まだ見ぬ景色

 その日、サツキはある乗馬クラブを訪れていた。

 馬たちが運動する馬場に併設されている、西洋風のクラブハウスの中。木製の椅子に座り、クラブのスタッフと向かい合って話を聞いた。

 サツキは昨年から、引退後の競走馬の状況を取材し、それを記事に起こしている。多くの人に注目され一見華やかに見える競走馬の舞台だが、馬たちのその後の近況を知る機会は少ない。現役時代に高成績を残し種牡馬や繁殖牝馬として活躍できるようになれた馬ばかりではないのだ。いや、その種牡馬や繁殖牝馬となった馬たちでさえ、さらにその後の生活が待っている。

 馬の寿命は二十年から三十年ほど。たとえ現役時代に大きな怪我をせずキャリアをまっとうして引退することができても、競走馬としてレースを走れるのはせいぜい六歳や七歳ぐらいまで。むしろほとんどの馬が、それ以前に怪我やその他の事情によって引退を余儀なくされている。

 レースに出られなくなった競走馬は、果たしてどんな生活を送ることになるのか。その後の道の一つが、この乗馬クラブにいる馬たちのように、乗用馬となることだ。

 この乗馬クラブにも一頭、競走馬としての引退後に引き取られ乗馬の訓練を行っている馬がいる。

 サツキはクラブハウスを出て、馬たちのいる厩舎に向かった。

 鹿毛と呼ばれる焦げ茶色の毛の馬がいる馬房の前で足を止める。この中にいる馬が、競走馬を引退してこの乗馬クラブにやってきた馬だ。

「どうですか、この馬の調子は」

 サツキは随行しているスタッフに問いかけた。

「そうですね。やはり、競走馬時代の癖がなかなか抜け切っていませんね」

 競走馬が引退後に乗用馬として転向する場合、リトレーニングと呼ばれる再調教が必要となる。

 現役時代、競走馬は前へ前へ、少しでも速く走るよう訓練される。しかし乗馬を行う馬は、歩く、ゆっくり走る、止まる、方向を変える、など、競走馬とは異なった動きを要求される。馬にとっては突然今までと異なる指示をされることになるので、その戸惑いは大きい。乗用馬としてそう簡単に馴染めるものではない。

 サツキは馬房の中にいる引退馬を見た。

 その馬の表情は、どこか寂しげに見えた。



 新馬戦から二週間後に、シルバーライトの二戦目となるレースが組まれた。

 クラスは一勝クラスで、新馬戦や未勝利戦を勝ち上がってきた馬たちと競うことになる。

 その日のレースでもシルバーライトは出足がつかず、最後方からの走りとなった。しかし新馬戦でも見せたロングスパートを駆使し、最終的に二着に二馬身の差をつけて勝利を飾った。

 シルバーライトは、良い脚を長く使える持久力が持ち味だ。ゴール前でスタミナを切らす馬も多い中、最後まで脚を鈍らせることなく走り切れる。むしろこの二戦では、力を出し切る前にレースが終わってしまったような気さえした。おそらくこの馬は長距離のレースでも対応できるだろう。

 二戦二勝。まさかあのじゃじゃ馬が、と周囲は驚く人間が多かったが、シルバーライトにこれぐらいの素質があることはカズマは初めからわかっていた。ちゃんとレースを走ることさえできれば、非凡な能力を発揮できる。

 この馬の場合、その「ちゃんとレースを走ること」が難しいのだが。

 次戦は、格の上がるSⅢのレースに出走する予定だ。そう簡単に勝てるレースではない。

 だがカズマは、そのレースが待ち遠しくて仕方なかった。



 ある日のディナータイム。

 イタリアンレストランの席に座るカズマの前には、サツキがいた。

 ムードを彩る控えめなミュージック。テーブル上のワインが注がれた二つのグラスが、手に取られることを今か今かと待ち侘びている。

「それじゃ、とりあえず飲もうか」

 カズマはそう言って赤紫の液体揺れるグラスを手に取った。

 サツキもグラスに手を伸ばし、ワインを口に運んだ。カズマはグラスを持ったままその様子をじっと眺めていた。彼の視線に気づいたサツキが、訝しそうな目を向ける。

「なに?」

「いや、なにも」

 カズマはふっと笑って、ワインを飲んだ。

 テーブルに前菜が運ばれてきた。焼いた野菜や生ハム、その他わけのわからない食材がお皿の上にちょこちょこ散らばっている。カズマはそれらの料理を淡々と口へ運んでいく。

「ふふっ」

 サツキが笑った気がしたので、カズマは彼女に目を向けた。

「なに?」

「あなたって相変わらず、全然料理に興味なさそう。ちゃんと味わってないでしょう?」

「そう? 普通に美味しいけど」

「どうせあなたは、馬にしか興味がないんでしょ? 顔にそう書いてある」

「そんな馬鹿な。家を出る前にちゃんと鏡は見たよ」

「だけどね、私はそんなあなたが、嫌いじゃない」

 それだけ言って、サツキはカズマから目を背けた。どこかしおらしそうな表情。そんな態度の彼女は珍しい。

 カズマには、サツキが待っている言葉がわかっている。けれどその言葉を口にするには、責任が伴う。その責任を負う覚悟が、カズマにはまだできていない。だから、その言葉が口から出ることはない。

 テーブルに代わる代わる料理が運ばれてくる。お皿には必要以上に飾りつけられた、主張の強い演出。まるでランウェイを闊歩するファッションモデルのようだ。ランウェイ、走る道と呼ぶのにモデルたちが走ってこないのはなぜだろう? そのことをサツキに話してみたが、鼻で笑われた。

 それなりに楽しい夜だった。だけどあくまで、それなりだ。今日のことを特別思い返すことはない、そんな夜。

 彼女がまだ自分の傍にいてくれることは、素直に嬉しい。だけど今はまだ、自分の道が定まっていない。何を成し遂げたいのか。どうありたいのか。

 カズマにはまだ、考えなければいけないこと、しなければいけないことがたくさんある。それらの整理に時間が必要だ。もしかするとそれは、一生かけても終わらないものかもしれない。

 何かきっかけがあれば。カズマはそう思った。そして、そんな他人任せ運任せな自分を嘲笑った夜だった。

 そんな夜でも、空には星が輝いている。いつも変わらず、そこにある。

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