未知との邂逅

 早朝の厩舎。馬房の柵を隔て、カズマとシルバーライトが互いを探るように立っていた。

 シルバーライトは警戒心と好奇心を天秤にかけるように、左右にうろうろしながら馬房の前に立つ男を気にしている。カズマはそんなシルバーライトを静かに見つめていた。

「あ、あの、おはようございます」

 二者の間に割って入っていいのか迷ったが、そのままずっと突っ立っているわけにもいかないのでミドリはカズマに向かって挨拶した。

 カズマがちらっとミドリに視線を向けて口を開く。

「おはようございます。ずいぶん早いね」

「えっ? えと、カズマさんのほうが早かったみたいですが」

「この馬の厩務員さん?」

「はい。昨日から担当することになりまして」

「昨日の調教はなかなか楽しそうだったね」

「あ、見てらしたんですね。楽しくは、なかったですよ」

「お名前をお伺いしてもよろしいですか?」

「はい。この子はシルバーライトです」

「ああ、うん。馬じゃなくてあなたのお名前を尋ねたつもりだったんだけど」

「あっ」

 ミドリは自分の勘違いに気づき、顔が熱くなるのを感じた。起き抜けでまだ頭が回っていないのか? うん、そういうことにしておこう。

「すみません。私はオクムラ・ミドリといいます」

「ミドリさんか。なるほど」

「えーと、なにか?」

「いや、良い名前だと思って」

「そ、そうですか? ありがとうございます」

「僕の名前は既に知っているみたいですね」

「有名人ですから」

 カズマはそのことはちっとも嬉しそうではなかった。

 その時馬房の中のシルバーライトが音を立てた。先ほどより動きが激しくなっている。オレ様を差し置いて話し込んでんじゃねえ、とでも言いたげだ。

「どうぞ。僕に構わず仕事を始めてください」

「あ、はい」

 ミドリはカズマに言われて馬房の中に入っていく。

 昨日はここに入った途端動き回り始めたシルバーライトだが、今日はこれといった反応は示さなかった。ミドリに向かって、お前また来たのか、とでも言いたげな顔をしただけだ。

「おはよう。今日もよろしくね」

 ミドリがそう言うと、シルバーライトはフガっと鼻を鳴らした。馬なりに返事をしたのかどうかは定かではない。

 馬の体を確認し、検温を行う。その間、カズマが馬房の外に立って馬の様子をじっと眺めていた。ずっと見られていて、やりにくい。だがどっか行ってくれと彼に言うわけにもいかない。彼は何のためにここにいるのだろうか?

 調教のために馬装を施す段になると、昨日と同じでシルバーライトはやや拒絶した。ミドリはどうにかなだめすかし時間をかけて馬具を装着した。無理に行うと馬の感情を逆撫ですることになる。そうなることはお互いに望んでいない。

 これから競走馬としての調教が始まるわけだが、今日は一体どうなるのだろう? 昨日のシルバーライトは結局一度も背中に人を乗せることなく、その辺を勝手に走り回っただけだった。まるで鬼ごっこのようだったが、人が馬のスピードについていけるわけがない。危険回避のため周囲の馬たちの調教も中断させて、周りにだいぶ迷惑をかけた。

 人を乗せて走れなければ、レースに出ることができない。そうなれば、この馬はいつまでもここにいるわけにはいかなくなるだろう。人間でいえば失業といったところだが、馬にとってはそうそう他の道が残されているわけではない。その未来は明るくはないはずだ。

 ミドリは手綱を引いてシルバーライトを馬房から出した。昨日はここですぐに好みの牝馬の馬房に向かおうとしたシルバーライトだったが、今日は馬房の前に立っていた人間が気になり足を止めた。

「今日は僕がきみの上に乗る」

 カズマがシルバーライトに向かってそう宣言した。



 トレーニング場。早朝から多くの騎手と競走馬たちが調教に励んでいる。

 カズマは調教師のミズタニと軽く言葉を交わし、ミドリが引き連れている葦毛の馬と向き合った。

「今からきみの上に乗せてもらいたい。もし嫌だったら、そう言ってもらって構わない」

 カズマはシルバーライトに向かって言葉を話した。意味が通じるとは思えないが、自分の意思を伝えることは重要だと考えたのだ。

 馬は速く走るためのただの道具ではない。人がいいように操っていいものではない。馬にも意思がある。

 この葦毛の馬は、人のことをよく見ている。毎日この馬の調教を見るたびに、カズマはそう感じていた。シルバーライトが背中に人を乗せないのは、その人間が信頼に値しないからだ。この馬は驚くほどの観察力と理解力を所持している。だからこそ対等に、誠実に向き合わなければならない。

 カズマは焦る必要はないと思っていた。少しずつ自分を知ってもらい、心を開いてもらう。調教が始まる前からシルバーライトに会いに行ったのも、そのためだ。今日中に乗れなくても構わない。

 カズマはシルバーライトの首筋に触れた。これから背中に乗るという意思を伝えようとする。

 しかし、そこでカズマの足が竦んだ。

 怖い。

 あの日の記憶が、フラッシュバックした。

 怖いのは、自分が落馬することではない。

 相棒である馬の希望が打ち砕かれる瞬間を目撃することだ。

 体に染み込んだ乗馬の動作に、心が静止をかける。

 聡いシルバーライトは、すぐにカズマの怯えを悟った。数歩後ずさり、威嚇するように首を上げて唸った。臆病者に、自分の背中に乗る資格はない。そう言いたげな態度だ。

 ミドリが心配そうに状況を見守っている。だが、彼女にできることはない。これは、自分とシルバーライトの問題だ。カズマは心を落ち着けるように深く息を吐いた。

 もう一度、シルバーライトに近づく。今度は迷いは見せない。そんな惨めな姿を、相棒に見られたくはない。手綱を掴み、あぶみに足をかける。

 そして、勢いをつけて飛び上がり、シルバーライトの背中に跨った。

 静寂。周囲の人間も固唾を吞んで見守っていた。

 不気味な感覚だった。おそらく、馬のほうもそう感じているだろう。得体の知れない、未知の相手との遭遇。こんな感覚は初めてだった。

 この馬は、普通の馬ではない。乗った瞬間に、そう感じた。言葉にすることは難しい。ただ、そう感じたのだ。

 次にどう転ぶかわからない。次の瞬間には地面に振り落とされているかもしれない。しかし、シルバーライトはカズマを乗せたことで暴れたりはしなかった。少なくとも、今のところは。

 カズマが馬に跨ったのはあのレースの日以来のことだったが、そんなことは忘れさせるほどに独特の感覚が付きまとう。

 良く言えば、ワクワクした。悪く言えば、恐ろしかった。幼いころから馬と親しんできたカズマは、馬に乗ることを怖いと思ったことはない。しかしこの馬は、今まで跨ってきたどの馬とも違う異様な雰囲気を放っている。

 自分の力ではとても制御できない相手。カズマはそう感じた。

 そして、そのことを嬉しく思う自分がいた。

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