見つけた想い
ゴール板を駆け抜けた三頭がスピードを落としながら並走する。黒、白、茶の三頭。
少しずつ、通常の感覚が戻ってきた。スタンドからは歓喜と落胆、賞賛と興奮、様々な感情の伴った声が響いている。
これで今年のアルタイルステークスは終わった。終わってしまえば、あっという間だ。カズマは自分を乗せて走ったシルバーライトの首筋に触れ、馬を労った。よく走ってくれた。走り抜いてくれた。
レース場の巨大な電光掲示板に着順が表示された。シルバーライトがつけているゼッケンの番号は、二着に表示されている。一位との差は、ハナ差だ。2400mも走ってついた差がたったの数センチだったというわけだ。そしてその数センチが、天と地ほどの明暗を分けた。
一着は、最後に猛烈な追い上げを見せたクラシオンだった。十二番人気の穴馬ながら大金星を上げた。調教師のミズタニは喜んでいるだろう。自分が担当している馬たちがこの偉大なレースでワンツーフィニッシュを決めたのだ。
クラシオンに乗っている騎手が着順を確認して自身の勝利を確信し、雄叫びを上げた。大きな大きな栄光を手にした。
自分はあと一歩、及ばなかった。また、勝てなかった。カズマはそのことに、悔しさよりもまず茫然とした。夢が潰えた瞬間だ。
検量室に向かう途中で、ミドリが駆け寄ってきた。
「素晴らしいレースでした」
彼女の言葉は、心からのものだろう。今日のレースは多くの人を興奮させたかもしれない。
ただそれでも、勝者は一人だ。それが紛れもない現実。
こんな素晴らしい走りをしてくれたシルバーライトのことは、もちろん誇らしい。だがそれとは別に、届かなかったという想いが胸の内に去来する。
これが勝負の厳しさだった。
ミドリとシルバーライトは厩舎に帰ってきた。アルタイルステークスを制したクラシオンもすぐ隣の馬房にいる。自分のこんなすぐ傍に最高の馬が二頭もいるなんて、信じ難いことだ。
ミドリはシルバーライトにご飯を与え、あちこち体を触り、たくさん言葉をかけて、今日シルバーライトが成し遂げたことのすごさを教えてあげた。最強の三歳馬たちが競い合ったレースで二着を獲ったのだ。素晴らしい走りだった。三冠の夢こそ潰えたものの、ミドリはシルバーライトのことが誇らしくて仕方ない。
シルバーライトも、満足できる走りができたからなのかクラシオンと一緒に走れたからなのかはわからないが、上機嫌だ。ほんの僅かな差で負けたことはもちろん理解していないだろう。いや、わからない。もしかすると人の感情を敏感に読み取るこの馬なら理解しているかもしれない。負けた悔しさよりも力を出して走り切った高揚感のほうが強いのかもしれない。
激しいレースだったが、どこも怪我もなく終えてくれてミドリは安心した。お守りの効果があったのだろうか。
アルタイルステークスの最終直線の争いは、非常に見応えのあるものだった。まさに最高のレースと呼ぶに相応しい戦いだった。
最後に三つ巴となった三頭。誰が勝ってもおかしくなかった。結果は出た。だけど、勝利を目指して必死に走り抜いたことはどの馬も変わらない。それで満足してはいけないのだろうか?
