8 花香の誘いを受けて

 シャワーの後に濡れた髪をドライヤーで乾かす習慣などなく、頭皮と髪をバスタオルで乱雑に拭いて残りは自然乾燥。そうして傷んだ髪はヘアオイルを多用したところで救いようがなく、取り除く方が早い。イオンに切り揃えてもらうついでに手入れをしてもらった髪はあっという間にキューティクルを取り戻し、天使の輪が見える。

 あの男、本当に何でもできるよね。指通りが良くなった髪に櫛を通し、寝癖を直す。簡単にまとまったショートボブの髪が崩れないようにキープ力が高いスプレーをかける。こんなもの、いつの間に用意されたのか。

 魔力耐性マイナス値の私でも飲めるようにとツナグとイオンの合作である薬を毎日内服しているとはいえ、骨折した右腕が数日で完治するはずがなかった。おかげで整容に支障をきたしているのなんの。不幸中の幸いは利き腕が無事だったことよね。


「はあ、気が重い」


 それでも一週間もあれば右腕をギプス固定したまま着替えることも慣れるもので、セーラー服に袖を通すことも難なく終える。

 まあ、さすがに右腕を袖に通すことはできず、セーラー服の下で三角巾を用いて吊り下げることになるのだけれど。よかった、成長期を見越して大きいサイズを購入しておいて。今もなお余裕があるということは悲しいことに中学一年生の頃からあまり成長していないということでもある。なんて悲しいお話。

 胸当てに梟の紋章が刺繍されたブラウンのセーラー服に身を包む自分の姿を鏡で確認して溜め息を一つ吐く。二酸化炭素が少し増えただけの空気を吐き出したところで気が軽くなることはなく、憂鬱な気分が増すだけで少しばかり後悔する。けれど、今は一分一秒が惜しいから溜め息を吐いたことを後悔している余裕もない。ベッドの隅に寄せられた、埃臭いショルダーバッグに手を伸ばし中身を確認する。


「白地図よし、筆記用具よし。調査キットはイオンに積んでもらったから……とりあえずこれでなんとかなるかな」

「……はぎの? おひさまがおはようするにははやいですよ」

「そうね。だから笑流はもう少し寝てていいよ」

「うー、どこかいくんですか?」

「うん。魔力酔いも落ち着いてきたし、完治とまではいかなくても腕の方も大分良くなってきたからね」

「おくすりのちからは、すごい……ねぇ」

「本当にね。市販薬どころか処方薬も吃驚よ」


 重たい荷物は前もってイオンに運んでおいてもらったとはいえ、それでもショルダーバッグが重たい。ところどころ糸がほつれたストラップを左肩にかけたところで、笑流が目を覚ます。

 物音は最小限に留めるつもりだったけれど、やはり起こしてしまった。空は白み始めても朝日が差し込むにはまだ早い時間。重たい瞼を擦り、舌足らずになっている笑流の頭を撫でて布団の中に戻す。そうすれば優白が再び布団をかけて身を寄せるので、笑流は夢の世界へ戻っていく。笑流が眠ったことに安心したところでトレーラーから出る。突き刺さる優白からの視線は無視させてもらおう。


「森で迎える朝っていいよね」


 霧が森を覆い、朝日を遮る。湿った土の匂いに冷えた空気が心地良い。深く息を吸えば新鮮な空気が肺全体に染み渡るようで、全身の力が抜けていく。無意識のうちに身体が強張っていたようで、柄にもなく緊張していたことを自覚する。


「おや。これはまた随分と懐かしい格好をしていますね」

「でしょう」


 穏やかな笑い声につられて目を向ければ、薄暗い森の中に浮き上がる黒い塊がいた。今日も今日とてツナグは真っ黒だ。それなのに重苦しさはなく、それどころか軽薄に見えるあたりツナグの不思議なところ。ちなみにこれは褒め言葉。

 懐かしさに目を細めているツナグにセーラー服もショルダーバッグも荷物の奥にしまいこんでいたから埃臭いのだと言ってみれば、ツナグは楽しそうに笑う。ツボの浅い男だ。

 ショルダーバッグをツナグに押し付けて、トレーラーの出入口から反対に回れば爽やかなスカイブルーのボディが眩しいトライクが停められていた。


「そしてこれまた懐かしいものを出していますね」

「私の愛車!」

「なーにが私の愛車! だ」

「運転をしていたのは私でしょう」

「これは廃車されていたやつを俺が直してた」

「途中から私好みに改造してくれたじゃん」

「あれは盛り上がりましたよねぇ。途中から私も魔法で補強しちゃいましたし」

「薬といい、このトライクといい。できるときはできるものなのよね、科学と魔法の融合。最大のメリットは私みたいな体質でも利用できる」

「萩野みたいな人はめったにいないですけどね。それに、これに関しては質が良い魔石を組み込めたことが大きいですね」


 屋根付き三人乗り可能のトライク。当然、大型トレーラー同様にイオンの手が加えられている。イオンだけでなく、ツナグの手も加わっているところがこのトライクの強み。改造に改造を重ね、時には改良どころか改悪になってしまい元に戻すのに苦戦し、油まみれになって迎えた夜明けが懐かしい。

