9 火蓋を切るが先か、暗雲が晴れるが先か

 これは昔の話。具体的には八世代およそ250年前くらいのこと。

 イシアはまだ国として成立しておらず、どこからともなくやってきた人たちが身を寄せて暮らす集落だった。そこに一人の旅人が訪れた。

 旅人は南西にある遠くの国からやってきた。旅の途中で食料が尽き、水で空腹を誤魔化していたと語る。それを聞いた集落の者は飢えは身も心も苦しめるものだと十二分に知っており、旅人の出来事をまるで己の身に起きていることのように心を痛めた。だから、ここでゆっくり休むといいと言って旅人を招き入れた。

 集落は決して裕福な暮らしをしているわけではない。この旅人のように身も心も傷だらけにして流れ着いた者が多く、その日暮らしだった。しかし、心は豊かだった。傷付いている者がいれば手を差し伸べ、飢えているものがあれば少ない食事を分け与える。寒い夜には身を寄せあって眠り、病で苦しんでいたら仕事を肩代わりし回復するまで看病を続ける。当たり前のようで難しい優しさを皆が有しているのだ。

 その光景に旅人は心を打たれた。同時に悔しく思った。こんなにも心優しい人たちが明日の食事の心配をしながら日々を過ごしていることに。世の中には気分を害されたからという理由で食べかけの食事を下げさせる貴族もいるというのに。旅人はお節介かもしれないと思いつつ、その地に残った。

 せめて明日の食事を心配することがないように、明後日はお腹いっぱいになれるように、翌月の生活に不安を抱かなくていいように、子どもたちの将来が明るくなるように。旅人は持てる力を全て注いだ。


 能力があれど知恵のない者は搾取される。

 これを知っていた旅人は最初に学びの場を作った。世界共通言語とされている言葉の読み書きを全員に教えた。それから各自の能力に合わせて計算や歴史を教え、生きるための技術を教えた。

 こうして集落は一つの町となり、旅人が永眠する頃には近隣諸国に名を知られるほど成長した。


「これがイシアの成り立ちだよ」

「ふうん」

「心底どうでもいいって顔ね」

「ちゃんと聞いていただけ立派だろ」

「近にしては上出来だと思う」


 東地区は綺麗なものだった。文化的な最低限度の生活基準は保っている。もともと東西で貧富の差があることは知っていたけれど、まさかここまで酷いとは思わなかった。でも、感染症の被害状況を考えれば妥当とも言えるのかな。

 それが数日ぶりのイシア再入場で抱いた感想。初日からこちら側に来ていたらトレーラーの窓が割られることも、虫が入っていそうな小麦粉を買うこともなかっただろう。そうぼやく近に身体を縮こまらせるクラム・ハープ。

 でも、東地区から来ていたら私がシーナたちを認識することもなかったし、粉塵爆発用の小麦粉を入手することもできなかったのだから結果良しというものだと思う。それが偶然によるものなのか、どこかの誰かさんが知っていて誘導したのかはさておき。


 そんな会話をしながらトライクを走らせ、辿り着いたのはイシアで書物を取り扱っているという数少ない店。入店早々にお目当ての本を見つけられたのは運が良かった。

 日焼けした茶表紙をひと撫でしてから本を開く。昔と変わらない内容の物語を流し読みしていると、近がなんだそれはとでも言いたげに覗き込んできたので本の内容を要約して語る。簡潔に言えばこの本はイシアの歴史を読みやすい物語にしたもの。

 説明を聞いて興味がなくなったらしい近は適当な相槌を打って他のものに目を向ける。本当に、近は歴史とか国政とかに関心がないのよね。


「えっと……イシアが一つの国として認められたのは鳥籠の援助があったからと聞いているのですが」

「一代で著しい成長を遂げるイシアを鳥籠は見逃せなかった。山脈や海を挟んだ先にある国ならまだしも、間にあるのは森だけだからね。よその国の介入をされるまでに手の内にいれてしまおうと考えたんでしょ」

