刹那

 気づけば桐野の前を伊藤が歩いていた。

 どこかの商店街のようである。

「どこにする?」

 と聞いてくる。いつぶりだろう。こうして二人で出掛けるのは。

 自然と桐野の表情も和らぐ。

「あ、あれ食べたい!」

 洋菓子店を指して伊藤がはしゃいでいる。

「いいよ。入ろう」

 嬉しそうにどれにするか選んでいる。

 ああ、ずっとこの表情を見ていたい。俺の幸せは何かと聞かれれば、今ならこの時間、この空間と答えられるだろう。

初めて自分の幸せというものを感じ、それを認められた。この人となら、別の生き方に、この血なまぐさい世界と違った生き方に変えられるかもしれない。

 桐野も菓子に手を伸ばそうとすると、伊藤が振り返って呟いた。

「そんな血だらけの手で触らないで。人でなし」

 桐野が呆気にとられている間に伊藤は他の男と去っていった。

 こうなるのはわかっていた。

 どうせわかってはもらえないんだ。理解しようとしてくれたが。

 少しでも期待した自分がバカだった。これでわかったろ。これが俺だ。怖がるといい。嫌悪するといい。こんな男理解できた方がおかしいんだ。

 人でなしか。人間として、この国の男としての美しさを求めてきた。本当に人間らしいのはどっちだろう。

 去っていく伊藤の後ろ姿を見つめながら、胸が締め付けられた。

 俺の好意が、彼女を追い詰めている。


 桐野は目を覚ました。

 まだ彼女の後ろ姿が残っている。この人じゃないといけない気がした。

 脱退してからもう2週間になる。ここまでの固執は初めてだ。

 だが彼女の幸せのためには、俺はもう側にいてはいけなかった。しかし去ることも許されなかった。

 その葛藤で、ついに壊れた。わざと壊したのかもしれない。明るい未来は見えなかった。

 だったら早く壊したかったのだろう。

 こうなればとことん狂ってやる。これで止めるものはもう何もない。

 俺が、俺の美学が打ち勝つべき相手は彼女だった。


 この日、満月がよく見えた。

 斎藤は長屋の一室を借りて女と住んでいた。

 二人並んでテレビを見ている。

 女が大きくあくびをした。

「もうこんな時間か。そろそろ寝よう」

「そうね」


 トン…トン…


 鈍く扉を叩く音が鳴った。

 出ようとする女を制止する。

「奥にいろ」

 斎藤のただならぬ様子に女は事態を察した。

 女が走っていくと、斎藤は銃を抜きとり扉に近づく。

「…誰だ」

「……」

「3秒で答えろ。でないと…」

「……だ」

 微かに声がする。

「聞こえねえ!」

 斎藤が叫ぶと同時に轟音をたてて扉が倒れた。

 上に真っ赤なものが乗っている。

 人だ。血がどんどん溢れ出す。

「桐野じゃねえか!どうした?」

「今晩…泊めて…くれねぇか…」

 桐野は笑ってみせた。

 その顔はここ最近で一番生き生きしていた。

「それはいいが、医者もいるだろ?」

「いい…このままにしてくれ…」

 ここで終わりにしたかった。

 玄関まで這い上がると、壁にもたれかかった。

 斎藤は急いで女を呼んで包帯を持ってこさせる。

「何してたんだ?」

「国家情報局の奴らを始末してやった」

 その口調はまるでイタズラをしてきた子供のようだ。

「やっぱり行ったか」


 情報局時代の伊藤はいつも他から離れた席で一人だった。

「チッ」

 隣に立った男が舌打ちをする。

「まだ終わんねぇのかよ。

 他に能もねぇのに、これくらい今日中に終わらせとけよ」

 すると奥の部屋から上司の女が伊藤を呼んだ。

 男は再び舌打ちをして立ち去った。

 伊藤は慌てて上司の部屋へ。

「千紗、仕事よ」

 渡された封筒から紙を取り出すと、そこには任務の内容が書かれていた。

 それを見て伊藤の顔が青ざめる。

「こんな重要な任務…私無理です!」

「あなたに指名よ。断ることは許さない」

 部屋を出ると、多くの視線に晒されていることに気づいた。

 同僚たちが聞き耳を立てていたらしい。

 若い女が一人寄ってきた。

「いつから行くの?」

「明日の夜、八代神社に…」

「そう、頑張ってね」

 こいつらの腹の中はわかっている。

 厄介払いができて清々しているのだろう。

 伊藤の手には桐野庸平と書かれた男の写真があった。


 2週間前、桐野は斎藤から食事の誘いを受けていた。

「お前から呼び出すとは珍しいな」

「お前が欲しがる情報だ」

「…情報局か」

 桐野は以前から伊藤と情報局の関係を気にしていた。

 斎藤は得意気な顔で情報を披露する。

「お前の睨んだ通り、伊藤と同僚は上手くいってなかったらしい」

「高橋や加藤らは?」

「情報局でもあいつらは別の部署だ。

 問題は伊藤の部署だ。お前の言う通り、戻れる場所は無いかもな」

「やっぱりな…」

 桐野はまたテーブルを睨み付けて考え込む。

「やっぱり、隊の解散は避けられんのか?」

