第3話 レース前編

「あの角を曲がった所だな」

 子は溢れ出る涎をすすりながら、チーズの匂いがする角を曲がった。道は上り坂になっていた。目を凝らすと坂の途中に何か置いてある。

 やはり!五感の全てが喜びを感じずにはいられない、幸福の黄色い三角形がお出迎えしているではないか。

「チーズ‼しかも特大だ!」子は迷うことなく、坂をダッシュで駆け上がり、道端に不自然に置かれた特大のチーズに、一直線に飛び付いた。

「まうまう〜!」

   【まうまう】それさえ言って食事をすれば、お金が貰えること。又は美味しいの略語。


 芳しい黄色の世界を、まるでトンネル工事のように食べ進み、反対側へと貫通した。

 ポタリ…。ポタリ…。

 すると、ねっとりとした大粒な液体が、頭上から滴り落ちてきた。反射的に後退り、顔を覆う臭く不快な液体を必死に振り払った。

「なんなんだよー⁉」

 直後、亀裂の入った満月のような死の視線が、穴を塞ぎこちらを凝視していた。

「ひっ!」

 子は、直様向きを変え、全速力で一口目の穴から外へ出た。振り返るとそこにいたのは…。

「あ、あの時の猫…か?す、少し様子が変わったみたいだけど…、中々いいよ、はは」

 恐怖が声を震わせて上手く話せない。干支の順番を決める最初のレース。子は、猫に嘘の日にちを教えてレースから脱落させ、一着になったのは有名な話である。

「ほお、吾輩を覚えていたか」猫は鋭いキャッツアイで睨みつけた。視線を外そうならば即、死が待っていると、子は理解した。


「鼠よ、貴様は犬と猫どちらが賢いと思う?」

 猫の急な問いかけに、子は困惑した。

「大抵の奴は犬と答える。理由を聞くとこうだ。人間の言語を理解できるし、芸もできる。脳みそも猫より大きいと。だが、奴らが分かっていないのは、人間の言語は猫も理解しているが、媚びを売るから賢い訳ではない。人間の言語など、鳥語より遥かに簡単だ。それに、本能で生きられなくなった、哀れな末路が犬だ。頭の大きさ?脳みその大きさ?では頭の小さいカラスは?安○ちゃんは?頭が悪いのか?サメよりイルカの方が頭が悪いと?」

 子は、唐突な内容を話す猫が、何を言っているのかよく分からなかったが、子の耳にはそれが死の宣告のように聞こえていた。

「ちょっと、よく分からないとこもあるけど、猫の方が賢いと思うよ…。当たり前じゃないか」

 子は助かりたい思いから、言葉を慎重に選んで答えた。


「如何にも!」猫は急に声を荒げた。

「猫は地球上で最も賢い生物だ。勿論、人間よりも遥かに。人間が猫に勝っているのは繁殖力だけであり、猫から見た人間など、人間から見た虫も同然。猫に不細工はいないが人間にはわんさかいる。そして「ニャー(飯だ飯!)」と一言命ずれば、人間は執事のようにまんまを持ってくる。容易いものだ。だから犬のように芸をしたり、首を垂れることもない。人間に飼われないと生きていけぬとは、なんとも情け無ない。首輪をつけられるなど奴隷ではないか」


 その頃、戌はクシャミを連発していた。


 犬猫論争など、白人と黒人のいがみ合いのようなもので周りには全く関係ない。アメリカ人は三度の飯より差別が好き。彼らは国内に留まらず、アジアンも差別している。eye love差別。それがアメリカだ。

 自国が作った映画の中で、CGを相手に迫真の演技をして地球を救うアメリカ人だが、現実世界で地球を侵略しているのは彼らアメリカ人だ。

「USA!USA!USA!」爆薬、犯罪、戦争ばかりの映画の中で、芸術的な映画を見つけるのは至難の業である。

 何故ある国には資源が?ある国には広大な土地が?何もない国に笑顔が?そして悲劇が?神が何故全てを均等にしなかったか?

 侵略者には叡知を超えたことなのであろう。

「まだあるぞ。猫には、高い壁もしなやかに飛び越えることができる、抜群の身体能力もあれば、人間には知覚できないものも見れる、霊力も持ち合わせている。そして、誰にも死に際を見せない美学。百獣の王も猫だ。愛くるしくエレガントで誇り高い、生まれながらにベビースキーマの守護を受け、絶対的地域を持ち、カーストの頂点に君臨している。それが猫だ。つまり、下位のフィギュアスケーターがパーフェクトな演技をして、上位のスケーターがどんなにすっ転んでも、必ず上位のスケーターが勝つことと同じで決して揺るがぬのだ。人間は赤ちゃんの愛くるしさのまま、知能だけ成長させられない時点で退化している下等生物だ」

       【ベビースキーマ】『可愛い』の絶対条件を全て揃えた状態。猫の造形は至高の芸術。


「その猫である吾輩が、餌の鼠に騙されるなんて。どれほど屈辱だったと思う?」

「そ、それは…、ご、ごめん。でも、ぼ、僕は餌じゃ…ひっ!」猫はギロリとキャッツアイで睨みつけ、ザラついた猫舌で爪をひと舐めした。

「この日をどんなに待ったことか。貴様を何度引き裂いても、それは夢だったと絶望の朝を迎える。そんな日々を星の数ほどに送ってきた。分かるか?分からんだろう。神の元で、悠々と暮らしてきた貴様に分かる筈があるまい」

 一説によると、猫は十年生きると化け猫になり、二十年生きると猫又になるという。では、それより遥かに生き続けた猫は何になる?

 フッ素の入った歯磨き粉にならないことだけは確かである。

「吾輩は死の淵で憎悪と同化した。どういう経由で、この国に到達したかも分からない。その頃にはもはや、自分の存在すらも分からなくなった。…生きてるのかさえも。だが今日、刻は戻り命を吹き返した。憎き貴様の姿を目撃した時にな!」

 覚悟はしていた。いつか自分の行いが巡ってくると。そしてそれを受け入れようとも。寧ろ神がレース宣言をした時に、真っ先に思ったのは、騙してしまった猫への想い。天界で過ごす生活の中で、罪の意識が薄れることはなかった。幾度となく猫に追い回され、身体を引き裂かれて目を覚ます日々。勝利の代償に、重い十字架を背負っていた。

 つまり、お互いに忘れることはなかったのだ。なんとなくだったが、猫が生きてることは予感していた。鼠の勘というやつだ。鼠の勘はGAKITOの勘より当たる。

         

【GAKITO】勘が抜群のコメディータレント。勘を頼りに、無駄にリバーヴのかかった声で本物か偽物かを言い当てる。パフォーマンスで十円ハゲを作り正月にだけ姿を現す。


 もし、また何処かで会うことがあったなら、過去との決着をつけなければならない。子はそう思っていた。だからこそ、すんなりとレースに賛成したのだ。しかし、その覚悟を覆すには充分なほどに、猫の容姿は変わり果てていた。

 体長は普通の猫の倍以上はあり、鋭く尖った牙と爪。九本も生えた尻尾は、まるで一本一本が生き物のように動いている。その姿は、裸の女に巻きつく触手のように悍ましかった。

 逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。

どのようにして、この状況を切り抜けようか、頭は超速で回転していた。

「と、とにかく、げ、元気そうで何よりだよ」

 猫の表情が一段と恐ろしくなった。

 何か策はないか?どうする?どうする?

「こ、交渉しないか?」子は咄嗟に切り出した。

「交渉だと?貴様はまだ吾輩より賢いつもりか?まあよい、言ってみろ」

「ああ、実は今回レースをやり直してる最中なんだ」

「ほお?」

「空きは前回と同じで十二枠。僕はいいから、君がゴールすればいいよ。ははは…」正直さで乗りきる作戦だ。

 猫は、ニヤリと不気味な笑みを浮かべて言った。「それはいい考えだな。ではそうさせてもらおう」

「交渉成立だね!よかったよかった!はは…それじゃあ、僕は行かせてもらうよ。が、頑張ってね」そういって、立ち去ろうとした時だった。

「待て!」その声に、子はビクッと全身の毛を逆立てて身をすくめた。まるでパンクスがつんつんモヒモヒするように。

「何処へ行くのだ?吾輩は天界へ行くが、貴様が行くのは地獄であるぞ。親切な吾輩が送ってやろう。バラバラに引き裂いてな!」

 逃がれられない。万事休すだ。


ー その十秒前 ー

 男の名前?どうでもいい。分かっているのは、腹が減っていること。それと路地を歩いているだけだ。


ー 九秒前 ー

 歩くとは何だ?足を交互に動かすこと?それは物理的な話である。勿論、魚にはできない。


ー 八秒前 ー

 確かなのは、同じ動きで左足を続けて前には出せない。


ー 七秒前 ー

 だから必然的に右足を出す。


ー 六秒前 ー

 空き缶だ。蹴るか?踏むか?


ー 五秒前 ー

「畜生!なんで転生したら浮浪者なんだよ!神なんていねーよ!バッキャロー!」

 男の右足は空き缶を蹴っ飛ばした。


ー ここで時を戻そう ー

 今、その空き缶が、猫の後方から転がってきた。「あれだ!」子は、すかさず空き缶に飛び乗った。

「逃がすか!」猫もすぐさま後を追った。

 まるで、恐竜が玉乗りをしているように、転がる空き缶の上で、子は必死に脚を動かした。

「ぼ、僕は餌じゃないよーだ!」そのスピードは回転する度に加速していく。

「あわわわわ、まずい、このままでは壁にぶつかっちゃう!」

 前には壁、後ろからは猫。死のサンドウィッチの具材にはなりたくない。鼠の肉は、某人気ハンバーガーショップで使われているが、ソースまで鼠の血でできてはいない。

 壁がすぐそこまで近づいてきている。否、近づいてるのは子の方だ。そして背後には鋭い鉤爪が触れる寸前まで迫ってきていた。

「一か八かだ!」子は真横にジャンプした。身体は地面に投げ出され、ゴロゴロと転がった。猫の視界からは、子は突然消えて、頭から壁に激しく衝突した。

「ぶ、無事だ。はは、生きてる」子は奇跡的に無傷で助かった。

「神よ!先程の失礼をお許しください!あと、できればワインもいただけたら!いや、お金をください!可愛い彼女も!」男は、チーズを頬張りながら奇跡を噛み締めていた。子の菌により死が待っていることも知らず、人生最後の奇跡を。

 猫はフラフラと立ち上がった。

「ゆ、許さんぞ!」

「ご、ご、ご、ごめんよー!」子は一目散に逃げ出した。


 卯が逃げた先は、不気味に廻る馬の前だった。係員が檻を閉める間際にすり抜けて、人間が乗ってない一頭の馬に飛び乗った。そして卯は、恐る恐る質問した。

「君…なんでずっと廻ってるの?」

 物にも魂が宿ると言われている。当然メリーゴーラウンドも例外ではないように思えるが、メリーゴーラウンドが馬か物かは、この近代においても定かではない。生物と物質のハーフということだけは誰の目にも明白である。

 メリーゴーラウンドは答えた。

「役割だからさ」

「役割?」卯は首を傾げた。

 周る景色の中で、追いかけてくる女の子が、檻の外でこちらを見ているのを目で捉えた。

「私追われてるの、助けて!」

 メリーゴーラウンドは止まりかけている。

「さあ、そろそろ到着だよ」

「何処に到着するの?」

「君の世界さ」

 メリーゴーラウンドが停止すると、卯は飛び降りて人混みへと逃げた。しかし、この日の有紗の兎センサーは、ちょこっと触っただけで、海老のように仰け反って失神する、ドM女より感度がよかった。

「兎さーん!何で逃げるのー?」

 それは追われるからだよ。と卯の中に住む本能と呼ばれるものが呟いた。

 本能には、全ての意識や記憶が刻まれている。輪廻の数と人口の増加が伴わないのは、集合的な意識や記憶が共有されているという説もある。スマホやパソコンなど、頭の良い人が作ったものを、何故誰でもすぐに扱えてしまえるか?本能に意識が宿っていなければ、たったの百年ちょっと前に、刀で斬り合ってた汚いロン毛が進化するには早過ぎる。

 それができるのは、本能に集合的な意識(アカシックレコード)がインプットされているからである。

 まさしく、追われたら逃げるという行為も、集合的意識が作り出した本能からである。

 その本能は卯を危険から遠ざけるよう、脳に命令し、脳は伝達神経を使って身体に指示を出していた。

「そこを右!次を左だ!」

 軽やかにステップを刻み、人間をかわして進んでいった。スリッパをかわすGのように逃げ回り、気づくと人気がない異質な地帯へと踏み込んでいた。

 そこで卯が目にしたのは、まるでお化けでも出そうな不気味な洋館だった。怖い気持ちがあったが、人間に捕まるよりはましだ。特に日本人の子供には。そう思い卯は洋館に駆け込んだ。

 少し遅れて有紗も洋館の前に着いた。その不気味な洋館には、他のアトラクションと違い、人が並んでいなかった。

「こんなアトラクションあったかしら?受付の人もいないわ?立ち入り禁止とも書いてないし…」子供の思考は単純である。

「じゃあ入っていいってことね!」

 しかし、この地帯へ入る時に、立ち入り禁止とは書いてあったのだが、卯を見失うまいとしていた有紗の目には入らなかっただけである。

 つまりこの地帯は、まだ開業していないエリアで、卯と有紗が迷い込んだ洋館は、建設中のアトラクションであった。

 果たして卯と有紗は、隔離された迷宮から無事に出てこれるであろうか。 


「出たいけど、僕は今まさにそのレースの最中なんだ」

「どういうことだ?」

 午は、神の元から地上に降り立ち、他の動物達とレースをしている最中だという事情を話した。

 ドープダイレクトは、俄には信じられないといった表情を浮かべたが、いかにも純粋そうなキラキラまなこの午が、嘘をついているようにも思えなかった。

「まあ、お前の事情は分かった。でもゴールが分からないレースを、レースと呼べるか?」

 最もな意見に午は耳をピクリと動かした。その様子を瞬時に察したドープダイレクトは話を続けた。

「でも競馬は違う」

「競馬?」

「ああ、そうだ。馬同士がレースをするのさ。俺はその競走馬(サラブレッド)なんだ」

「競走馬?」

「競走馬ってのはな、レースに命を懸けてる馬だ。この身に流れる血が走ることを求めている。お前も馬なら分かるだろ?」

「うん、僕も走るの大好きだよ」

「そうだろ、でもただ走るだけじゃあない。

大観衆の元で競い合い、ゴールを目指す。一つのレースでも様々な策略や駆け引きがひしめき合っている。その中でゴールの掲示板を一着で駆け抜ける快感はどんな快楽も到底及ばい。キメセクや前立腺プレイなんて、あれに比べたら40代の牝馬を落とすようなものさ。ま、俺は童貞たがな」


 ドープダイレクトは鼻をしきりに啜りながら、競馬について更に熱く語った。

 午は羨望の眼差しで話を聞いている。

「そして大観衆の声援を浴びるのは天にも昇る気持ちだ。馬に生まれた喜びをディープに味わいながら、最高のエクスタシーを感じる。羽賀も真っ青なくらいにな」

 空を見つめ、干渉に浸りながら語るドープダイレクトは、とても嬉しそうだった。

「近年から、大晦日に新しくレースが開催された。レースの名は第一回珍馬記念。実力は関係なく、ハンデもない。名だたる珍馬しか出走しない特殊なレースだ。俺はそのレースに出馬することになっている」

 ドープダイレクトの話を聞いて、午はすっかり興味津々だった。

 しかし、そこで一つの疑問が現れた。

「じゃあ何で自分が出ないの?」

「ああ、大事なことを言わないとな」

 深い溜め息と共に、ドープダイレクトの表情は一変して暗くなった。

「さっき、競走馬は命懸けと言ったな。それは大袈裟でもなんでもない、次に負けたら俺は殺されるんだ」

「え?」

「俺はデビュー戦を圧勝し三冠馬になれる逸材と言われていた。しかし、その後怪我が続き負けてばかり。結局勝ったのは最初だけ」


【三冠馬】三歳限定のグランプリレースを全て制覇した馬。要約するとつおい馬だお!