 スカイブルーの塗装で補修された、かつて傷があった場所を撫でながら最後にトライクを運転したのはいつのことだったかを思い返す。近と笑流を拾ったときには既に目が痛くなる派手な大型キャンピングトレーラーを乗り回すようになっていたから随分と前のことになる。


「ちゃんと動く?」

「調整は完璧だ。その腕でも運転できると思うが……試運転しておくか?」

「これより酷い怪我をしているときに運転させたの誰だっけ」

「……萩野は萩野でできることの振り幅が激しいよな」

「散々無茶ぶりさせられたからね。さすがにトレーラーは無理だけれど、この子でなら大抵のことはやれるよ」


 イオンが完璧と言うのであれば、それ以上心配する必要はない。ガソリンも十分すぎるほど補充してくれているようだし、かなりの距離を走れるだろう。そのガソリンの入手経路は探るまい。

 残りの荷物をツナグに積んでもらっている間に枝葉の隙間から覗く空を見上げる。今日はよく晴れそう。森を出る頃には白み始めた空が爽やかな青に染まり終えているかな。


「それとこいつも調整しておいたから」

「げぇ」

「嫌そうな顔をするなよ。自衛手段は必要だろ」

「そうだけどさあ。はあ、これ面倒臭いのよね」

「俺の調整は完璧だからな」

「はいはい。言われなくても分かってるって」


 重厚感のあるそれは嫌味なほど手にしっくりくる。ここまで完璧に調整しなくてもいいのに。その感想はどうやら眉間に表れていたらしい。決め顔をしていたイオンは私の反応を見て、不貞腐れた顔で眉間を陥没するのではないかと思うくらいの力で押してくる。

 荷物を積み終えたツナグがイオンに便乗してじゃれつこうとしてきたので、イオンの硬い腕を押しのけてトライクの運転席に手をかける。そこでようやく気付き、少しだけ息を呑んだ。


「……まるで魔法をかけられたカボチャの馬車ね」

「なんだそれ」

「なんでこのトライクに座っているだけでそこまで絵になるのかということよ。そして、どうして後部座席に座っているの?」

「そんな分かりきったことを聞くとか、魔力酔いはまだ覚めてないのか」


 ラメが織り込まれた水色のドレスに澄んだガラスの靴。それと比べることさえ烏滸がましい、くたびれたタートルネックにごついブーツ型の安全靴を身につけておきながら、魔法によって洗練された美しいプリンセスかと見間違えそうになる。

 賞賛の意を込めて拍手を送り、トライクをカボチャの馬車に例えてみた。絵本を嗜まない近には一切伝わらない。我ながら上手い例えだと思っていたのに残念。


「こんな乗り物あったんだな」

「二人の旅に私が加わった際、足が必要になったのよ。だから作ってくれたの」

「運転できるのか?」

「ほとんど私が運転してたから」

「ふうん」

「途中から物資が増えてトライクに積みきれなくなってね。だから近を拾った頃にはあのトレーラー」

「物置で見たことないな」

「魔石が組み込まれているから魔力耐性が高くて、ツナグの四次元空間に置いてあるのよ。詳しい話はあの二人に聞いて」

「なんでもありだな」

「あの二人が揃えばありえないことはないんだよ」


 片耳タイプのヘッドセットを身に着けて、ハウジングを二度軽く叩けばピピッと電子音が鳴って起動する。直後、機械的な音声が生体認証が完了した旨を報告し、トライクのエンジンがかかる。懐かしい感覚に浸りながら、ミラーの位置を確認する。さすがイオン。調節するまでもなく、ミラーの位置まで完璧ね。

 トライクの乗車が初めての近は後部座席から覗き込んでくる。濡羽色の目がいつにも増して熱を帯びている。なんだかんだで近も男の子。イオンの前ではすまし顔をしているけれど、こういうものが気になるらしい。ギプスに固定された右腕を軽く振りながら運転に問題がないことを伝えればほんの少しだけ、付き合いがそれなりに長いから気付ける程度に残念そうな顔をする。どうやら少し気になる程度の興味ではなく、運転したいくらいこのトライクに関心があるのね。


「今度、暇なときに運転させてあげるから今は我慢して」

「…………で、腕も治っていないのに何しに行くんだ」

「知らずに同乗するつもりだったの」

「知ったところで変わらないからな」

「えー。私が何しに行こうが関係なくついてくるつもりだったの? 私ってば愛されてるー」

「…………」

「冗談はさておき。フィールドワークでもしようかなって」

「お前が?」

「私が」


 長い睫毛に縁取られた目が丸くなる。今日の近はいつも以上に表情豊かだと思うのは私だけではなかったようで、イオンとツナグはまたたびに酔った気性の荒い猫を見るような目をしていた。当然、視線に敏感な近がそれに気付かないはずがなく、すかさず舌打ちをしてそっぽを向く。