「どうだろうな…

 俺が主導権を保って解散は避けられても、伊藤がそこに居たがるかだな」

 斎藤も深く息をつく。

 難儀なもんだ。伊藤のことを処理しないと隊も思い通りに動かせんのだろう。

「あとな…」

 斎藤が情報を畳み掛ける。

「奴らもしかすると、刺客を用意しているかもしんねぇ」

 桐野は驚きを隠せなかった。

「どうする?」


 翌日から桐野は情報局関係者にコネを作り始めた。

 川島の伝手で、情報局に人脈を持つ政府内部の男とも会食した。

 男は桐野に封筒を渡す。

「そこに伊藤を狙う奴らと、刺客のリストがある」

「こいつら、なんで刺客なんかを?」

「大方、伊藤が上手くいったことへの妬みだろう。

 伊藤を消せば代わって自分たちが昇進できるとでも思っているらしい」

 桐野は眉間に皺を寄せながら顔を前のめりに突き出した。

「こいつらは、俺が消しても?」

「構わん」

 このとき、窓の外でシャッターを切る男に二人は気づいていなかった。


 話は斎藤家に戻る。

「で、一人で襲撃かけたのか」

「ああ、伊藤には余計な心配かけたくなかったからな。それにチームは…」

「聞いたよ。だいぶ叩かれたらしいな」

 桐野は苦い顔をする。

「まぁでも、それが狙いだったんだろ?」

「そうだよ。

 ここまで嫌われれば俺が抜けても誰も文句も言わんだろ。伊藤も…」

 女が持ってきた包帯を巻き終えると桐野は目を閉じ大きく息を吐く。

「疲れたよ」

 初めて桐野の口から弱音が飛び出した。

「そうだろうな。

 お前の疲れは疲れ甲斐がないだろ」

「そうでもないさ」

 嘘だ。正直に言え。

 自分の働きを伊藤に知ってもらって労ってもらいたいと。

 それを言った瞬間に報われる。しかし報われたとき、彼はもう桐野ではない。

 では他にどうやって報われる?

「いつまで生き続けさせられるんだ」

「死にたいか」

「最大の労いだ」

 役目を終えて、やっと休む許しがもらえる。

「でもよ、このままじゃ悪人として死ぬことになるぞ」

「それがお似合いだよ」

「それが伊藤のためか?」

「俺が人のために使える才能はこれしかない」

 斎藤は布団を敷くと桐野の向かいに座った。

「斎藤、お前の新チームはどうだ?」

「まあボチボチ、まだわからんな」

「そこに俺が入るところはあるか?」

「ああ、リーダーをやってくれてもいいぞ」

「それはもういいよ。

 自分がリーダーの器じゃないのはよくわかってる」

「お前は人間の好き嫌いが激しすぎるんだ」

 桐野は苦笑した。

「だから俺は自分をわかって、使ってくれるリーダーがほしいだけだ。

 辞表も出して、せっかくまた自由の身だからな」

「川島は怒ってたろ?」

「いい顔はしてなかったな」


 辞表を前に、川島は苦い顔をしていた。

「戻れと言っても戻らんか」

「はい」

 しかし桐野の目にはまだ迷いがあった。

 伊藤の顔が頭をよぎる。

 またあの顔が見たかった。

 だがもう戻ることはできない。

「お前が不服だろうと、新設の王室軍は一人たりとも欠けさせるわけにはいかないんだ。

 お前が目の敵にしている加藤や高橋たちでもな」

「だったら、残ってもらうような待遇を用意すべきでしょう?今の待遇では奴らが政府側に走っても無理はない。

それを一人も欠けさせるなってのが無理な話だ」

「そんな予算は…」

「ケチっている場合じゃないでしょうが」

 一度チームへ牙を剥いた桐野は、その収めどころを失っていた。

 ここまで来れば、この川島や王室ともとことん戦って辞めてやろうという腹であった。

 返事に窮した川島に桐野はしびれを切らした。

「まぁ、そちらにはそちらの方針があるんでしょう。俺はこれで、失礼します」


 聞いている斎藤は面白そうだ。

「お前みたいな奴を使いこなせる上司がいるのかよ」

「うるせぇよ」

 桐野は話を打ち切るように、敷かれた布団に入ろうとする。

 そこへ、桐野のケータイが鳴った。

「こんな時間に誰だ?」

「野村だ」

 桐野は不機嫌に電話を取る。

「なんだ?チームのことなら俺はもう関係ねぇぞ」

 しかし次には、桐野は布団を跳ね除けて立ち上がった。

「そこに伊藤は?…わかった。また連絡する」

 桐野はケータイを持つ手をだらんと下ろした。

 ただならぬ空気を斎藤も察した。

「どうしたんだ?」

「反乱だ。チームが政府に寝返った」

「放っときゃいい」

「チーム丸ごととなると話は別だ。

 王室の機密も、あの"ブツ"も政府に持っていったってことだ」

「つまり…?」

「粛清される…。伊藤も…」

 思い立ったように桐野は玄関へ駆け降りた。

「待てよ!まだ傷が…」

 斎藤の制止もむなしく、息を乱して出ていった。

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