兇美

 荒涼とした細道へ小雨が降りそそぐ。

 道沿いの岩山に並ぶ五百羅漢の石像は、中央を歩く桐野を見つめている。


 俺はいったいどこで道を間違えた。


「自分が言ったことも守らないで何が信念よ。

 最低…」


 伊藤の言葉が重く木霊する。

 そうだ。俺は自分の美学に背いたのだ。

 それは桐野にとって人間としての存在価値の拠り所を失うことだった。

 人間はみな生まれてきた「意味」を探している。

 その意味のために全てを犠牲にしてきた。幸せも、安息も。

 しかし今、これまでの犠牲を台無しにしてでも守りたいものがあった。

 俺は彼女に新しい意味を求めようとしたのだ。

 そうして最後に残ったのが、最低。

 ならばいっそ、死なせてほしかった。

 だが何のために死ぬ?美学のため?彼女のため?


 彼女を見捨てることはできない。

 見捨てないと約束した。

 それに彼女は、俺の幸せを願ってくれ、"生きる"時間をくれた。

 その恩を忘れちゃいけない。

 だが伊藤をここまで追い込んだのは俺じゃないのか?

 彼女がああ言ってくることはわかっていたはずなのに。なぜあんなことしかできなかった?

 なぜ守れなかった?


 各々の表情を浮かべて羅漢たちは桐野を見つめる。

 一つの羅漢が桐野の足を引き留めた。

 その羅漢だけは不気味なほど無表情だった。

 その羅漢像に向かって、庸平は呟く。

「なあ桐野、お前ならどうする?」

 表情を変えぬ羅漢から、庸平には声が聞こえた。

「心を持ったからいけないんだ。

 そんな覚悟もないのに」

「どういうことだ?」

「心ってのは人間に付随して生まれてくるものではない。

 心は空気と一緒だ。世界に充満している。

 それを生まれてきた入れ物に誰かが入れてくれるんだ。

 人間は心がほしい。だから心を入れてくれる相手がほしい。

 しかし同時に、心は誰かに抜き取られる。

 強い意思を持った者だけが、抜き取られないよう、心を守りきることができる」

 隣の羅漢は雨に濡れて泣いていた。

 その隣は、満面の笑みを浮かべていた。

 庸平は心というものに疑問を感じた。

 彼らが笑っているのも泣いているのも、電気信号による機能の一つに過ぎないんじゃないか?

 だとすれば心の本来の姿は目の前の無表情の羅漢、お前だ。


 急に前方から突風が吹きつけた。

 咄嗟に袖で目を覆う。


 ガチャン


 再び目を開くと、笑っていた羅漢の頭部が欠け、その顔から笑顔が消えた。

「脆いものだろ。

 心の主導権を自分で握っておかないからだ」

「俺は…何を守ればいい?」

「守るべきものは今も昔も一つだ。

 そこに迷いが出てきたなら、迷いの元を断ち切れ」

 桐野は唾を飲んで先を急いだ。


 その道の先に、野村たちがいる仮屯所があった。

 扉を開けると、数名が顔を突き合わせて座っている。

 桐野に気づいた野村が駆け寄った。

「待ってたぞ」

「残ったのはこれだけか」

 野村に今井、上野、太田の4名だけだった。

 野村から状況の説明を受ける間、桐野は微動だにせず口も開かなかった。

「で、どうする?」

「これから川島んとこに行ってくる。

 お前たちはここから動くな」

 それを聞いて上野が立ち上がった。

「殺すの?」

 野村を除いた全員が桐野を睨み付けている。

 こうなったのは桐野のせいとでも言わんばかりに。

「わからん」

 桐野は吐き捨てるように言い残して去った。


 さて、川島に頭を下げるのか?

 今さら戻らせてくれと?