「それは、その」

「自分勝手でしょう。でも最初の頃は厚遇していたと思うよ。ご存じの通り鳥籠は旺盛な知識欲を持っている。他国から得た知識なんて垂涎ものよ」

「…………」

「未知を既知にはしたいけれど、他国への関心はない。正確には他国への敬意がない。だからイシアから学ぶものはないと判断した鳥籠はその後、形だけの関係を保ったまま放置したの」


 対して、クラム・ハープは自国の歴史というだけあって物語に明言されていないことを理解していた。

 この物語の後半に旅人と集落の娘の間に授かった子どもと出会う梟を連れた不思議な少年が登場する。これは現在からみて九代前の壱檻、つまり鳥籠の人間である。作者は現在のイシアと鳥籠の関係を考慮してか、鳥籠の名前を明記していない。でも、分かる人には分かる表現の仕方ね。

 何かを見つけて離れていく近を横目に見ながら、私は本を購入するために店の奥にいる男に声をかける。

 手足が細長く、天然物のパーマがかかった黒髪の男は細い目を更に細め、口角を上げる。


「お嬢ちゃん、若いのに歴史に詳しいね。表現は少しばかり過激的で聞いててハラハラするが」

「あら、意外な反応。これでもオブラートに包んでいるし、当事者からしたらもっと鳥籠への恨み言を添えたいくらいでしょう」

「そうだなあ。でも、鳥籠から受けた恩恵もあるからな」

「感染症が拡大したときも、貧困に喘いでいる今も、何もしてくれないのに?」

「だが、これから何かをしようとしている」


 私から本を受け取り、価格を教えてくれる男はささくれが向けた人差し指で自分の胸元を叩く。

 制服を着ているのだから気付く人はいる可能性は考えていた。でも実際に指摘されると想像していたよりもずっと驚くものね。

 私の反応を笑う男はスカーフで顔を隠して視界だけ確保できるようにしていたクラム・ハープに目を向ける。


「クラム様はいったい何を企んでるんですかね」

「えええ、あ、わ、私は、その」

「ははっ、そう驚かれなくとも。顔を隠されてもクラム様だってことくらいイシアのモンなら誰だって分かりますよ」


 西地区を大型トレーラーで暴走し、クラム・ハープがイシアから行方を晦ませて数日。イシア内にどんな噂が流れているか分からないからクラム・ハープには顔を隠してもらうことにした。

 私はイシアを歩き回っていたときは寝癖をつけたままの頭にジャージだったので、今の姿なら気付かれないだろうとそのまま。近はどうしようもないから諦めた。

 でも、それは無駄だったみたい。新しい遊びか何かかと笑いながら問いかける男を見て、クラム・ハープの認知度の高さを理解する。


「何かお困り事かい?」

「……イックスさんにはお見通しですよね」

「いや、オレに限らず察していると思いますよ。クラム様、分かりやすいんで」

「え」

「そうですね。オレの予想では皆に隠れてひっそりと西地区に足を運び、子どもたちの世話をしているが一人では限界だから助けを求めようとしてるとか」

「えええええと、それは、あの、まあまあ、その」

「わざとなのと聞きたくなるくらい分かりやすい動揺の仕方ね。そしてバレバレじゃない」

「そんな! 西地区に行くときは誰もいないことを確認して」

「あははは」


 赤くなったり青くなったり、カメレオンも舌を巻く顔色の変化に男は唇のかさつきなど気に留めることなく豪快に笑う。

 よほど恥ずかしいのか、クラム・ハープは茹で蛸のように染まった顔を両手で覆ってしゃがみこむ。なんとも子どもっぽい。けれど、きっとこれが彼女らしい姿なのだろう。


「まあ、クラム様お一人でしたらそのくらいのことかと思うのですがね。お嬢ちゃんがいることを踏まえるともう少し違うのかな」

「そうね。イシアの人がどこまで国内の事情を把握できているのか聞きたくて尋ねたというのはあるわ」

「うーん、そうだな。それはまた難しい話だ」

「そんなに難しい話をした?」

「世代によって異なるからね。それに、正確にはどこまで把握してどう思っているのか、だろう?」


 笑い声が止まれば、その場は静まり返る。

 冷たい沈黙。そう思わせるのは途端に削げ落ちた男の表情。


「十年前、流行病がイシアを襲ったあの頃を現役で過ごしていた奴らはなんとなくイシアがどういう状況なのか察してるさ。東地区の方は貧しいとはいえ少しの余裕は作れる、流行病の影響も少ない方だったからな。だが被害が大きかった……いや、被害を押し付けられた西地区はそうもいかない。きっと今も酷い有様、復興の話を上げることもできてないだろうな」

