中へと消えてくのを見ていた。

「虎穴に入らずんば虎子を得ず!」亥は、ステージに向かって一直線に駆けてゆき、そのまま火の輪をジャンプした!…が、普通に反対側から出てきてしまった。

「あれ?」しかも、なんだか焦げ臭い。

「熱っちぃぃぃぃ!」

 お尻に火が燃え移っていた。亥は慌てて、ステージを降り、出口へと走っていった。

 美香留は火を消して、もう一度お客さんに感謝の意を示した。

「本当にありがとうございました!皆さん気をつけてお帰りください!」

 幕が降りても、拍手喝采は惜しみなく、暫くの間止まなかった。

 その後、ベアリンは動物園に送られ、美香留はベアリンの飼育員として元気に働いている。


 サーカスの会場から、飛び出した亥は悔しさに涙を滲ませた。

「なんで俺はゴールできないんだ!」

 お尻の火と共に、執着の火も消えかけていた。

「こんなレース、全然楽しくない」ふと、自身が呟いた時に、ジョニーの言葉が頭をよぎった。

 ー 旅を楽しめ ー

「確かに、兄貴と姉貴といた時は楽しかったな。あの時だけは、止まっていても、なんとも思わなかった。できればもっと一緒にいたかったな」

 亥は、ジョニー達の言葉が、ボディブローのようにジワジワとヒットしてきた。自身が本当に望むことに、気がつきはじめていたのだ。

「子も言っていたな。楽しむか…。そうか、まだ期日はある。前回のレースでやりたかったこと、やってみるか!全力で走れば間に合うな」

 亥は東京を出ることを決めた。

「おーい、カラスの爺さん、道を教えてくれないか?」亥は尋ねた。

「ふむふむ、ならば太陽を追いなさい」

「サンキュー!」進路が決まると、亥は走り出した。

 今まで、誰よりも沢山走った経験を活かし、すぐにハイになる術を覚えていた。

「アスファルトは性に合わない。超特急で到着してやるぜ」目的が決まった心は強い。


 有紗が目覚めると男の姿はなかった。

「大変!こんな時間!それにあの人は何か…兎に角、早く学校に行かなくちゃ!」有紗は急ぎ学校へ向かった。

 学校に着く頃には、午後の授業が始まっている時間だった。人を裁くのは人であってはいけない。有紗が勢いよく教室に入ると、いつものように授業が行われていた。

「湾(わん)田(だ)、遅いぞ」

「すいません」有紗はいつも通り授業を受けた。

 その放課後。

「おい、兎女!社長出勤とはいい度胸だな」

 いじめっ子の惡井が声をかけてきた。有紗が絡まれていると、有紗を心配していたママと卯が教室に入ってきた。

「有紗!何処かにいたの!心配したんだからね!」

「ママ、ごめんなさい」

 卯は有紗の胸に飛び込んだ。

「よかった」

「卯ちゃんも無事だったんだね!」卯と有紗もお互いの無事を確認した。

「有紗、今まで何処にいたの?」ママが尋ねると有紗は答えた。

「帽子を被ったおじさんの家にいたの」

 すると、有紗の一言にママの表情が一変した。

「有紗、またお薬を飲まなかったのね」

「うん…ごめんなさい」


「まあ、無事で本当によかったわ!」感動の再会に割って入ってきたのは威路女だ。

「有紗ちゃんのママこんにちは。私もずっと心配していたんです」

「あら、いい友達がいて良かったわ。ね、有紗」

 有紗は沈黙して俯いている。その様子を見ていた卯は有紗に声をかけた。

「もしかして、いじめっ子なんじゃない?」

「…うん」

 威路女は圧力的な表情で有紗を見ている。

「有紗!ママがいるんだ、今勇気を出して!僕もついてるから」

 ママが有紗の無事を確認して、帰ろうとした時だった。

「ママ!待って!」

「有紗どうしたの?」

「私…私…」

「毎日この子にいじめられているの!それで何度も死にたいって思っていたの!」

「何ですって!」ママは惡井を睨みつけた。

「いや…違うんです。この子がマヌケだから…」

 威路女が本音を漏らすと、ママは惡井の前に立ち、強烈なハイキックをテンプルにぶちかました。そして威路女の胸ぐらを掴み、エッジの効いた低い声で圧倒した。

「今度私の有紗をいじめたら、お前の身体に暴力の辞書を刻み込んでやるからな。法律は守ってくれないよ。分かった?」

「…は、は、は、は、はい!」威路女は逃げるように教室を飛び出した。ママは昔、泣く子も黙る伝説のレディースチーム、婆婆露阿(ばばろあ)の総長だったのだ。

「有紗、よく勇気を出して言ってくれたね。偉い偉い」

「ママ…」有紗とママは熱い抱擁をした。すると、黒板に光の渦が現れた。

「有紗、僕は元の場所へ帰るよ」

「卯ちゃん、お別れなのね」

「うん。楽しかったよ。有紗の腕の中、温かかった」

「私も楽しかった。また会える?」

「きっと会えるよ」

 こうして卯のレースは終わりを迎えた。

 その後、有紗はいじめられることはなく、医者の薬もやめて、帽子の男は二度と現れなかった。


「何よこれ!どういうこと!?」森野が突然、怒かりだした。怒りの矛先は豪田のようだ。

「ん、どうした?」

「このパンティーはなんなのよ!」

 森野の手には、女性ものの、レースの付いたシルクのパンティーが握られていた。ソファーの裏から発見したようだ。森野は振りかぶってフリフリパンティーを豪田に投げつけた。

「これはレースのパンティーだ」

「そうね、それはレースのパンティーね。オウム男くん。あんたさ…私のことナメてるの⁉昨晩は舐められたけど!いや、私も舐めたわね…そういうことじゃなくて!誰のパンティーなのよ!あんた、しょっちゅうそんなことしてるわけ?」