 これから後ろ指をさされながら生きていくのか。

 国防省の長い廊下を苦い顔で進む。

 そうだ。今さら守るべき名誉も誇りもない。

 だが守るべきものなら他にもある。

 角の部屋へノックもせずに押し入ると、中の光景は桐野を唖然とさせた。

 そこにいたのは川島でなく武田だった。

「驚いたか。川島なら飛ばされたよ」

 桐野は我に帰ると武田の前へ立つなり頭を下げた。

「私が…間違っていました…。

 私を…隊に戻らせてください…」

 何を間違っていた?俺は信念に従ってやるべきことをやっただけだ。

 桐野は歯を噛み締める。

「ちょうどいい。新しい王室軍の人材に困っていたところだ」

「元の隊は…?」

「政府に走った奴らは始末するよう上から指令が出ている」

 鼓動が速くなるのがわかった。

「なんだ、未練があるか?」

「……」

 動けない桐野へ武田が歩み寄る。

「桐野、俺はお前のファンでな。

 最後に一度、チャンスをやろう」

 ガバッと頭を上げると、桐野は武田の目を捕えた。

「恩に着る」

「で、どうするつもりだ?」

「奴らに戻るように説得に行く。そのためにはまず、俺が頭を下げねばなるまい」

「できるのか?誇りを捨てて」

「ああ。やると言ったらやる」

「それでも戻らなかったら、お前が責任持って始末してこい」

 桐野は眉間に皺を寄せ口角を上げた。

「厳格に統制しようとすれば控えろと言って、都合が悪くなれば殺せってか」

 ばつの悪そうに武田も苦笑する。

「フン、いいだろう。やってやる。

 だが仮に戻っても、俺には隊員からの信頼はない」

「じゃあどうする?」

「俺は隊員に恐怖を与える。その上に、信頼を与える新しいリーダーがいる」

「それは誰がやる?」

 扉に手をかけた桐野は振り返ってニヤリと笑った。

「武田さん、あんただ」

 言われて武田は目が点になる。

 が、すぐに大口を開けて笑いだした。

「そいつは楽しみにしておこう。

 行ってこい」

 コクリ、と頷くと外へ飛び出していった。


 昼のチャイムが鳴ると、今度は斎藤が訪ねてきた。

「時間通りだな」

「武田さん、あんたが新しい責任者か」

「そうだ。そして桐野はうちで飼いなおすことにした」

「だったら早く止めた方がいいぞ。

 あいつは死ぬ気だ」

「お前は止めなくていいのか?」

「俺は見届け人だ。あいつの美学がそう判断したなら、止めはしない」

 斎藤は促されてもない椅子に深々と座る。

 桐野も桐野だが、斎藤は斎藤で飄々とふてぶてしい。

「斎藤、お前を呼んだのはそのことだ。

 どうやら次の見届け人に俺が選ばれたらしい」

「そりゃ難儀なことだ」

「フッ、だから引き継ぎが必要だろう?