 午は黙って聞いていた。

「俺達の九割は、実力がないと殺処分されてしまう。馬油や動物園の餌にされちまうんだ。身体のありとあらゆる全てを、跡形もなく持ってかれる。中には誘導馬や乗馬として使ってもらったりする、運のいい奴もいるけどな。それは稀な話だし、大体がアルビノだ。逆に強い馬は死ぬまで女とやりまくり。名馬の名器にゲートインさ。正に性か死だ。それがこの世界の掟さ。競走馬として生まれた運命だよ。だけど、はいそうですかって、受け入れられるか?俺だって最後まで命を懸けて走りたかったさ。でも、女も知らないまま、俺の馬生は終わっちまうのかって思ったら、急に怖くなったんだ。俺も強い馬みたいに、やりまくりたいさ。月並みな言葉になってしまうが、俺も馬並みだしな。それでトレセンから逃げてきたところ、お前に会ったって訳だ。情けないことに、俺は自分の運命から逃げたんだよ」

 午は返す言葉が見つからなかった。その沈黙は、時が止まったようだった。まるで三日三晩同じ場所にいる蛾のように。

「姿がそっくりだからって、出会ったばかりのお前に頼むことじゃないな。それにお前にはお前の事情があるんだったな。悪い、忘れてくれ」

 ドープダイレクトがその場を離れようとした時。確かに聞こえた。

「僕が出るよ!」

 ドープダイレクトが振り返ると、そこには競走馬のように凛々しい顔つきの午がいた。

「僕も馬に生まれたからには、命を懸けて走ってみたい。せっかく地上に来たんだし。あんな楽しそうに語られたら、この身体に流れる血が黙っちゃいないよ。それに…」

「それに?」

「運命だと思うんだ!僕達が出会ったのは」

「ふふ」ドープダイレクトは喜びを噛み締めて言葉にした。

「お前に託すぜ!」

「うん!」

「俺がいたトレセンは、街道に戻り俺が来た方角を、馬場(きょじん)の歩幅で三十歩進んだ所にある。俺は北に向って牧草地を目指すよ。じゃあな、幸運を祈ってる」

 そう言ってドープダイレクトは、北を目指して旅立った。午はその姿を見送ると、トレセンへと歩き出した。


 丑と女はのんびり旅をしていた。

「さっきからピコピコと何やってんだ?」

「ジャーン!可愛いでしょ?」

「わっ!」

 突然丑の視界に飛び込んできたのは、さっきの機械だ。そこに写っていたのは、自分と宇宙人のような顔の女だった。

「さっきの写真だよ、加工したんだ」

 丑には理解できなかった。何故顔の半分を目にするのか。ホラー映画のような不気味さを感じた。

「ツイッパーに載せよっ」女は嬉しそうだったので、何も言わなかった。それに、言っても人間に牛語は分からない。

 すると今度は、ベロを出した白髪の爺さんが目の前に現れた。

「じゃーん!アインシュタイン!セクシーじゃない?」

 女とは、おじさまが好きな生き物だ。しかし丑には、全く理解できなかった。


「あ、ちょっとヘブン寄って」

 しばらく歩いていると、いかにも田舎らしい、大きな駐車場付きのコンビニエンスストアがあった。オーソドックスな正方形タイプだ。

コンビニエンスストア。略してコンスト。

 ヘブンはそんなコンストの中でも、大手の会社である。サタンのマークと赤い制服が特徴的だ。名物は唾入りおでん。

「あんたはここで待ってて」そう言って女は店内へと入っていった。

「透明な板が開いたぞ。彼女は魔法使いか?」

 勿論、丑は自動ドアを初めて見る。

「なんでか知らないけど、雑誌のコーナー通っちゃうんだなー。あ、ついでにトイレ入っておくか」

 近年、一人あたりのトイレの時間が長くなっているという。理由はスマホの復旧によるものらしい。事実、女はトイレでもスマホをいじりだした。

「ついつい、長くなっちゃった。店員にうんこしてるって思われてないかな」女は化粧を直して、すました顔でトイレを出た。すると、そこには衝撃の光景が広がっていた。


ー 女がトイレに入った三分後 ー


 丑は自動ドアに近づいた。

「お、開いたぞ。俺にも魔法が使えた。帰ったら皆んなに話してやろう」丑はそのまま店内に入っていった。

「あの女どこ行ったんだ?今度は消える魔法を使ったのか?」雑誌のコーナーに、曲がってしまうのは、どうやら人間だけではないようだ。

通路は、丑がギリギリ通れる幅があった。

 トイレの手前で不快な臭いを感じ、コーナーを左に曲がった。更に突き当たりを左に曲がると、左側にはパンのコーナーがあった。そこには、ジャムや蜂蜜なども置かれていた。

 その時丑は、ふと視線を感じその方向へ目を向けた。

「おや?牛の顔じゃないか。アホ面ぶっこいて何やってんだ?」丑が感じた視線は、コンデンスミルクのジャケだった。子生意気なドヤ顔を不快に思い、齧ってみると甘いミルクが喉を伝っていく。

「オェッ!この牛、糖尿病じゃないか!」

 丑はその味に驚いて商品棚にぶつかった。すると、ドミノ倒しのように棚が激しい音を立てて倒れていく。

「何だ何だ⁉」

 フライを揚げていたバイトの鈴木君(十八歳)は、その激しい音に気づき、カウンターから飛び出して、駆け寄ってきた。

「何で牛がいるんだよ⁉」

 牛は赤を見ると興奮する。その興奮度といえば、指名なしで入った下町の風俗店で、とびきりの美女を引き当てる以上のものである。牛からしたら、何故人間は赤で止まるのか理解できない。やはり人と牛は分かり合えないのだろうか?丑は、鈴木君を目がけて猛烈に突進した。

 鈴木君は軽やかに横転して、入り口付近に身をかわした。鈴木君は見た目こそ、眼鏡をかけた、いかにもなチー牛だが、少林寺拳法の初段を持つ実力者だった。

 鈴木君は自分が最強の店員だと自負している。ある日、サラリーマン風のお客に、態度が悪いと言われた。しかし、鈴木君は負けなかった。

「お前は、歩いていて工事現場の兄ちゃんにもハツリが甘いとか言うのか?コンスト店員だからってナメんなよ?逆にお前の会社に行って、プレゼンが悪いだなんだ言ってやろうか?このけつ穴野朗!」それ以来、サラリーマン風の男は二度と来なかった。

 他にも伝説はある。何度来ても、バーコードの面を上にして置かない常連客には、わざと商品を全部裏っ返してからスキャンしたりもした。

 つまり鈴木君はコンスト界の異端児なのだ。


              【チー牛】キモオタのアップデート版。


 鈴木君は、少し下がった眼鏡の位置を中指で戻すと、構えを取り丑を挑発した。

「さあ、来い!」

 すると右の方からガチャリと音がした。鈴木君が、音のする方をチラリと見ると、たわわな胸のいかにもビッチな女が立っていた。ど田舎で働く鈴木君には、その刺激は強すぎた。

 あれは、買い物に来た若い女性のお会計をした時である。そう、お釣りを渡す時だ。女性がお釣りをもらう時に、長財布に付いてる真ん中の小銭入れを両手の親指で広げて「ここに入れてください」と言っただけで、女性器を連想し勃起してしまったくらいだ。

 酷い時は、常連のおばちゃんが噛みつきガメの話をしただけで勃起してしまう程だ。

 頭は柔らかく、股間は硬く。

 そして今も、股間に激しい熱が帯びてゆく。我に帰り、丑の方を見た時には既に手遅れだった。

 鈴木君の頭は、自動ドアのガラスをど派手にぶち破り、一袋に一、二個入っている割れないピスタチオくらいに若干ひび割れ、そのまま身体ごと路上まで吹っ飛ばされた。

「ママ〜‼」鈴木君は何とか立ち上がり、頭と股間を押さえてその場を逃走した。

 儚く散った黒縁眼鏡を残して。

「あんた、何やってんのよ」

 女の声に我に帰った丑だったが、自分自身が驚いていた。まさか、穏やかな性格の自分に、こんなにも激しい感情があったとは。

「ま、とりあえず記念に写メろっか」

 二枚目の写メで丑は、少しばかり二枚目な顔に写っていた。


 丑達はコンストを出てからニ時間ほど歩いていた。すると、道に何か銀色に光り輝く物が落ちている。

「あ、何あれ?ちょっと止まって」女はそれを拾った。「これ可愛いじゃん」


ー その一時間前 ー


「なんじゃこりゃー!」

シフトの交代時間で、店に入った店長は、店の荒れ果てた姿に腰を抜かした。

「もしかして、強盗か?」しかし、レジのお金も金庫も無事だ。ちゃんと今月の売り上げの十万円も入ってる。

「鈴木君!どこだね?大丈夫かーい?フライが焦げてるから給料から店引しとくよー!」

 店内を見回ったが鈴木君の姿はない。

「そうだ!防犯カメラ!」店長は防犯カメラの映像を再生した。

「う、牛⁉」

 すぐに警察に通報した。この田舎町に警官は一人しかいない。

 三十分後、自転車を猛スピードでこいで、警官の島田さんが駆けつけた。

 平和なこの町で事件なんて滅多にない。前回の事件といえば、五年前にあった、清水の爺様の高級コート事件くらいだろう。

 清水の爺様は、囲碁クラブによく行く。ある日の帰り、清水の爺様は行く時は着ていなかった、高級なコートを身に纏って帰ってきた。

 清水の爺様によると「ご自由にお使いください」とハンガーに書かれてあったそうだ。

「それはハンガーのことですよ」という囲碁クラブのオーナーの証言で事件は解決した。

なのでこんな大事件は、島田さんが警官になって二十三年、初めてのことだった。

 島田さんは、肩に力を入れ張り切っていた。

「さっそく防犯カメラを確認させてください」

「はい、これが犯人、いや犯牛です」

「これは凶暴な牛ですね、まだ遠くへは行ってない筈です。すぐに本官が追いかけて逮捕します」

「鈴木君の為にも、よろしくお願いします。映像によると、牛は左の方角へ向かったようです」

 島田さんは、ビシッと敬礼をすると、すぐに丑を追いかけた。その背中を見送る店長も敬礼をしていた。権威への精一杯の抵抗だった。


「この腕輪、切れ目があるけど、ちょっとあたしには大きいみたい。残念」女が道で拾った銀色の腕輪を捨てようとした時だった。

「ちょっと待ちなさーい!あなたコンビニを襲った牛ですねー!止まりなさーい!」

 女が振り返ると、警官が追ってきている。

「げ、やばいじゃん」女は何とかしてこの状況を打破しようと、丑から降りて警官に近寄った。すると、警官は息を整えながら、自転車を降りた。


「お巡りさん、何かあったの?」

「私、警官の島田と言います。実はつい先程、牛がコンビニを襲いまして。失礼ですが、牛の確認をさせてもらえますか?」

 丑の顔を見られてはヤバい。女は自慢の巨乳を両手で抱えて、谷間を作った。しかも、いつもより派手に寄せて見せた。

「島田さんて、よく見るといい男ね。うっとりしちゃう」

「はぁ、それはどうも」島田さんのリアクションは薄かった。よく見ないと、いい男じゃないのか?という心理からではなく、ちゃんと理由があった。島田さんは熟女にしか興味がなかったのだ。しかも、白髪を頑なに染めない熟女という謎のこだわりもあった。

「ちょっと、どいてもらえますか?」

 島田さんが丑に近づこうとした瞬間。

「あれは何?」女は島田さんの背後を指差した。田舎暮らしで素直な島田さんは反射的に振り返った。

「ちょっと我慢してね」

「痛て!」

「何もないじゃないですか。こちらも仕事なので、邪魔しないでください。ほら、どいて」女をどかすと、島田さんは丑に声をかけた。

「君、ちょっとこっち向きなさい!」

 丑が振り返ると、島田さんはすぐに申し訳なさそうな表情に変わった。

「どうもすいません!牛違いでした!」

「あたしもその場にいたけど、この牛じゃないよ。こんなパンクな感じじゃなかったし」

「ご協力ありがとうございます。この辺りには、凶暴な牛がいるのでお気をつけ下さい。では失礼します」

 女の咄嗟の判断で、腕輪を丑の鼻に付けていた。

「ふ〜、助かった」ここで捕まってたらレースは終わりだった。丑は女に感謝の気持ちが芽生えた。

「ありがとう」丑は女にお礼を言った。

「それにしても、中々似合ってるじゃん。あんた、どんどん牛らしくなってるよ」

「うっしっし、照れるな〜」

「じゃ、勝利の写メ撮るよ!」

 そこには笑顔の丑と女がいた。


 元々あまり笑顔を見せない辰の表情は、更に険しくなっていた。あれから数時間が経ったが、相変わらず答えは出なかった。

「海がある所まで行き、口に入れて運ぶか、いやいや何日かかる?何往復?現実的ではない。それに私の姿を見たら人間は大騒ぎだ。そもそも龍だからって何でもできる訳じゃないぞ」

 自分にプレッシャーをかけたはいいものの、次第に重圧が愚痴へと変わっていった。

 辰は、全て自分で解決してきた。だから甘えるのが苦手だ。何かをあてにする気持ちは全く理解できない。責任を背負った以上、やるしかない。信じる者を救わなくては。


 その頃、辰の姿が見えない物陰で、巳も一匹で考えごとをしていた。

「私はいつも、見ていることしかできないのかしら?何でもやってのけてしまう辰に憧れるけど、私がいつも近くにいるのに、見えていないのかな…」

 巳は若干【メンヘラ】気味であった。


     【メンヘラ】エゴに苦しみエゴに泣く、愛を拒み続ける自分大好きガール。メンタルヘラドンナのこと。


「いけない、こんな時まで私は自分のことばかり。何か私にできることを考えなくちゃ。側にいるだけでも違う筈だわ」

 巳は身体をクネクネと畝らせて、辰の元へと向かおうとした…その矢先だった。

「キャー!」

 巳は悪ガキにおしっこをかけられてしまった。

「こら!何やってんだ!」

 その時辰が駆けつけ、悪ガキを叱った。

龍が怒ると迫力満点だ。悪ガキは泡を吹いて気絶してしまった。おまけに、巳におしっこをかけた為、ちんちんがぶくぶくと腫れあがった。エグいくらいに。

「大丈夫か?お前、まだこんなとこにいたのか?」

「私も一緒に解決策を考えるから!絶対譲らないから!」

「でも…」

「でもも、へちまもない!へちま?とにかくないの!」

「…分かった。一緒に考えよう」

 巳の強い意思表示に、辰は根負けした。


「全くどうしたんだい?仕方ないね〜、とりあえず火を消してリハーサルをするわよ」女は少し呆れた様子で火を消した。

 寅は自身が発した情けない声に、酷く落ち込み無気力になってしまった。

「まだ本番まで時間があるから、トーラン、あんたは少し休んでなさい。後で続けるわよ」

「トーラン?」

 そう言うと、女は寅を檻の中へと誘導した。

「はぁ〜」寅が深いため息をつくと、右の檻から声が聞こえてきた。その声の主は熊だった。

「大丈夫か?らしくないじゃないか?まるで別虎みたいだな」

 熊が何を言ってるのか、よく分からなかったが、寅は答える気力もなかった。

「ベアリン!次はあんたよ!出ておいで!」

「おっと、美香留(みかる)に呼ばれちまった。ちょっくら行ってくるよ」ベアリンは檻を出ていった。

 寅は半分放心状態で、その様子を見ていた。

「ベアリン踊って!」美香留の一声で、ベアリンは二足で立ち上がった。そして、細くて丸い大きな輪っかを持ち、お腹の辺りに潜らせて、器用に腰を振って輪っかを回している。