「その通りね」

「これは当時を生きていたから察せるってやつだ。流行病の波は西側から来ているとアムル様は考えて感染者と接触者を西地区に集めて、東西の行き来を禁じましたからね。そして病の治療法は見つかることなく、自然消滅とでもいうような奇妙な形で減っていった。これがまた不気味でね、東地区に住んでいる奴らはオレも含めて西地区に近寄れずにいます」

「その中で西地区に足を運ぶクラム・ハープの姿は健気なものでしょうね」

「いやあ、狂気に身を委ねてるのかと思いましたよ」

「意地悪な言い方しないでください!」

「正当な評価じゃない? そういう認識ができる人がいることに私は安心した」


 貧しい国にしては安価で設定された本に物の適正価格を知らないのかと心配になる。指摘すべきかどうか悩み、視線を向ければ男は柔らかく微笑んで人差し指を唇に当てる。

 なるほどと一つ頷いて、視線を逸らす。その先にいたクラム・ハープは唇を尖らせていた。花羊の一件で幼児退行しつつあると言うのなら面倒臭い。

 私の心の内でした舌打ちは独り言として漏れ出ていたようで、クラム・ハープは急いで姿勢を正していた。もう手遅れ、その行動が滑稽に見える……というのは黙っておこう。


「オレたちでこれです。当時、幼子だった奴らはもちろんのこと、その後に生まれた子どもたちはこんな大人を見て育つものですから西地区に忌避感を抱いてもおかしくありません。どんな暮らしをしているかなんて知ろうともしません」

「そんな、同じ国を故郷にする者たちなのに」

「言語化できない恐怖心ほど厄介なものはないわよ。生命を害するという情報だけ得ていたら尚更」


 息を呑み、唇を強く結ぶ。噛み締めた唇には前歯の跡が残っているけれど、乾燥による亀裂どころか皮めくれもない潤った唇なのでその跡も早々に消えることでしょう。

 再び沈黙が流れる。今度は重みのある沈黙で喉が渇きそう。いや、喉の渇きに沈黙は関係ないわね。

 聞きたいことは聞けた。もう一つ踏み込んで聞きたいことはあるけれど、私が誰かを察していそうな人に対して私からこれを質問するのはおかしな話。さて、どうやって誘導しようか。

 受け取った本の裏表紙で飛んでいる金の梟を指先でなぞりながら考えていると、クラム・ハープはひっくり返った声で男の名前を呼ぶ。


「……イックスさんは今のイシアをどう思っていますか?」

「それは正直に答えていいんですか?」

「はい」

「現状維持を目指そうものなら、近いうちに東西分裂することでしょう。最悪、内紛が起こるまでに関係は悪化するかと」

「ない、ふん?」

「心優しいクラム様には酷なお話かもしれませんが、それが現実です。かつては理由があり、皆が納得して行った隔離でした。でも、今あるのは理不尽な差別です。今はホロ爺がいるからなんとかなってますけど、時間の問題でしょう」


 厳しく、そして現実的な意見。

 男の指摘はその通りで、イシアが今の状況を保てるのもあと僅か。今保たれている東西の関係は長いこと張り詰められて、劣化してきたゴムのようにその日は突然切れることだろう。

 前置きをされていたとはいえ、内紛という強い言葉にクラム・ハープは鈍器で頭部を殴られたかのような衝撃に襲われたことだろう。

 指先に白線が刻まれた男の手で頭を撫でられることをしていなければ、その絶望に泣き崩れていたでしょうね。何せその責任の大半が自分の父親にあるのだから。

 そのときだった。瑞々しい果実を齧る小気味良い音と共に蕩けるように甘い声が斬りこんできたのは。


「んなこと言いながら自分たちは良いもの食ってるんだからタチ悪いな」

「どこかに行ったと思ったら、なんで林檎?」

「そこに新鮮な林檎が売ってたから」

「イシアに新鮮な林檎?」

「そこの店に新鮮な果実が大量に入荷したんだとよ。主に林檎」

「……林檎、ね」


 底が抜けそうなしなびた紙袋から顔を覗かせる真っ赤な林檎を抱えた近はその店を顎で指す。そこがサランという女が営む青果店だとクラム・ハープが弱々しい声で教えてくれる。