 時間もないし、和んだところでそろそろ出発をしよう。そう話してハンドルを握ったところで、震えて弱々しい声に呼び止められる。

 おっと、近。さっきよりも大きい舌打ちをしないでほしい。その顔でされると迫力があって相手が萎縮しちゃうのよね。


「何?」

「あの、その……」

「こう見えて結構急いでるの。用件だけ手短に話して」


 身内で盛り上がっている中に割り込む。それでクラム・ハープの中にある勇気は出し切ったのか、次の一言が出てくるまでに少しばかり時間を要した。

 アップルグリーンの目を右へ左へと忙しなく彷徨わせて、震えた指先を隠すようにスカートを握り締める。そして、勇気を振り絞るように息を吐き出してから顔を上げる。


「私も連れて行ってください。言われたことは守ります。なんでも手伝います」

「いいよ」

「迷惑はかけません。だから……え?」

「近、席を詰めるか降りるかどっちがいい?」

「……………………。はあ、お前の考えてることを理解するにはその頭を開くしかないのか?」

「頭を開いたところで理解できるのは頭蓋骨と脳の構造だけだよ」


 食い気味に返事をする私に困惑するクラム・ハープ。これ以上にないくらい嫌悪感を露わにする近。どちらの反応も私には関係ない話。それが分かっているから近はたっぷりと間を開けた後、嫌そうにしながらクラム・ハープの同乗を認めてくれる。本当に、物凄く嫌そうにしながら。

 どれだけ近が嫌なのか分かっているつもり。けれど、だったら止めておこうなんて言うつもりはない。イオンに積んでもらった荷物が走行中に落ちることがないように、二人で挟むように座るよう指示する。近は言われるまでもないとでも言うように積まれた荷物を壁にするように座っていた。

 クラム・ハープが乗ったことを確認してから、このやりとりを愉快だと言わんばかりの笑顔で見守っていたツナグとイオンに声をかける。


「じゃあ行ってくる。子どもたちのことよろしく」

「笑流と勝手が違いすぎてあれだけど、まあ、乗りかかった船ってことでちゃんと見とくよ」

「ついでに笑流をあの輪に押し込みましょう。良い経験です」

「やりすぎて優白に噛まれないようにね」


 ああ、でも、優白はなぜだかツナグには従うのよね。笑流が最優先というのに変わりはないみたいだけれど。

 そんなどうでもいいことを考えながら、残していく笑流を少しだけ哀れに思いながら、トライクを発進させる。

 最初は面倒臭かったギアをシフトアップするとか、アクセルを開けるという動作も久しぶりに運転をすると懐かしさと楽しさを覚えるから不思議ね。この動作が面倒臭すぎるから自動車と同様のアクセルとブレーキで済むようにしてと求めたこともあった。ちなみにその改造は改悪になったので諦めて面倒臭い動作を受け入れることにしたのも随分と前のことのように思える。


 舗装されていない森の道でトライクは揺れる。けれど、あのトレーラーと比べたら可愛らしい揺れなので、気にせずゆっくりと流れていく森の景色を眺める。

 草の根が分けられた道の土は浅く沈んだ場所に水が溜まっている。そういえば、昨日笑流と涼んだ川はこの近くだったな。森の地形を思い浮かべていると後部座席から深い溜め息が聞こえてくる。構ってアピールが始まったみたい。


「で、この女まで乗せてどこで何をするつもりなんだ?」

「せっかくのデートが台無しになったからってそんなに怒らないでよ」

「怪我が治ったら覚えておけ」

「怪我が治るまで待ってくれるのね」


 すかさず盛大な舌打ち。そんな近は慣れ親しんだものなので気にならないけれど、クラム・ハープにとってはそうもいかない。近が舌打ちをする度に、なんなら機嫌悪そうに発言をする度に、強張った肩が小さく震える。帰る頃には肩がこっていそうね。

 そんな子兎のように震えるクラム・ハープの存在に近の機嫌は更に急降下。この悪循環を止めるために私は気分転換になりそうな話題を提供する。


「囀の森」

「それがこの森の名称か」

「そう。イシアから北東7.93km離れたところにあるの。車で二十分、大人の足で徒歩一時間半ってところかな。」

「細かい数字までよく覚えてるな」

「それが取り柄だからね」


 小さな町であるイシアを囲うのは国境の壁。これはイシアが町という規模でありながら一つの国であるという証明。更に詳しく表現すると、鳥籠の従属の一つであるという証明。趣味の悪い壁ね。

 壁には東西に別れて一つずつ石門がある。西はどういう状況なのか分からないけれど、東はあんな派手なトレーラーが呼び止められることなく通過できるほど機能していなかった。……いや、シーナたちはあそこでイシアに訪れる旅人を待ち伏せしていたと考えればある意味機能しているのかもしれない。


「乾燥地のイシアは西に進めば砂漠、東に進めば森が広がっているの。まあ、広がっているといってもこの囀の森のことだから、行くのにもそれなりに距離があるわね」

「東西で差があるのはなんでなんだ?」

「諸説あるよ。東西で地質が異なるからとか、生態系の違いとか。あとは……」

「イシアはテクノロリアとアルケミアの境にある国。西はアルケミアの領土であるが故、土地が枯れたと言われています」

「…………」

「これが最も有力な説です。けれど、それを貴方の口から言うことは許されないのですよね」


 花を冠のようにした兎が飛び出てきたので急停止する。荷物が落ちる音がしないので、きっと近が支えてくれたのだろう。相変わらず、羨ましい反応速度だ。クラム・ハープが滑り落ちる音もしなかったので、彼女も何かにしがみついたか何かで堪えたのだろう。それもまた羨ましい。私なら十回やったら十回とも前の座席に顔をぶつけている。

