過ぎ去りし時間

 シルバーライトの調教は順調に進んだ。少し前まで人を乗せることすらできなかったのが嘘のように。

 ひとえにカズマ騎手の実力だろう、と周りの人間は思うかもしれない。しかしミドリは知っていた。カズマは調教以外の時間も厩舎を訪れて、シルバーライトを見にきたり、スキンシップを取っている。その謙虚さと誠実さが、馬との信頼関係に繋がっているのだ。

 カズマ騎手は大レースを何度も勝利してきた一流騎手なので、騎乗依頼は絶えず、一日に何度も馬を乗り換えて調教やレースを行うのが常だった。だが今は、シルバーライトとのタッグ一本に専念している。この葦毛の馬とのコンビで新しいスタートを切りたいと考えているようだった。

 来週には、シルバーライトはついにデビュー戦を迎える。ミドリは厩務員の仕事を始めてまだ日が浅いこともあるが、自分が担当している馬がレースで勝利したことはない。だからシルバーライトに期待したい気持ちもあったが、なにより怪我することなく無事にレースを終えてくれることを願っていた。

 何も起こらなければいい。だけどこの馬は、何かを起こしそうな気配がある。それがどんな種類の出来事かはわからないが、仕事中も常にハラハラさせられる。いつ何をしでかすかわからないので、気が抜けないのだ。厩務員も一度に数頭の馬を世話することが多いが、この馬を担当していたらとてもじゃないが手が回らない。

 ただそんなシルバーライトの世話をすることが、ミドリは楽しかった。自分がいてあげないといけない。構ってあげないといけない。そういう気持ちにさせてくれる。ミドリは厩務員の仕事は自分に合っていると思った。騎手のように脚光を浴びる花形ではない。裏で支えるほうが、自分には合っている。それに、一番身近で馬との濃密な時間を過ごすことができる。体力的にハードな仕事だが、馬好きにとってはとてもやりがいのある仕事だ。



 その日、カズマはシルバーライトに乗って、レース前の最後の調教、追い切りと呼ばれる普段より激しいトレーニングを行った。

 走行タイムはとても優秀だったが、ピリピリとした緊張感を感じ取ったのか、シルバーライトの気が立っていた。調教後に両前脚を上げて立ち上がったり、走りながら連続で跳躍して背中に乗るカズマを大きく揺さぶった。どうにか落馬は免れたが、騎手歴の長いカズマでさえかなりヒヤヒヤさせられた。

 馬から降りてミドリにあとを任せ、調教師のミズタニと軽く言葉を交わしてから、カズマはトレーニング場を去ろうとした。

「カズ」

 馴染みのある女性の声が聞こえた。彼女の声を聞くのは久しぶりだ。

 カズマが声にしたほうを向くと、そこに競馬記者のクドウ・サツキがいた。



 喫茶『ミーティア』。レトロな印象の、落ち着いた雰囲気の店。

 コーヒーを頼むと、自動でマスターお手製のクッキーがついてくる。サクサクした食感とほんのりした甘さが、コーヒーとよく合う。

 変わらない味。変わらない店の雰囲気。

 変わってしまったのは、自分自身と、彼女との関係だけだ、とカズマは思った。

 正面に座っているスーツ姿のサツキ。後ろで丁寧に結われている髪は、女性らしさと仕事できる感の二つを演出している。

「髪、少し伸びたね」

 カズマはぼそっと呟くように言った。

 彼の言葉を聞いたサツキは、射貫くような鋭い視線を向けてきた。それは、これからどう料理してやろうかという捕食者の目に見えた。

「時は経つものだから」

 あたりまえのことを教えるような口調で彼女は言った。その言葉は、時に置き去りにされたカズマを暗に揶揄しているように思える。あのころの二人にはもう戻れないと言っているようにも思えた。

 サツキはカップに手を伸ばした。ゆっくりとした動作で、ほろ苦い液体を啜る。逆に、カズマはカップに手を伸ばせない。心理的に主導権を握っているのは彼女のほうだった。

「あの悲劇のレースから約一年。サノ・カズマ騎手は葦毛の二歳馬で新たなスタートを切る。良い記事になりそうだわ」

 彼女は、サツキとしてではなく、記者として話を進めていくつもりのようだ。

「あのシルバーライト、結構なじゃじゃ馬のようだけど? 乗り手の感想などお聞かせ願えますか?」

 カズマはカップに手を伸ばし、コーヒーを啜った。それはまるで口を開く前の儀式のようであった。

「そうですね。だけど、きみほどのじゃじゃ馬ではないよ」

 サツキは一瞬驚きに目を開き、それから細目になってカズマを睨みつけた。怖い、怖い。昔から、冗談のあまり通じない相手なのだ。彼女の反応に少し気を良くしたカズマは、クッキーを一つつまんだ。

「なるほど。勝つ自信はおありということですね。調教の手応えなどはどうですか? タイムだけ見れば他とは抜きん出ているように思えますが」

「レースは何が起こるかわからない。どんなに速い馬でも。先に結果がわかっていたら、何も面白くない」

「そんなことは百も承知。もう少し具体的に、予想の材料をいただけますか?」

「サツキ、ごめん」

 そう言って、カズマは頭を下げた。サツキからハッと息を飲んだような様子が伝わってきた。

 カズマは下げた頭を戻して、彼女を見据える。

「ずっと謝りたかった。こんなに遅くなってしまって、すまない」

 これまで仕事の顔をしていたサツキは、一人の人間の顔になっていた。

 その彼女が俯き、悔しそうに唇を噛んだ。

 二人の間に静寂が流れる。

 喫茶『ミーティア』の時間は、いつもゆっくりと流れる。

 それでも確かに、あれから時は動いていた。



 その日、ミドリはなかなか寝つけなかった。

 明日は、シルバーライトのデビュー戦。楽しみの気持ちより、心配がかなり勝っている。あの子は果たして無事にレースを終えることができるのだろうか? 百戦錬磨のカズマ騎手が騎乗してくれるとはいえ、何かしでかしてしまいそうで気が気ではない。

 明日はミドリもレース場に向かう。レースがスタートする直前までシルバーライトに寄り添うことになる。自分がシルバーライトを落ち着かせてあげなければ。そう思えば思うほど、自分のほうが緊張してしまう。

 とにかく、このまま眠れずに過ごして、明け方寝過ごしてしまうことはまずい。起きたらもうレースが終わっていたなんてことはないようにしなければ。それはさすがにシャレで済む話ではない。

 こういう時は、脳裏に星の海が広がる夜空を描く。どこまでも広い空。瞬く星々。この空に比べたら、自分はとてもちっぽけな存在。自分が抱えている問題など、取るに足らない。

 星の輝く大空の下、自分は眠る。星たちはいつだって自分を見守ってくれている。

 夜空に一つ、流星が駆けた。ミドリはその流星に向かって、願いをかける。

 明日、寝坊だけはしないように、と。

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