6 太陽の下を歩く

 アルビニズム。

 メラニン色素が作れない、作れてもほんの僅かのみの体質である。肌が白く髪や体毛も白もしくは金色。瞳の色は青色から灰色調が多い。人間以外の動物だと白い体毛に赤い瞳の ヘビとかウサギとか。神秘的で美しい容姿に心惹かれ、芸術品や奴隷として買い求める者も少なくはない。

 外敵に狙われるというだけでも大変だというのに、弱視や羞明があったり、紫外線よる皮膚癌の発症にリスクが高かったり、とにかく光に弱い。だというのに。


「太陽の下を歩くアルビニズムの人、ね」

「何かご不満でも」

「ありまくり。種も仕掛けもありそうで怖い」

「それは困りました。恐怖のあまり本能が刺激されて逃走、なんてやめてくださいね」


 子どもたちが住処としているこの建物はトタン屋根が続く細い道の先にある。トタン屋根の隙間から日が差し込む程度で薄暗い。とはいえ、ここに来るまでの間に屋根がない道も当然ある。

 けれど、白い女の手にあるものは真っ白なモップのみ。そのモップが日傘の役割を果たすとは到底思えない。つまり、彼女は太陽の下を歩いてきたことになる。


「人質は無傷で、害虫は生きている状態で捕獲。そう命じられていますので余計なことはしないでくださいね」

「いかなる状況でも命令を遂行するのがプロというものでは?」

「それもそうですね。では雑談はこのくらいにして仕事に移らせていただきますね」

「もう少し雑談に興じてくれてもいいのに」

「無駄話で時間を稼ぎ、機会を作ることが貴女のやり方だと聞いております。長話をして足をすくわれかねません」


 掬われてくれてもいいのに。溜め息と共に吐き出した要望はバトントワリングのように回ったモップの音により掻き消される。これは白い女の耳にまで届いていないな。届いたところで承諾してくれなさそうだけれど。

 鋭く風を切る音がこの場を支配する。房糸が一糸乱れず波を打つ。振り回されている物はモップだ。ただの掃除道具。こんなものを振り回すなんて小学生くらいだし、格好なんてつかない。はずなのに、白い女が扱うとこんなにも美しく見える。


「それでは、掃除を開始します」


 孔雀が他の動物に向けて美しい羽を広げるのは縄張りを主張する威嚇行動。しかし、他の動物はその意図を察することができず、見惚れて足を止める。白い女の行為はそれに似たものを感じる。

 そんな余計なことを考えていたのが間違いだった。気が付けば白い女は目の前にいて、視線の先にはキィがいた。柄にもない咄嗟の行動。そして、私ともあろうことがこういうときばかり上手くいく。


「う゛っ、たあ……」

「おや、事前に聞いていた情報と違いますね。身を挺して他人を守るとは」


 女子高校生の標準体型である私の身体にすっぽりと収まる小さな身体。合計体重およそ60kg超え。意外とある重みだが、白い女が振りかざしたモップに容易く飛ばされる。私たちの衝突に耐えきれなかった土壁は私たちを受け止めることができず、室内に破片が飛び散る。

 あの女、人間をゴルフボールが何かだと勘違いしてないだろうか。壁をぶち抜きやがった。舌打ちをして口調荒く言ってやりたかったが口から出てくるのは声ではなく咳だけ。幸いなことにツナグの魔法の効果が残っていたようで外傷が増えることはないが、衝撃は遮断されない。

 つまり、物凄く痛い。


「さい、あく」

「人質は無傷で捕らえなければならないとお伝えしたばかりですが」

「っ、それなら……手を出す前に口で交渉するところから始めたら」

「彼から同属だとお聞きしていたものですから」

「はあ?」


 腕の中で泣きじゃくりながら私の身体をぺたぺたと触るキィの頭を撫でる。怖い思いをして小さな身体を震わしているのに人の心配をする余裕があるとは大したものね。これは将来有望だ。。痛いことが嫌いだと散々言っているのに、言ったそばから酷い目に遭うのだからやってらんない。

 ヒールの硬い音が鼓膜を震わせる。こんな足場でよくもまあ耳当たりの良い音を立てられるものだ。悲鳴をあげて駆けつけようとするアミィたちを制し、キィの頭を抱きかかえて地面に寝転がる。ああ、地面が冷たくて気持ちが良い。それに骨に響くようなこの振動も、この怪我さえなければ心地良く感じていたはず。怪我をしている今では痛覚を刺激してきてただただ不愉快なのだけれど。