 飛び出してきた兎はオレンジの毛が濡れている。来た道には湿った小さな足跡がある。観察するように眺めていたら、オレンジの兎は耳を真っ直ぐ立ててこちらを見つめ返してくる。その後、鼻をひくつかせながら辺りを見渡し、結局来た道に戻っていった。


「魔術とか魔法とか魔力とかそういう小難しい話が絡んでくるみたいだよ。だからイシアはアルケミアの国ではなくテクノロリアの国である鳥籠に従属している。そこを治めるハープ家が魔法使いを輩出しているなんて思ってもいなかったけれど。そして、最寄りの森であるここも鳥か」

「待て、萩野」

「何」

「それは俺が聞いてもいい話か」


 何事もなかったかのようにトライクを再び走らせ、話の続きをすれば近が言葉を遮る。走行中でなければ口を塞ぐ勢いね。

 近がどんな顔をして振り返らずとも分かる。だから私は前を見たまま、答える。 


「私が鳥籠出身という話は昨日笑流にしたからね。近だけに隠す必要もないし」

「その言い方だとつーさんとイオンも知っているみたいだが」

「ツナグはともかくイオンは知っていると思うよ。制服ってそういうものだから」

「……」

「私の出身を話したのだから近も話せなんてこと言わないから安心して」

「そうじゃない」

「じゃあ拗ねてるんだ」

「はあ? どう考えたらそうなるんだ」

「私の出身を知ったのが一番最後だったから」

「自惚れるな」


 湿った土と草木の匂い。そこに混ざり始める花の香り。辿るように道を曲がれば花の香りは濃くなっていく。

 甘い香りに誘われるように進んでいけば、途中でトライクが大きく揺れる。サイドミラーを横目で見れば地面が大きく窪んでおり、窪みには湿った花びらが一片落ちていた。


「最初の話に戻すよ」

「囀の森についてだったか」

「そう。ここね、鳥籠の管轄にある領土で唯一出るの」

「出るって何が」

「魔獣」


 前方の茂みが大きく揺れる。そちらを指差せば二人は前のめりになって注視する。

 のっそりとした巨躯が茂みを掻き分ける。横長の瞳孔が特徴の黒い目がこちらを凝視する。


 縮れた白い体毛は煤色と砂色の花を咲かせ、頭部から生える渦巻き状の角は蔦を絡ませ、植物で豪華に着飾った生物。

 巨躯が一歩前進すれば花が揺れ、甘い香りが一層濃くなる。蜜どころか花びらさえも甘いだろうその花にクラム・ハープが小さく息を呑んだ。


「おい、なんだあれ」

「花羊。その名の通り、羊から派生したと言われている魔獣だよ。全身を包む体毛に種子から伸びた根が絡みつき、とても美しい花を咲かせるの」

「あの魔獣の生態を聞いているわけじゃねえ」

「蔦が絡みついた角は装飾品になるし、花を纏った体毛は最高級のウールになる。そしてなにより花羊の肉は臭みが全くない上に柔らかくて甘い。どの部位も余すことなく使えるから有難いよね」

「そういうことでもない」

「ちなみに、花羊は見た目の通りとっても穏やかな性格をしているけれど、狩られてきた歴史から物凄く人間を嫌っているの」

「つまり」

「自分の縄張りに人間が入ってきたときはもちろんのこと、目の前に人間が現れたときに凶暴化する」

「ということは」

「二人とも、振り落されないように気を付けてね。あ、近はちゃんと荷物も守ってね」


 耳を塞ぎたくなるような不快な鳴き声を上げる。それは鼓膜を貫き、脳を揺らす勢いで、聞き続けていると吐き気を催しそう。

 鳴き声を掻き消すようにエンジンをふかす。これをやるとエンジンの寿命を縮めるのでイオンに怒られるのだけれど、今日ばかりは許してもらおう。

 不快な鳴き声とエンジンのふかし音による双方の威嚇行為をしばしの間続け、睨み合う。そして、花羊が一歩を踏み出した瞬間にトライクを発車させる。進路方向を変更して来た道に戻るなんて手間をかけたらあっという間に追いつかれてしまうため、衝突ぎりぎり回避を目指した正面突破。後部座席から花羊に負けないくらい大きな悲鳴が聞こえてきたけれど、荷物が落下する音は聞こえなかったので振り返らず進む。


「俺がなんとかする」

「駄目。近に任せたら傷物になって価値が下がる」

「お前、まさかわざと!」

「今日の目的はイシアから囀の森までの環境調査と、そのついでに情報収集だよ」

「今はそんな話をしてる場合じゃないからな」

「花羊なんて上物を逃す商人はいないよ。ねえ、外から来る商人と商売をする店、まだいくつかは残ってるよね」

「そ、そんな話をしている場合でもひっ」


 花羊の最高時速は八十前後。対してこのトライクは百くらい出せるので単純に考えれば追いつかれない。けれど、ここは舗装された平坦な道ではなく自然が作り出した獣道。草木が生い茂り直線の道なんてない。

 普通に考えたら土地勘もあちらの方が勝っているでしょうね。魔獣は知能も高いし、愚鈍な人間を追い込むなんて容易いこと。


「相手が私でなければ、ね」


 急ハンドルを切って限界まで速度を上げる。そして道無き道を爆走する。大型キャンピングトレーラーと違ってこのトライクはそこまで耐久性が高いわけではないので、木への衝突はぎりぎり避ける。

