レース後

 勝った。彼は一着でゴールした。

 サツキはその場にいられなくなり、記者たちが集まった部屋から逃げるようにして外へ出た。

 誰もいない廊下で、両手に顔を埋めて泣いた。

 どうして泣いているのか? どういう感情なのか? サツキは自分でもよくわからない。嗚咽が漏れ、まぶたからは止めどなく涙が溢れた。

 きっと自分は、ずっと待っていたのだ。彼がこの場所へ戻ってくることを。

 この一年、サツキは後悔の日々を送った。どうしてもっと傍で彼を支えることができなかったのか。素直になれなかったのか。

 自分は臆病者だ。彼に拒絶されることが怖くて、手を差し伸べることすらできなかった。傷ついていく彼を、ただ見ていることしかできなかった。

 もう彼に合わせる顔などない。彼は自身で、大きな困難を乗り越えた。そんな彼の前に今更出ていくことなどできない。臆病者の出る幕などない。

 何もできなかったくせに、こんなところで一人で泣いて、なんてみっともない女だろう。

 歓声に応えウィニングランをする彼とシルバーライト。

 サツキはその光景を見ていることができなかった。


 ミドリはレース後のシルバーライトに駆け寄った。本当は思い切り抱きしめてあげたいところだったが、急に脅かせて後ろ蹴りをもらう羽目になることはさすがに避けたかったので、ピンクがかった鼻筋を小気味よく擦ってあげることだけに留めた。

「すごい、すごいよ! よく頑張ったね!」

 ありったけの激励を馬にかけてあげる。シルバーライトは誇らしげに首を大きく上げた。自分がレースに勝利したことを理解しているのかもしれない。

 それから鞍上のカズマと握手を交わした。気分が高揚している今でないと恥ずかしくてできないようなことだ。カズマはとても満足気な笑顔を浮かべている。

 調教師のミズタニもやってきて、カズマに言葉をかけた。シルバーライトに好かれていないらしいミズタニは、馬にそっぽを向かれてしまった。

 シルバーライトは、ついこの間までろくに人を乗せることすらできなかった馬だ。それが、こうしてレースを走れたことだけでも充分であるのに、一着という素敵なプレゼントまでミドリにくれた。ミドリは自分の日々の仕事が報われた気持ちだった。そして何より、この馬が誇らしい。多くの人に素晴らしい走りを見せることができて、本当によかった。

 とにかく今日一日、シルバーライトをとことん労ってあげよう。そう決意するミドリであった。


 レース後しばらくして、サツキのスマートフォンにカズマからメッセージが届いた。

 とても簡潔で、短い文面だったが、彼女はそれを見て救われた気がした。

『応援してくれてありがとう』

 まぶたからまた涙が溢れてきた。こんな顔、彼には絶対見せられない。

 あのころのようにまた、彼の近くにいていいのだろうか? 彼はそれを許してくれるだろうか?

 彼に合わせて、サツキも簡潔で短い言葉を送った。

『おめでとう』


 レース場から厩舎へ戻り、仕事を終えたミドリは、いつものように絵を描いた。

 コースを駆け抜けるカズマとシルバーライトの絵。人と馬が同じ目標を見据え一体となった姿。その姿は、完成されているような気がした。お互いが歩み寄り、力を合わせて走る光景。激しさの中に、美しさがある。

 その絵には、SNSで多くの反響があった。中には実際に競馬場に足を運びレースを観戦した人もいた。シルバーライトの馬券を買った人のお礼のコメントまであった。


 その日、ミドリは夢を見た。シルバーライトの背に跨り、わた菓子のような雲の上を走っている夢だ。

「ねえ、どこに行くの?」

 ミドリはシルバーライトに声をかけた。すると、馬の尖がった左耳からスーっとレシートのような白い紙が出てきた。ミドリはそれを手に取り紙に書かれていた文字を読んだ。

『ミドリ、いつもありがとう』

 シルバーライトからのメッセージだ。

「うわああ! そんなこと言われたら、私嬉しくて泣いちゃうよ」

 ミドリが強い感激を示すと、今度は馬の右耳から紙が出てきた。ミドリはそれを手に取る。

『ミドリ、少し重い。ダイエットしたら?』

「はあああ!? なによそれ!? 余計なお世話よ!」

 二人の旅路はまだ終わらない。

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