馬の夏休み

 スターダストファーム。その牧場の入り口には大きな花壇がある。色とりどりの花々が来訪者を迎え、穏やかな心に導いてくれる。

「どうも、お世話になります」

「おっ、来た来た」

 ミドリはシルバーライトを引き連れ、このスターダストファームにやってきた。

 馬運車が到着すると、ケンタロウの両親、シゲルとマサコがすぐに出迎えてくれた。

「やあミドリちゃん。去年の年末以来だね」

 頭髪に白いものが目立ち始めたシゲルが気さくに声をかけてきて、ヒマワリが咲いたように破顔した。

「はい! よろしくお願いします!」

 ミドリは元気良く言い、深々と頭を下げた。

 シゲルの後ろにいるマサコはにっこりと微笑み、いつものようにおっとり構えている。奥ゆかしい品のある、ミドリの憧れの女性だ。

「いやあ、それにしても。近くで見ると迫力あるなあ」

 シゲルはミドリが連れてきた葦毛の馬体、シルバーライトをしげしげと眺め、感嘆の意を述べた。

 シルバーライトは自分に意識を向けられていることを察知したのか、首を上げて自身を誇示するようにヒヒーンと嘶いた。

「おうおう! 元気良いな」

 シゲルはシルバーライトの鳴き声に少し驚きながらも、嬉しそうだ。

「はい。この子の世話をするのは骨が折れます」

 馬は暑がりだ。夏の暑さを避けることと秋の戦線へ向けての休養のため、シルバーライトはトレーニング場より北の地域にあるこの牧場に放牧へ出された。本来厩務員のミドリまでくっついてくる必要はないのだが、いつ何時何をしでかすかわからないシルバーライトを勝手のわからない人間に預けることは気が引ける。実際この馬はミドリの前任者にシルバーライトの管理を放棄させた実績もあるのだ。ただそういう実際問題と建前とは別に、ミドリがシルバーライトと離れたくなかったからという理由もあったりした。もちろんこのことは調教師のミズタニが了承済みだ。

「まあ、何もないところだけど、ゆっくりしていってくれ」

 ミドリは幼いころから知っているシゲルの優しい笑顔を見て、安堵した。

「はい! ありがとうございます。えーと、ところでケンちゃんは」

「ああケンタロウか。今は厩舎のほうにいるはずだ。ぜひ会いに行ってやってくれ」

 シゲルとマサコへの挨拶を終え、ミドリはシルバーライトを連れて厩舎のほうへ向かおうとした。するとその時、マサコが何やら意味深な微笑みをミドリに向けてきた。なんだろう。ほっぺにご飯粒でもついているだろうか? いや、ついてない。

 スターダストファームは現役競走馬も預かるほどに大きな牧場だ。牧場では多くの従業員が働いている。その中にはミドリの昔からの顔馴染みも多い。ミドリとシルバーライトに気づいた人たちはみんな温かい笑顔を向けて声をかけてくれた。ミドリを知っているからというのもあるが、それ以上にシルバーライトの存在感が際立っていた。なんたってあのアルタイルステークスで二着を獲った馬だ。そしてこの馬が醸し出すワイルドさと子供っぽさを併せ持ったような雰囲気が人の目を惹きつける。

 厩舎に到着し、馬たちの住む馬房が並んだ通路を進んだ。

「こんにちは、クレセント」

 クリーム色の月毛の馬、クレセントの馬房の前まで来た時に、ミドリは中にいる馬に声をかけた。

 ミドリの声に反応して馬房の入り口のほうに近づいてきたクレセントだが、ミドリの近くに立っている惚けた顔の大柄な葦毛の馬を見つけてギョッとしたようだ。不安気に馬房の中を動き回り始める。

「こらこら。うちの馬を怖がらせるなよ」

 近くの馬房からケンタロウが出てきた。

「あっ、ケンちゃん」

「うわっ。やっぱ思ってたよりでかいな」

 シルバーライトを初めて生で目撃し、父親と似たような反応を示すケンタロウだった。この人たちは人間よりも馬に興味がある。



 四方を木の柵で覆われた放牧場にシルバーライトが放された。

 顔についているベルトのようなホルターに繋いだ手綱を外し、人の手から解放すると、シルバーライトは意気揚々と牧草の生えた広い放牧場へ走り出た。

 喜びを表現するように全身を弾ませながら走り、地面に首を伸ばして牧草を食べ、背中からごろんと転がって砂浴びをし、地面に横になりながらまた牧草をつまみ食い、立ち上がってブルブルと体を震わせ、背中に止まった蝶々には気づかず、耳をそばだてるように直立不動になって動かなくなったかと思えば、急に猛ダッシュをして危うく柵に突っ込むところで急カーブ、スピードを落として並足になったところで牧草を食べ、しばらく動かなくなったところで今度はぽろぽろとお尻の穴から粗相をし、地面に転がった自分の排泄物の臭いを嗅ぐとびっくり箱でも見たように驚いて飛び跳ね、隣の放牧場に他の馬が放される時はじっとそちらを眺め、新参のくせして「安心しろ、オレが見守っていてやる」と言わんばかりのボス面をかませ、嘶きながら走り出し、できるだけ体を汚して厩務員の世話を焼かせることが自分の仕事だと考えているように地面にごろごろ転がって、いろいろ遊び疲れてくると欠伸をして立ったままウトウトし始めて、遠くの森の中から姿を現した野生のキツネにふと気づくとパチンと目を見開き、キツネがその場から去るまで一時も目を離さないつもりなのかと思えばまた地面の牧草を食べ始める、そんなシルバーライトの様子をミドリはずっと見守っていた。

 競走馬厩舎にいる時は、毎日調教の繰り返しだ。常に競走馬としての責務に煩わされることになる。

 こうやって多少なりとも人の手から解放され自然の姿に戻ったシルバーライトはとても楽しそうで、それを眺めるミドリはほっこりした。スケッチブックを構え、シルバーライトの普段は見せないプライベートの表情をその目に収めようとする。

 秋になれば、シルバーライトは再びライバルたちの待つレースへ向かうこととなる。束の間の休息ではあるが、少しでもシルバーライトにのんびり過ごしてもらいたいと願うミドリだった。





 シガサキはマンション内にあるジムでトレーニングをしていた。

 体を徹底的にいじめ抜いた後、鏡の前に立って磨き上げられた自身の鋼の肉体を確認する。

 隆々と盛り上がった筋肉。はち切れんばかりの張り。悪くない。

 シガサキがここまで自身の肉体を鍛え上げる動機は、老いへの抗いだ。

 人間であれば一度は願ったことがあるだろう。「永遠の若さ」というものを。

 シガサキは自分の欲しいものはなんだって手に入れてきた人間だ。彼は伝承の中に存在する賢者の石、人間を不老不死にするという代物を、本気で探そうと考えた時期もある。

 シガサキの行動の裏には、常に渇きがあった。血を吸っても吸っても満足することのない吸血鬼のように、何を手に入れても潤うことのない渇きが。

 それゆえ、シガサキの願望は留まることがない。快楽を求め跳ね回る衝動が、彼を突き動かす。

 次なる標的は決まっている。シガサキがまだ実物を見たことがない。実在するかどうかも定かではない。

 流星の星空をバックに空を駆ける馬。

 シガサキの内にある渇きが、それを欲していた。

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