 寅は、ベアリンが器用に輪っかを回す姿を、不思議そうに見ていた。

「本当に上手くなったわね!私は嬉しいよ。今夜のショーも頑張ってね!」美香留は嬉しそうにベアリンを撫でた。


「あいつも努力したな〜」

 今度は左の巨大な檻の中から、低い声が流れてきた。寅が声のする方に振り向くと、そこには大きな象がいた。なんと、身体はビビットなピンク色だった。

「まさか不器用なあいつがこんなに成長したなんて。あいつも凄いけど美香留のおかげだな」

 それを聞いて寅は反論した。

「やらされてるだけじゃないか!あのベアリンて奴だって、好きでやってる訳じゃないだろ!」

「見てみろよ、あの嬉しそうな顔」

 象に言われて、美香留とベアリンの方を見てみると…、ベアリンはアホ面ぶっこいて尻を掻いていた。

「………」

 タイミングがズレたようだ。

「まあ、ベアリンはいいとして」象は少しバツが悪そうに、話を切り替えた。

「美香留は、ああ見えて優しい子なんだよ。鞭はパフォーマンスで持っているだけさ。それに大事な舞台の前だからな」

「俺には関係ない!」再び寅は、象に向かって激しく言った。

「大体俺は、こんなことしてる場合じゃないんだ!」

「お前のことは分かっている。少なくとも俺はな」

「どういうことだ?」

「まあ聞け」象は寅を嗜めて話を続けた。


「美香留は虎を飼っていた。名前はトーラン。美香留とトーランは幼い頃からずっと一緒で、家族同様だった。共に育ち、共に生きた」

 象の瞳は、美香留の方を眺めている。

「美香留の父、最家(さいけ)照男(でりお)は最家サーカス団の団長でな、サーカス団ってのは人間と動物がショーをして、人々を喜ばす仕事さ。とはいえ団員はいない。家族で各地を転々と回っていた。それに美香留の母、出(で)李子(りこ)は美香留が幼い時に他界している。だから家族は父とトーランだけ。サーカス団ってのはな、同じ場所に長くは滞在しない。だから美香留には友達もできず、唯一トーランだけがいつも側にいたんだ」

 寅は黙って聞いていた。

「あれは…俺が加入した翌年のこと。ある日不慮の事故で父も他界してしまった。その時美香留は十八歳。悲しみに暮れる美香留を見ているのは辛かったな。それでも、美香留は父のサーカス団を潰すまいと頑張ってきた。若干十八歳の女の子がどんなに辛かったか。それでも、トーランが側にいてくれたから美香留は立ち直れたんだ。その後ベアリンも加入して、俺達はここまで何とか二年もの間やってきた。でも経営も苦しくなり、トーランも歳だったし、今夜のステージが最後と決めていたんだ。最後は盛大に東京の大舞台でやろうってな」

「まさか…」

「そう、つい三日前のことだ。トーランは最後のステージを飾ることなく、息を引き取った。美香留はトーランを埋葬した後、ステージをキャンセルしなかったのさ。檻をそのままにして、皆んなで一緒にステージに上がろうって。そうしたら今日、檻の中でトーランが眠っているじゃないか。お前がトーランの生まれ変わりじゃないか?神の贈り物なんじゃないか?って、皆んな驚き喜んだよ。美香留もいつも通りに振る舞ってはいるが、内心は分からない」

 寅は言葉を失った。


 少しの間の後、ボソッと象が呟いた。

「…嘘だお」

「は?」

「今の話だお」

「どこから?」

「全てではない」

 寅は殺意が芽生えた。長々と作り話しやがって。どういう心境してんだ?

「少しは元気がでたようだな」

「何?」

「怒りは原動力。エナジーだ」

 全て象の心遣いによるものだった。

「まあ、それに今に分かる。トーランは…」

「プリンちゃん!おいで〜!」

 象が美香留に呼ばれた。

「はいよ〜」

「あいつ、あの身体でプリンかよ、ワハハハハハ…ハ…」寅は少し元気が戻り、笑っていると、突然視界がブレ始めた。


 視界がぼやけている。しかし猫は、左右に首を振って、激しい殺意で持ち直した。

 その間、二匹の間に少しの距離ができた。少し先を行く子の前には、マヌケな顔の男が壁にスプレーで落書きをしようとしている。

「あれは、もしやポンクシー?彼の鼠の絵なら、壁に張り付けば上手くカモフラージュできるかも」

 事実、予想通り男はポンクシーだった。しかし、予想と違ったのは…。

「あれ?このスプレー、殺虫剤だ」予想を上回るマヌケだったってことだ。

「クソっ!」振り返ると、猫の姿が小さく視界に入ってきた。

「このままじゃ、追いつかれちゃう」焦る子の前方に、昔ながらの占い師がいた。今では、余り見なくなった路上占い師だ。


【路上占い師】エスパー佐藤など、小柄な軟体生物が入れるくらいの小さな占い台に座り、風景と同化している。昔は、ツルピカ頭に小さな帽子を乗せて、パーティーグッズの鼻眼鏡のような顔のインチキ占い師がそこら中にいた。今では日本で三番目の絶滅危惧種。


 子は急ぎ、占い台の布の中へと身を隠した。

占い師の足は、何故か一部分だけ、すね毛が生えていなかった。

「あの鼠、何処に行きやがった?」

 子が、布の隙間から様子を見ていると、猫は占い師の少し手前で立ち止まった。

「ヤバい」子は、息を殺した。心臓は今にも飛び出しそうだ。猫は、ヒクヒクと鼻を鳴らして近づいてくる。


「飛び続けるのも大変なのですわね。もっと気持ちの良いものだと思っていましたわ」

 表と裏の見え方は違う。サラダ味のお菓子がサラダの味がしないように。

 飛ぶことには若干慣れてきたが、同時に自由とは何か?と少しの疑問も浮かんできた。

 しかし、依頼を引き受けたのは酉である。色々考えて飛行していたら、気づくと街並みも変わっていた。

「随分人が多いですわね」

 酉が東京の都市部に入ったのは、飛び始めて三時間が経過した頃であった。

 余計な頭の使い過ぎと、飛び続けた疲れもあり、一度地上に降りることを決めた。

「しかし空気が悪いですわね」

 初めての光景に、挙動不審になりながら歩いていると、近くの路面店から、なにやらこの世の物とは思えない、黒く悍しい煙が立ち込めていた。

 そこには、昼間から顔を真っ赤にした人間達が、長椅子を囲み、お酒を呑みながら何かを食べている。

「昼間から飲むビールは美味しいな!」

「そうですねぇ、この焼き鳥も!」

「…焼き鳥?」まさかとは思いながら、酉はその煙の発信源に近づいた。

「ひっ!ひぃぃぃぃやぁ!」

 なんとそこには、バラバラに解体された鳥が、部位ごとに串に刺されていた。カラーリングをして組み立てる訳でもなく、食べるために焼かれていたのだ。残虐を集約したような、悍ましい光景が晒されていた。

「おやじー皮くれー!」

「はいよ!」

 人間は残酷な生き物だ。女の魚を、強制的に帝王切開する(さばく)ことなど序の口でやってしまう。

人間は鳥や魚を生き物と見るより、食べ物と見る性質がある。動物だけじゃない、植物の命も平気で摘んでしまう。つまりは、欲の底がない種族なのだ。

 酉は、人間の量り知れない野蛮さに慄き、逃げるようにその場を離れた。


「はぁ…はぁ…」息を切らし、なんとか逃げついた場所は公園だった。円を描く噴水の周りでは、水が出るのに合わせ、子供達が飛び跳ねている。実に穏やかな光景だ。しかし、酉の心中は穏やかさを失っていた。

「もし、人間に捕まったら…」

そのショックの度合いは、住職が高級腕時計をチラつかせて携帯をいじってる以上のものだった。

 悪夢のような光景と、死骸を焼いた臭いが、頭に焼き付いてしまった。

 一度緑を眺め、なんとか心を落ち着かせようとした時、大勢の鳩が一斉にこちらに向かって飛んできた。

「なんですの⁉」見上げると、得体の知れない、白や茶色の細かいものが、雨のように降ってきている。

「ほっほっほ。愉快、愉快」

 気付かぬうちに、一人の老人がすぐ側にいるではないか。その細かいものは、老人の手から蒔かれたものだった。

 鳩は酉の周りで、奪い合うように、老人から蒔かれたものを食べている。まるでバーゲン奪だ。


【バーゲン奪】枯れた乙女の最終形態。スーパーやデパートによく現れる。山の神の先駆け的存在。


 おしくらまんじゅうに合ってる内に、近くの鳩が蹴っ飛ばした、老人が蒔いたものが、ふと口の中に入ってしまった。

「お、美味しいですわ!」

 初めての食パンに感動した酉は、有利な体格を活かして、夢中でパンを奪った。

「お前じゃない!」と何度も叫び、老人は遠くにパンを放ったが、とことん食べ漁り、見事パン食い競争を勝ち抜いた。

「いい人間もいるみたいですわね!」

 人間の根底にあるのは善か悪か?答えは次の二つの疑問により導かれる。

 何故ゴシップに喜ぶ馬鹿が多いか?何故法律が存在するか?

 つまり、少数の人間は善として生まれる。すぐに多数決で決めたがるポンコツが多いのは、悪として生まれる人間の方が多いからだ。数でものを言わす卑劣な人間。金でスター選手を集めるチームや、複数人で相手をリンチする特撮ヒーローも似たようなものである。

 悲しいことに、法律がないと人も殺せる人間が、そこら中にいるということだ。そんな悪人達の為に、ルールがなくても生きていける善人がルールを作るのだ。ルールや規則が嫌いな善人がルールを作る。なんとも皮肉なジレンマである。だが、それが社会の仕組み。


 お腹が膨れたところで、これ以上地上にいるのは危険だと判断して、再び飛び立った。少し移動したところで、電線の上に止まり、重くなった身体を休めることにした。

 短い間、ボーっと都会の街並みを見ていた。

すると見覚えのある顔を、視界に捉えた。

「あれは…子ですわ!」

 路地で、子が猫に追いかけられていた。すぐに助けに入ろうとしたが、脚に括り付けられていた手紙は、先程のパン食い競争のもみ合いで緩まっていた。手紙は電線に当たって、ヒラヒラと飛んでいってしまった。

「どうしましょう!?」子のことは心配だったが、選択したのは託された使命だった。

 飛び立つ瞬間、白い粒マスタードのような糞がポトッと落ちた。


 百日紅という木をご存知だろうか?簡単に説明すると、まさに今、申がするすると滑り落ちている木である。

「しくじった!このまま落ちれば目撃される可能性がある。もし奴が見過ごしても、臭いでバレちまう」

 申の心配とは裏腹に、木の下では戌が走り出していた。申は地に足が着くと、すぐに木の裏に隠れ、少し離れた場所に戌の姿を確認した。何故か戌はグルグルと回っている。

「あいつ、何やってんだ?」申は首を傾げて、謎の行動を観察した。

「ふ〜、スッキリした」

 うんこだった。


「何か臭うな」

 僅か布を隔てたところで、猫は脚を止めた。そして、子が冷や汗をポタリと落とした瞬間。

「お願いします」

 占い師の所に、お客さんが来た。

 若い女だ。着ているブランド、香水のかけ具合、ダサいキーホルダーを鞄につけるセンス、永久脱毛してない肌を見ると、まだ青臭い十七、八歳くらいだろう。

「私、占い師のラッキー譲(ゆずる)と申します。宇宙のパワーであなたのお悩みを解決します。さて、どのコースにしますか?」

 譲がそう言うと、女はコースの書いてある紙に視線を向けた。


 恋愛…五千百五十一円。

 仕事…二千十円。

 人生…千六百十六円。


「人生でお願いします」

「それでは、この紙に名前と生年月日を書いてください」

 女は紙に名前と生年月日を書いた。

 不幸田(ふこうだ) 奈(な)善果(ぜか)

 二千四年、四月、四日。


「それで、今日はどんなご相談で?」

「私、いつも不幸なんです。付き合う男はいつも弱い力士か、猫舌のキスが下手な人ばっかりで…」

「はあ」

「修学旅行では、部屋で友達が耳なし芳一の話をした時に大爆笑しちゃって、皆んなドン引いて友達いなくなっちゃったし。それに、いつも脳内のセロトニンが足りないというか…」か細い声だが、女は興奮気味に答えた。

 その足元では、猫がウロウロとかぎまわっている。

「耳なし芳一は怖いお話では?」譲は尋ねた。

「だって坊主なのに、耳だけお経を書き忘れるってあり得ますか?ロン毛で耳が隠れてたとかなら、まだ少し理解ができますが。だって、その…アソコとかにもお経書いてるんですよね?それで耳書き忘れますか?おバカ過ぎてツボっちゃって…。やっぱり私おかしいですよね…」

 奈善果はうつむき、少し照れながら話した。

「なるほど、でもお経を書いたのは芳一自身ではなく別の人ですよ」

「あ、じゃあ、耳を切った人とお経を書いた人はグルってことですか⁉」

「いや、そういうサスペンス的な話でもないと思いますが」譲は、天然な奈善果が、少し可愛いと思った。

「ではちょっと手相を見てみましょう。左手を見せてください」奈善果は左手を差し出して、手の平を見せた。

「ふむふむ。生命線がとても短いですね。結婚線もない。月丘も薄い。こんなダメな手相は、占い生活五十年にして初めてですよ」

 奈善果は、深いため息をついた。そしてフリスコのような物を取り出し、ポリポリと食べはじめた。


【フリスコ】食べると、スースーする。自慰行為で肛門に入れて使うこともでき、全ての口から食べれる万能アイテム。


「お一つ頂けますかな?」譲は尋ねた。

「これ安定剤ですけど…」奈善果の答えに少しばかり気まずい沈黙が続いた後、奈善果が口を開いた。

「私は、何の為に生まれてきたのでしょうか?」

 譲は、困った様子でそれに答えた。

「人間の生まれる確率は、複数の要素を統計にしたら、京や戒にまで到るようです。奇跡的な確率ですよ。奈善果さん、あなたが生まれたことには、きっと意味があるはずです」

 ここまで素直に統計を述べる占い師も珍しい。宇宙のパワーとはいったい。

「人生思い通りにならない人が、多数なのは分かっていますが、では、神様はそれを見て楽しんでいるのですか?それって凄く性格が悪いと思います…」

 確かに、と譲も思った。

「ちょっと右手も見せてもらえますか?」

「右手は…。分かりました」奈善果は躊躇したものの、意を決して右手を差し出した。右手の手首には包帯が巻かれていた。

「こ、これは!」譲は、驚愕の表情を見せた。

「見てください!私のこれを!」譲は興奮し、体勢が前のめりになった。

 その時、占い台に隙間ができ、子と猫は目が合ってしまった。

「見つけたぞ!」猫はその瞬間飛びかかった。子は間一髪で、占い台の外へ逃げ出した。

 譲はそのままの勢いで、バランスを崩して奈善果を押し倒してしまった。

「ふぎゃっ!」年季の入った占い台は、すぐに壊れて、猫はその下敷きとなった。

 押し倒した奈善果の脚を、譲は虫眼鏡を使って観察した。

「な、なんなんですか!」奈善果は、至極真っ当な反応をした。この時、自分も普通の人間なんだという、安心感が生まれた。

「これは、失礼しました」譲は立ち上がり、奈善果をそっと起こした。

「これを見てください」そう言うと、譲は右の手の平を奈善果に見せた。

「こ、これは…」なんと譲の手の平には、奈善果と同じ手相があった。

 それは、手の平に大きくバッテンだけが描かれた、大変珍しいものであった。

「この手相は、人生終わってますかけ線と言いまして。この手相を持つ者は、この世に二人しかいないと言われています。その二人が奇跡的に出会うと、生涯を共にするミラクルでワンダーな関係になると言われています」

 奈善果は譲の目を見て、大人しく聞いている。

「そして僕の足を見てください。一部分だけすね毛が生えていません。奈善果さんの足も同じです。これは、運命だと思うのです」

 正直、足のすね毛はこじつけに聞こえた奈善果だったが、真剣にすね毛の話をする譲のことが、なんだか愛おしく想えてきた。そして、ふと手相を見た時に、驚くべきことが起こった。

 なんと、人生終わってますかけ線は、半分のハート型に変わっていたのだ。譲の手の平も同様に半分のハート型に変わっていた。手相は変わるのだ。いや、型在るものは全て。

「私、あなたに出会う為に生まれてきたのですね」奈善果は気づいてしまった。魂の声に…。


「どいたどいたー!」私と、無数の私以外。

「そう、私は競走をしていた。手も足も無く、勿論すね毛すらなかった。私は、周りのライバル達を押し除けて、眩しい光の方へと。前へ、前へ。そして光に触れた瞬間。私は創られた。それから私の人生は、不幸の連続でした。でも、譲さんに出会う為の道のりだったなら、私は救われます」