「このパンティーには深い理由がある」豪田は深妙な面持ちだ。不穏なハウリングをおこす中、動物達は固唾を飲んで様子を見ている。

「だったら納得のいく説明をしなさいよ!早く!今すぐ!ナウよナウ!」

 森野は、発情期のエルクのように、悪魔的ヒステリックヴォイスで、激しく追い込んだ。

「このパンティーは自分への戒めだ」

「意味が分からないわ!ちゃんと言いなさいよ!」

 豪田は深く息を吸い込み、ため息と口臭混じりに語り始めた。

「それは別れた妻のものだ。お尻の部分に穴が空いてるだろう?」

「ええ、確かに空いてるわね。それで?」

「山育ちの俺は、穴が分からないまま育った。子供はケツの穴から生まれると思っていた。

なんせ、初めて射精した時は病気だと思ったくらいだ。俺は何も知らなかった…。

ある日、道に迷っていた妻と出会い結婚した。俺はケツに挿れるものだと思っていて、ずっとケツに突っ込んでいたんだ。妻は、恥ずかしがり屋でパンティーを脱がず、ズラして挿れていたから余計に穴が分からなかった。しかし、妻は優しい女だ、タイミングを逃して言えなかったのだろう。妻は子供を欲しがっていたが、鈍感な俺はケツに突っ込み続けていた。今思えばケツで子供ができる筈もない。ある日、妻は私の元を去った。そのパンティーを置いて。それ以来、俺はペットと一緒に人を避け、山にずっと籠っていた。だからそのパンティーも、俺がバックにこだわるのも、自分への戒めなんだよ」

 豪田は語り終えると、がっくりと項垂れた。くしゃくしゃに握ったパンティーを見つめながら。

 森野は豪田の深い悲しみに触れ、込み上げる想いから、何も言わずにそっと豪田を抱きしめた。その光景は、神々しい一枚の風景画のように、神秘的であった。

 申は無意識に戌の毛繕いを始め、戌はドープダイレクトの玉を揉み、ドープダイレクトは一言呟いた。

「All need is love」

 幸せの連鎖が部屋中に広がり、ピースフルな多幸感に包まれた。目には見えないが、確かにこの瞬間に愛は存在していた。


 飛行すること、七時間。酉は茨城県に入っていた。

「ふぅ、もうレースは諦めた方がいいですわね…。手紙だけでも何とか届けないと」

 しばらく飛んでいると、巨大な人影が見えてきた。かなりの大きさだ。

「な、なんですの?」

 翼を羽ばたかせるにつれて、その巨大な人影は姿を露にしていく。

「巨大なヤクザですわ!」

「誰がヤクザじゃコラっ!」叱咤してきたのは、ニ○ロパーマの巨大な大仏だった。

「私は茨城を守護する、がーであんだ」

「す、すいませんですわ!」

「よろしい、但し仏の顔も三度までだぞ」

「了解しましたですわ!」

 大仏の背後からは太陽が昇ってきた。後光が差したその姿は、眩しく仏仏しい。

「近くに来なさい」

 大仏に言われ、酉は恐る恐る近づいた。

「さあ、私の手に乗りなさい」

「では失礼しますわ」酉が大仏の手の平に乗ると、大仏は口を大きく開いた。

「わ、私は美味しくないですわ!」

「愚か者!私は烏骨鶏しか食べんわ!侮辱するでない!次はないぞ!」

「すいませんですわ!」

 大仏を二度怒らせてしまった。

「よろしい、私を信じなさい」大仏は再び大きな口を開いた。

「中を覗きなさい」酉は、言われるがまま口内を覗いた。すると、奥歯に深みを帯びた緑色の物体が挟まっている。

「見えますか?」

「ええ、あれはなんですの?」

「ニラだ」

「に、ニラですか」

「取ってくれないか?」

「分かりましたわ!」

 大仏の奥歯に挟まったニラを、酉は嘴を楊枝のように使い、見事ニラを取ってみせた。

「と、取れましたわ!」酉は手の平に戻り、ニラを置いた。


「ありがとう。おかげでスッキリしたぞ」

「どういたしましてですわ」

「お礼に何かしなくてはな」

「いえ、お気持ちだけいただきますわ」

 酉の一言に、大仏は阿修羅のような顔に変化した。極悪非道なキラーフェイスだ。

「私の気持ちを拒むとは!もう許さん!」

「た、短気は損気ですわ!」

 大仏のもう片手が、酉を潰そうと迫ってきた。

「ひぃ!」酉はすぐさま羽ばたいた。火事場の馬鹿力を使い、なんとか高度を上げて逃げ出した。しかし、大仏は怒りの形相で、酉をはたき落とそうと腕を振り回してくる。

「た、助けてください!」

「先に言った筈だ!仏の顔も三度までと!」

「そんな理不尽だと思わなかったですの!」

「黙れ!黙れぇい!」大仏は、周囲の全てを破壊しながら、腕を振り回して追ってくる。

「南無阿弥陀ぁ‼貴様を極楽浄土へ連れて行ってやるぅ‼仏冥利に尽きるわ‼」キレた大仏はとにかくヤバかった。

「もっと高く飛ばなくては!」酉は持てる力を振り絞り、高く高く羽ばたいた。

 大仏は強烈なアッパーカットをしたが、酉には僅か届かなかった。しかし、その威力で空間を圧縮し、猛烈な竜巻を巻き起こした。爆風に突き上げられて酉は天高く舞い上がっていった。

 風がおさまり、下を見ると、大仏は地団駄を踏み、怒号をあげている。

「畜生!畜生!畜生ぉぉぉぉぅぅ‼」

 酉は九死に一生を得た。

「はぁ、恐ろしかったですわ」酉が安堵のため息を漏らすと、今度はもの凄い爆音が聞こえきた。

「な、何かきますわ!」その僅か一秒後、雲の隙間から出てきたのは、飛行機だった。

「ぶ、ぶつか…」った!バードストライク。酉は、飛行機のフロントガラスに張り付いた。


「機長!鳥です!しかも鶏!」

「見れば分かる!豚には見えん!」

「どうしましょう?」

「視界は見える。ほっとけ、その内飛ばされるだろ」

 酉は台風のような風圧を浴びて、息をするのがやっとだった。

「て…手紙だけは守らないと…」酉は必死に飛行機にしがみついたが、徐々に身体は離れ、機体の側面へと飛ばされた。秒で左翼にぶつかり、運良く身体が引っかかった。

 機内の窓際でそれを見ていた乗客は、フライトアテンダントのbeef or chicken?の問いに、思わずchicken!と叫んでしまった。

 猛風を受け続け、酉の身体は空に投げ出された。極限状態のパニックは、自身が鳥であることを忘れさせるほどだった。

「お、落ちますわー!」

 その時、意識の奥底で、本能が導き出した行動は、翼を広げることだった。すると身体の感覚は消え去り、酉は風と一体になった。

「また会ったな!」

「あなたは、風?」

「もう手紙の取り合いはやめて、協力していこう。鳥と風が力を合わせれば、煙草とコーヒー、いや、大麻とピザより相性抜群だ!」

「ええ!共に参りましょう!」


 こうして酉は、鳥としての喜びを細胞レベルで感じて、風を身に纏い大空を舞った。

「なんて気持ちがよいのでしょう!」頭を支配していたネガティブな感情は、風が全て吹き飛ばしてくれた。酉は自由を余すことなく味わった。空はオレンジ色に染まり、美しいグラデーションを瞳に宿して、華麗に空中散歩を楽しんだ。