 雨量が少なく、冷涼な地域で栽培が適している林檎が大量に入荷されているというのはなんとも不思議なことか。いったい誰が持ち込んだのかしらね。

 そう言ってやりたい気持ちになったけれど、まず指摘すべきは書物を取り扱う店では飲食禁止という常識についてだ。

 近に齧られることで芸術的な美しさとプレミアムな価値を身につけた林檎を没収して叱る。書物というのは繊細なものだから気をつけてほしいものよね。


「クラム様」

「はい」

「オレは領主様たちに任せきりでした。今のイシアはなるべくしてなった姿なのかもしれないと思っています」

「そんなこと!」

「だから、この国が良くなることならオレは協力を惜しみません。きっと他の奴らもそうです。これは責任と選択を貴方たちに押し付けた国民の罪だ。でも、その罪を子どもたちに押し付けちゃいけない」

「……はい」

「だから、これからやろうとしていることに人手が必要になるようなら声をかけてください」

「っ、ありがとうございます」


 深く頭を下げるクラム・ハープの姿を確認してから近の腕を引っ張って一足先に店を出る。

 渇いた喉を早く潤したくて、没収した林檎を一口。甘酸っぱい果汁が喉に染みる。それは懐かしくて、──な味。


「お前なあ。人から奪って食べるんじゃなくて新しいやつにしろよ」

「喉を潤したかっただけだから、後は返す」

「おい、食いかけを返すな」

「林檎を使った料理やアップル味は好きでも林檎そのものは好きじゃないのよね」

「贅沢なやつだな」

「かもね。私は貧困に喘いだことないから」

「生活能力が低いだけで育ちはいいからな」

「教養はないのに品はある近ちゃんに褒められると照れちゃう」


 左手を頬に添えて言い返してみれば右頬を抓られる。大して痛くないけれど、痛いと声を上げればすぐに手は離れる。代わりに右腕を固定する三角巾の中にしまった 本を抜き取っていく。

 何も言わずとも持ってくれるなんてやーさしー。なんて茶化せば今度は拳骨が頭頂部に落ちてきそうなのでお口にチャック。


「ねえ、近」

「なんだ」

「この国は思っていたより簡単に立て直せるかもしれないわ」

「崩落寸前だろ」

「問題を取り除く必要はあるけれど、そこさえ乗り越えればきっと大丈夫よ」


 だって、イシアの民は自分で考えて道を選ぶことができるもの。






 壁に衝突してひしゃげたドラム缶。重なって倒れた鉄パイプ。破れた箇所から砂を吐き出す重たそうな袋。

 ここであの子たちと鬼ごっこしたのも随分と昔のように感じる。


「……」

「……」

「なあ、萩野」

「この空気の中で雑談に興じることができる近の神経は太いとみた」

「空気も何もこの女が勝手に暗くなってるだけだろ」

「それはその通り。で、話の種は何?」

「東西が衝突した場合、どっちが勝つと思う?」

「共倒れ一択」


 乾いた風が吹けば砂塵が舞う。不規則に揺れるトライクの車体や窓ガラスに当たる音を聞いては傷ついたら嫌だなあとほんの少し気が沈む。

 数年振りに走らせる愛車に対して私がこうなのだから、トレーラーの窓ガラスを割られたイオンの心は更に酷いものだっただろう。そういえば、結局あの窓ガラスを割った犯人とは会えていないのよね。


「……私も、お聞きしていいですか」

「答えるかどうかはさておき、どうぞ」

「領主って、どうして必要なのでしょうか」

「きみはいらないと思ってる?」

「イックスさんをはじめとした皆からお話を聞いて思ったのです。皆、それぞれ考えて生活している。だったらいっそ、誰かが決めたことをするのではなく、皆で話し合って決めればいいんじゃないかなって」