 その言葉に譲は答えた。

「実は、私の人生も不幸の連続でした。いつも通っていたコンストでは、『毎日ツナマヨ野朗』と陰で店員にあだ名をつけられ、大好きだったキャバ嬢の電話帳を、たまたま見てしまった時は『ぼっち鼻眼鏡』と登録されていました。クリスマスは毎年、一人でレンタルビデオ屋に行き、三十四丁目の奇跡を借りてました。そこのAVコーナーにいる人間よりは、まだましだと自分に言い聞かせて幸せなフリをしていました。しかし、奈善果さんに逢って、本当の自分に目覚めました。奈善果さん、僕があなたを幸せにします。僕と付き合ってください」

 譲は今まで、何かが足りないとずっと思って生きてきた。それが、ビタミンなのかなんなのか分からずにいた。その答えがようやく見つかったのだ。譲は勇気を振り絞って愛を告白したのだ。

「はい、こんな私でよろしければ」

 こうして、二人は運命により結ばれた。前世や前前世や前前前前世を経て。

 その後譲と奈善果は、ラッキー譲、ラッキー奈善果として、一躍、有名夫婦占い師となる。

 しか〜し!猫の心情は、そんな甘いものではなかった。

「鼠め!許さん!許さんぞ!」


「ちんたらちんたら、あんたイライラするわ。屋上遊園地のパンダじゃないんだから」

「勝手に乗ってるくせに文句言うなよな〜」

 旅の最中、丑と女の性格の違いが露わになってきた。

「やっぱり牛っていうのは過激でロックな感じがいいよね。アナーキーで果敢に挑む的な」

「ロックって何だ?」

「ちょっと待ってね」

 女は携帯にイヤホンを挿して、何かを検索している。

「あったあった、あたしの大好きな曲。

 ×(ばつ)日本(にっぽん)の紅(べに)鮭(ざけ)これ最高だから」


【×日本】日本のロックバンドで【紅鮭】は×日本の代表曲だ。リーダーのSASHIMIは、ドラムと食事担当である。演奏後にドラムセットの上に定食を並べスティックで食う。そんな奇抜なパフォーマンスで一世を風味した。彼らのサウンドはその性格同様に、とてもヘビーなものである。

 しかし現在は、リーダーSASHIMIのニューシングル発売宣言から六十年が経ったが、未だ発売はせず。そんなことはすっかり忘れ、SASHIMIは自身のブランドの入れ歯をプロデュースしている。


 女は音量をマックスにして、イヤホンを丑の耳に突っ込んだ。

 静かなピアノの旋律から始まる。それは遠い記憶、牧場での長閑な日々を思い出させた。うっとりとピアノの旋律を聴いていると、その音はピタリと止まった。その直後、突然攻撃的で暴力的なさまざまな轟音が、烈火の如くなだれ込んできた。

 寝ぼけた顔をしていた牛の顔は、音に殴られマグマのように赤くなり、鼻からは煙を吹き出した。地獄の業火で草木は燃え尽き、天高く黒煙を上げていた。

 心臓の鼓動はビートに合わせてリズムを刻み、頭は自然と、激しく上下に動きだした。

「お、ノリノリじゃん!」

 激情に身を委ねると、丑は闘牛の如く前脚で土を蹴り、怒涛の勢いで走り出した。

「俺は牛だーーー‼今度こそ一着になってやるぞーーー‼」

「いいぞー!飛ばせー!」

 丑は、無意識に封じ込んでいた、本当の気持ちに気づき始めていた。

 ロデオ&カウガールの旅は続く。


 申が尾行を続けるか否か迷っていると、戌が急に足を止めた。

「今度は何だ?排泄を見るのはもう勘弁だぞ」

 申は木の陰から、不思議そうに見ている。

「何だろう?」戌が違和感を持ち、足を止めた場所は周りに比べて土が盛り上がっていた。

「掘ったら何か出てくるかも!」ここ掘れワンワン、ワクワクしながら前脚で土を掻き出した。ザクザクと堀っていると、何かが見え始めた。

「お宝かな!?神様に持って帰ったら褒めてもらえるかも!」

 逸る気持ちを抑えきれず、夢中で土を掻き出した。すると、土の下から出てきたのは…。

「骨だ!」


 戌は喜んで骨を咥え、グルグルと回った。

「わーい!骨好き!骨好き!骨好き!」

 神様のことは既に頭にない。

「あいつ、何やってんだ?ちっ、ここからじゃ良く見えないな。ん?誰か来るぞ」

 申は息を殺して動向を伺っていた。戌は興奮して忍び寄る影に気付いていないようだ。

 そんな戌が再びぶつかったのは、木ではなかったが、負けず劣らずの太い人間の足だった。その足は血が滴り、紅く滲んで、アメリカテキサス州の地図のような模様を醸し出していた。

 普通なら驚くところだが、興奮していた戌は腰を振っていた。骨を咥えながら。

 無我夢中で発情していると、巨大な腕がクレーンのように伸びてきて、戌はいとも簡単にキャッチされてしまった。

「た、た、大変だ!」申は驚いて、思わず見猿のポージングをしてしまった。指の隙間から視線を覗かせると、捕獲されてもがく戌が、大男の肩越しに申を目認していた。

「しーっ!」

 申は人差し指を口に当てて合図を送った。「俺が助けないと」

「なんで申がここにいるんだ?こんな時に、また僕を笑ってるんだな」

 戌の思いは違かったようだ。男が歩き出した後、戌が連れ去られた場所を、申は確認した。

「ほ、骨だ!しかもこの骨…デカイぞ。人の骨か?それにこれは血の痕!奴は殺人鬼か!?このままじゃ戌が殺されてしまう」

 パニックになる頭とはよそに、男は戌を抱えてどんどん進んでいく。

「くそっ、見捨てるわけにはいかねぇ」

 視界は悪かったが、大きな足跡を道標にして、申は慎重に男の後を追った。


 ここで使命を果たせなければ、きっと一生自分が許せない。酉は必死に手紙を追っているが、手紙は風に拐われて、どんどん飛ばされていく。

「待ってください!」

 手紙に呼びかけるなど、センスのない者にセンスを語るくらい、ナンセンスなことであった。仕方ない、酉はナンセンスなのだ。同じ飛べない鳥でも、孔雀のようにセンスがない。

 『センス』それはユーモアであり、感性でありディグる力である。

 全身ハイブランドを着ていれば、お洒落という訳ではない。それはただのダボだ。

 古びた質屋、商店街のブティック。どんな場所であれ、持ち前の審美眼で入手した物を取り入れ、パリコレのように着こなしてしまう。

 値段や流行は関係ない、独特の極み、美意識。日本人の美意識は蟻の糞ほどしかない。

 ヨーロッパと比べると、その差は天と地だ。形ある物を、概念に囚われず着崩す力。圧倒的超感覚で表現できる力。本物のセンスを持ち合わせている日本人の確率は、三百人に一人の割合である。

       【ディグる】使い方:良質な音源をディグる。掘り出し物をディグる。


 手紙はハラハラと落下していった。落下先には高校が見える。

「おはよう!」

「おはようございます」

 彼は、ジャージ姿に竹刀を持った、絶滅危惧種の熱血教師だ。名前は鬼坂(おにさか)。今日も校門で生徒を出迎えている。

「おい、田中!一分遅刻だぞ!」

「さーせーん」

 田中はアナーキストだ。理由はある。不良の方がモテるからである。そんな田中の頭上を通り越して、手紙は田中の下駄箱へと入っていった。

「大変ですわ!手紙が校舎に!」酉は、手紙を追いかけて校門に入ろうとした。

「待て待て」鬼坂だ。

「遅刻だぞ、それに制服はどうした?」

 酉のトサカが、リーゼントに見えたのか?否、鬼坂は病んでいた。熱血教室に憧れて夢を叶えたと思ったら、時代は変わっていたのだ。

愛のある体罰でも、実行したら即ジ・エンド。現代社会では、田中のが立場は上だった。

「それどころではないですの!」酉は強制的に突破した。

「鶏にもナメられるなんて、もう人生終わりだ」この時、鬼坂は静かにある決意をした。


 田中は、普段通り下駄箱を開けた。すると中には手紙が入っているではないか。

「春きたる」思わず呟いてしまった。

 田中は、手紙をポケットにしまうと、浮かれたマヌケ面で教室へと向かった。



ー 三年B組 ー


 田中の席は窓際の一番後ろだ。隣の席には、クラスのマドンナ、一恵ちゃんがいる。

「お、おはゆー、うおっつ」田中は緊張のあまり、可笑しな挨拶をしてしまった。

「田中君、おはよう」

 今日も一恵ちゃんは可愛い。もしかして手紙は一恵ちゃんが?田中は不審者のように、何度も何度も一恵ちゃんをチラ見していた。

 しかし、今日は何か変だ。チャイムが鳴っても、鬼坂が来ない。いつもなら今頃、黒板消しのトラップに引っかかっているのに。


【黒板消しのトラップ】教室のドアの隙間に、チョークがたっぷりついた黒板消しを挟み、ドアを開けた者へのお茶目なサプライズ。最初に考えたのはIQ160の天才小僧。春巻きを最初に作った人に並ぶ偉業。


 その時、ガラガラっとドアが開いた。

「何ですの⁉」入ってきたのは酉だ。僅かな隙間から、嘴を挟み、必死にドアを開けていた。その結果、チョークの粉まみれになった。

 生徒は一斉に騒ぎ出した。

「鶏だ!」

「鶏よ!」

 類は友を呼ぶと言う。最近では、引き寄せの法則とも呼ばれるが、生徒達の反応も、実にナンセンスであった。酉は、なんとか立ち上がると、田中のポケットからはみ出た手紙を目認した。

「返しなさい!」

 放たれた怒気と共に、酉は田中に向かって狭い教室を羽ばたいた。チョークの粉を振りまき、真っ白な姿の鶏が教室内を飛んでいる。妖精が雪を降らせて舞うような幻想的光景は、生徒達の目には奇跡のように映った。

 酉は、驚いている田中の隙をつき、ポケットから手紙を咥え、教室を飛び出した。

「待て!」

 田中も酉を追って教室を飛び出した。


ー 屋上 ー


「ごめんよ、父さん、母さん」

 鬼坂は、屋上のフェンスの外側で、冥府への入り口に立っていた。鬼坂が片足を踏み出そうとした時、酉と田中が屋上へとやってきた。

「先生!」

「田中!どうして?」

 鬼坂は、田中が自分を心配して、駆けつけたのだと思った。まだこの世には生きる価値がある。鬼坂の心に希望が芽生えた。

「なんかよく分からないですが、さよなら!」

 酉は、飛び立とうとした。

「一恵ちゃんの手紙を返せ!」

 思い込みのオンパレードだ。人生では珍しくない。酉は、フェンスを飛び越えて、鬼坂の頭上を通り越した。田中もフェンスを飛び越えて、酉を捕まえようとしたが、目前には鬼坂が両手を広げていた。

「さあ来い田中!熱く抱擁しよう!」

「掴むな!落ちる!」

 二人は、イヤホンの線のように絡まり合って、屋上からダイブしてしまった。


 教室では、一恵ちゃんが窓の外を見ていた。

「田中君、なんだか様子がおかしかったわ。…ま、いつものことね」

 田中のことなど、一ミリも心配していなかった。

 すると窓の外では、田中と鬼坂が絡まり合って落下しているではないか!しかし、一恵ちゃんは既に窓を見ていなかった。

 一恵ちゃんが見ていたのは、優等生の槍杉くんだ。その槍杉くんが見ていたのは、柔道部の太田くんだった。

 槍杉くんは、太田くんに寝技をかけられる妄想をしていた。昨日のオカズは卍固めだ。技はいつも違うが、フィニッシュはいつも左の陥没した乳首だった。太っているのに陥没しているギャップが癖になる。

 そんな太田くんは、昨晩お婆ちゃんにFAXを頼まれたことが頭から離れないでいた。お婆ちゃんは滑舌が悪かった。

「頼むファックしてくれんか?ここにファックしてくれんか?」

「わ、分かったからお婆ちゃん」

 窓の向こうの田中は、落下の最中、走馬灯が見えていた。

「俺の人生…」

 大した思い出はない。走馬灯は気のせいだった。しかし鬼坂は、はっきりと見えていた。

 地面だ。

「教師バンザー…」

 二人は学びの庭に強烈なキスをして、来世へと旅立った。ジャージすら存在するか分からない未来へと。


 リスの教え通り、亥は南に向かい、車道を走っていた。すると、エンジン音を連れて、亥の後方から一台のハーレーが走ってきた。サイドカーだ。黒のボディに、ファイヤーパターンの塗装が施されている。

 乗っている男は、ペイズリーのバンダナにティアドロップのサングラス、白く長い顎髭を蓄え、スタッツのついた革ジャン(大人の学ラン)を着て、腕を捲っていた。筋肉質な腕には、タトゥーが刻まれている。凄まじく渋い風貌だ。

 その男は、亥が走ってる横に並んできた。

 亥が並走するサイドカーを横目で見ると、お尻に火がついて走る、猪のステッカーが貼ってあった。

「クールだろ?」サイドカーの男がニヒルに言った。

「お前センスいいな!」亥も自分のステッカーにご満悦だ。

「俺は千葉まで行く。良かったら途中まで乗ってけよ、ほら飛び乗れ」そう言うと、男はサイドカーのボディをポンと叩いた。

「サンキュー!」一秒でも早く進みたい亥は、サイドカーに飛び乗った。

「俺はジョニーだ」

「亥だ、よろしくな!」

 ジョニーは愛称で、本名は鈴木たけし。

 普通の名前が嫌でジョニーと名乗っている。それを知る者は少ない。何故なら友達も少ないからだ。

「俺はコイツでハイウェイをひたすら真っ直ぐ走るのが好きなんだ。猪も真っ直ぐ突き進むだろ?」

「そうだな!」

「俺たちゃ似たもん同士だ」

 ジョニーは猪語は分からないが、お互いに以心伝心してるの感じていた。

「今日もエンジンが唸ってやがるぜ!かっ飛ばすぞ!」

「おう!どんどん行こうぜ!」

「そうだ、チーム名きめねぇとな、ヘルズオークスってのはどうだ?」

「気に入ったぜ兄貴!」

 旅は道連れ。これも一つの醍醐味である。亥は、レースで初めて楽しいと思い始めていた。


 少し走ると、凄まじくエロいお尻の女がバイクに跨り止まっていた。

「見ろよあのケツ」

「最高だな!」

「褒めてやれよ相棒」

 亥は通り過ぎざまに叫んだ。

「エロいケツだぜ姉ちゃん!」

 それから、ヘルズオークスは女のお尻の余韻に浸りながら進んでいた。すると突然真横からクラクションを鳴らされた。

「うわっ!ビックリした!」

「さっきのエロケツ姐ちゃんだ!」

 女とは怖い生き物だ。必ず仕返しがくる。


 「怖いよ…」

 洋館の中に入ると、外観通りにおどろおどろしい雰囲気を醸し出していた。

 暗闇の陰から、いきなりゾンビが‼…現れてもおかしくはない。赤い絨毯の長い渡り廊下が、闇へと永遠に続いているようだ。

 左右には不気味な騎士の甲冑が、均等な間隔で並んでいる。設置したのは三連ピアスも均等に付けるA型の人間だろう。今にも動きだして襲ってきそうだ。

 卯が振り返ると、女の子が両手を差し出して追ってきている。

「もう、ほっといてよぉ!」

 兎は非常に繊細な生き物だ。怖くても、寂しくても、会いたくて会いたくて震えていても、碧くても死んでしまう。とにかく弱い生き物なのだ。格闘家に転職した力士よりも遥かに。