 北へ向かう鳥達が、優雅に舞う酉を見て声をかけてきた。

「君凄いね!最高にクールだよ!」

「あなたみたいなカッコよく飛ぶ鳥は初めてだよ!」

「僕もいつか君のように飛びたいな!」

 酉はにこやかに答えた。

「努力すればできるようになりますわ!」

 カモメ達にバカにされた頃の姿は、そこにはもういなかった。すると突然、二羽の鳥が喧嘩を始めた。

「お前には無理だよ!」

「なんだと!」

「まあまあ、同じ仲間なんですから、仲良くしましょうね」酉は和やかな口調で、喧嘩を仲裁した。

「それもそうだな、ごめんよ」

「こっちこそ、ごめんね」

 その時ふと、申と戌のことが頭をよぎった。

「あの二匹、大丈夫かしら?心配ですわ」いつも一緒にいた仲だ。酉は、自由を満喫しても、やはり仲間を思っていた。そして、仲良く飛ぶ鳥達を見て、寂しい思いが湧き上がってきていた。


 午は全ての検査を合格していた。検査はアップデートの時間表示くらい適当であったのだ。午はパドックにいた。


       【パドック】馬のケツの張り具合や、ケツの穴の締まり具合を見る。


 先程まで意気込んでいた午だったが、パドックを周っていると、抗うつ剤がきれた時のような妙な現実感が襲ってきた。

「負けたら殺されちゃう」ドープは脚が震えて、脇汗が噴き出し、三歩歩く度にウンコを漏らしていた。

 そんな中、他の馬達は、既に熾烈な争いを繰り広げていた。

 3番アブサンブラックは前を歩くマンペルドンナにちょっかいを出していた。

「惚れ惚れするほどいいケツだね〜。見事なケツ祭りだね〜。俺のウマ息子をログインボーナスしてやりたいね〜?大漁だぜ?」

 マンペルドンナは脚を止めて言い返した。

「自分の鼻の穴にでも突っ込んでな。あんたのオーナーのようにね。それに一着でゴールするのは私だよ。あんたのフニャチンじゃ永遠に届かないさ」

「言うじゃないの〜。強気な女は嫌いじゃないぜ?よっ、日本一!」

 言い合う二頭の前では、兄弟で参戦している、兄ビデハヤビデと弟ブラブラブライアンが話をしていた。二頭の間には重苦しい空気が流れている。

「弟よ、大丈夫か?また呑んだくれてたんだろ?」

「うるせー顔デカ野朗!俺はいい子ちゃんぶってる奴が嫌いなんだよ!俺に構うんじゃねぇ」

「俺はただお前が心配で…」

「じゃあ俺の代わりに負けてくれるか?」

「それは…」

「へっ、そうだろうよ」

 重苦しい沈黙。生き残る為には、例え兄弟であっても勝つしかない。

 そんな険悪な雰囲気とは対照的に、楽しそうな声も聞こえる。6番クリトリスズカと8番エロマンジルクサーだ。

「今日も影踏みごっこしようねクサー。勿論私が逃げるからね!」

「トスズ、今度こそ捕まえるからね!」

 彼女達の影踏みとは、相手を予後不備にすることである。

 そしてチングリルドルフとハッシッシービーは、強者同士会話を交わさずとも、バチバチのバイブスを送り合っていた。


 各馬、様々な心中でパドックを周る中、午のやる気はラッパーの腰パン以上に下がっていた。そんな午に声をかけてきたのは、16番アスペルウィークだった。

「き、緊張するよね。私もアスペルガーだから、周りの空気に憑依されそうだよ…」

「君も緊張してるんだね」

「うん、でも頑張らなきゃだね…私アスペルガーの総大将だし」

「そうだ、僕も頑張らなきゃ!ありがとう君のおかげで精神が落ち着いてきたよ」

「それなら…良かったわ」

 午とアスペルウィークが和やかにバイブスを交わし合っていると、一頭の馬が話に割って入ってきた。9番エスエムオナラオーだ。

「よく言うぜ、この凶悪小娘」

「彼女のどこが凶悪なんだ!」午は言い返した。

「今に分かるさ。ま、せいぜい気をつけるんだな」何か引っかかる物言いをして、エスエムオナラオーは戻っていった。

「大丈夫?」午が振り返りアスペルウィークを励ますと、アスペルウィークは既に前を歩いていた。アスペルウィークがいた地面には、蹄でこう書かれていた。

「KILL」

 ここでは誰も信用してはいけない。彼らは命懸けでレースに望んでいるのだから。午が、唖然としていると、ホワイトケタミンが声をかけてきた。

「ここにいる馬は一癖も二癖もある珍馬だ。妨害して相手を予後不良にすることなどお手のものだ。お前は無事にゴールできるかな?できなければ、どの道待ってるのは死だ。俺はこのレースで有終の美を飾り伝説になる。ま、楽しくジャムろうぜドープよ」

「………」

 ホワイトケタミンの声は、耳に入っていなかった。午は自分がここにいる意味を考えていた。そしてパドックを周りながら、不思議な感覚に襲われた。一緒の出来事だったが、その感覚は宇宙からのメッセージのようだった。

「ああ、今周っているパドック。これは馬生だ。永遠に繰り返す…終わりなく走る…」午は何かを悟ったようだった。これがレースにどう影響するのか?それは新橋の売店のおばちゃんしか知らない。そして午達は地下馬道を通り本馬場へと向かった。