「そうすれば個人の暴走に国を巻き込むことはないって?」


 クラム・ハープは静かに頷く。

 さて、これを私は思考放棄と捉えたいところなのだけれど……それは少しばかり評価が厳しい気もするので言い方を考える。

 その間に流れる沈黙が鬱陶しいことこの上ないので、音を求めて適当に近に話を振っておこうかしら。


「近はどう思う?」

「他人の善性に頼ったお花畑な発想」

「という捻くれた考えはさておき」

「置くなら聞くな」

「一応、人の意見も聞いておこうと思って」

「取り入れるつもりなかったくせに」

「それはそれ」


 クラム・ハープがこの考えに至ったのは本を取り扱う店の店主以外でも彼と同じようなことを語る大人たちが多数いたから。青果店の女もその一人。

 ちなみに、近が紙袋から顔を覗かせる程買った林檎の在庫は予想していたよりもずっと多くあった。

 話を戻して、領主の必要性について。この場合、領主に限らなくてもいいだろう。そうしないと、そもそも領主とは、という話からしなければならなくなるもの。


「責任の所在が有耶無耶になると何かあったときに犯人探しすることになるわ」

「……確かに」

「これは私個人の考えであり、正解ではないけど」


 それは、骨の髄まで染み込んでしまった思想。

 この旅で数多の国や町を見てきて、そこに住まう人々に出会ってきて。尚、拭いとることのできなかった結論。

 幼少からの教育というのは恐ろしいものよね。なんて、自嘲したくなる気持ちを抑えて続きを話す。


「国に関わる無数の選択肢を吟味し、最終決断を下す存在。国が良い方向に進めば英雄と称えられ、悪い方向へ転がれば犯罪者のように糾弾される。国が傾きそうなときには首を差し出す。国王だろうと、大臣だろうと、領主だろうと、村長だろうと。それに対する名称はなんでもいい。それが権力を持つ者の役割よ」


 砂塵を巻き込んだ突風に揺られ、軋んだ音を響かせる看板。そこに刻まれているはずの店名は砂に覆い隠されている。長年、看板の文字を覆い隠してきた砂汚れは一部拭き取られた形跡があり、掠れているがかろうじて読めそうな文字が顔を覗かせる。

 店の前でトライクを停車させれば、近は眉間に皺を寄せる。


「ここは」

「そ。私の脱出に一役買ってくれた小麦粉を購入したお店」

「なんでも買っておくものだな」

「本当にね」


 丁番が錆びついて重たくなった扉を押せば、鼻をつまみたくなるつまみたくなるような異臭に出迎えられる。

 前回には感じなかった、もったりとした甘さと目を刺すような刺激が混在した悪臭は店内に充満している。どこから漂ってくるか分からない。とはいえ、薄汚れた棚には商品が並んでいないので、原因は一つしかないのだけれど。


「こんにちは」

「……」

「買いたいものがあるの」

「……」


 店に入ることを躊躇う二人を放置して奥へ進んでいく。

 硬い木製の椅子に腰をかけて微動だにしない年老いた店主。骨に皮が張り付いているだけの痩せこけた身体。白く濁った目は虚ろでどこを見ているのか分からない。ひび割れた唇から覗く舌には深い溝ができている。

 話しかけても答える様子のないので、店主の前に置かれた台にもたれかかる。隅に散らばった小銭は数日前に私が支払った金額丁度。


「イシアを訪れる前、私はソフトクリームが食べたくてたまらなかったの。だから、ツナグの誘導に乗った。干渉するつもりなんてなかった。もともと貧富の差が目立つ国であったから、感染症の影響により酷くはなっているだろうけれど補いあって立て直そうとしているという感想を抱いてさっさと立ち去るつもりだったのよ」