「運動能力は酷く劣っているという話でしたが、その幼子は無事なようですね」

「アルビニズムの人は神秘的な容姿から観賞用として求められることもあるけれど、血肉を食らえば不老不死になれるという墓場を荒らされることもあるとか」

「それがなにか」

「その反応、きみもそういう目に遭っていた感じだ。なのに人買いに手を貸すんだ」

「…………」

「子どもたちよりも惨めね。そこまでして生きたいの?」


 我ながら雑な煽り方である。これで反応してくれるならとっても扱いやすいのだけれど、彼女はこの手のものに乗ってこないだろう。案の定不発した煽りに白い女は深い溜め息を吐く。

 そして、白い女は言う。腹を抱えて、大笑いしたくなるようなことを。緊迫した空気の中で本当に笑うことはしないが、まさか同じ日に二度もこんな気持ちになるとは思わなかった。もっとも、一度目と二度目では笑いの意味が異なるが。


「神の域に達する脳というのも大したことないのですね」

「とんでもない過大評価をされたものね」

「壱檻とはそういう存在なのですよね」

「どこで何を聞いたのか知らないけれど、解釈を間違えている。どれだけ正確な知識を得ていたとしても、誤った解釈する。そしてそれが正しいものだと信じてやまない。そんなことしていたらいつか痛い目をみるわよ」


 何を以てそう評価したのか、想像がつかないわけでもない。だからこそ、言わせていただこう。

 人間が神の域に達することなんてできるわけがない。夢物語もいいところ。理想を追い求めすぎて現実が見えていない証拠だ。なんて馬鹿馬鹿しい。

 などという事を矢継ぎ早に話すが白い女は表情を変えない。確信する。彼女は私の雑な煽りに対して適当な嫌味で返しために言っただけで、壱檻がなんだとかその類の話に興味はないようだと。まあ、確信をしたところで今更私がどうこうする必要もないのだけれど。


「例えば今とか」

「もしかして、先程のもので頭をぶつけてしまいましたか?」

「残念ながらこの程度の衝撃で思考が狂う脳はしていないの」


 離れたところにいる子どもたちに左手を横に振り、端に寄るように伝える。声を張ることがしんどいので無言の合図だったが、ファルが汲み取ってくれた。足に根が生えたように動けなくなっているアミィの肩を抱き、今すぐにでもこちらに駆けつけたそうにしているシーナやサシェに声をかけて端に寄る。察しの良い男だ。

 一安心してからキィを腕の中に収めながら地面に寝転がる。感じ慣れた地響きに身を委ねる。同時に聞こえてくる轟音。細い道を強引に突き進み、建物を崩壊させ、車体を削る。改造に改造を重ねて過ぎるくらいの丈夫さとはいえ、大事な愛車に傷を残すような荒々しい運転をするなんて珍しい。そんな運転ができるのであればもっと早くに来てほしかった。

 私の言うことが全く理解できないと眉間に皺を寄せていた白い女は予期せぬ轟音に僅かの動揺を見せる。今更、遅い


「時間稼ぎ、終了」


 呟きは破壊音によって埋もれる。唯一聞き取ったキィは大粒の涙を溢れさせながら不思議そうに首を傾げた。器用なものだ。

 白い女は気付く。しかし、先程述べた通りもう遅い。建物を破壊するのも躊躇わず、猛スピードで走り来る大型トレーラーに敵うはずもない。というか、迂回することなく直進してきているせいで結構な建物が崩れる音がしていたけれど大丈夫だろうか。中に住民とかいたら確実に死んでいる。きっとそこら辺は何かしらの対応をしているのだろうから杞憂に過ぎないのだろうけれど。そんな風に、音のする方に視線だけ向けてぼんやり考えていたことを私は公開した。

 あろうことか見慣れたところで目に痛いことに変わりない毒々しい色をした大型トレーラーは子どもたちの住処に突っ込む形で停車をしたのだ。

 最低、最低すぎる。雨風凌げる、子どもたちの思い出がつまった住処に大型トレーラーを突っ込んだことをじゃない。私の身体ぎりぎりのところで停車をさせたことが最低すぎる。急ブレーキの音が間近で鳴るものだから鼓膜が悲鳴をあげたし、瓦礫が飛んできた。運転手がイオンでなきゃ、私は間違いなく轢き殺されていた。


「萩野! 生きてるか!?」

「たった今、轢き殺されそうになったわ」

「よし、生きてるな!」

「あー、どいつもこいつも人の話を聞かないなあ」


 運転席の窓から目に痛い赤い髪が出てくる。焦りを孕んだ声色で聞いてくるので正直に、今の一瞬が一番死を身近に感じたと文句を言う。だがしかし、この男は私の反応を見るなり笑顔で安心して見せる。毎度のことだけれど、喋っていれば無事というガバガバ判定をどうにかしてほしい。

 自分の確認したいことだけ確認したら満足し、会話を成立させようとしないイオンでついに私は頭を抱える。子どもたちといい、白い女といい、自己主張が強すぎる。もう少し言葉のキャッチボールというものをしてほしい。


