動き出した秒針

 軽い調教を終えたカズマがシルバーライトから降り、馬をミドリに預けると、調教師のミズタニが駆け寄ってきた。遠くには馬主のサクマの姿も確認できる。

「どうだった?」

 ミズタニが嬉々として訊いてきた。

「ええ。とてもパワーのある馬だと思います。ただ……」

「ただ?」

「いえ」

「しかし、さすがカズさんだな。あのじゃじゃ馬を見事に乗りこなすとは」

 カズマは自分ではあの馬を乗りこなせたとは思っていない。まだまだ探っている状態だ。それに、シルバーライトは本来の力を出していない。

「これでやっとレースの予定を組むことができそうだ。カズさん、これからも頼むよ」

 ミズタニはシルバーライトを走らせることができたことより、カズマを起用できたことを喜んでいるようだ。しかし自分は世間が考えているほど大層な人間ではない。そのことはカズマ自身が一番わかっていた。

 視線を感じて、カズマはそちらに目を向ける。馬主のサクマが優しく微笑んでこちらを見ていた。カズマは彼に向かって小さく会釈をし、その場から歩き出す。

 麗らかな朝日が視覚を刺激した。カズマは歩きながら、天を仰ぎ見る。

 今日、時が止まったあの日から、ようやく一歩を踏み出すことができた。

 あの雲の上から、彼は自分を見ているだろうか。

 かつて自分と栄光をともにした、最高の相棒。

 ノーザンスカイ。



 ミドリは調教を終えたシルバーライトの体を洗っていた。

「おつかれさま。よく頑張ったね」

 シルバーライトはその言葉に応えるようにブルルと体を震わせて大量の水滴をミドリの顔面にぶっかけた。体を洗い終わってタオルで体を拭こうとした時には、昨日と同じようにシルバーライトがタオルを口に咥えて振り回し始めた。

 まったく、やんちゃな子供だ。

 だけど。

 ミドリはカズマがシルバーライトに跨るシーンを間近で見ていた。その後の彼らの感触を確かめ合う様子を傍で眺めていた。

 張り詰める緊張感。カズマとシルバーライトの間だけに流れている、感覚の糸。

 その時、ミドリは知った。この馬は、ただのやんちゃな子供じゃない。とても大きくそして繊細なものを、その内に抱えている。だからこそ、この馬はあんなにもデリケートなのだ。騎乗したカズマもそのことを感じ取っているようだった。

 この馬を自分が支えてあげないといけない。壊れないように、優しく、見守り続けてあげないと。

 ミドリはシルバーライトのその大きな体の側面を擦った。

 この時初めて、ミドリはシルバーライトという馬のことを愛しく思った。



『今日は白馬の王子様が現われました。ようやく乗り手が見つかって、一安心』

 午後、ミドリはトレーニング場外周のベンチに座り、スケッチブックに筆を走らせていた。シルバーライトと、その背中に跨ったカズマの姿。

 しかし、まさか自分が担当している馬にあの誰もが知る有名騎手が騎乗することになるなんて。どういった経緯があったのかはわからない。あの事故以来、カズマ騎手は全ての騎乗依頼を断っていたはずだ。だけどこれで、シルバーライトがレースに出られるかもしれないという期待を持つことができた。感謝の気持ちでいっぱい。そう、ミドリにとってカズマはまさに白馬に乗った王子様のよう。

 そんなことを考えてニタニタしていると、当の本人であるカズマが目の前の周路をジョギングしてやってきた。ミドリの姿を認めたカズマが、走りながらちらっと彼女に視線を向ける。

 ミドリは急に恥ずかしくなって、カズマから見られないようにスケッチブックで顔を隠した。きっと自分の顔は今真っ赤になっているだろう。

 通り過ぎていく気配がなかったので、ミドリがスケッチブックから僅かに顔を出して窺うと、カズマがジョギングをやめて歩いてこちらに向かっている姿が目に入った。ミドリは再びスケッチブックを使って隠れる。

「何してるんですか?」

「えっ?」

 ミドリはカズマに声をかけられて驚いた声を上げた。何してるって、見ての通りスケッチブックで顔を隠しているところだ。あなたのことを白馬の王子様だと考えていたなんて口が裂けても言えない。

「また絵を描いてるんだ。よかったら見せてもらえる?」

「あっ、えっと、すみません。まだ全然描きかけで」

 ミドリはようやくスケッチブックから顔を出して答えた。逆に今度はスケッチブックを自分の背中側に持っていって隠した。

 自分のありとあらゆる言動と動作から、焦りと緊張が迸っているのをミドリは感じた。しかしカズマはそれを変に思うことはなく、優しく微笑んでくれている。安心する笑顔だ。さすが王子様。

 カズマがミドリの隣のベンチに腰を下ろした。そうなると当然、ミドリは絵を描くどころではない。どうすればいいかわからなくて、ただただ石像のように固まっていた。

「ミドリさんはどうしてこの仕事を選んだの?」

「ほへっ!?」

 自分の口から妙な奇声が出てしまった気がしたが、必死に頭を働かせて答えようとする。

「え、えーと。元々動物が好きっていうのもあるんですけど。子供の時に、とても印象的な出来事があって」

 ミドリの脳裏に銀翼の天馬が夜空を駆ける光景が浮かぶ。

「ミドリさんは、天馬を見たことがあるんだ」

 ミドリの思考を読み取ったかのようにカズマが言い、ミドリは頷いた。一昨日、ミドリはカズマに天馬の絵を見せていた。

 その時カズマが顔を逸らして、ぼそっと呟いた。

「僕は、あの馬を天馬にしてあげることができなかった」

「えっ?」

「いや」

 カズマはこの話はやめようというように首を振った。穏やかだけど、どこか影のある男。そこもまた魅力的だ。いや、いかんいかん。本人を目の前に妙な妄想をするな。

「カズマさんはどうしてシルバーライトに乗ってくれたんですか?」

 ミドリは朝からずっと疑問に思っていたことを尋ねた。

「僕があの馬に乗ったんじゃない。あの馬が僕を乗せてくれたんだ」

 カズマはそう言ってミドリに目を向けた。ミドリはその言葉にどう反応したらいいかわからず、仏頂面になってしまった。そんな彼女の様子を見て、カズマがふっと息を吐いて笑った。もしかするとからかわれたのかもしれない。

「シルバーライトが、あのままレースを走れずに終わるのはもったいない。いや、ちょっと違うか。僕は、あの馬を守りたかったんだ。まあそれは、馬主さんの意思なんだけど」

 ミドリにはカズマが言おうとしていることがわかった。レースを走れなければ、競走馬とは言えない。

「だけど、今日あの馬に乗った時、僕の考えは変わった」

 カズマが空を見上げるように顔を上げた。

「僕はシルバーライトと一緒に、栄光を勝ち取りたい」

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