 村人達は、像の前で遅めの昼食を済ませ、辰が来るのを待っていた。最後の水も飲み干していた。

「龍神様が来なかったら、ロボット社会に戻るしかないな」

「もう少し待とう」

 それから少し経ち、辰達が村人達の前に現れた。

「待たせたな!予想外に時間が掛かってしまった。ついてきてくれ」

 村人達は二匹の後に続いて、列を作り歩いていった。しばらく歩き、二匹は立ち止まった。

「どうだ!」

 そこには大きな穴があり、中には水が溜まっていた。

「おお!これで一週間は暮らせますぞ!」

「やったー!お水だ!」

「ありがとうございます!」

 村人達は喜び、玉玉の唄を唄い始めた。

「やったな巳!」

「私がいて良かったでしょ?ふふ」辰と巳も喜びあった。皆んなが喜び合う中、一人だけは違っていた。

「これじゃあ、約束と違うわ!」母親だ。

「雨を降らせるという約束じゃあないの?」

 辰は申し訳なさそうに話した。

「すまない。見栄をはってしまったものの、これが精一杯だ」

 すると孫張は言った。

「私達も龍神様に頼りきりでした。それに村人が卑劣なことをしでかしました。感謝とお詫びの気持ちでいっぱいですじゃ」

 巳を殺そうとした村人達も、深々と反省の態度を示している。

「その言葉を聞けて安心した。俺達はやることがあるのでこれにて失礼するぞ」そう言って、二匹が立ち去ろうとした時だった。

「あたしは許さないよ!!」

 母親は、隠し持っていた料理包丁を、辰めがけて投げつけた。父親はすぐさま母親を突き飛ばしたが、料理包丁は既に母親の手を離れていた。村人達の視線の廊下を、料理包丁は十戒のように回転しながら飛んでゆく。その短き時はスローモーション。

 そして悲劇は起きてしまった。辰を庇い、巳の身体に包丁が突き刺さった。

「巳ーーーー‼」

「辰…」

 巳は真っ赤な血を流し、苦しそうに横たわった。

「おい!誰か医者はいないか!」

 村人達は声も出せず、立ちすくんでいる。

「辰…、あたし、…あなたのこと…」

「巳!しゃべるな!」

「愛し…て…」巳は静かに息をひきとった。辰は、冷たくなった巳の身体を抱きしめ、大粒の涙を流した。やがて涙は豪雨となり、日本全土に降り注いだ。


 窓の外は急に雨が降り出した。遠くの雷鳴の合図で雨足は早くなり、やがて豪雨となったなった。雷鳴の合間を縫って、テレビから競馬番組が始まる声が聞こえてきた。窓の外に注がれた視線達は、ブラウン管へと移行した。

 森野は、出走するドープダイレクトが、動物達の仲間だと豪田に伝えた。それにより豪田は、部屋にいるドープダイレクトが、犬ではないということを知った。この部屋の全ての者達が、ブラウン管に瞳を捧げた。


「うわぁー!これがレース場かー!」

 広大な緑と大観衆が、午の緊張を吹き飛ばした。午は一目散に雨のターフを駆け出した。胃袋と腸の中が空になったこともあり、身体は軽くエナジーに満ちていた。

「やっぱりこれはガイダンスだ。僕がここに来たのは運命なんだ!思い出した!ドープダイレクトの話を聞いた時から…僕は、僕は、走りたかったんだ!」午はレース直前で迷いや恐怖、ネガティブなものを全て解き放った。


 その頃、テレビの前では、申達が固唾を飲んで見守っていた。

「お、午のやつ調子良さそうじゃないか」

「でも随分やつれてない?」

「頼むぜ!俺の代わりに勝利を掴んでくれ!」

 番組では全ての馬を紹介すると、場面は予想コーナーへ切り替わった。

 マカロニ面した司会者が、負酒(ふざけ)先生に会話を振った。

「負酒先生の予想はどうでしょうか?今回外すと三十連敗ですが?」

「はっはっは、今回はクリトリスズカで間違いないでしょう。今回外したらインドに行ってガンジス河でバタフライしますよ!はっはっは」

 そのコメントを見ていた豪田は心の中で静かに呟いた。(やべー、クリトリスズカ買っちまった)


 そしてなんやかんやで、ゲートインの時間がやってきた。

「さあ、間もなく始まります!第一回珍馬記念!」

素人楽団のド下手なファンファーレで、場内は一気に盛り上がり、いぼ痔の人間が百人くらいで、ビブラートの効いた屁をこいても、バレないくらいの歓声が巻き起こった。

 午は果たして、三冠馬ホワイトケタミンに勝利できるのか?兄弟のわだかまりは解けるのか?強者達の運命は?サッカーの監督だけ何故スーツ姿なのか?様々なドラマが入り乱れるレースが幕を開けた。

「フルゲート各馬収まりました。さぁスタートしました!」

 その時、眩しい稲光と共に激しい落雷が豪田家に直撃した。衝撃でテレビの映像が途切れてしまった。

「クソ!このオンボロめ!」豪田はテレビをバンバンと叩いた。すると映像が少し戻ったが、途切れ途切れでよく見えない。

「早く直してくれよ!」

「分かってる!皆んなも協力してくれ!」

 動物達も懸命にテレビを叩いた。豪田も配線をこねくり回している。その様子を見て、森野のビオランテは微かにジワっていた。


「また…守ってやれなかった」

 愛と死は等しく同等である。辰は巳の愛が突き刺さった。その胸の痛みは想像を絶するものであった。

 母親は、村人に取り押さえられた。悲しみの雨は止むことなく降り注ぎ、貯水池には雨が溢れるほど、水が貯まった。泣き崩れる辰を見ていた、村人の一人が何かに気づいた。

「龍神様!蛇が!」

 巳の身体が眩しい光を放ち出した。巳の身体はひび割れてゆき、真っ白でなんとも神々しい姿をした白蛇が現れた。

「辰、こっちを見て」

「⁉」

「どう?美白でしょ?」

「巳‼」

 巳は、愛と死の狭間で脱皮をし、生まれ変わったのだ。


『過去にも未来にも映る君の姿。希望が私の背中を押す。休んでる暇はない。行かなきゃ』


「もう泣かないで、あたしはいつまでもあなたの側にいるわ」

「巳、愛してる。ずっとお前が必要だ」

 二匹が抱き合い接吻を交わすと、愛が世界を包んでいった。村人達は抱き合い、歓喜に身を寄せ合った。その瞬間、世界中で数々の奇跡が起きた。自殺を試みていた者は思い留まり、お年寄りの腰痛も治った。