 長い廊下を過ぎると、卯の行手にはトロッコがあった。大人の人間が二人乗れるスペースがあり、車両が五つ繋がっている。

 線路の少し前には、牙の生えた大きな口が佇んでいる。その先には道が続いていそうだが、カーテンレースが視界を遮っている。

 卯は急ぎ、トロッコの先頭車両に身を潜めた。すると、有紗もトロッコまでやってきた。

「兎さん、どこ行ったのかしら?」

 ちょうどその時、作業員達が壁の中にあるコントロール室で、トロッコの試運転をしようとしていた。

「ちょっと試しに動かしてみるぞ」

「はいよー、スイッチ入れるよ」

 有紗は卯を探し、最後尾のトロッコの座席下を覗いていると、トロッコがゆっくりと動き出した。

「なんだか楽しそう!でもちゃんとシートベルトはしないとね」トロッコはガタンとガタンと音を立てて、レールの中へと入っていった。

「う、動いてる…」

 卯は座席から顔を出した。既にトロッコはどんどんと加速していた。もう飛び降りることはできなかった。

「うわぁ!」卯は驚いて、耳がピンっと突き立った。

「兎さんも乗ってたのね!」有紗に気づかれてしまった。左右の壁では、骸骨達がカタカタと身体を動かして、不気味に笑っている。更には恐ろしい声が響き渡ってきた。

「我が館へようこそ。私は当主のクンニール・デ・マンジール・ヲ・ヌリタクール伯爵だ。君達はもう、この呪われた館から生きて出ることはできない。私の生贄となり永遠に彷徨う魂となるのだ、HAHAHAHAHAHAH!!」

 卯は全身の毛を逆立てて、恐ろしさのあまり、耳をペタンと閉じた。ビデオボックスに籠るポン中のように、完全に外界をシャットダウンした。対照的に有紗は楽しそうだ。彼女はホラー映画を観ながら余裕でピザを食べれるタイプだった。

 牙の生えた大きな口の中へと、トロッコは入っていった。真っ暗闇の中、ホログラムのゴースト達が何やら話をしている。

「この先は地獄へ向かって真っ逆さま」

「いひひひ、私達の仲間入りね」

 ゴースト達が暗転しながらフェードアウトし、響き渡る不気味な旋律が盛り上がりを増していくと、トロッコはある地点でピタリと動きを止めた。その瞬間、トロッコはもの凄い勢いで落下していった。卯は失神寸前だ。有紗は大きな声で叫んだ。

「きゃああああ!」しかし表情は怖がるどころか楽しそうだった。

 ガタガタと激しく振動しながら、トロッコはグングン加速してゆく。その頃コントロール室では…。

「俺、昨日女に振られたんだよ」

「それは気の毒にな。あんなに仲良かったのにどうしてだ?」

「将来が不安だとさ」

「なるほどな、彼女何歳だっけ?」

「二十三だよ」

「なるほど、ちょうどそっからだな。女は二十二までは、優しくて面白い人がいいと言うけど、二十三辺りから、選ぶ基準が金の有無に変わっていくんだよ」

「結局金かよ、くそっ!」

 よくある男同士の会話に夢中だった。


右へ左へカーブしながら、走り進んだトロッコは、徐々に速度を落として停止した。

「まあ女は星の数ほどいるさ」

「お前、星の数知ってるのか?」

「さあな。でも時間が解決してくれるよ」


 よくある台詞だ。しかし、時間は刑事でも探偵でもない。そもそも、時間というもの自体が存在しない。人間が勝手に枠にはめた言葉に過ぎない。久々に会った友人と、違和感なく話せるのも時間が存在しないからだ。

 もし仮に時間が存在するならば、人は老いることはない。時間がなく退屈だから、本能が細胞に指令を出すだけのことだ。人間は適応能力が高い、決まった概念に自然と合わせるようプログラミングされている。カロリーを気にするほど痩せれなかったり、ハゲを気にするほどハゲるのも同じである。厳しい自然界で生きる動物や海の生物も、厳しい環境に疲れるから老いるだけだ。

 作業員達が話に夢中になっているうちに、卯と有紗はトロッコから降りていた。先頭車両には卯のゲロが残された。


「待って兎さーん!私有紗って言うのよー!一緒に遊びましょう!」

 有紗はどうしても、卯と遊びたいみたいだ。

卯が必死に逃げていると、高い天井の大広間へと辿り着いた。広間は壁に囲まれていて、長方形になっている。中央には、大きな長方形のテーブルがあり、その上には豪華なご馳走と、ティーセットが置かれていた。

 その先には大階段があり、踊り場からニ階へと左右に分かれている。踊り場には大きな絵が飾られてあり、その絵に描かれていたのは、恐ろしい顔をした老婆の肖像画であった。

 卯は階段を駆け上がると、肖像画の老婆が一言呟いた。

「右へおゆき」

「あ、ありがとう!」

 卯は老婆に言われるがまま、階段を右へと上がっていった。後を追って有紗も階段を登り、立ち止まってほんの少しの間、肖像画を眺めた。すると肖像画には小さくこう書いてあった。

「気まぐれ老婆のティーパーティー」

「変な題名ね」

 そう言うと、有紗も階段を右へと上がっていった。老婆の気まぐれにより、卯は右へと進んだが、左には「非常口」と書いてあった。

 卯がニ階へ上がり、来た道の方向に角を折り返すと、廊下の左手には扉が並んでいた。

「全部閉まってる」

 卯は扉を目認しながら進んでいった。前方は壁で行き止まりになっている。しかし、最後の扉だけはドアが付いていなかった。

 卯はドアのない部屋に、思い切り飛び込んだ。

すると少し進んだ先で「ヒメェェェェェェェェェ〜!」

卯は悲鳴を残して消えていった。

「兎さん大丈夫ー⁉」

 そのすぐ後ろで、兎の鳴き声に不安を感じた有紗も、後を追って部屋に飛び込んだ。

部屋の中には、スライダーのような大きな滑り台があった。

「兎さん、ここを滑っていったのね」

 有紗もスライダーへと入っていった。卯と有紗は、長い長い滑り台を、右へ左へ曲がりながら、もの凄いスピードで滑っていった。時間にして、一分くらいだろうか?しかし、距離にしたら大分長い距離を降りてきたようだ。

「捕まえた!」

 体重の重い有紗の方が、滑るスピードも早かった。着地と同時に、卯は有紗に捕まってしまった。有紗は卯を抱き上げて、自分の顔の前に近づけた。

「怖がらなくて大丈夫よ。私は有紗、改めてよろしくね」

 にっこりと笑って、そのままちぱぱい胸に抱っこした。すると、卯は不思議な感覚に包まれた。さっきまで、怖くて震えていたのが嘘のように、とても安らかな感覚に包まれた。

 それ程までに、有紗の腕の中は兎愛に溢れ、優しくあたたたか、あたたたた、温かかった。

「僕…卯だよ。よろしく」卯は有紗の胸で囁いた。


「あの子どこ行っちゃったのかしら?」

 その頃、ママは有紗を探していた。

「そうだわ!」ママは閃いたようだ。

「兎が行きそうな場所を探せばいいのね!」

 ママは、マヌ…天然である。天然なママは迷子センターという選択肢が浮かばなかった。ママは近くにいた金髪の人に尋ねた。

「すいません、兎は何処にいますか?」

「What's?」尋ねたのは外国人だった。

「あ〜、ウサーギ、ドコデスカー?」

「I'm sorry」外国人は行ってしまった。去り際に二度をして。

 ママが困っていると、その様子を見た女の子の二人組が、声をかけてくれた。

「どうしました?」

「あ〜、ウサーギ、ドコデスカー?」ママは変な外国語が抜けていなかった。しかし、ママは目鼻立ちの良い美人なので、女の子達も外国人かな?と少し思った。

「兎ってハニーバニーですか?」

「違います。兎です。」

 この人変な人だ。女の子達は少し思い始めたが、まだギリギリ許容できる範囲だった。

「兎はここにはいませんよ」

 ママは思った。有紗と私が見たのは幻だったのか?と。

「私の娘が見たんです!」

「娘さんは何処にいるんですか?」

 尋ねた女の子の友達は、顔はママを見ていたが、もう行こうよと言わんばかりに、女の子の袖を引っ張っていた。

「娘が兎を追いかけて居なくなってしまったんです」

「迷子センターは行きましたか?」

「あっ!その手がありましたね!ありがとうございます」

「どういたしまして」女の子達は、去り際にママを二度見した。ママは迷子センターに行くことにした。


 センターと言えば、ヘルズオークスが突入したこの県にも存在する。それもとても巨大な。

「茨城に入ったぞ!ハイタッチだ相棒!」

「兄貴!最高だぜ!」

 ヘルズオークスはハイタッチをした。亥が茨城県に入ったのは、レースが始まって、僅か五時間のことだった。

 亥はジョニーの腕のタトゥーが気になり、ちょこんと右前脚を乗せた。

「ああ、これか。これは俺の愛する女の名前さ、ナンシーって名だ」

「兄貴、女がいるのか」

「先に天国に行っちまったけどな、隣に乗せてよく一緒に走ったもんだ」

 亥は脚を元に戻した。

「気にするな、俺の愛は生きてるし、今も一緒に走ってる気がする。いつも側に感じるんだ。今日はお前を乗せて彼女もきっと喜んでるさ!」ジョニーは親指をビッと立てた。

「姉貴もよろしくな!」亥も蹄を立てて応えた。

「そろそろガソリン入れねぇとな」メーターを見ると、残りわずかだった。

「この先にスタンドがある、コンストもついてるし、ちょっと寄ってくぜ」

「オッケー!」

 亥はジョニーとなら、少しくらい止まってもいいと思えていた。

「よし、着いたぞ。お前も来いよ」

「俺もいいのか?」

 ジョニーはバイクに給油すると、亥と一緒にコンストへと入っていった。レジに店員はいないようだ。

「お前何が食いたい?」

「じゃあこれ!」

 ジョニーはカゴにスナックやジュース、それと数字の書かれた謎の小箱を入れて、カウンターへ向かった。近くで作業をしていた店員がジョニー達に気づき、作業を中断して走ってきた。店員は亥を見ると、表情を曇らせてジョニーに言った。

「お客様、猪を入れては困ります」

「あ?大人しくしてるだろ、とっとと打ってくれ」

 店員は引き下がらなかった。そう易々といかないのが、判断力に乏しく機械のハートを持つ、マニュアルヒューマノイドの特徴である。彼らは『機転』機能をつけ忘れられた、悲しきブロークンサイボーグなのだ。


「本当に困ります!他のお客様に迷惑になるので!」

 あまり親しくない関係性の人に、子供やペットの写真を見せられて、可愛くなかった時くらい迷惑だったかは定かではないが、その言葉でジョニーの眉間に亀裂のような一本筋ができた。

「俺の相棒に向かって迷惑だと?コラ!それに、どこにも猪は入店禁止なんて書いてねぇぞ!今すぐ相棒に謝れ!」ジョニーは店員の胸ぐらを掴んだ。その剣幕は今にも殴りかかる勢いだ。

「け、警察を呼びますよ!」

「俺はなんとも思ってないから、行こうぜ兄貴!」亥は、ジョニーの脚を噛んで引っ張った。

「しょうがねぇ、相棒がいいって言うなら」ジョニー達が店を出ようとした時だった。

「顔が唾だらけになっちゃったよ。はぁ〜あ、本当困るよ、ああいう馬鹿な輩達は」

 店員が小声で呟いたのを、ヘルズオークスは拾ってしまった。なんて言ってもヘル耳だったからだ。

「やるか?」

「あたりまえよ」

 ヘルズオークスは店内の物を、片っ端からぶっ壊した。

「や、やめてくれ!悪かった!謝るから!」

「ごめんで済んだら警察いらねぇんだよ!」

「だよ!」

 店内を暴れ回って、ヘルズオークスはバイクに飛び乗った。

「あはははははは!やったな相棒!」

「あいつの顔ったら、笑っちゃうぜ!」

 大爆笑しながら、アクセルを握った。一方、店内で店員が握っていたのは、震える拳と受話器だった。

「もしもし、警察ですか?」


 気分爽快で走っていると、サイレンの音が聞こえてきた。「やべぇ」サイドミラーを見ると、パトカーが後ろにつけている。

 拡声器を使い警察が話しかけてきた。

「そこのサイドカー、止まってバイクを端に寄せなさい」

 端?宇宙には中心しか存在しない。君のいる場所も僕のいる場所も、全てが中心だ。しかし、政治家の手先にはそれが分からなかった。

「ヘルズオークスは止まらねぇよ?」

「当たり前だぜ!」

 ジョニーはローギアでアクセルをふかしまくった。マフラーからは、白煙が放出され、パトカーの視界を覆うように曇らせた。バイトの給料前で、エンジンを直すお金がなかったのが功を奏した。

「くそっ、前が見えない!」

 その隙に、エンジン全開で一気に加速した。

「ははは、やったな兄貴!」

「いや、圧倒的に馬力で負けてる、すぐに追いつかれちまうぞ」

「どうするんだ?」

「勿論突っ切るだけさ」前方の交差点は、タイミングよく赤信号になったばかりだ。左右からは車が続々と流れている。

「まさか!」

「そのまさかさ」

「それでこそ兄貴だぜ!」

 格好つけたはいいものの、ジョニーは内心ビビりまくっていた。しかし亥は、頑丈さに自信があったので、そうでもなかった。

「いくぜ!ゴー!ジョニー!ゴー!」

 ジョニーはサングラスの下で、半分涙目になりながら、そのまま赤信号の交差点に突入した。高橋名人もびっくりな程、クラクションの音が交差した後、ヘルズオークスの景色は一変した。

「やった!」

「当たり前よ」

 サイドミラーの中は、瀕死のテトリスのように、車が詰め込まれていた。道を塞ぎ見事パトカーを撒いた。

「姉貴は勝利の女神だな!」

「そうだな」ジョニーは、ビビっていたことは墓まで、いや死んでも言えないと思うのだった。

 それから少し走ると、巨大な施設が見えてきた。

「すげー広いな!なんだここ?」亥が、不思議そうに施設を見ていると、そこには馬が沢山いた。

「これは競走馬のトレーニングセンターだ、中にはプールとかもあるみたいだぜ。まるでLAの家みたいだよな、俺なんかバイクに金かけすぎて壮に住んでるってのによ。荘だぞ?荘」

 ジョニーが愚痴混じりに説明をしていると、入り口近くの街道に見慣れた顔がいた。午だ。

「ちょっと止めて!」亥はジョニーの袖を引っ張った。

「どうした?知り合いか?」ジョニーはバイクを止めた。

 午もこちらに気づき、近寄ってきた。

「亥、何やってんの?この人は?」

「この人はジョニー、俺の兄貴であり相棒だぜ!」

「よろしく、僕は午だよ」

 午のお辞儀に、ジョニーは胸に手を当てるジェスチャーでビッと応えた。

「ところで、お前こそ何やってんだ?」

「僕は競馬に出るんだ!」

「え?」何言ってんだコイツ?と一瞬思ったが、午の性格をなんとなく把握している亥は、不思議ではないなと納得した。いや嘘だ、性格が違いすぎて、よく分からない奴が正直な感想だった。

「ま、頑張れよ!てかレースはいいのか?」

「こっちのが楽しそうだし、その後考えるよ」

 午は潜在的に、可能性を広げたいと思って生きている。快楽主義に近い未来思考タイプだ。

「亥もレース頑張ってね!」

「ああ、じゃあな!」亥はサイドカーに飛び乗った。ヘルズオークスは午に手を振り出発した。

「お前の友達いい奴だな」

「ん、まあな…」亥は少し考えた。戌に会い、東京に近づいて茨城で午に会った。つまり逆に計算すると、戌、酉、申、未、午。六匹抜いたことになる。やっぱり思った通り、ゴールは東京だな。と、いうことは、現在七位に位置することになる。