ミドリの脳裏に、レース後の悔しさを滲ませたカズマの横顔が浮かんだ。
最高の舞台での二着という好成績。しかしそれは、カズマにとって何の勲章にもならなかった。彼は一着だけを目指していたのだ。それだけを見て、走った。
この日のシルバーライトの世話を終えたミドリは、馬房の前で絵を描き始めた。
最高のレースを彩った、三色の毛色の馬たち。自分はこのレースの情景を忘れることはないだろう。
人と馬が力を合わせ、勝利を目指した。己の力を遺憾なく発揮し、ライバルたちと競い合った。最後の最後まで、戦い抜いた。心に響く戦いだった。
一つの節目となる今日のレースが終わり、季節は間もなく夏となる。そしてさらに季節の巡った秋に、もう一つの戦いが待っている。
三冠の名を冠する最後のレース。「最も強い馬が勝つ」と言われる、ベガ賞だ。
喫茶『ミーティア』の店内。
カズマは一人、カウンター席に座っていた。
カウンターの奥では、黒い口ひげを生やしたダンディなマスターが静かにグラスを拭いている。マスターはカズマに余計なことを尋ねたりしない。興味がないというわけではない。彼は全てを理解した上で、ただ静かに佇んでいるのだ。カズマは今自分が来るべき場所はここ以外に思いつかなかった。
店の入り口のドアが開き、カランコロンと音が鳴った。一人の客が来店したようだ。
カズマはテーブルに肘をつき頬に手を当てた状態でじっとしている。今入ってきた客がそこへ近づいてきた。
「お隣空いてるかしら?」
カズマはその聞き馴染みのある声に反応し、ちらっと目を向けた。
そこにサツキが立っていた。悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「その席は空いてないよ。普通の人には見えない妖精が座ってる」
カズマは咄嗟に思いついた冗談を言った。
「それじゃ失礼して」
サツキはカズマの忠告を無視して隣の席に腰を下ろした。そうだった、彼女に冗談は通じない。
店内の時間は静かに流れる。誰も声を発しない。
彼女は一体何をしにここへ来たのか。自分を冷やかしにでも来たのだろうか。カズマの脳裏に次々と疑問が浮かんでくる。
サツキがコーヒーを注文した。彼女はいっちょまえにコーヒーをブラックで飲む。カズマは甘党なので、砂糖とミルクは欠かせない。
カズマは一人でゆっくり考えごとをしたくてここへ来た。しかしサツキが隣に座っていることで、否応なしに他人の存在を意識させられた。
「冴えない顔ね」
サツキが唐突にぽつりと呟いた。
カズマはちらっと横目で彼女を見て、また前を向いた。
「まるで遠足におやつを持っていくのを忘れた子供みたい」
ん? なんだその例えは?
カズマはもう一度サツキを見た。彼女はいたって真面目な表情だ。
「そう、まるで川で一匹も鮭を獲ってこれなかった熊みたい」
一体何を言っているのだろう? カズマはサツキの言葉の意図を考える。
「そう、だからまるで――」
「わかったわかった、もういいよ」
カズマは思わず吹き出しながら彼女の言葉を遮った。
サツキはカズマのことをちらっと見て、彼が笑っていることを確認した。
そうか。なるほど。
これじゃあいつもと立場が逆だ。
マスターがサツキの前にコーヒーのカップと、コーヒーを頼むと自動でついてくるお手製クッキーを置いた。
サツキは今、どこか満足げな笑みを浮かべている。それはコーヒーとクッキーが出てきたからではないだろう。
サツキがここへ何をしに来たのか、カズマはなんとなく理解できた。
それからまたしばらく無言の時間が続いた。
喫茶『ミーティア』の時間はいつだってゆっくり心地良く流れる。
「――じゃない」
サツキが小声で何事かを呟いたような気がした。カズマは彼女に意識を向ける。
「終わりじゃない」
今度は彼女の言葉がしっかりと聞こえた。
「今日は負けたけど、でもそれで終わりじゃないでしょう?」
サツキはカズマの顔を見ずに前を向いたまま話す。
「あなたがどれだけ悔しい思いをしているのか、私にはわからない。きっと私が想像もできないほど落ち込んでるんでしょう」
カズマは黙って彼女の言葉を聞いた。
少し間を置いてから、彼女は次を話す。
「あの時」
サツキの表情が若干険しくなった。
「あの時、私はあなたを支えることができなかった」
サツキが何のことを言っているのか、カズマにはわかった。彼が深い深い傷を負った出来事だ。
「だけどもう、後悔したくない。あの時のような思いはしたくない」
そこでサツキは初めて真っ直ぐカズマのほうを向いた。彼女の瞳が若干潤んでいる。
「だから、今度は私はあなたの傍にいる。そう決めたの」
カズマは彼女の視線を、想いを、正面から受け止めた。
言葉が、感情が、心に響いた。
胸に感謝の気持ちが湧いてくる。
「……そうか」
カズマの中で、それまでくすんでいた感情がすーっと下りていった。
カズマは心からの笑みを浮かべた。彼女の瞳に、その笑みが反射する。
「ありがとう」
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