 遠くの地アメリカでも、全ての人が銃を捨て花を手にした。白人も黒人も、看守と囚人も、全ての人々が愛し合った。

 この国日本でも、洗脳されていた偽善者達は、口に詰めたパンティーを外した。政治家の手先でいるよりも、自分達の創造性が挑戦を生み、挑戦がよりよい文化を生むことに気づいたのだ。いや、それは盛り過ぎた。とにかく平和が地球を包み込んだ。

 雨上がりの空は澄み渡り、美しい虹が誕生した。虹の橋の先には、眩い光が渦巻いている。

「巳、俺について来てくれ」

「ええ、この先もずっとあなたの後ろをついて行くわ」

 辰は巳を背に乗せると、天高く昇っていった。そして、虹の彼方へ消えてゆく姿を、村人達はいつまでも笑顔で見ていた。


 豪田達が夢中でテレビを叩いている間に、雨は上がっていた。それと共にレースも終わっていた。再び映像が元に戻ると、襷をかけて沢山の人に囲まれている午の姿があった。

「なんか知らないけど勝ったのか?」申が口を開いた。

「そうみたいだね!」

「ありがとよ、午。信じてたぜ」

 午の勝利を、全員が大いに喜んだ。


 見事勝利した午は、地下馬道の先に光り輝く渦を見ていた。

「あれは本当のゴールだ!なんか知らないけどガイダンスに従って走ってたら勝っちゃった。でも、楽しかったなぁ!さあ本当のレース、僕は何位かな?」午は、ご満悦で地下馬道の先へと消えていった。


 酉は、鳥達と悠々自適にメロウな空の道中を共にし、穏やかな笑顔で別れた。そして、目的地の上空から、ゆっくりと大地に舞い降りた。そこは緑が彩る森の中だった。

「この辺りですわね」


 豪田家では。

「よし!皆んな呑むぞー!わっはっは!」豪田はキッチンから日本酒を持ってきた。

「それでは午の勝利を祝って!」

「乾ぱーい!」祝杯は盛大に盛り上がった。アルコールは、彼らの血管を枝分かれしながら進行してゆき、緩やかに脳細胞を破壊していった。

 酔った豪田は、ドープダイレクトの首に肩をまわした。

「お前さん、よく見ると飼ってた犬にそっくりだな」どうやらドープダイレクトは色々な動物に似ているみたいだ。

「そうなのか?」

「ウチで一緒に暮らすか!」

「いいのか?」

「な、泉!」豪田はさらりと告白した。急なフリだったが、森野も気持ちは同じだった。

「ええ、一緒に暮らしましょう!きっと楽しいわ!」

 それを聞いていた申と戌も、ひやかしながら喜び合った。自身がレースの最中だということを、すっかり忘れて。


《え…?…広場で……》

《あの……牛…の………が…?》

《…また…寝……のか…ア………》


 酉が森の中を飛んでいると、一軒のログハウスを見つけた。

「あそこですわね」家の中からは、楽しそうな声が聞こえてくる。その賑やかな装いに、酉は、申や戌達に思いを募らせた。

「皆んなゴールして、また一緒に天界で暮らせますかしら?子も猫に追われてましたが心配ですわ」当たり前だと思っていた日常が、とても幸せなことに気がついた。自分がゴールできるかも分からないというのに。酉はナンセンスだが、誰よりも優しいのだ。

 酉は家の前までたどり着いた。目的地はすぐそこだ。


 コン、コン、コン。


 酉は嘴でドアをノックした。すると、ドアが開き出てきたのは。酒臭い大男だった。

「ん?鶏か。もしかしてお前もあいつらの仲間か?」

「あいつら?」

 豪田はドアを全開に開いた。するとそこには、申、戌、午がはしゃいでいた。

「皆んな!何してるのです?」酉が声をかけると、動物達は気づいて駆け寄ってきた。

「酉!会いたかったぜ!」

「僕達心配してたんだよ」

「俺は午じゃないが、よろしくな!」

 酉は、何が何だかよく分からなかった。仲の悪い猿と犬が楽しそうにしている。午は自分が午じゃないと意味不明な発言をしている。ドッキリですか?と思うくらいカオスな状態だった。