「へへ、いい調子だぜ」

 隣でニヤニヤしてる亥を見て、ジョニーは嬉しそうに、左半分だけ口角を上げた。

「ゴキゲンじゃないか、いいことだ」


「スキップスキップメ〜メ〜メ〜♫」

 未が気分良く進んでいると、キャスケットを被った画家が、イーゼルを使い絵を描いていた。キャンバスには、訳の分からない絵が描いてあった。

「何を描いているの?」未は尋ねた。

「僕にも分からないんだ」画家は言った。

「変なの〜」

「そうだよね。勝手に筆が絵を描いてくれる。

出来上がった絵は『今』か『過去』であって、自分の中に在るものなんだよ。そして僕の絵は大体未完成なんだ」

 絵をよく見ていると、なんだか悲しい感情が伝わってくる。

「未来は描けないの?」

「未来は見えないからね。物語のページを捲るのは僕達じゃないんだ。でも、少しだけなら見ることができるよ。ほんの何秒先くらいならね」

「それでも凄いと思うよ〜」

「それくらいなら君にも見えるよ」

「どうやるの〜?」未は尋ねた。

「ただ『無』でいればいいんだ。どんな時も瞑想しているようにね。主観を全て排除するんだ。すると違う次元から、誰かがメッセージを教えてくれるんだよ」

「その誰かが言うことは正しいの?」

「自分が信じれば正しい道になるんだよ」

「実はボク、いつも不安なんだ。この道でいいのか分からなくて」

「分からなくていいんだよ。未来はいつか分かるんだから」

「それもそうだね!」

「ただ一つ言えることは、創造的なものを生み出せば、それは人に想像力を与えることになり、更に新しいテイストの加わった創造が生まれる。それはやがて文化になり、世界を変えてゆくんだ」

「世界がよりよくなるんだね!」

「そうだよ。今ここに流れる時間のように」

「ありがとう!絵が完成したらまた見せてね!」

「こちらこそありがとう。いつの日かね」

 未は画家に手を振ると、フワフワとスキップをして先に進んだ。


「お絵描きお絵描きメ〜メ〜メ〜♫」

 未がルンルン気分で進んでいると、今度はアコースティックギターを弾いている男がいた。

 未は立ち止まり演奏を聴いた。目を閉じると、美しいメロディーが未の意識を持っていった。演奏が終わると、未は元の場所に戻された。

「わぁ〜!凄〜い!」未は男に拍手を贈った。

「ありがとう。君は音楽が好きかな?」男は尋ねた。

「うん!」

「君はよく分かっているね。本当に見たり聴いたりしたものは、言葉にできないんだよ。それを超えたところで理解するんだ」

「なんとなく分かるかも」

「でも殆どの人はそれが分からないんだよ。よく見てないし、よく聴いていない」

「そうなんだ〜、勿体ないね〜」

 男はクスッと笑った。

「君の言葉は柔らかいね。僕の演奏で歌ってみないかい?」

「え?いいの?」

 男は笑顔で頷くとギターを奏で始めた。未は男のギターに合わせて無心で歌った。とても楽しくて心地がいい。演奏が終わると男は言った。

「君の音はとてもピュアで優しい。いつまでもそのままでいてほしいな」

「ギターの音色が僕を音の波にノセてくれたんだ。とっても気持ちよかった!」

 未は男に手を振ると、フワフワとスキップをして先に進んだ。


「お歌は楽しいメ〜メ〜メ〜♫」

未が更にアゲアゲウォーキングしていると、今度は羽ペンを持ったハンサムな色男が、紙に何かを書いていた。

「何書いてるの〜?」未は尋ねた。

「詩(ポエム)だよ」

「詩?」

「そうだよ。詩は文字の歌なんだよ」

「文字の歌?」

「気持ちを綴るんだ。でも日記と違うのは、ただ言葉を羅列するのではなく、短く美しく、そして綺麗にまとめるんだ。恋人に愛を伝えたりもできるんだよ」

「なるほど〜」

「他にも条件がある。その国にある限られた言葉で作るんだ。国よっては存在する言葉が違うからね。『いただきます』って言葉がない国もあるんだよ」

「へ〜、知らなかった〜」未は感心している。

「君を詩にしてもいいかな?」

「僕を?嬉しい!」

「じゃあ少し時間をくれるかな?」

「うん!」

 男は真剣な表情で、詩を書き始めた。

「できたよ。読んでいいかい?」

「うん!」


『微睡みの中 僕は漂う タンポポの綿毛

やがて愛の地に降り立ち 君の瞳に咲くだろう』


「どうかな?」

「うわ〜!とっても素敵だよ!ありがとう!でも、なんだか恥ずかしいな、えへへ」

「こちらこそありがとう。君のおかげで、久しぶりにいい詩が書けたよ」詩人は喜んだと思ったら、少し寂しげな表情を見せた。

「でも、いくら書いても中和されないんだ。百の詩を書き、百の死を味わっても」

「え?何が?」

「罪だよ。叶わぬ想いは波に揺られ続けて、やがて最後は塊になって残ってしまう。きっと終わりたくないんだよ」

「永遠?」

「そうだね。永遠の中に一瞬を探している。その一瞬の為なら、永遠も悪くないね」

「未来を考えているんだね!」

「僕は罰を受けている。だから未来を夢見るのかもね。囚人は牢獄から出たいものだから」

 未に檻のようなものは見えなかった。だが詩人は何か罪を抱えて囚われているようだった。

「僕もその一瞬に出逢えるかな?」

「きっと出逢えるよ。その時は一瞬の煌めきを大切にね」

「うん!」未は詩人に手を振り、フワフワとスキップして先へ進んだ。


「ポエムは照れるよメ〜メ〜メ〜♫」

 甘美で若干エモーショナルな気分の未の前に、次に現れたのは片手に本を持った老人だった。

「こんにちは〜。何の本を読んでるの?」

「これかい?これは性書じゃよ」

「性書?」未が疑問を投げかけると、老人は真剣な顔つきで語り始めた。

「この本は女性の神秘が記されている。お主クリトリスは知っておるかの?」

「クリトリス?サッカー選手?」

「クリトリスは、女性の悦びの為だけに存在する、最も特殊な身体の一部じゃ。快楽を凝縮した固形物。女性にだけ与えられたギフトじゃよ。わしレベルになれば、テイスティングでその女性の全てが分かる」

「テイスティング?」

「舌の上で転がすんじゃ」

 その後、老人は焼肉の部位を説明するように、ビラビラや数の子天井など、女性器のもろもろを熱心に説明した。

「どうじゃ?奥が深いじゃろ?わしはパチンコ台の釘を見るように、何万個のマソコを一つ一つじっくり愛でたからの」

「お爺さんも凄いし、女の人も凄いね!」

「そうじゃよ。彼女達は血を流し戦うファイターじゃ。わしら男も見習わないとの」

「そうだね!色々勉強になったよ、ありがとう」

「どういたしまして。女性をリスペクトして生きるのじゃよ。穴は繊細な聖域じゃ。入口から最深部までな」

 未は女性を少し知ることができた。


「うわぁ〜!凄く大きなところだな」

 午はトレセンの入口でウロウロしていた。それを見た一人の厩務員が駆け寄ってきた。この男は只者ではない。

 若き日、男はトレセンの面接に来た。男の名は瀬羽(せわ)月(づき)。面接官と少し話した後、瀬羽月は「喉が渇いたのでお水をいただけますか?」と言って、近くにあった花瓶の水を飲み干した。

 面接官は驚き言った。「何してるんですか、お水なら用意しましたよ」

 それに対して瀬羽月は言った。「ここのトレセンなら、花瓶の水も綺麗だと思いまして。案の定美味しかったです」

 この言葉で見事採用され、今では絶大な信頼をされているベテラン厩務員だ。

「おー、戻って来たか。明日は大事なレースだからな。しかしお前、顔が少し変わったか?」

 凛々しい決断をした午は、内心まあねと得意げだった。

「こんな不細工だったべか?まあ明日はレースだ。今日はゆっくり休め」

 午は心から思った。「絶対勝つ!!」

 瀬羽月は午を馬房に連れて行った。午の対面の馬房には白毛の馬がいた。


【白毛】レアな毛色。美しいビジュアルだが、白毛の馬は基本的に弱い。レースで役に立たなくても、ビジュアルの良さで馬車や先導馬として殺処分を免れやすい。


「おめおめと逃げ出したのかと思ったぜ、けつ野朗」白毛の馬が挑発してきた。

「なんだと!どこの馬の骨だ!」

「頭までボケちまったか?俺はホワイトケタミン、貴様のライバルだ」

「そんなの知らないよ!」

 午にとっては本当のことだ。しかし、どうやらドープダイレクトとホワイトケタミンには因縁があるようだ。

「俺達は同じ女体ファームの馬だ。だが、そんな人間の事情など関係ない。明日のレースで借りを返してやる」

 ホワイトケタミンは三冠馬だ。しかも白毛では競馬史上初めての。しかし新馬戦で、ドープダイレクトに鼻差で負けていた。

「なんだか分からないけど望むところだ!」

「くっくっく。漏らして眠れドープよ」

「まだ寝ないよ!」

 馬が全て馬が合う訳ではない。


「おい、トーラン、大丈夫か?」

 呼びかけてきたのはベアリンだった。どうやら、寅は眠っていたようだ。

「プリンのデタラメ話には、びっくりしたよ。あいつはペテン師か?」

「誰だ?プリンて?まだ寝ぼけているのか?」

「おいおい、皆んなしてからかっているのか?プリンて、デカイ体したこいつ…」

 寅が左に顔を向けると、なんと、巨大な檻がなくなっていた。

「もうすぐ大事な本番だぞ。しっかりしろよ」

 寅は、何が何だか分からなくなってきた。

「さっきまで話してたんだ!ピンクの象と!」

「おいおい、ピンクの象なんて幻覚の定番じゃないか。きっと疲れが原因だな」

 確かに、現実にピンクの象など存在しない。

あの美香留とかいう女に、幻覚剤でも飲まされたのだろうか?

「ここは何処だ?俺は誰なんだ?」

「ここは東京の会場で、お前は美香留のサーカス団のスター、トーランだろ?何言ってんだ?」

「…そうだったな」

「今日は最後のステージで緊張してるんだろ。お前のプレッシャーは俺には計りかねるよ。勇敢に火に飛び込むなんて、俺にはできない」

「…ああ」

「まだ本番まで時間はある。ゆっくりしてろよ」

「………」寅は再び目を閉じた。


 美香留は、控え室で深い溜息をついた。部屋は煙草の煙で充満している。

「あの寅はトーランなのかな。だめだめ、本番が終わるまで泣かないって決めたんだ。私がめげてたら動物達が不安になっちゃう」

 自分に言い聞かせているうちに、右手はパンツの中を弄っていた。

「今日が最後のステージ。お父さん、見ててね、私頑張るよ。…あっ」


 寅が目を覚ますと、美香留がいた。今度はベアリンが眠っているようだ。

「おいで、トーラン」美香留は優しく寅に語りかけた。

「火の輪は潜らないからな」寅はしぶしぶ檻から出た。

「火は消したから、いつもみたいに潜ってみせて」

「火がなけりゃ、容易いことだ」寅はひょいと潜ってみせた。

「どうだ?満足か?」

「やっぱりあんた…トーランなんだね」美香留は寅に近づき、寅の顔を優しく覆った。すると寅の目からは、意図してない涙が頬を伝った。

「なんなんだ…。何故俺は泣いている?」

 美香留は力いっぱい、寅を抱きしめた。

「さ、次は火をつけてやるわよ!」

 急な切り替えしに、寅は驚いた。

「やってやるよ!」寅は勢いよく吠えた。

 美香留は、炎が燃え盛る松明を持ってきた。

油の染み込んだ輪に、松明を近づけると一瞬にして火の輪ができた。

「や、やっぱりダメ〜」寅は気絶してしまった。


「おい、へなちょこ!」

「………」

「お前、それでも虎か?」

 暗闇の中、声が聞こえてくる。

「誰…だ?」寅は尋ねた。

「俺はトーランだ」

「お前が…トーラン」ぼんやりとした暗闇の中、坊主が描いたか分からないが、屏風にでも描かれていそうな、勇ましい虎の姿が目の前にあった。

「俺は今日のステージを美香留と約束した。でもこの通り死んじまった」

「………」

「お前が何故いるのか分からない。きっと神がいるなら、慈悲を与えてくれたのかもな。だからお前の身体を、ちょっくら拝借させてもらった」

「勝手なこと言いやがって!」

「しかし、こんなフニャチン野朗とはな。久しぶりだったからと言い訳して、すぐに果ててしまう早漏野朗みたいに見苦しい」

「なんだと!」しかし、それ以上寅は言い返せなかった。

「すまない、ちょっくら言い過ぎた」

「………」

 トーランは腹を割って話始めた。

「お前と俺は何も変わらない。同じ虎だ。そう、お前がさっき言ってた密林のハンターだ。牙は心に持てばいい」

「………」

「頼む、力を貸してくれないか?お前の力が必要だ。どうしてもやり遂げたいんだ!」

「…俺は」

「俺達が、いや、皆んなで力を合わせれば…」トーランの姿が薄れてゆく。

「…どうすればいい?どうすれば火を克服できる?」

「それは…ち……ぽ…」

「おい!大事なところが聞こえないぞ!」

 トーランは姿を消してしまった。すると今度は、プリンが現れた。

「よう!」

「お前は幻覚か?もしかしてさっきのトーランも幻覚…「そう思うか?」プリンは食い気味に答えた。

「俺は…」

「お前は既に分かっている。どうするべきか。そして、それは…」プリンの身体も透明に薄れてゆく。

「お前にしかできない」

「待ってくれ!」

 プリンの身体は消えてしまった。

「俺にしかできないこと…。力を合わせてか」


「いいこと思いついた!」

「なんだ?」

「二人で何処か行っちゃおっか?」

 辰は、眉間に深いシワを寄せた。

「冗談だってば…」

 短いようで長い時間を経ても、二匹は最善の策が見つからずにいた。すると、一人の村人が近寄ってきた。

「あの…本当に大丈夫でしょうか?いつ雨を降らせてくれるのですか?」

「今その準備をしている。安心して待っていなさい」

「…分かりました」

 村人の姿が見えなくなるのを確認すると、辰はまた深いため息をついた。

「俺は究極の偽善者だ。切れない刀を振り回す人斬りのように。結局誰も救えず何も成すことができない」

 すると巳が言った。

「全員殺しちゃう?」巳は強力な毒を吐いた。

「お前なあ…」

「あ、じゃあ追放しようよ。社会に帰すの。どう?エデン追放案」

「駄目だ駄目だ!どうにか救ってやらないと」

「頭固いのね」

「少し辺りを見て回ろう、何かあるかもしれない」

「ええ、行ってみましょう」

 辰達は村の周辺を調べることにした。


 その頃、ドリームキャッチャーが風に揺れる孫張の家では、村人達が集まり話し合いをしていた。

「龍神様を信じるのじゃ!」

「あたしは信じられないよ!」

 巳にオシッコをかけた悪ガキの母親は、激しく抗議していた。辰に不信感を抱く村人が、何人か現れていたのだ。村長は必死にそれを宥めていたが、村人は信じる派と信じない派で、既に派閥ができてしまっていた。

「今までずっと祈ってきたじゃろ。やっと現れてくださったのじゃ、あと少しの辛抱じゃ」

「一向に雨が降る気配がないですよ」

「でも、私は先程、龍神様に必ず降らせるから安心しろと言われました。信じます」

「しかし村の水は幾分しかないぞ!それに、何やら蛇と話しているみたいだった。蛇に唆されているのでは?」

 村人達の議論は平行線をたどり、音楽性の違いのように意見が分かれたまま解散した。


 出会い。別れ。それは何度も繰り返す。

「なんとか取り返しましたわ!」

 酉は手紙を取り戻し、安堵の表情を浮かべていた。つまり、ホッとしたのだ。嘴をホの字にするとどうなるか?当然、手紙は離れてゆく。

「なんでこうなるの⁉」

 なんでかは説明した通りである。手紙は、再び風に手を引かれ遠ざかってゆく。

 手紙は風に尋ねた。

「私をどこへ連れていくの?」

「素敵な世界だよ」風は、手紙に一目惚れをしていた。

「さっきは手を離してしまった。もう二度と離さないよ」

「私のどこが好きなの?」手紙も満更でもない様子だ。

「白くてペラペラなところさ」

「あなた褒め上手ね」

 手紙と風は手を繋ぎ、運命に身を委ねて飛んでゆく。風と共に去りぬ手紙。


「待ちなさい!」酉は再び呼びかけた。運命に逆らっているのは、酉か?手紙か?