 後部座席から悲鳴と怒声が聞こえてきて愉快。なるほど、先日のイオンとツナグはこんな気持ちだったのねと理解してしまった。そんなこと今言えば近の血管が千切れそうなので黙っておく。


「縄張り意識が高い魔獣は環境依存の傾向にある。裏を返せば、適応した環境以外の場所では力を発揮できない」


 盛り上がった地面を蹴り、トライクは跳ねる。その勢いのまま森を出たので少し減速し、花羊との距離を縮める。

 花羊の人間に対する敵意は本能に刻まれているようなものだと聞く。人間と違い、歴史を語り継ぐことはせずとも受け継がれるのだから面白い。その存在が得体の知れない鉄の塊に乗って散々縄張りを荒らしたのだから、追いつける範囲にいれば多少縄張りを出ることになったとしても追いかけてくるだろう。


「環境が変わった魔獣は不安に駆られ、動きが単調になる」


 囀の森から出れば乾燥した風が砂粒を乗せて吹き付けてくる。森と大きく異なる環境に花羊は躊躇いを見せるが、Uターンをしてトライクを停めれば脳を揺らす鳴き声を上げて突進してくる。

 運動能力最低値、戦闘経験皆無に等しい私でも予測できる単調な動き。いつだったか、ツナグに教わった魔獣の行動パターンを思い返しながらヘッドセットのハウジングを指先で軽く叩く。


「魔法陣展開」


 魔法陣とは現実世界に作用するプログラムである。

 これは魔法と魔術、魔法使いと魔術師、この二点の違いをツナグから説明されてイオンが導き出した一つの解釈だ。

 魔術は自然の法則を理解した上でそれを組み換えて結果を出す科学。魔法は自然そのものが有する力によって起こす奇跡。自然そのものが有する力とはなんたるかまで語られたけれど、魔力耐性が最低値を更に下回るらしい私にはそれを理解することができなかった。

 同じく、魔力耐性が皆無に等しいとツナグに診断されたイオンは理解はできなくても他人を介して知識をインプットすればアウトプットは可能となる技術屋の名に相応しい技を見せた。

 それがこのトライクに実装された機能。


「モード、空気銃。弾の属性は水」


 ヘッドセットのマイクに吹き込まれた言葉を魔術に使用される言語に自動変換し、組み立てられた魔法陣をフロントガラスに描出する。

 トライクに内蔵された魔石から魔力を受け取った魔法陣はネオンブルーに輝き、球状に圧縮した水を作り出す。

 演出としては目を引くものがあるだろうけれど、これ眩しくて前が見にくくなるのよね。けれど、それも些末なこと。


「ばきゅーん」


 突進してくる花羊に拳銃を向けるように指を差し、一言呟く。それだけで魔法陣から空気中の水分で作られた弾丸を射出する。弾速も弾道も指定されていない水の弾丸は一直線に花羊の脳天を貫く。

 突進の勢いをそのままに花羊は倒れる。砂埃と共に花びらが何片か宙を舞う。花びらはともかく、羊毛に砂が付着したままというのは商品価値を下げてしまうだろうから後で取り除かないと。……面倒臭すぎて想像するだけで溜め息が出てくる。


「まあ、でも、上出来といったところでしょう」

「……はあ?」

「これを解体すればいい値がつくし、情報を買うには十分でしょ。近、惚けてないで手伝って」

「いや、お前、他に言うことがあるだろ」


 エンジンを切ってからトライクを降りて花羊の絶命を確認する。最低限の傷かつ出血による汚れも見当たらない。理想的な仕留め方をしたので本当ならイオンのもとに持ち帰って解体したいところだけれど……そこまでしている余裕はないので近にお願いすることにしよう。

 そう考えて振り返れば、神の手によって作り上げられた彫刻のように美しい顔を歪ませていた。その顔には説明しろと書かれている。油性ペンで大きくと言ってもいいくらい分かりやすい。

 説明、説明ね。トライクの構造は理解している。でも、魔石とか魔法陣とかそういう類のものは肌感覚でこういうものだろうと納得はしたけれど、説明できるほど理解していないのよね。ツナグ曰く、魔力耐性がマイナス値の人間にとってはそういうもの、らしい。

 それを近にも理解できるように説明しようと思うと……果てしなく面倒臭いことになりそうね。うん、ここは理屈は理解できずとも納得しそうになる言葉で片付けさせてもらおう。


