第二章 セカンド・ホース・ロード

走る、生きる

 どよめきと歓声。

 ゲートが開くと同時にポンと前へ飛び出た栗毛の馬体。

 ライバル馬たちをグングン引き離していく。

 5馬身、7馬身……10馬身。

 もう誰もが先頭を走るノーザンスカイしか見ていなかった。

 この馬はどこまで行ってしまうのだろうという、好奇と畏怖。

 歴史的瞬間に立ち会える喜び。

 心躍る走りに魅せられて、釘付けにされて。

 史上最速のハイペース。

 神に愛された走り。

 そして、突如として運命に見捨てられた、その脚。

 一瞬にして歓声が悲鳴に変わった。



 一年前のあの日と違い、その日は雨の降る気配などない青天だった。

 カズマは上下黒のスーツに身を包み、ある牧場を訪れていた。

 緑豊かな牧場の片隅にある墓石の前で足を止める。

『ノーザンスカイ』

 その競走馬のお墓には、既にたくさんの花が手向けられていた。この馬が多くのファンに愛された証明だ。他に馬の好物のニンジンも供えられている。

 カズマはそこに、一束の花を添えた。

 墓石をじっと見つめ、もうここにはいないかつての相棒の姿を思い浮かべる。

 ノーザンスカイはレース中に前脚の粉砕骨折を起こした。スピードに乗ったまま転倒したノーザンスカイと転がり落ちたカズマが後続馬たちの下敷きにならなかったのは、不幸中の幸いだった。

 ノーザンスカイは予後不良と診断され、安楽死の措置が取られた。キャリア最高の地点で、非情な運命を辿ることになった。

 競馬には競走馬の怪我がつきものだ。レースというものがそれだけ激しいものであるということを物語っている。それはどんなにすごい走りを見せる名馬にとっても、変わらない。

 ノーザンスカイは、どんな気持ちでこの世を去っていったのだろう? もっと走りたかっただろうか? のんびりした余生を過ごしたかっただろうか?

 あれからちょうど一年。どうか天国で幸せに過ごしていてほしいと、そう願うことしかカズマにはできない。ノーザンスカイの事故は、まるで自分の半身を切り取られたかのような痛みをカズマに残した。

 その傷は、まだ癒えてはいない。



「んー。んー」

 ミドリはシルバーライトの馬房の中で唸っていた。傍らではシルバーライトが午後の食事中だ。

 ミドリは馬の片脚を持ち上げて、蹄の裏を見ている。そこにはアルミの蹄鉄ていてつがはめられている。

「ちょっと擦り減るのが早いかな」

 ミドリは独り言のように呟いた。シルバーライトは無心でご飯にがっついている。

 馬の蹄にはめる蹄鉄の形は、人間の視力検査の時に出てくる一方向が開いた輪っかに近い。その形の金属を、馬の蹄に釘を打ち込んで装着する。蹄には神経が通っていないので、釘を打たれても痛みはない。通常より蹄の薄い馬の場合は、少し考えなければならない。

 競走馬はアルミ製、乗馬などの馬は鉄製の蹄鉄をつけることが多い。アルミ製のほうが軽くて動きやすく、また蹄の形に合わせて加工することも容易になるが、鉄よりも擦り減るのが早く早期に交換する必要が出てくる。その都度蹄に釘を打ち込むことになるので、蹄への負担は大きい。そんな人工物が馬の蹄につけられていることを初めて知った時、ミドリは少し驚いた。

 蹄鉄の役割は、運動性の向上と蹄の保護だ。人間でいう靴のようなもの。馬の蹄の形に合わせた蹄鉄の加工と装着はかなりの技量が必要で、「装蹄師」と呼ばれる特別な技術者が実行する。装蹄師は厩務員や騎手とはまた違い、いかにも職人気質といったような人たちだ。「THE・仕事人」という印象をミドリは装蹄師に持っている。その仕事ぶりはとてもかっこいい。

 馬の蹄は、とてもデリケートだ。蹄に関連した病気になることも多い。

 また、蹄は「第二の心臓」とも呼ばれている。

 馬が走る際、一見硬そうに見える蹄は僅かに伸縮し、それがポンプ作用となって末端の血液を送り返している。

 馬の体は人間よりも遥かに大きい。そして、細く長い脚を持っている。体内の血液を正常に行き渡らせるためには、蹄機作用と呼ばれる蹄の伸縮が必要不可欠だ。

 馬は動かないと生きていけない。四本の脚で立ち、歩き、走ることで、血液を循環させている。

 だからこそ、歩行が困難になるほどの脚の骨折は、馬にとって命取りとなる。予後不良となった馬がやむなく安楽死の措置を取られることになるのは、そのためだ。

 馬の脚は、鳥にとっての翼のようなもの。鳥が大空を飛び回るように、馬は大地を駆ける。それができなくなることは、おそらく何よりも苦しいことであるに違いない。

 ミドリはシルバーライトの、その大きな体を支えている細身の脚を擦った。とても大切なものに触れるように、優しく。

 すると、シルバーライトのお尻からポロポロと黒い塊が放出された。シルバーライトは後部からボロを排出しながら、知らん顔で食事を続けている。

 こ、こんにゃろ。せっかくのムードを台無しに。

 呑気なシルバーライトを恨めしく思うミドリであった。

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