 あいつのことを知っておく必要がある」

 こいつは難問だと言うように斎藤は首をひねって5分ほど考えると、再び口を開いた。

「あいつを知りたければその美学ってものを知らねぇとな」

「ほう」

「あの腹の読めない奴でも美学だけは曲がることはねぇ」

「そいつは信頼の材料になる」

 武田は満足げに頷いた。

 だが斎藤は首を横に振る。

「そう簡単じゃねぇぞ。

 それが美学に則ると判断すれば、あいつは上司のあんたでも、躊躇なく殺す」

「それで今夜はかつての仲間を殺りに行くってわけか」

「そうだな…」

 珍しく斎藤が寂しげな表情を見せた。

 いや、哀れんでいるのだ。

「もしかするとあいつは一番心の弱い人間かもな」

 ポツリ、と呟いた。

「どういうことだ?」

「他人に認められてこなかった人間ってのは、自分を認めてやれないらしい。

 そういう奴は、何か自分以外のもので行動を正当化しないと何もできないんだ。

 愛、責任、他者への貢献、正義…。

 こんなものにすがってないと、他人が怖くて自己を保てない。

 そんな心の鎧が暴走すると、途端に兇器と化す。それがあいつの美学の正体だ」

 ここまで話しきると、斎藤は一度大きく息を吐いた。

「自分の代わりに自分を認めてくれる存在が欲しかったんだろう。

 美学なんかに頼らなくていいようにな。

 しかし奴の美学がそれを許さなかった」

 桐野を苦しめているのは伊藤なんかじゃない。

 その美学の方だ。


 そして夜はやって来た。

 人もない。音もない。

 無機質な景観だけが流れていく。

 心中の余分な活動を止めるには恰好の空間だった。

 全てが排除され切ったとき、ただ一つの「信念」が桐野の足を前へ進める。

 基地の大門が見えてきた。

 最後にもう一押しが必要だ。

 ズブリ、と長い腕へナイフが飲み込まれた。

 僅かの濁りもなく一筋の光を放つ刃筋を赤黒い液が染め上げていく。

 桐野は空を見上げて喘いだ。

 痛みからではない。


 桐野の快感は極まった。


 なんと美しいんだ。生と死の象徴。

 俺の身体に流れる色。俺の美学に流れる色。

 この血の色だけが、俺の作品に必要な絵の具だ。

 桐野の美学は次の獲物を求めて門の奥へ。


 本堂2階では大変な騒ぎだ。

 桐野が来た。

「どうする?応戦するか?」

「敵いっこない!」

「だがこの人数なら…」

 ガタッ

 鈍い音が加藤の言葉を遮った。

 開いた扉の先には、前傾に頭を垂らした桐野。

「代表者だけでいい、降りてこい。

 話がしたい」

 恐る恐る高橋と藤田が降りる間、上にいる者たちが桐野へ銃を構える。

 当然、桐野は気づいている。

 だがそんなことはどうだっていい。

 恐るべきは、肉体の死ではなく美学の死だ。

 三人が向かい合って着席。

 開口一番、桐野は二人へ頭を下げた。

「俺が悪かった。

 政府へ走るのだけはやめてくれないか」

 言葉は柔らかく、力がこもっているわけでもない。

 だが桐野から滲み出る触れたことのない類いの恐怖に二人は口を震わせた。

「お、俺たちは俺たちの信念でやっている…。

 政府なら俺たちの納得のいく待遇で迎えられる」

「買われたか」

 顔を上げた桐野の目に、二人は自身を苛む恐怖の正体を見た。

 桐野には殺気も、力すらも入っていない。

 そもそもこの男の言動を操作している主体が桐野ではない。

 何か別のものが、この男を動かしている。

 人や生き物を相手にしているのではない、未知の恐怖。

 それでもなんとか高橋は声を振り絞る。

「もう決めたことだ。

 変える気はない」

「どうしても、か…」

「…っ、ああ、そうだ」

「"あれ"も返しちゃくんねえか」

「返さない…!」

 桐野は黙ったまま高橋を見ている。

 まばたきもせず、睨むわけでもなく、ただずっと、高橋の目を捕らえ続ける。

 その視線の緊張に堪えきれず高橋は声を張り上げた。

「ど、どうする!俺たちを殺すか?」

 桐野はゆっくりと立ち上がった。

 ギョッとして高橋と藤田は身構える。

 上からはガチャガチャと銃を動かす音。

 それらに気づく素振りも見せず、桐野は口を開く。

「いや。まずは説得に来ただけだ。

 心変わりした奴は、十秒だけ待つ。

 これが最後のチャンスだ」


 沈黙の中、十秒はあっという間に過ぎた。

 誰も動かないのを見ると、桐野は背を向けて扉の外へ出て行った。


 拍子抜けした高橋と藤田は顔を見合わせる。

 そして互いのひきつった顔に吹き出した。

 上の階でも緊張が解かれる。

「死を覚悟したぜ…」

「だが時間の問題だ。明日には荷物も整う。

 一旦どこかに…」

 バタン!