「このトライクはイオンとツナグが共同で改造したものだよ。何ができてもおかしくないでしょう」






「……あの、何をしているのですか」

「近が花羊の血抜きをしている間に白地図を埋めるの」

「地図を?」

「イシアの周辺に何があるのか、どういう地形をしているのか、貴重な水の質はどうなのか。内部の問題解決が全てじゃないでしょう」


 今頃、読経のごとく文句を口にしながら血抜きをしているであろう近を思い浮かべて、なかなか愉快な光景だと少しだけ笑い声を漏らす。

 そんなこと、露ほども知らないクラム・ハープは首を傾げたまま白地図に線を引き続ける私の手元を凝視する。見てほしいのはそこじゃない。


「西は砂漠、東は森林。とはいえ、イシアから森までの道中もほとんど砂地。西に比べたらまだ緑があるけれど、歩けば当たるというほど豊かでもない」

「そうですね」

「だから、最低限の地図が必要なのよ。あの子たちならそれで十分やっていける」

「……シーナたちのため、ですか?」

「木炭のような黒い塊。パンとも呼べないパンも食べなきゃやっていけないくらいの食料不足なくせに分け与えてくれたからね。その恩は返すよ」


 囀の森の地図も書くには書いたけれど、これを渡すかは悩んでいる。魔獣が出る森を子どもたちだけで歩かせるのはさすがに危ないし、だからといって今のイシアにあの森で狩りができるほど身体を鍛えた大人がいるとも思えない。これについては保留。

 花羊の血抜きをする近のためにトライクを置いてきたから散策は足でするしかなく、少しでも範囲を広げるために双眼鏡を手放せない。トライクでひとっ走りした後に一気に書くつもりだったからもどかしい。片腕しか使えないから尚更のこと。何でもすると言ったクラム・ハープを連れてきて良かったと今になって思う。荷物持ち役は大事ね。

 そして、歩きながら書くやり方に変更して良かったかもしれないと考えを改めたのは地図を書き始めてすぐのこと。私の記憶にあるイシア周辺の地図と現在を照らし合わせると、想像よりも砂地が多いのだ。イシアの東側まで砂漠化が進んでいるとは思わなかった。これは思っていたよりも事態は深刻かもしれない。


「そういえば、きみも魔法を使えるんだよね」

「先に言っておきますが、私の魔法は微々たるものですし、それを補うために魔術も使います。当然、無から有を作れません。そこにあるものの力を借りること前提です」

「例えば?」

「汚れたお水を綺麗にしたり、風を操って埃を払ったり。頑張ればお水を冷やして氷にすることができます」

「ああ、そういえば屋敷の掃除に魔法を使っているって言っていたね」

「はい。そういう使い方しかできないので」

「衛生を保つって大事だよ」


 汚染された水を綺麗にするのはそれなりに面倒臭い。まず微生物を投入しないといけないから。それらを無視して魔法一つで不純物を取り除けるなんてどれだけ素晴らしいことか。

 扱う魔法の有用性を理解できていないクラム・ハープに説明すれば、彼女は耳まで赤くして眉下で切り揃えられた前髪を指先でいじり始める。


「何その反応」

「ツナグさんのような魔法使いが身近にいるのにそう言われると思っていませんでした」

「え、なんで」

「あの人、相当凄いですよ。あの乗り物なんて特に」

「あれはイオンの腕もあったからできたものよ」

「イオンさん、魔術師だったのですか?」

「ううん。ただの技術屋。魔力耐性は私よりもましという話なだけで、ゼロだって言われてたわ」

「魔力耐性がないのにあのような乗り物を作られたのですか?」


 クラム・ハープは目を剥く。大きな目が更に大きくなる様子を横目で見ながら、そこまで驚くようなことなのね。そう適当に相槌を打ちながら双眼鏡を覗く。

 きのこのような形をした大岩周辺に水が湧き出る不思議な木、ウォーティリーが点在していると書物に記されていたけれど、ここから見えるのは二本程度。二本あるだけでも御の字と思うべきかしら。


「あの二人は何者なんですか?」

「さあ」

「え」

「興味ないし、興味を持たないというのが私たちの間のお約束。今回が初めてのことよ。私たちの中の誰かが身の上話、出身国の話をするなんて」

「……それって、その、あの」


 旅先で出会う人にたびたび聞かれるこの質問。慣れすぎて定型文を即答する。

 毎度思うけれど、そんなに気になることだろうか。私からすればツナグもイオンも外見ばかり育った好奇心を抑えられない子どもだし、近と笑流は個性的な容姿をしている無知な子どもだ。……まあ、そういう一面を知らなければ才に溢れた優秀な人材だから気になるもの仕方がないかも。

 目を泳がせ、歯切れが悪くなったクラム・ハープの反応をしばし眺めてから溜め息を吐き出すと共に彼女が口にすることを躊躇っている質問に答える。


「私が鳥籠を脱獄した指名手配犯だって知らないよ」


 沈黙が流れる。

 静かになったのをいいことに、私は黙々と白地図を埋めていく。上空から鋭い鳥の鳴き声が聞こえてきて、見上げれば鳥の群れが列を作って横断していく。自由に空を渡っていく姿が眩しくて目を細める。

 そろそろ花羊の血抜きは終わっているかしら。解体と保存に必要な道具も持ってきているからそこまで行き着いていたら有難いけれど、どちるにせよ滞りなく行えると思うが……問題はどうやって運ぶか。あのトライクを収納していたツナグの四次元空間を持ち運べたらこういうことに頭を悩まさなくても済むのに……。

 そう、そうね。四次元空間はさすがに難易度が高いから、物は試しにツナグたちのもとに送ってみようかな。転移魔法なんて理屈の分からないものは言語化できないので使えないけれど、風呂敷に包んだ状態で空路を使って飛ばすことはできると思う。高度と道順を指定すればいい話だからね。