「ま、とにかく入れ!がっはっは!」

「お、お邪魔しますわ」酉は訳も分からず家の中へ入った。部屋には見知らぬ女性が会釈をしていた。

「私は森野、いえ、豪田泉。豪田の妻です」

「照れるじゃないか!」

「わ、私は酉です。よ、よろしくですわ」

 初対面の挨拶を済ませると、酉は動物達に向かって話しかけた。

「ところで、あなた達レースはどうしたのですか?」

 申と戌は顔を見合わせた。

「すっかり忘れてた」

「午、あなたはどうしたのです?」

「あ〜、ちゃんと説明しないとな」ドープダイレクトは、これまでの経緯を説明した。

「なるほどですわ」酉が状況を飲み込めたところで、戌が尋ねた。

「君こそレースはどうしたの?」

「そうでしたわ!私はこれを届けにきたのですわ」酉は嘴で手紙を解くと、豪田に手紙を渡した。手紙を受け取った豪田は、手紙を読み始めた。

「こ、これは…」豪田は笑顔で瞳を濡らした。

「あなた、どうしたの?」

「別れた妻からだ」

「なんて書いてあるの?嫌なら言わなくていいわよ」森野は優しく言った。

「嬉しい報せだよ。結婚して子供ができたみたいだ。私は幸せだから自分を責めないでほしい、幸せになってほしいとのことだ」

「良かったわね。もうパンティー捨ててもいいんじゃない?」

「ああ、そうだな。本当に良かった」

「私達も一緒に幸せになりましょうね」

「そうだな、幸せになろう」

 動物達も感動して喜んだ。


「俺達からもお前に言いたいことがあるんだ」

 申は酉に話し始めた。

「いつも戌と喧嘩して、その度にお前に迷惑かけてたな、ごめんよ」

 申の言葉に酉は驚き、温かなさざ波が込み上げてきた。そして戌も続いて話した。

「僕達このレースを通じて、仲良しになったんだ。いつも迷惑かけててごめんね。でも、もう大丈夫だよ」

 二匹の言霊が酉の心に入り込み、堰き止めていた涙腺を崩壊させた。

「私もあなた達と離れて寂しかったですのよ!本当に良かったですわ!」申、酉、戌は抱き合い、気持ちを一つにした。すると、部屋の中心に綺麗な光の渦が現れた。

「なんだ?」

「もしかして…」

「ゴールですわ!」

 どうやら別れの時が訪れたようだ。


森野は申に話しかけた。

「行くのね」

「ああ」

「悪態つくのやめなさいよ」

「分かったよ、豪田さんと、ドープと幸せになれよ!」

「当たり前でしょ、あなた達もね」

「ドープもありがとうな!お前のおかげで大切な気持ちに気づけたぜ!」

「ああ、仲間を信じろよ!それと、命の恩馬によろしく伝えてくれ!」

「ちゃんと伝えるぜ!」

 戌が豪田に飛びついた。

「僕達に優しくしてくれて、ありがとう!一緒にいて楽しかったよ!」森野は、戌の言葉を訳して豪田に伝えた。

「がっはっは!俺も楽しかったぞ!お前達のおかげで俺は幸せ者になれた!」豪田は、動物達の頭を、わしゃわしゃと豪快に撫でた。

「申、泉とドープを連れてきてくれてありがとうな!こんな美人のカミさんと、可愛いペットを持てて幸せだ!」

「いいってことよ」

「美人」のワードに反応した申が、森野をチラリと見ると、森野は斜め上から睨みを効かせていた。

「それに酉、手紙を運んできてくれてありがとうな!おかげで救われた!」

「どういたしましてですわ!」

 豪田、森野、ドープダイレクトは、肩を寄せ合い動物達を見送った。

「よし、行くか!」

「うん!」

「ええ、行きましょう!」申、酉、戌は手を繋ぎ、仲良く光の渦へと消えていった。

 その後、豪田家には四人目、五人目、六人目、七人目、八人目、九人目、十人目、十一人目、十二人目の家族が誕生し、次の妊娠で九つ子が産まれ、一家二十一人、末永く幸せに暮らした。


 猛スピードで東京を駆け抜け、山梨県に辿り着いたのは、午後四時のことだった。亥は富士山の見える場所にいた。

「ここが日本一の山か!一度ゆっくり登ってみたかったんだ!」亥は山降りは嫌いだが、山登りは大好きだった。レースではない、ただの山登り。亥は、求めていたものをを思い出したのだ。

 しかし、誤算が一つ、亥が脚を踏み入れたのは樹海だった。霜を身に纏う針葉樹は、冷たい空気を漂わせていた。水分を含んだ土が、ぬかるんだ地面を形成し、歩く度にいやらしい音がした。同じような景色に、亥はさっそく迷い始めた。辺りには木に吊るされたロープや、捨てられた人間の靴が落ちている。

「全く人間てやつは自然を汚す生き物だな」

 人間は宇宙にまでも、平気でゴミを捨てる。

人間は、人間目線でしか物事を考えられない生き物なのだ。そして環境を貪り尽くせば惑星の移住を考える。人間は、宇宙の癌細胞のような存在なのだ。広い宇宙で考えたら、マザーテレサやガンジー、キング牧師でさえも、マコーレカルキンや寺○心と何も変わらない。


 景色の変わらない道を一時間程歩いていると、茶色い何かが横たわっていた。

「あれは猪じゃないか!」亥が近寄ってみると、猪は惜しげもなく内臓丸出しで、ハラワタをぶちまけていた。肉は腐り始めていて、鼻が曲がる程の異臭を放っていた。

「うおっ!強烈だな…。何かに襲われたのか?」

しかし、亥は引き返すことは考えていなかった。それに、既に迷子だ。

「気をつけて進まないとな」周囲を警戒しながら、また一時間程歩いた。

「あれ?さっきのエグい猪じゃないか?」樹海は、コンパスさえも狂わせてしまう電波が、飛び交っている異空間だ。

「まずいな、このままでは富士山登頂どころじゃあないぞ。少し急ぐか」亥は、さっきとは別の方向へと走り出した。

「またか!」同じところをループしていた。困り果てていると、パキッと乾いた枝を踏む音が聞こえた。音のする方を見ると、鹿が耳をピクリと動かして、警戒した表情でこちらを見ていた。

「おーい!道を教えてくれ!」

「…ついておいで」鹿は静かにそう言うと、軽やかに走り始めた。亥は鹿の後を追って走った。

 しばらく走ると、鹿は洞穴の中へと入っていった。

「本当にこっちか?」

「…この先が富士山まで続いているよ」暗い洞穴を少し進んでいくと、鹿は脚を止めた。

「…連れて来ました」

「ご苦労」低い声と共に、足音が近づいてくる。

「誰だ!」

 洞穴の中から出てきたのは、身の丈三メートルはあるであろう熊だった。

「俺は不眠症でな。冬眠ができないんだ」熊は言った。

「それは大変だな。俺は富士山を目指しているんだ。道を知っているか?」亥は尋ねた。

「俺を眠らせてくれたら教えてやろう」

「寝たら教えられないだろ?」

「その通りだ。だから変わりに鹿が道を教える」

「どういうことだ?」

 鹿は熊とある契約をしていた。鹿には小さな子供がいた。まだ歩くことができない。つまり樹海から出られないのだ。熊を眠らせることができる者を連れて来たら、子鹿を食べないと熊は鹿に約束したのだった。