 ペンダントを指先で転がしながら店主の反応を観察する。

 私が声をかけても、クラム・ハープが意を決した顔で入ってきても、視線が移らないのは関心を向けないようにしているからか強い乾燥で眼球が動かせないのか。

 酸素の消費量すら節約しようと胸が浅く上下していることから生きていることは確かなのだけれど、それ以外に読み取れるものがなくて溜め息を吐きたくなる。


「先日は為て遣られたわ」

「…………」

「老木の知者ほど食えないものはないのよね」

「どういうことだ」

「この人なのよ。東地区に住まう大人が口を揃えてあげていたホロ爺というのは。そうでしょう?」

「……はい。その通りです」


 店主は変わらず反応をしない。呼吸の乱れどころか瞬き一つないのだからやってられない。

 クラム・ハープの肯定を確認してから、扉にもたれたまま一歩も店内に踏み込んでこない近に解説する。


「タイミングが良すぎるとは思っていたのよ。この店を出た直後の私たちがシーナに襲われたことも、イオンのトレーラーが襲われたことも」

「まあ、確かに。来てすぐだったもんな」

「国境となる門付近に形だけの店が設けられていたのは人の出入りを確認しやすくするため。奥に進めば進むほど道が荒れるのは土地勘のある非力な民が事を有利に進めやすくするため。この店が並んでいる店の中でかろうじて買える商品があるようにされているのは貴方が来訪者を見定めて、シーナたちに指示を出しやすくするため」

「それって」

「西地区の者が東地区の者に手を出すことは避けねばならない。そんなことをしたら内紛を引き起こすことになるからね。だから貴方は選んだ。来訪者から金品を強奪することを」


 ここで、ようやく店主は反応を見せる。

 四肢の可動域に制限があるかのようなぎこちない動きで手を挙げ、肥厚した爪で黒ずんだ鼻を掻く。乾燥して固定された眼球で私とクラム・ハープを交互に捉える。

 数日前の店主を思い返す。緩慢な動作が印象的ではあったが、ここまで酷くなかった。ということはここ数日で拘縮が進行している可能性がある。それは進行性の疾患を患っているからなのか、それともアミィあたりが拘縮予防のマッサージでもしていたのか。

 どちらにせよ、私にはどうしようもないことね。


「何を、求めている」

「国民の情報」

「梟には、腐肉を食い散らかす習性が……あったのか」

「梟の正体は糸が絡まった人形。吊り手から糸をぷつんと切られて物置の中に捨て置かれているわ」


 乾いた喉に癒着した声を無理矢理引き剥がしたような聞き苦しい発声。その上、途切れ途切れで文章が完成するまでに少しばかりの時間を要する。

 それに対して、私は自分が思っていたよりも早口になった。これは失態。煽り耐性はそれなりにあるつもりだったのに。咳払いを一つして会話を仕切り直す。


「では、何故」

「最初から言ってるじゃない。私はソフトクリームが食べたいんだって」

「…………」

「それと、我武者羅に生きる子どもたちには報われるべきでしょう」


 今頃、笑流は遠目で見ているのも我慢の限界と騒ぎ出した子どもたちに絡まれているのだろうか。アミィの猛攻に薄らと涙を浮かべて逃げ惑う笑流の姿を思い浮かべて小さく笑う。同世代との交流が少ない笑流にはいい経験でしょう。

 それに、あの子たちがイシアに戻ればまた、休む間もなく走り回らなければいけなくなるのだから、今くらい何も考えず遊んでいればいい。

 だから、私は考えたのよね。苦しい時代の終わりは賑やかに告げてもいいのではないかと。


「ここまで頑張ってきたあの子たちにご褒美があってもいいんじゃない?」


 三角巾に忍ばせていた二輪の花を台に置く。

 煤色と砂色の花弁は花にしては彩りに欠けているが、花羊の遺体から手折って時間が経っているにも関わらず甘い香りは濃いまま。室内に充満する異臭にも勝る花の香りなのだから、ギブスに固定された私の腕もそれは良い香りを纏っていることだろう。