 今度は荒々しく扉が開いたかと思うと、藤田は笑った口を開いたまま床へ倒れた。

「あ…」

 と振り返った高橋の目に映ったのは、向かってくる無数の銃弾。

 上階から黒田が覗き下ろすと、倒れた扉の上に立つ桐野がいた。その手には煙を吐く機関銃。

 そして見上げた桐野と目が合った。

 黒田はそこに抵抗しようのない死というものの存在を初めて見た。

 それは黒田を発狂させるに充分な恐怖を与えた。

 黒田がやみくもに銃を乱射すると他の隊員も続いた。

 桐野は机の下へ転がり込む。

 反対側から転がり出ると、仰向けに機関銃を撃ち放った。

 上からの銃声が止んだ。

 起き上がった桐野の後ろに、黒田と寺内だったモノが落ちた。

 それに振り返ることもなく、桐野は階段に足をかける。

 階上に人影が見えた。

 影へ桐野が拳銃をパン、パンと撃つと、加藤が転がり落ちてきた。

 足下へきた加藤の腹を踏みつけると、その頭へもう一度、パン、パン。

 2階へ上がると、横から飛びかかってきた梶原をなぎ倒し、拳銃を咥えさせてパン。

 桐野は生活棟への渡り廊下を行く。

 気だるげに拳銃を持ち上げると、前を走る塚本の背中へ、パン。

 あと一人、死ななければいけない人間がいる。


 階下の広間に、人影が見えた。

 ゆっくりと階段を下り、柱の影でふっと息を吐く。


 この日、満月だった。


 月光が雲に覆われると同時に柱を飛び出し、人影へ銃を向ける。

 その小さな影は動かない。


 どこか淋しい曲の似合う女だった。


 亜麻色の髪を風に揺らしながら、彼女は暗闇の中で桐野をまっすぐ見ている。

 その目にかつての伊藤はいない。

 そこから感じられるのは憎悪のみ。

 銃を構える桐野の目には、かつての桐野がいた。

 まだ愛していた。

 これまで散々殺意の、憎悪の目を見てきた。だがこの、伊藤の憎悪の目だけが怖かった。

 なぜだ。俺は国のために、伊藤のためだけに自分も、何もかも捨ててやってきた。

 なぜそんな目を向けられる。ほんの少し望んだ欲が、幸せが、それほどの罪なのか?

 そうだ。俺の罪は彼女からその笑顔を奪ったこと。

 そして、俺自身の美学を破ったこと。


 桐野は右手の銃を伊藤へ放った。

 伊藤は桐野の"答え"を理解した。

 銃を拾うと、桐野へ向けて構える。

 桐野が伊藤へ向けて安らかな表情を見せたとき、ズドン、と重いものがその腹を貫いた。

 目の前が暗転する。火花のような光がちらつく。


 誰かの声が脳内に響く。

 浮かんでくるホテルの一室。

「よし、構えて」

 背後から銃を持つ伊藤の手をとる。

「使わなくていいようにしてね」

 と伊藤が振り向き引きつった笑いを見せる。

「そうだな。それが俺の役目だ」

 そう、使わなくていいはずだった。

 それが、なんで俺が…。

 出会ったことが間違いの始まりなのだ。もう二度と会うこともない。


 そのとき、伊藤が銃を桐野へ放った。

 桐野はすぐにそれが理解できなかった。

 あぁ、そうか。

 考えてみれば伊藤の怒りは当然だ。

 美学か伊藤か、その迷いに巻き込んでしまった。

 最後まで迷っているようじゃ不誠実というものだ。

 悪役は中途半端に許しを求めてはいけない。それじゃ相手も惑わせる。

 徹底して恨まれる。それが悪の務めだ。


 うずくまった桐野はゆっくり銃の来た先を見る。

 伊藤は桐野を睨む。

 立ち上がった桐野はまっすぐその憎悪の目を見据える。

 殺しの対象物を見る時の、あの目で。

 ゆっくりと銃を上げる。

 腹から血が流れ落ちる。

 そうだ、血だけが俺の快喜だ。

 銃の先に伊藤が見える。

 窓から差し込む月の光芒が、伊藤の下へ降り立った。


 口が5回、小さく動いた。


 閃光とともに伊藤は倒れ、彼女を愛した男も死んだ。


 ー完ー

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兇美 @kakuyoooooom

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