「しかし、俺も眠れない分、そろそろ栄養を摂らないとならない。お前が俺を眠らせることができなければ、そろそろ鹿の子供を食さねばな」

「そ、それでは約束が!」

「過去の俺は約束したかもな。だが俺は今を生きている」熊は筋のない理論を言った。

「猪さん、騙してごめんなさい。なんとか助けていただけませんか?お願いします!」

 鹿の事情を聞いて、騙されたことは許せたが、はてさてどうやって熊を眠らせるか。

「なんで眠れないんだ?」亥は熊に尋ねた。

「俺はADHDといってな、敏感過ぎるんだ。だから些細なことが気になってしまうんだ。隣で貧乏ゆすりをする奴とか、張り倒したくなるくらいに」

「なるほどな」亥はそれを聞いて何か閃いた。

「ちょっと待ってろ!」

「戻らなければ、今すぐこの鹿を喰らうぞ?」

「ああ、いいぞ」

「えー⁉」

 鹿は不安そうだったが、心配を他所に、亥は意外なほど早く戻ってきた。

「これを耳につめろ」亥は木の実を咥えてきた。熊は耳に木の実を詰め込んだ。

「おい!クズのダボ熊!」亥は熊を罵倒したが、熊は聞こえていないようだ。しかし熊は木の実を外して言った。

「これだけじゃダメだ。何かが動くと気になってしまう」

 ごめん、兄貴。亥は心の中でそう呟くと、ジョニーにもらったサングラスを熊にかけた。

「どうだ?」

「これなら大丈夫だ。では俺は眠りにつく。猪よ、ありがとう」

「おう!ゆっくり寝ろよ」亥と鹿は洞穴を出た。

「ありがとうございます!ありがとうございます!」鹿は何度もお礼を言った。

「ありがとうございます!ありがとうございます!」

「お、おう」

「ありがとうございます!本当にありがとうございます!」

「うっせぇわ!」少ししつこかった。

「分かったから、富士山への道案内をしてくれないか?」

「喜んで!」

 こうして鹿の案内の元、亥は富士山の登頂口にたどり着いた。時刻は夜十時。辺りはすっかり暗くなっていた。

「では、お気をつけて!」

「おう!お前も春が来る前に、子鹿と樹海を出ろよ!」亥は鹿と別れると、富士山を登り始めた。

 レース始めは、急いでゴールすることだけを考えていた亥だが、今は新鮮な空気を吸い込み、ゆっくりと吐く。それは生きている喜びを感じ、とても有難いとことだと思えるようになっていた。感謝。ただそれしかなかった。

「俺は何も見ていなかったな。俺の横目には、沢山の景色が流れていたんだな。もっと早く気づけたらよかったな」成長の仕方はそれぞれに違う。亥は、生の喜びを身体中で感じながら、頂上を目指して歩いた。だんだんと空気が薄くなってきたが、亥は一歩一歩着実に登っていった。

「もう少しだ!」頂上まであと少しのところまで来ていた。同時に、朝の気配もすぐそこまで近づいていた。

「もう、皆んなに会えないかもな」思い返せば全てが輝いていた。小さな一歩の積み重ねが、亥を山頂へと導いた。

「やっと着いた!」山頂にたどり着くと、空は陽の光を映して、綺麗な曙色がお出迎えしていた。亥はただ黙ってそこにいた。

 やがて、ゆっくりと朝日が顔を覗かせた。その情景は余りにも綺麗で、眺める以外の選択を消し去るほど、言葉では到底表現のしようがない美しさだった。

 同時に、陽の光はとても温かかく、溢れる感動が身を焦がした。

「もう二度と皆んなに会えないのかな」亥は生まれて初めて涙を流した。朝日が昇りきろうとした時、亥の身体を温かな朝焼けの光が優しく包み込んだ。亥は光の中へと消えていった。


 未は哭き叫び目を覚ました。

「…夢⁉」

 長い長い悪夢でも見ていたのだろう。しかし、目を覚ましても、辺りには誰もいない。当然だ。ここは未の家。誰もいる筈がない。

 すると、家の電話が鳴った。

「もしもし〜、午だよ。起きてる?」

「午ちゃん!」未は安堵した。やっぱり、あれは悪夢だったみたいだ。

「動物達全員、神様からお呼び出しだよ。蝶々さん達のいるお花畑のところだって。何だろうね?楽しみだなー!」

「え?」

「そういうことだから、後でねー!」

「待って!…」電話は既に切れていた。

 まさか、さっきの悪夢は予知夢か?正夢か?とにかく嫌な予感しかしなかった。

 未は部屋の電気を消して、家を出ようとしたが電気が消えない。リモコンの電池がなくなったのだろうか?しかし、今はそれどころではない。未は家を出て、皆んなが集まるお花畑へと急いだ。

 しかし、未はいつも眠たいのと、悪夢で睡眠の質が悪かったせいか、うまく走れなかった。眠たい目を擦って、なんとか皆んなが集まるお花畑に辿り着いた。久しぶりの神様のお呼び出しとあって、動物達は騒めいていた。

 未は必死に睡魔と闘っている。すると、神様が口火を切った。

「皆んなに大事な話がある」

 集められた理由を知らない動物達は、それまでの騒めきを止め、静かに動向を伺った。未は意識を精一杯保ち、振り絞るように叫んだ。

「レースは駄目だぁぁぁ‼」


 皆んなの笑い声が聞こえる。

「未、何寝ぼけてるんだよ!」

「レースはもう終わったよ」

「未くん、ずっとここで寝てたみたいだね」

「よくこんなとこで寝れるな」ゴールした動物達が、未が起きるのを待っていた。ついに『無』の終わりが訪れたのだ。

「え?夢だったの?」

 【偽りの目覚め】【明晰夢】ではよくあることだ。明晰夢とは、あたかも現実のようにリアルに感じる夢である。夢の中で目を覚ましても、それも夢だったという現象が、偽りの目覚めだ。

 明晰夢は訓練をすれば、どんな夢でも自在に操ることができる。空も泳げるし海中も飛べる。アンハサウェイの女体盛りをツマミに、ジェシカアルバのワカメ酒をすする、なんてこともできる。勿論、寺○心を本気で泣かすことも。