 あれこれ考えながら手を動かしていると、しばらくの間黙っていたクラム・ハープが再び口を開く。


「聞いてもいいですか?」

「そういう切り出し方をして、駄目と言われて聞かずにいられる人を見たことないのよね」

「……じゃあ、もう許可を得ずに聞きます」

「そうして」

「どうして鳥籠はイシアを見捨てたのですか」


 手を止めて、クラム・ハープの方に目を向ける。

 私の表情をどう捉えたのだろうか。彼女は指先が白くなるほど手を握り、話を続ける。


「父を止めるべきなのは一人娘である私の役目。それは否定しません。そして、父の罪と向き合うことを……いいえ、父の罪を裁くことが嫌で人を頼ろうとした己の過ちも否定しません」

「ふうん」

「でも、従属国が災害の被害によって機能しなくなった場合、宗主国が何かしらの対応をすべきですよね。なぜ、鳥籠はイシアを見捨てたのですか」

「……」

「母は最期まで信じていました。鳥籠が、そこにいる友がイシアを救ってくれると。だから、父も私も母の言葉を信じて、鳥籠の手が差し伸べられるまでイシアを保とうと務めていました」

「…………」

「父にとって愛すべきはイシアの民ではなく、妻と娘。それでも妻が信じているから、大切にしていたから、守ろうとしたのです。けれど、いつまで経っても手を差し伸べられることはなく。父の心の糸は途切れました。こんなことなら病に侵された国など捨てて、妻と娘を抱えて逃げてしまえばよかった、と」


 クラム・ハープの顔が歪む。今にも泣き出しそうで、しかしその目が涙を流すことはなくて。震える血の気を失った唇を眺めながら、彼女は全身で百面相をするんだなと思った。

 必死に話をする潤んだ声を聞きながら、私は耳に残っているクライ・ハープによる悲劇の演説を思い返す。


「今更その答えを知ったところで何にもならないかもしれません。でも、私にとっては必要なことなのです。私が父と向き合い、イシアを選ぶために知りたいのです」


 再び沈黙が流れる。

 ゆったりと青空を泳いでいく白い雲を目に眠気を誘われる。今日は朝日を浴びられる時間から活動していたから、そろそろお昼寝を挟みたい頃合いだ。この一件を片付けたら昼下がりまで惰眠を貪りたい。

 目を瞑り、乾いた空気を肺に取り込みながらそのようなことを考えていれば思い出してしまう。あのときもこういう乾いた空気をしていた。それに加えて埃っぽくて、快適とは言えない環境だった。冷たくて、暗くて、そこで響いていたのは……。


「さあ」

「私は真剣に聞いているのです!」

「あの日、あの人が何を思っていたのかなんて私は知らない。理解できたのは私たちは傀儡同然だということ」

「それってどういう」

「ああ、そうだ。私も聞きたいことがあったの」


 思考を振り払うように頭を振る。今、考えるべきは十年も前の、過去の出来事に伴う感情についてではない。過去を振り返り、学べる歴史もあるかもしれないけれど、あれはそういうものでもない。ああ、でも、過去を遡って一つ確認しておきたいことを思い出した。

 クラム・ハープに目を向ければ、彼女は納得できないとでも言いたげだった。そりゃあ、そうでしょうね。私にとっては考えるべきではなくても、彼女にとっては重要なことみたいだし。それでも、私から差し出せる回答はこれのみなので無理矢理納得するなり、私から答えを得ることは諦めるなりしてほしい。


「いつ、誰から、私の手配書を受け取った?」

「皆さんがここを訪れる二週間ほど前に、えっと、えーっと」

「……赤い眼鏡が印象的な男?」

「それです! あれ、なんで覚えていないんだろう……」

「そこは気にしなくてもいいわ。そういうものだから」


 チェシャ猫のような笑顔を貼り付けたあの男が持っていた手配書。あれはもともとこのハープ家に渡されたもの。そうでなければクライ・ハープが私を壱檻萩野だと結びつけることはできなかったはず。だって私、公の場にあまり顔出ししていないし。

 そして、クラム・ハープが私が指名手配犯だと知っているということはその場に居たと考える。クライ・ハープが妻子への愛で全てを投げ捨てるような男だとしたら、私の手配書を見せて説明するなんてことしないと思う。

 問題は手配書を誰が配り歩いていたか、だった。それによって誰がどういう風に動いているかが変わるから。相変わらず人の記憶に残らないように動いている彼であるというのは不幸中の幸いといったところだろう。

 それにしても、イシアにまで手配書を配っていることくらい教えてくれてもいいと思う。人に毎日定期報告をさせているのだから、それくらいの情報は落としてほしい。


「貴方が生きたい理由を聞くのもそういうものなのですか?」


 ペンを握る手に力が入る。その拍子にペン先を用紙に押し付けてしまいペン先を中心にインクが広がっていく。せっかく綺麗に書けていたのに残念なしみができてしまった。どうしたものかと考え、丸く広がったしみの上に二つ丸を書き足し、中心に点を書く。書き損じを可愛らしく誤魔化してくれる毛虫のできあがり。