 店主はひび割れた唇を内側に巻き込み、眼球に張り付いた瞼を僅かに伏せる。しばらくしてから震えた指先で花弁をなぞり、それからようやく私に視線を向ける。


「……花、氷祭りを……存じておりました、か」

「又聞きでね」

「懐かしいもの、で……。もう、久しく。故に、祭りを知る者も……」

「でも、貴方がいる」


 店主は息を呑む。視線を私からクラム・ハープに移し、それから再び私に向ける。逸らすことなく白く濁った目を見つめ返せば、店主は逃げるように二輪の花へ視線を落とす。

 何を考えているかなんて私には関係ないし、興味がない。

 彼は老いに抗えず衰えた身体をしていても、過酷な環境で生き延びる術を知っている。加えて、西地区の住民からの信頼も得ている。この人の手を借りないという選択肢があるわけがない。


「この老木に」

「無理を強いるわ。長くこの国を見てきた人に頼らずして誰に頼ると言うの」

「次の梟は……は、はは」


 続きを待つが、店主は言葉を吞み込んだらしい。小さく首を横に振って途切れ途切れの笑い声を漏らす。

 長く喋った上に笑い声を上げたせいで喉に限界がきたようで、店主は乾いた咳を繰り返す。見兼ねた近が大股で店主に近付き、蓋を開けたペットボトルを手渡す。しかし、今の店主にはペットボトルから水を飲むという行為も難しいようで、ペットボトルを受け取ることを躊躇っていた。それを察することができない近は艶のある玉肌に皺を刻む。

 こんなことで膠着状態になっても時間の無駄でしかないので、もしもの時に使えるかもしれないからとイオンにショルダーバッグの内ポケットに入れられたスポンジブラシとプラスチックのスプーンを取り出す。備えあれば憂いなしとはよく言ったものね。……まあ、使う機会なんてほとんどなくて荷物がただ重くなるだけだから、結局憂鬱になることの方が多いのだけれども。


「クラム・ハープ」

「え、あ、はい」

「この人の頭をこうやって固定して」

「え、えっと」

「早くやって。それで、貴方は可能な限り大きく口を開いて」

「は、はあ……」

「そうそう、上手。舌を湿らせていくけど、吐き気とかあったら教えて。……はい、ごっくんして。水を飲み込むことはできそう?」

「なん、とか……少しで、あれば」

「片栗粉、せめて小麦粉でもあったらいいのだけれど……さすがにないわよね。このまま飲むから、少しずつ数度に分けて飲み込んで」


 湿らせたスポンジブラシを絞ってから、深い溝ができた舌の上に転がす。唾液もほとんど分泌されていない口腔内は歯垢も多ければ口臭も酷い。スポンジブラシを一通り転がし終えたら下顎を支えて口を閉じさせる。喉頭が上下に動いたことを確認してから問えば、店主は頷く。

 残念ながらこの店に売っていた貴重な小麦粉は爆薬として役割を果たし終えているので、プラスチックのスプーンに注いだ少量の水を飲んでもらう。咽ることなく飲み込んだ店主は小さく息を吐きだしてから私と近に向けて頭を下げる。

 それから、ようやく本題に戻る。


「どのようにして、この国を導くおつもりで」

「人には言葉という偉大なツールがあるのよ」

「え」

「え」

「……この私が大掛かりな革命を起こすわけないでしょう。面倒臭い」

「いや、お前は自分が思っている以上に過激的な仕掛けをするぞ」

「そんなことないでしょ」


 店主に対して説明を切り出したところで二人から素っ頓狂な声が上がる。何をどうすると考えていたのか、呆れてしまう。

 クーデターにしろ、革命にしろ、あれらには準備に時間がかかるし、後処理もやることが多い。相手は現領主一人だけだというのに、そんなことを私がやるなんて本気で思ったのだろうか。

 近もまだまだね。なんて茶化すように言えば、何を言っているんだお前はとでも言いたげな溜め息が返ってくる。それから近は指折り数え始める。


「ネルトリアの修羅場」

「お姫様と聖女様の意見は対立してないのにくだらない派閥争いのせいで複雑化していたから、意見を言いやすくしてあげただけ」

「シーレインの嵐」

「あれは私じゃなくてツナグでしょ。人魚が人間に寄り添いたがっていることを町の者に教えたいからかって、港を飲み込む大嵐を招くのはやりすぎだって私は止めたし、案の定面倒臭いことになったじゃない」