 風は恐れていた。自分はいつか止んでしまう。この幸せな時間が、いつまでも続かないことを知っているからだ。

 風が手紙を連れていこうとしてるのは、海の中だった。愛と死は親密な関係にある。風は手紙との心中を図っていた。

「もうすぐ海が見えるよ、きっと君も気にいるさ」

「楽しみだわ」

 手紙と風は、海の真上に到達した。少し遅れて酉も追いついた。

「手紙を離すのです!」離したら落ちてしまう。

「もう離さないと誓ったんだ、僕達は愛の世界へ行くのさ。邪魔をするな」

 酉と風に挟まれて、手紙の気持ちは複雑だった。風は、手紙を海に連れていく前に、自身が消えてしまう予感を感じた。

「手紙、聞いてくれ」

「どうしたの?」

「僕は…約束を果たせない」

 すると、手紙は天使のように微笑んだ。

「愛に約束はないわ」

「手紙、どうか幸せに」その瞬間、風はピタリと止んだ。酉は落ちていく手紙を、パン食い競争で磨いたスキルで、なんとかキャッチした。

「はぁ…複雑な心境ですわ」運命は酉を選んだように思えた、その瞬間また風が吹いてきた。

「しつこいですわ!」

 そんなことが起こりはしないかと、酉は頭の中で妄想していた。それくらい、ただ飛んでいるのは暇であった。


 飛ぶことに小慣れて、退屈な時間も増えた。

すると、狙いを定めて、鋭く尖った魔が刺してきた。手紙に何が書かれているか、気になりだしたのだ。果たしてこの手紙は、魔法学校への招待状か?それともチョコレート工場?

「鳩さんの念の押しようは凄かったですわね。一体この手紙には何が書かれているのでしょう?それに差出人も知りませんわ」

 悩んでいると、どこからともなく声が聞こえてきた。

「あなたには知る権利がある筈ですわ」

 声の主は悪魔だった。慢心すると悪魔は現れる。悪魔は得意のテンプテーションを仕掛けてきた。

「だめよ、だめだめ、鳩と約束しましたわ」

 天使は遅れて登場するのがお決まりだ。では、その勝敗は?先ずは、第一ラウンドだ。

「確かに私には知る権利がありますわ、でも約束は守るものですわ」

 天秤はまだ、どちらにも傾いていない。

「あの鳩は演技してたのかもしれないですわよ?」悪魔のジャブだ。

「演技をする意味などありませんわ」天使はガードした。

 まだお互いに距離感を図っている。

「助けてもらった上に、偉そうに頼み事なんて図々しいですわ」

「確かにそうですわね」

 ここで悪魔の右ストレートが炸裂ぅぅぅ‼

 しかし、天使は持ち堪えた。

「困っている鳩を助けてあげるのですわ、それが正しい行いですわよ」天使の反撃開始だ!

「正しいだけじゃ守れないですわ?約束を守りたいのですわよね?」

 おっとここで悪魔の変則的なカウンターだ!意味はよく分からないが、何故か説得力があるぅ‼

「確かにそうですわね」

 酉の天秤は大きく悪魔に傾きだしたぞ!?

おぉーっと!ここで第一ラウンド終了だ!天使はゴングに救われました。カウンターが効いてますね、膝にきてます。


 さぁ、第二ラウンドが始まりました。おぉっと!ゴングと同時に悪魔が仕掛けました!一気に仕留めようとしています!

「見ろ!見ろ!見ろ!見ろ!見ろ!見ろ!見ろ!見ろ!見ろ!見ろ!見ろ!見ろ!」

 それに対して天使は!

「駄目!駄目!駄目!駄目!駄目!駄目!駄目!駄目!駄目!駄目!駄目!駄目!」

 なんと天使も応戦している!これは激しい乱打戦だぁ‼

「はぁ…はぁ…や、やりますわね」

「はぁ…はぁ…そちらこそ」

 お互いに死力を尽くしたのか、睨み合いの硬直状態です。ここで第二ラウンド終了!いよいよ次はファイナルラウンドです!このまま判定になれば、若干悪魔が有利か⁉



 さぁ!手に汗握るファイナルラウンドです!な、なんと!天使はノーガードだ!

「それでは遠慮なくいかせてもらいますわ!」悪魔が襲いかかる!天使はまだノーガードだ!

「見てもバレないですわ!」悪魔の強烈な一撃ぃぃぃぃ‼

「そうですわね!」酉は悪魔の誘惑に納得したようだ。天使はマットに沈みました‼勝者…悪魔ぁぁぁぁぁ‼


 悪魔と契約を結ぶと、才能が満開に花開く代償に魂を奪われる。つまりは死を意味する。これまで偉大なロッカー達が、悪魔と契約し若くして命を散らしてきた。しかし、今回はどうやら続きがあるみたいだ。


 おっと、悪魔が倒れた天使に近寄ります。手を差し出して起こそうとしてますね。これぞスポーツマンシップ!慈悲深い悪魔ですね!ん?どうやら天使が酉の耳元で何か囁いているようです。

「字、読めないですわよね」

「そうでしたわ」天使と悪魔は、仲良くいずこへ消えていった。


 行方不明の一人と一匹は。

「随分下まで来ちゃったみたいだけど、一体出口は何処かしら?」

 有紗は卯を抱えて、地上への道を探していた。しばらく進むと、正面からは内装が剥き出しで佇む、人が二十人は乗れるであろう大きなエレベーターがあった。入り口の柵も、まだ設置されていない。

「このエレベーター動かなそうね」

 このエレベーターこそが、このアトラクションのメインである。起動すれば地上三十メートルから急降下する絶叫マシンだ。しかし、まだ建設途中で動かすことはできない。有紗は辺りを見渡したが、出口は見当たらなかった。

「進むことも戻ることもできないわ。どうしましょう?」有紗は近くの壁際にしゃがみ、膝を抱えた。

「兎さんは何処から来たの?」

「僕は…天界」

「天界?それはどんなところ?」

「え、君僕の言葉が分かるの?」

「うふふ、小学兎レベルの言葉くらいなら分かるわよ」有紗は学校で兎の飼育係をしている。兎といつも話していたので、兎語は少し聞くことができた。


 卯は自身の状況を話した。

「…皆んなのことは好きなんだけど」

「したくないのにレースをしてるのね。可哀想に…。同調圧力って怖いわ」

「分かってくれるの?」

「ええ、分かるわよ」

「なんで?」

「私、学校でいじめられてるの。兎と話す変な女だって。だから、今日は夢の中にいるみたいでとっても楽しいわ!」

「僕は、君の味方だよ」

「うふふ、ありがとう」

 卯と有紗は、お互いの気持ちを理解し合うことで、親密さを深めていった。

「でも、このまま天界に帰れなかったらどうしよう…」

「大丈夫よ!絶対帰れるわ!」

「うん、そうだね」

 有紗は卯を励ました。

「でも先ずここを出ないと!」

「もう少し辺りを探ってみようよ」

「そうね!」

 卯と有紗は辺りを隈なく調べることにした。非常口のドアを見つけたが、鍵が掛かっていた。

「これじゃ非常口と呼べないわ!」


 その頃ママは。

「ここは何処かしら?」迷子になっていた。

 ママがキョロキョロとしていると、近くにいた一人の男性が声をかけてきた。男はシルクハットを被り、ベロアのジャケットを着て、手には紅茶のカップを持っている。

「どうしましたか?」美人は得である。

「娘が迷子で、迷子センターを探しているのですが、私も迷子になってしまって」

「迷子センターならこの近くですよ。僕が案内しますよ」

「ありがとうございます」

 知らない人について行ってはだめよ。ママはよく有紗に言っていた。大人ってなんだろう?

 そもそも、大人なんてものは存在しない。二十歳になったら?人間は何でも数字で区切りたがる。それに、優劣をつけたがる生き物だ。大人とは幻想であり、人を枠にはめようとする種類の人間が、自らを大人と思っているだけの話である。

「つきましたよ」

「ありがとうございます」

「あ、待ってください」男はママを引き止めた。

「娘さんのお写真はありますか?」

「ええ」ママは、笑顔で兎を抱っこする有紗の写メを見せた。

「可愛いですね。僕もお見かけしたら知らせます」男はニヤリと笑みを浮かべた。

「よろしくお願いします。ご親切にありがとうございます」

 男は帽子に手を置き、軽く一礼すると人混みに消えていった。


 ママは迷子センターへと入っていった。

「娘が迷子なんです」

「娘さんの特徴を教えてもらえますか?」

「はい、目が二つに鼻が一つ付いてます。口も一つです」

「真面目に言ってますか?」

 ママは真面目に天然ボケなのだ。

「もういいです。お洋服の特徴などを教えてください」

 最初からそう言ってよ!とママは思った。

「フリルの付いた水色のワンピースを着ています。白黒のボーダーのハイソックスを履いていて、絶対領域は四センチ。身長は百四十センチです。それと、ハニーバニーのポーチをぶら下げています」

「分かりました。お呼び出し致しますので、お母様はこちらでお待ちください」

「よろしくお願いします」

 ママは勝手にナメられてると思い、内心少し腹立たしかった。有紗の心配はさほどしていなかった。自分の子供ということに、何故か絶大な信頼を置いていた。


 探索開始から二時間。

「これといって何もないな」

「そうね、少し休みましょう」

 頭を抱え、思い悩んでいる辰の頬を、巳は割れた舌先でペロリと舐めた。

「うおっ!びっくりした!」

 巳はやめなかった。

「やめろ〜、くすぐったいじゃないか」

「あははは!」

「それならこっちはこうだ!」辰は髭を器用に操り、巳をくすぐり返した。

「きゃははは!」

「わはははは!」

 巳のおかげで、辰は険しい表情がほぐれたようだ。

「笑ってる辰…いいよ!」

「そう、か?」

「うん!」

「じゃあ村人達殺す?」

「…それは笑えん」

「じゃあ食べちゃう?」

「皆んな細っこくて不味そうだ」

「それもそうね!きゃははは!」

「そうだろ?わはははは!」

 二匹は、少し心が通い合ったようだ。しかし、問題は解決しないままだ。その様子を、一人の村人が陰から見ていた。


 刻々と時は進み、村人達の不安も募っていった。悪ガキの母親の家では、信じない派の村人達が集まって、何やら話をしていた。

「本当に雨を降らせてくれるのかいな?」

「怪しいな、何もしないでずっと蛇と遊んでいるだけだぞ」

「その蛇に、うちの息子が酷い目に遭わされたのよ」

「あの蛇が、龍神様の邪魔をしているのではないか?」

「少し懲らしめてやれば、やる気を出すかもな」村人達は悪事を企み出した。

「やめた方がいいよ。きっとバチが当たる」

 悪ガキの父親は反対していた。

「あんたはお黙り!」

「邪魔するなよ?村を救いたいだろ?」

 母親や村人は、父親に圧力をかけた。

「…どうなっても知らないぞ」父親は、暴走した村人達を、止めることはできなかった。


 父親と母親は若い頃はラブラブだった。しかし、数えきれない時が過ぎ、ある日父親は隣で寝てる妻を見て思った。

「なんだ?この豚?」その日、意を決して言った。

「お前がこのまま太れば、授業参観で息子に他人のフリをされる。息子が大人になった時、母を他人のフリをした罪に息子は後悔することになる。だから痩せてくれ」

「は?私の身体を心配して言ってくれたんじゃないの?」

「息子だって、俺とお前の身体の一部から産まれたんだ。つまり息子も身体だろ?」

「あんた頭おかしいの?じゃあオナラや鼻糞も身体だって言うのかい?いぼ痔は分かるけど」

「当たり前だろ!精子もオナラも鼻糞も俺の身体だ!それにあの子は我慢汁でできた子だろ!」

 この喧嘩を息子は聞いてしまった。

「僕、オナラや鼻糞と同じなんだ…。それに我慢汁ってなんだろう?お味噌汁の仲間かな?」

 不幸中の幸いで、幼い息子は我慢汁が分からなかったが、このことで息心の心に深い傷を負ったことは疑いようがない。そんなプロセスで息子は悪ガキになってしまったのだ。

 悪ガキの解説が行われてるうちに、村人達は計画が立ったようだ。

「…そういう作戦だ」

「よし、今夜十時決行だ」


 夕陽の中で、女を乗せた牛のシルエットが、道に長く伸びている。

「あんたさっきから草食べてるけどさ、あたしも何か食べないとなー。昨日から何にも食べてないし、食欲ないんだけど栄養だけでも摂らないと」

「草も美味しいぞ〜」

 女は閃いた。「あんたの牛乳飲ませてよ!」

「え〜。自分の吸えばいいだろ〜」

「何か入れ物探さないと」

 しかし辺りには、入れ物になりそうな物は見当たらない。

 丑は乳を搾られるのが嫌いだった。他人に乳を搾られて、喜ぶ変態は滅多にいない。入れ物が見つからないことを、内心ドキドキしながら祈っていた。

「しょーがないなー」女はそう言うと、履いているブーツを脱いだ。

「ほら、可愛い女の子のブーツに出せるなんて、あんたラッキーよ?」

「この女…やっぱりぶっ飛んでる」丑は渋々、というより、半ば強制的に乳搾りをされた。

「ほら、緊張しないの!」

 女の細くしなやかな指先が、豊満に膨らんだ綺麗なピンクの乳房に触れた。滑らかな動きでうねるように、根元から先端にかけて優しく、でも力強く握ってゆく。


※ギュッ!ビュ!ギュッ!ビュ!ギュッ!ビュ!

ギュッ!ビュ!ギュッ!ビュ!ギュッ!ビュ!


「ほ〜らぁ、まだ出るでしょ!」

「もぉ〜、出ないよぉ〜!」

 女の手は、白く濃厚な液にまみれながら、だんだんと熱を帯び、燃えるように激しくなってゆく。

「全部出しちゃいなさい!」


※ギュッ!ビュ!ギュッ!ビュ!ギュッ!ビュ!

ギュッ!ビュ!ギュッ!ビュ!ギュッ!ビュ!


「もぉ〜、ダメェェェェ〜〜〜!!」丑は精根尽き果てた。ーーーーーー

「じゃ、もう片方のブーツにも入れるわよ」

「⁉」


※繰り返し


「よし!こんだけあればいっか」

 丑は、思わず叫んだ。

「どんだけ〜〜〜〜〜〜〜‼」


 聞こえるのはエンジン音だけ。ヘルズオークスは無言で走っていた。もうすぐ千葉に入ろうとしていた。

「着いたな」

「………」

 ジョニーと亥は、寂しい気持ちになり始めていた。茨城県と千葉県の県境。夕陽が眩しい。ジョニーはバイクを止めた。

「ここでお別れだ」

「兄貴」

 亥はバイクを降りた。今にも泣き出しそうな表情だった。

「男は泣くな」そう言うと、ジョニーはサングラスを外し、それを亥にかけた。

「似合うぜ相棒!」

「へへ!」

「俺達は一旦お別れだが、ヘルズオークスは解散じゃねぇ、また一緒に走ろうな!」

「兄貴!約束だぜ!」

「ああ、旅を楽しめよ」ジョニーは胸に手をやり、ニヒルな笑顔でバイクにまたがった。夕陽を浴びて、バイクに乗るジョニーの横には、透き通るように綺麗な女性が乗っていた。

「あれは姉貴…」

 その女性は振り返り、口を動かした。

「ありがとう」

 ジョニーは、親指をビッと立てると、アクセルを握り夕陽の中へと消えていった。亥はその背中を目に焼き付けた。

「ありがとう兄貴、姉貴」亥は前を向き、前進した。

「兄貴のおかげで大分パワーを温存できた。更に上げていくぜ!絶対勝つ!」


 亥は、勝ちへの執念を燃料に、千葉県を爆走した。走っているのは川沿いの道だ。

「この調子でいけば、すぐ東京だな」

 吸って吐いてまた吸ってを、幾度となく繰り返していくうちに、なんとも言えない高揚感と多幸感が、身体中を駆け巡ってきた。ランナーズハイというやつだ。リミッターはカットされ、ドーパミンが肉体を完全に支配した。

「ひゃっはー!最高にハイって感じだぜ!」

高揚感に覆われて、気付かぬうちに心臓の鼓動は8ビートから16ビートを刻むようになっていた。

 

「あれ猪じゃない?」

「あらやだ、怖いわね」 

「見て見て!毛むくじゃらの豚がいる」

 亥は真っ直ぐ前だけを見据えて走っていたので、人々に注目されていることには、気がつかなかった。世間にはジョニーのような優しい人ばかりではない。寧ろ偏見という色眼鏡をかけた、保身人間の方が多いのが日本人の特徴だ。