「そういえば答えを聞いてなかった」

「私の質問には何一つとして答えるつもりがないのですね」

「知る必要がないことだよ」

「知識の収集を娯楽とする鳥籠の国民とは思えない発言ですね」

「生活のために知識を交易するイシアの民から言われると耳が痛いね」


 クラム・ハープは諦めたのか、もういいやと呟く。そうそう、時には諦めることも大事だと頷けば睨まれる。近みたいな迫力のない睨みなんて少しも怖いけれど、せっかく睨んだのに無反応というのも寂しいだろうからわざとらしく怯えてみせる。

 これが近なら舌打ち必至。けれど、形はどうであれ愛されて育ったお嬢様な彼女はそういう柄の悪いことができないらしい。舌打ちの代わりに深い溜め息を吐いていた。 


「生きたい理由なんて考えたことありません。私はシーナたちのように衣食住に困ることはなかったです。それに、病にかかったこともあれば病で人を看取ったこともありますが、私自身は命を落としそうになることはありませんでしたから」

「それが当たり前だけれど、この国においては最低ね」

「自分はそんな人間なのだと思いたくなくて目を背けてきてあたり非道ですよね」

「一応聞いておくけれど、これはそんなことないよ待ちの会話? 自虐ネタ構ってちゃんの相手は面倒だから、それなら会話を切り上げたい」

「世の中にはそんな面倒臭い会話があるのですか?」

「あるらしいよ」


 経験したことないけれど、存在するらしい。それを教えてくれたのは誰だったか。

 今頃巡礼という名のゲリラライブをくれたのは今頃西の諸国で巡礼という名のゲリラライブを行っている聖女アイドルだったはず。可愛らしい顔で可愛らしく怒りながら毒々しい言葉を並べていた。あれをギャップというのだろう。

 私にできるとは思えない会話なので事前に申告すればクラム・ハープは頬を膨らませる。笑流もよくやる怒っていますのアピール。あれは幼い子だからこそ似合う特権だとばかり思っていたが、そうでもないらしい。


「人が時間をかけて向き合った答えを茶化さないでください」

「だったら長い前置きをやめて、早く答え言ってくれる?」

「前置きではなく本題のつもりだったのですが」

「それは失礼」


 そろそろ地図を書き終えて近のところへ戻ろう。最後の一線を引いてからペンを片付ける。久し振りに書き物をしたから目と手が疲れた。子どもたちが理解できるように簡単な言葉で説明文を付け足そうとしたから頭も疲れた。こういうときは甘いものでも食べたくなる。例えば、そう。身体も冷やせて、喉も潤せて、かつ糖分補給もできるソフトクリームとか。

 都合良くソフトクリームを出せるわけもないので、せめて飴玉一つでもいいから口に入れたい。近は持っているだろうか。きっと持っているだろう。それなら早く戻らないと。巨躯な花羊の血抜きという重労働を押し付けられたことを怒っているだろうから機嫌を取って、それから飴玉をねだろう。

 ……その前に、どうやら答えを出したらしいクラム・ハープの話を聞くとしよう。

 速乾性のインクだけれど万が一のことを考えて、書き立ての地図が乾いていることを確認して鞄の中に片付ける。それから身体ごと彼女の方に向ける。

 彼女は数度深呼吸を繰り返してから、背筋を伸ばして姿勢を正す。まるで体育祭の選手宣誓のような声で言う。


「私はイシアのために生きたい」


 生きたいと思う理由を改めて口にすることに緊張していたのだろう。自分で思っていたよりも大きい声で言ってしまったことに少しだけ狼狽えていた。

 気恥ずかしさを隠すように咳払いをして、話を続ける。顔は平静を装っているが、耳が赤く染まっているので全然誤魔化せていないのだけれど……まあ、指摘しないでおこう。


「母が愛した国。父が狂わせた国。私が生まれた国。ハープ家の者として守るべき国。国と称するには不相応で、小さくて貧しいイシア。傷を舐め合い、温もりで満ちている、優しい土地」


 目を細めてイシアを見つめるクラム・ハープの表情はとても穏やかなものだった。これまでのこと、そしてこれからのことを考えてどうしてこういう顔ができるのか私には分からない。

 既視感を覚えるその顔を見つめ返せば、彼女は柔らかく微笑む。かなしくてかなしいその微笑みで、小さな声で言い切る。


「私は私のために、イシアを守るために生きたい。……この答えでは不十分でしょうか」


 意を決したクラム・ハープはアップルグリーンの目を真っ直ぐと私に向けてくる。見つめ返せばすぐに不安の色を見せる。立場上、人の上に立つことになるのだからそう簡単に揺らがないでほしいのだけれど……最初の頃と比べたらましになったから良いと捉えよう。

 胸ポケットに忍ばせていたハンカチをクラム・ハープに押し付ける。クラム・ハープが首を傾げること数十秒、折り畳まれたハンカチを広げる。

 煤色と砂色。それぞれの色に染まった花びらが二片、広げられたハンカチから滑り落ち、細かな傷がついた茶色のストラップシューズの上に乗る。膝を折ってしゃがみこみ、花びらを拾い上げたクラム・ハープは丸めた目を私に向ける。微かに動いた唇の動きからどうやら私の考えを察してくれたらしい。

 鏡を見ずとも今、自分がどういう顔をしているのか分かる。近が居たら気味の悪いにやけ顔と言われていたでしょうね。気持ち悪いではなく、気味の悪いというところがポイント。


「私、ここに来る前からずっとソフトクリームが食べたいんだよね」

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