「つーさん、異類婚姻譚になると過激になるからな。でもマハパパフの混乱については言い逃れできないぞ」

「あれは……搾取され続けて闇落ち待ったナシの魔法少女の心を救ったと言って」

「物は言いようだな」


 近の言う過激的な仕掛け。実は可愛らしいもので、昔はもっと酷かった。

 ツナグは何でも興味を抱いて駆け出しては泥塗れになって帰ってくるような幼児だし。もちろん、満面の笑顔を浮かべるツナグの背景は大惨事なもの。

 イオンはブレーキのない暴走車のように物事に没頭したら停止しないわんぱく小僧だし。未開拓の地域にある集落の文明を四半世紀分発展させて問題になりかけたし。

 近と笑流に出会う頃には落ち着いてきただけで……思い出したら頭が痛くなりそうなのでこの話はやめよう。


「萩野はこう考えてるんだろ。相手は喚くばかりの領主ただ一人。大したことないって」

「そうね。実際にそうだからね」

「だが、あの領主でそれが成り立っていたのはバックに人攫いの集団……白い女と巨体の男がいたからだ。それでもたった二人、されどあの二人だけで」

「そこは問題にもならないわ」


 気分転換がてら、埃に塗り潰された窓を開けようとする。けれど、建て付けの悪くなった窓を開けるのは、ただでさえ非力なのに片手しか使えない私には難しかった。空気の入れ替えをしたかったのに残念。窓の前で項垂れていると近が代わりに開けてくれる。

 異臭の籠った部屋からすれば砂埃が混ざった乾いた風すら美味しく感じる。風で揺れる髪を押さえる。開いた窓から差し込む陽光に店主とクラム・ハープから眩しそうにする声が聞こえた。


「人間は考える葦である。それは言葉という偉大なツールがあるからこそ成り立つもの」


 雲一つない青空。高い建物がないので広々としている。

 ただでさえ日陰が少ないというのに、太陽を遮る雲がないというのはなかなか辛いものがある。森の中の方が涼しいだろうし、ましかもしれない。魔獣が出ることを除けばの話だけれど。

 経年劣化で崩れかけている建物も多い。というか、そういう建物しかない。イオンがトレーラーを正面衝突させたのはシーナたちの家のみだったけれど、あれだけ荒い運転をしたのだから擦れた建物もいくつくかあるだろう。そうでなくても大型キャンピングトレーラーの振動というのは大きいものだし、それだけでかなりのダメージを受けた建物もあるはず。

 最低限、国民全員分の衣食住を保障しようとしたら何から手をつけるべきか。衛生面にしたってそうだし……マンパワーが足りていない。


「父親と共にこの地を去ることが最善なのかしら。元凶を現場から取り除くだけで問題は解決するものと思う?」

「どうして……」

「きみは肝心なことを言っていない。イシアを選ぶために父親をどうするか、よ。彼は妻を愛し、きみを愛し、その結果があれ。イシアを選ぶためにとはいえ、そんな父親を切り捨てるとは思えない。領主が必要なのか悩むきみが考えそうなことね」


 振り返れば、アップルグリーンの目を大きく見開いていた。図星を突かれたと分かりやすく表現してくれるものだから、店主も動揺している。そして、さすが年の功というべきか。すぐに落ち着きを取り戻し、クラム・ハープを窘め始める。

 東地区を回っているとき、住民はクラム・ハープを見かけるなり笑顔で駆け寄ってきた。そして、口を揃えて何かお困り事かと問いかける。彼らの方が生活に余裕がないはずなのに。

 西地区を走っているとき、この店に来るまで住民を見かけることはなかった。けれど、シーナたちの彼女への懐き具合を見る限り、そしてこの店主が引き留めようとしている様子から察するに、困窮を極める彼らも彼女に心を寄せている。

 そうであるならば、マンパワーも衣食住も全てが不足しているこの国で真っ先に得ないといけないものはこれだ。


「イシアのために生きたいと言うのであれば考えなさい、クラム・ハープ。考えて、それを声にして伝えなさい」


 幸いなことに父親は悲劇の演説をお得意としていたようだし、きみも素質はあるでしょう。

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