 猪が千葉県に現れたという情報は、すぐに拡散していき、通報を受けた警察達が、捕獲用の網を振り回し追いかけてきた。

「なんだなんだ?俺を捕まえようってのか?上等だ!ぶっちぎってやる!」亥は四方から飛んでくる網を交わしながら走っていると、今度は取材クルーが駆けつけていた。

「こちらですね。猪が出没したという、噂の現場に来ています。あっ!いました!猪が川沿いを走っています。しかも…サングラスをしているようですね。警察を振り切りって走っています」

 リポーターの女が、カメラに向かいキメ顔で話していると、亥はカメラの前まで来ていた。

「きゃっ!なんと猪が私の横に来ています。インタビューをしてみましょう」

 リポーターの女は、マイクを亥の口元に差し出した。

「あなたは何処から来たのですか?」

「天界だ」

 リポーターやお茶の間からはこう聞こえている。

「ゴォフォ」

リポーターは続けた。「何処へ向かっているのですか?」

「東京だぜ」

「人間に懐いているのでしょうか?とっても可愛らしい猪です」

「可愛いだと?」

 亥がインタビューに夢中になっていると、背後から警察が網を握り追いかけてきていた。

「俺は泣く子も黙る、ヘルズオークスだ!」亥はマイクを咥えて奪い取った。

「隙あり!」

 警察が網を振りかぶったその時、亥はリポーターの股の間に突っ込んだ。リポーターの股間にはマイクが突き刺さり、股間を押さえながら前方に転倒した。頭には網が被さってきて、リポーターは捕まった。

「いやーん!イケズ♡」

 亥はお茶の間を喜ばすと、東京方面に向かい走り出した。その後すぐに亥には名前がつけられた。

『いのちん』

 人はすぐに名前をつけたがる。たま君だの、たまたまだの、オメちゃんだの。そして『いのちんを応援する会』ができたのは言うまでもない。

 SNSでも動画が配信され、すぐに百万回再生された。亥は一躍人気者になっていた。

「なんかついてきやがる」

 インタビュー後、亥は見えない何かに追われてる気がした。姿は見えないが、音がついてくる。亥は、振り切るために更に加速した。リミッターカットされたスピードは、丑が記録した時速二百キロを遥かに超す、時速三百キロにまで達した。リズムを置き去りにする疾走感で爆進した。


 迷路のような路地を、所狭しと走り回り、太陽が沈みかけていても、鬼ごっこは続いていた。追いかける猫は、鬼も逃げ出すような形相で追いかけてくる。

「今止まれば許してやらんでもないぞ!」猫が発したのは絶対許さない時に使う言葉だった。

「そんな顔で言われても説得力ないよー!」当然だ、顔に殺すと書いてある。

 子の進む先に、ネオンがお洒落なバーがあった。ちょうど客が入る時で、子は客と一緒にドアの隙間から中に入った。閉まったドアの外側では、猫がカリカリとドアを引っ掻いている。

 店内はジャズが流れ、照明は暗くシックでエロティックな雰囲気を醸し出している。高貴な面して気取った棚には、沢山のお酒が鼻高々に並んでいた。

 奥にはステージがあった。ドラムセットやピアノなどの楽器が設置してあり、壁際にはテーブル席がある。テーブル席には三人の男客がいた。友達同士だろうか、店の空気を読まずに、はしゃいでいる。

 入り口付近のカウンターには、バラバラに二人の客が座っていたが、一人の客が席を立った。どうやら勘定をして帰るようだ。

「ヤバい、猫が入って来る前に隠れないと」子は、バーテンダーが会計をしている間に、カウンターの中へと入っていった。カウンターの上には、なにやら蓋付きのカプセルのような物が置いてある。子は素早くカウンターへ駆け上がり、カプセルの蓋をあけ、中に身を隠した。

 猫は、帰る客が開けたドアの隙間から、中に入ってきた。「どこに隠れている?」猫は、奥のステージの方へと歩いていった。

 カウンターでは、マスターと客の女性が会話を交わしている。女性は美しく艶やかかな装いだが、お高くとまったバブルの抜けない売れ残りという感じだ。ギラギラ感が滲み出ていてみっともない。

「マスター、私のイメージでカクテルを作ってくださる?」

「お任せください」マスターは、子が入っているカプセルを開けて、二種類のお酒を注いで蓋を閉めた。

「あわわ」カプセルの中では、子が溺れないよう、必死にお酒から顔を出していた。

 子が入ったカプセルはシェイカーだった。マスターは手慣れた様子で、女性を見つめながら作業をしている為、子には全く気付いていなかった。

 バーテンダーと喫茶店の違いをご存知だろうか?それは注文を作る際に、動作をするかしないかだ。喫茶店の場合は、姿勢を崩さずにコーヒーを作るのが鉄則だ。だが、ここは喫茶店ではない。バーテンダーは、自分がトムクルーズにでもなったつもりで、子の入ったシェイカーを八の字に激しく振り出した。

「うわぁ〜、目が回る〜」子は果たして無事だろうか?


 ステージのテーブル席、三人の男は大分酔っぱらっている様子だ。その足元では、猫が子を探していた。一人の男が立ち上がり、フラフラとした足取りでピアノへと向かった。そして、猫踏んじゃったを弾き始めた。するとピアノのメロディーに合わせて、テーブル席の二人が足を鳴らし出した。

 猫の頭上からは、巨大な足が降ってきた。

「ぎゃっ!」演奏と共に、猫は何度も踏みつけられたが、液体化をして間一髪で急所を避けていた。

 大体の素人はこの曲を弾きたがる。そして曲が転調する前に「この先何だっけ?」となるのが定番だ。男も例外ではなかった。

 Aメロを何度も繰り返した。アホ面全開で猿のように手を叩き、笑いながら聴いてる二人は、何度も猫を踏んでいた。

「ぎゃっ!ぎゃっ!ぎゃっ!」猫はズタボロになりながら、何とか席を脱出したが、歩くことができない。

 バーテンダーは、シェイクを止めると、グラスにカクテルを注ぎ女性に差し出した。マスターは作り慣れてるので、カクテルは全く見ていない。それより、どうやってこの美人とハメハメする流れに持っていくか、それしか考えていなかった。

「お客様のセクシーなイメージを表現してみました」

「あら、嬉しいわ」女性も、マスターにハメハメされることしか頭になかったので、カクテルのことなど、どうでもよかった。なので、女性も全くカクテルを見ていない。

 お互いに見つめ合って、女性はカクテルを一口飲んだ。すると、喉に不快な何かが引っかかり、マスターの顔に向かって口からカクテルを噴射した。カクテルを見ると、沢山の細かな毛が浮いていた。

「何よこれ!」

 マスターは慌てて、シェイカーの蓋を開けた。すると中からは、酒浸りになった鼠が出てきた。

「うわっ!鼠だ!」その瞬間、女性はマスターの顔に、ゲロをぶちまけた。

 子は無事だったが、激しい揺さぶりと、酒を飲んでしまったことでフラフラだった。マスターが顔を拭いている間に、なんとかカウンターから抜け出した。

 女性は激怒して店を出た。子はフラフラになりながらも、必死に女性の後を追いかけ、店を出ることができた。


「ぷはー!お腹たっぽたぽだよ。余は満足じゃ。サンキュー!」

 自身のカルシウムが搾り取られたのと、女が重くなったことで、丑は疲労困憊だった。

「も〜、歩けないよ」

その後、一時間ほど歩いた所で丑はへたれこみ、その場にしゃがみ込んだ。

「沢山歩いたからね。休憩しよう」

 冬の夜は冷える。世の中のデブにとっては十一月の体感気温かもしれないが、陽が沈んだばかりとはいえ、十二月は寒い。丑達は、身を寄せ合って身体を休めていた。

 そういえば、この女どこに向かっているのだろう?こうして見ると、まだあどけない顔してるな。内心思っていると、リンクしたように女が話しだした。

「あんたになら話してもいいかな。ま、言っても分からないだろうけど」

「分かるよ〜、話してごらん」

 女は携帯を取り出して丑に見せた。

「これがね、あたしの婚約者…だった人」

「中々いい男じゃないか〜」

 そこには無邪気な笑顔の男女がいた。

「でもね、急に連絡が取れなくなっちゃって。

何度も電話したんだけど、ずっと留守電。

そしたらある時メッセージが来て「ごめん」の一言だけ。それからずっと音信不通。サイテーでしょ?それで彼を忘れようとして、旅に出たってわけ。そもそも、料理もしないのにアルミホイルだけは常に切らさないような奴よ…それに出かける時は香水がわりにファブリーズをかけたり…本当サイテーだよ…」女の瞳からは、今にも涙が溢れそうだった。

「泣きたい時は、思いっきり泣きなよ」

 丑の言葉が通じたか定かではないが、女は思いっきり声を上げて泣いた。ひたすらに泣いた。

「は〜あ、沢山泣いてすっきりしたよ。ありがとうね」

「お安い御用だよ」

 泣き疲れたのか、女は丑にもたれ掛かって、眠ってしまったようだ。


《タシカ コノヘンノハズナンダケドナー》


「オマソコオマソコメ〜メ〜メ〜♫」

 しばらくスキップしていると、今度は全身真っ黒な羊がいた。顔は霧がかったようにボヤけていて表情が見えない。

「君はだ〜れ?」未は尋ねた。

「僕は君の人生の脇役さ」

「え?」

「それに、君は自分が誰だか分かるのかな?マトンボーイ」黒い羊が質問を返してきた。

「僕は未だよ!」

「それは呼び名だよマトンボーイ。本当の君は誰かな?」

「本当の僕?」

「そうさ、君がイメージしてる自分は本当の自分じゃないだろ?君はどのサイドから歩いている?下手うてばスーサイドだよ」

 未は首を傾げて考えた。

「君は鏡を見たことがあるかい?」

「うん、あるよ」

「そこに映っているのは誰かな?」

「え?それは僕という器…僕は…」思考の谷に深く堕ちていくと、徐々に未の身体が黒く染まっていった。

「…僕は誰?」未は自分が分からなくなってしまった。

「思い出してごらん。君は何をしているのかな?君が笑う時、君が泣く時、君が怒る時、それは、どういう時だい?マトンボーイ」黒い羊は言った。

「分からない、分からないよ〜!」

 未の身体はみるみると黒くなってゆく。

「このままじゃ、君は僕と同じ道を行くことになる。僕はそれを望まない。分からないふりをやめればいい。今すぐに」

 未は全身が真っ黒になる寸前で答えを得た。

「僕は…皆んなを探しているんだ!」

「そうだよ。本当の君を知っているのは、君が探している者達だ。君は僕のようにならないで」

「ありがとう。君はとっても優しい羊だね」

 美の言葉で、ペンキが流れ落ちるように、黒い羊は浄化されて白くなった。完全ではないが、生きた分だけ落ちない汚れがある。


 白くなった羊は尋ねた。

「僕は正しい道を歩いているかな?」

 すると未は答えた。

「それはいつか分かるよ。だから考えなくていいんだ。って画家さんが言ってた。でもそれは僕の中の…」

「そう、君の中の弱さが産んだもの。しかし、創造物はそこから産まれる。君は繊細なアーティストなんだよ。それも君の一部であり、光と闇は一体なんだ。受け入れて進むしかないんだよ」

「全部僕なんだね!」

「人格は一つじゃなくていい。色々な服を着るようにね」白くなった羊は、顔の霧も晴れていた。笑顔がはっきりと見えるくらいに。

「忘れないで、世界を創るのは君なんだよ。ではハローグッバイ。マトン…金の羊くん」

 未は、白くなった羊に手を振ると、フワフワとせずに、真剣に動物達を探しに出かけた。


 時刻は午後七時。

 仄暗い森の中、ぼんやりと灯りが見える。

一軒のログハウスが見えてきた。どうやら男の住む家のようだ。男は、小さな階段を上り、中に入ると鍵をかけた。

 家の中は広々としたワンルームが真ん中で仕切られており、奥にはキッチンとユニットバス。玄関と繋がった部屋には窓が一つ。テレビと大きなソファーがあり、狭いロフトには布団が敷かれていた。部屋の隅にはモダンな暖炉があった。あの骨はここで焼かれたに違いない。

「僕どうなっちゃうんだろう?神様ごめんなさい。僕、ゴールできないかも」

 男は戌を床に降ろすと、キッチンの方へと姿を消した。

「脱出しなきゃ!」玄関のドアには鍵が掛かっている。ふと視線を変えると、窓の外から申が覗いていた。

「もしかして助けにきたの?まさか申が…」

 申は窓を開けようとしたが、こちらも鍵が掛かっている。猿は窓を開けるのを諦めて、キョロキョロと辺りを見渡すと、何処かへ消えていった。


「やっぱり馬鹿にしにきたんだな」

 戌が項垂れていると、ドスン!という鈍い音と共に、暖炉から申が落ちてきた。

「何しにきたの?」

「話は後だ!早くここから逃げるぞ!」申は窓枠に飛び乗った。

「誰だ!」音に気付いた男が、ドシンドシンと走ってきた。手には包丁を握っている。申は必死に鍵を外し、窓を開けた。

「俺の手を掴め!」申が目一杯に手を伸ばし、戌がジャンプしようとした瞬間。

「待て‼」

 大男の一声が響いた。その一声は犬を動かなくさせる魔法の呪文だ。行動を司る伝達神経を麻痺させてしまう。戌はその場で動けなくなってしまった。

「くそっ!必ず助けに戻る!」申はそう言うと、暗闇へと消えていった。

「よし、これで大丈夫だ」男は窓に鍵をかけ、カーテンを閉めると、キッチンへと戻っていった。

「よし」という言葉で、戌は金縛りが解けた。

それと同時に、男の家から脱出する方法を考えた。

「出口はないし、煙突は登れない…。となると、アレしかない!」

 戌は鼻を床に近づけて、臭いをかぎながら部屋を歩いた。すると一箇所、床の木が腐っていて、柔らかくなっている部分があった。

「ここ掘れワンワンだ!」

 掘って噛んで穴を作り、脱出する作戦だ。戌は、即座にガリガリっと床を引っ掻いた。しかし、表面が削れるだけで、びくともしない。

「こうなったら…」

「死ぬなよ!戌!」申は暗闇の中を走り続けていた。

「しかし、なんで俺があいつの心配してんだ?

ドジなやつだからな。いや、関係ない!ずっと喧嘩してたじゃないか?そういえば、一体何で喧嘩してたんだ?それに、なんでこんなことに!くそっ、とにかく俺がなんとかしないと。

しかし、どうすればいい?」申の頭の中は混乱していた。

「とにかく誰かの力を借りないと!」夜の森に方向感覚を奪れながら、申は闇雲に走り続けた。


 その頃戌は…。

「骨好き!骨好き!」諦めて骨で遊んでいた。


 亥は騒動から逃がれ、東京に足を踏み入れていた。とはいえ、まだ東京の外れだ。辺りはすっかり暗くなっていて、上りの車も少なくなってきている。

「東京に入ったか、あんまり実感ないな。しかしゴールは何処にあるんだ?」

 セックス、ドラッグ、ロックンロールを掲げていた、アジの開きのような身体の不健康ロッカーが、年老いて急に健康志向に陥るほどの劇的な変化は街並みに見られなかった。東京下町は魑魅魍魎の巣窟だが、夜は駅前以外は閑散としている。

「とにかく走るしかない!」

 地理も分からないが、走るしかなかった。

「でもあの音は聞こえなくなったな」

 千葉県でテレビに映ってから、謎の音に付き纏われてる感じがしていた。亥は、ふと思った。

「しかし、他の連中は皆んな東京を目指しているのか?俺であんな騒ぎになるなら、辰なんか現れたらどうなるんだ?」

 最もな疑問だ。亥はレースの最中、苦手とする考えるということも、少しずつできるようになっていた。

 なのに何故、自分が東京を目指してきたのか?本当に自分の考えは正しいのか?亥には分からなかった。しかしそれは、亥に限ったことではない。レースに参加している誰もが、希望と不安を抱えていた。自分は今何処にいるのか?


 レースは後半戦へ

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