 しかし、夢の中では文字が読めなかったり、電気が消せなかったりする。慣れていないと、うまく走ることも難しい。未の家の電気が消えなかったのも、そのせいだろう。

「あれ?巳ちゃん色白くなった?」

「ええ、色々あってね」

「とっても綺麗だよ!」

「ふふ、ありがと」

 巳は辰と顔を見合わせて、お互いにっこりと笑った。

「それでレースはどうだったの?」未は尋ねた。

「結局順番は変わらなかったぞ」寅が答えると、続けて午が話した。

「皆んなで話し合って決めたんだけど、順番なんてどうでもいいって」

「そうなの?」未が再び尋ねると、申が答えた。

「ああ、戌とも仲良くなったし、皆んなで仲良くいることが大切だって気づいたんだ」戌と酉も笑顔で頷いている。

「それはよかった!」未が嬉しそうにしていると、子が言った。

「でも、悪いニュースもある」その言葉で、動物達の表情がいっぺんに影を落とした。

「どうしたの?」未が心配そうに言うと、卯が答えた。

「…丑が、帰ってきてないんだ」

「え!?」未は言葉を失った。加えて亥が話した。

「それに神様の姿も見えないぜ」未を含めて、動物達は困惑している。その空気に、戌も言いづらい様子で話した。

「それに、未は最初からレースに参加してないんだよね。どうなるんだろう?」

「あ、そうだった」

「私達はそのままの順番で構いませんが、神様がいないことには」酉は言った。

「うーむ、どうしたらいいものか…」博識な辰も答えが出ないようだ。

 どうする事もできない動物達は、いったんそれぞれの家に帰ることにした。干支のレースは、不穏な影を残して終わりを迎えた。


 未が帰ろうとした時、子が声をかけてきた。

「未、君に話がある。家へ来てくれないか?」

「いいよ〜、子ちゃんの家初めて!」未は子の家に行くことになった。

「お邪魔しま〜す」子の家に入ると、壁には所狭しと沢山の絵が飾られてあり、床には映画のビデオやファッション誌で溢れていた。

「うわ〜、凄〜い!」未は、芸術の宝庫に瞳を奪われた。

「まあ座ってよ」子がそう言うと、未は腰を下ろした。

「未、君には才能があるよ。僕には分かる」

「え?」未は突然の言葉に驚いた。

 天才は天才を知るというのは事実だ。芸術を愛する者はある共通点がある。それは本質を見ることに特化しているという点だ。

「君は中性的だ。中性的な者は、男性的なロジックも女性的なイマジネーションも両方を携えている。それにイグアナは夢を見ない者に噛み付く」未は少し首を傾げたが、夢やスピリチュアルは芸術と切っても切れない縁がある。子はそれを知っていた。

「この部屋の絵を見てどう思う?」

「とっても凄いよ、なんて言えばいいか分からないけど、伝わってくる」

「やっぱりな。分からない奴には、何にも伝わらないんだよ。中には的外れな質問してくる奴もいる」

 子は鬼才であった。子が描く絵は、気魄(きはく)と魂の筆で描かれた迫力がある。そこには小細工が一切ない。鬼才と天才には違いがある。鬼才にはロジックがない。純度100%のイマジネーションだ。いわば感性のガンコロである。

 一方、天才というのは、マルチプレイヤーである。レオナルドダヴィンチのように、沢山のクリエイティブを器用に熟る。天才の場合はロジカルの方が強めに出る、イマジネーションも、どこかロジカルに学ぶ傾向があるが、平均して突出している。どちらも、正常か異常かと言われれば、異常なのは疑いようがない。

                  【ガンコロ】筋張り族の好物。大きな塊。


「君は天才だよ。心当たりない?」子がそういうと、未は夢の中で会った人達を思い出した。画家、ミュージシャン、詩人、仙人。それらは未の中にいる者達。姿形が羊ではないのが、未が天才である証でもあった。凡人(にんげん)は、美形の豚でオナニーはできない。

「自分でいうのもなんだけど、そうなのかな?」

「自分を知らない方がおかしいよ。それに事実は事実だからね」

 よく「普通はさ」とか言うスカタンがいるが、そういう奴は、自分の価値観が正しいと思ってる危険な奴だ。自分をまるで理解していない。原因は、気づきを得ぬまま生きてきたからだ。枠から飛び出し、心を解放すること。常識という呪文に囚われなければ、全ては愛であり自由だ。要するにブスにブスと言うのは失礼だが、事実ブスはブスなのだ。

「僕思ったんだ。君が天界に残ったことには、何か意味があるってね」

「ただ寝てただけだよ〜」

「それも含めてさ。神様は何か考えてる。だって皆んなが順番が変わらずゴールするのも不自然だと思わない?」

「確かにそうだね」

「なんで丑がいないのか、不思議だけど」

 未も丑について考えた。

「そういえば!」未は何かを思い出し、夢の話をした。

「ぼく、嫌な夢を見たんだ。その…皆んなが死んじゃう夢…。でも丑ちゃんだけが宇宙牛?みたいになってたんだ」

「なるほど、丑だけが宇宙牛か…。神様がいないことと何か関係があるかもね」

「神様は何か考えているのかな?」未の一言に、子は瞳を輝かせて言った。

「僕達で解決しよう!」

「他の皆んなは?」

「皆んなには内緒。疑うわけじゃないけど、こういうことは少ない方がいいんだよ」

「わかった!」未は、賢い子がそう言うなら、そうしようと思った。分析力のある子は、未がそう思うことは分かっていた。子は賢い者だけで行動した方がいいと思っていた。

「僕は天界を探るから、君は家に帰って眠ってもらえないかな?何か夢を見たら教えてほしいんだ」

「うん、わかったよ!」子との話を終えると、未は自宅へ帰った。


 子は、他にも気掛かりなことがあった。巳のことである。何故白蛇に?子が何故、賢い辰を謎解きに加えなかったか。それは辰と巳がラブラブだからだ。彼女は毒蛇から白蛇になったが、白蛇は神の使いという云い伝えがある。

 未が言ったように、もし神様に何か考えがあるなら?子は知りたくてワクワクした。他の動物達が気にならないことも、子は疑う性質がある。それは常識という偏見に囚われず、可能性を見出したいと思う気持ちからくるものであり、知性を使って些細なことを楽しみたいのだ。賢い分だけ楽しみ方はいくらでもある。


 子は巳の家を訪ねた。するとドアが少し空いていた。そして、中から巳の苦しそうな息遣いが聞こえてきた。ただごとじゃない。

「巳!大丈夫か!」子は巳の家に踏み入った。

そこにはなんと、一つの大きな輪のように、性器を舐め合う巳と辰がいた。

 子は静かに扉を閉めた。


 未は家に帰ると、ベッドに入って目を閉じた。

 すると、未は長い一本道を歩いていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

E・T・O ~Eternal Tasty Oppi~ @tetsu_nari

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