「この世で最も偉大となる道具も相手次第ではガラクタってことだな」

「運動が苦手な私が唯一できるのが言葉のキャッチボールなんだからもう少し楽しみたい」

「イオン相手、ガキ相手……それに道具相手に会話なんて期待するだけ無駄だ」


 濡羽色の短い髪を揺らして、毒々しい色をした大型トレーラーから降り立つ近。砂埃が上がっている中、美しい髪が煌めいている。私の横に並んだ近は冷めた目で見下ろし、私の右腕を見るなり眉間に濃い皺を刻む。そして、白い女を睨みつける。まさに鬼の形相。おぞましいほど美しいそれに腕の中にいたキィが小さな悲鳴をあげ、息を呑む。

 ゆったりとした足取りで白い女の方へ向かう。近は隠し持っていた三節棍を手にし、鎖の擦れる音を鳴らしながら揺らす。獲物から目を離さない獣のように鋭く睨みつけ、三節棍を連結させると同時に駆け出す。近って優白並みに血の気が多い気がする。

 白い女に襲い掛かる近の背を見守りながら、頭上にかかった影に溜め息を吐いて視線を向ける。そこには柔和な微笑みを浮かべている、今の私が最も平手打ちをしたいと思っている男、ツナグがそこにいた。


「疲れた、非常に疲れた」

「随分と無茶をしましたね」

「無茶をさせたのは誰よ」

「そんなに怖い顔をしないでください。今痛みを除きますから」


 風呂上がりの一杯をとでも言うように差し出されたグラス。中身は形容しがたい色をした液体が入っていた。ありとあらゆる薬草を混ぜ込み、隠し味に込められたツナグの魔力。見た目、喉越し、そして味、全てが最悪な薬だ。良薬は口に苦しとはよく言ったものだ。最悪に最悪を掛け合わせたような味をしているだけあって効果は絶大である。

 受け取ったグラスを左右に揺らし、水面に波を打たせる。液体特有の軽快な音は少しも鳴らず、重たげに動くだけ。これは最早液体というよりゲル状の何かではなかろうか。見てほしい、このキィの顔を。無邪気に笑うか素直に怯えて泣くばかりだった表情筋が全力で拒絶を示している。


「……この薬、この世の地獄全てを混ぜたような味がするから嫌い」

「好き嫌いはよくないですよ」

「ツナグ、治癒魔法使えるじゃない。近や笑流に使うように私にも」

「それ、本気で言ってますか?」

「心から言っている。ただ本能と身体は拒絶している」

「懸命な判断です」


 蜂蜜を入れてもまろやかにならず、アイスにかけても苦味が少しも緩和しない。薬を嫌う幼児に対してとるありとあらゆる手段を試したが少しも改善することなく、むしろ何かを混ぜるほど味を更新していくこれのお世話になるのは何度目だろうか。少なくとも片手では数え切れない。それだけ飲んでいるけれど、未だに慣れることのない味と喉越し。最終的に食材を殺すことが申し訳ないからと何もせず飲み干した笑流を見て私たちはツナグの作る薬に悪足掻きをすることをやめた。

 しばしの睨めっこをした後、鼻を摘んで勢いよく流し込む。吐き気を催すような味に耐え、息が止まりそうな喉越しに耐え、意識が朦朧とする刺激に耐え、なんとか飲み干す。溢れてきた涙だけは、この時ばかりは堪えることをしない。


「その薬は強力な鎮痛剤であると同時に治癒力を高めます。ただし」

「傷病そのものを治せるわけではないので医師による適切な治療は必ず受けましょう、でしょ」

「よくご存知で」

「もう何度目かのやりとりだからね。この子をお願い」


 重たい身体に鞭を打って起き上がる。そして、ツナグにキィを押し付ける。不安げな表情を浮かべるキィの頭を撫でて、胡散臭い男だけれど危ない男ではないから大丈夫と頭を撫で、その手をひらりと振る。幼い子を抱っこするなんて機会がめったにないツナグは押し付けられた動揺を露わにする。そして戸惑いを隠せない手つきで恐る恐るとキィを抱き上げた。

 絶えず浮かべられている微笑みを打ち消し、珍しい顔させることができた私はスキップをしたいくらい気分が良くなった。こんな状況でなければしていた、そして顔面から転倒していた。実際は重たい足取りで、身体を引きずるように、喉を鳴らして笑うイオンのもとに行く。


「……はあ。今だけ、イオンが赤い悪魔に見える」

「治してやるんだからむしろ白衣の天使だろ」

「天使って柄じゃないでしょ。笑流を見て出直してきて」

「笑流を見た結果、俺は一生天使にはなれないことが分かったわ」


 促されるがまま、笑流が用意してくれた椅子に腰を下ろす。お礼とともに頭を撫でようと手を伸ばすが、寸前で止まる。今、私は手どころか全身が煤まみれ泥まみれとかなり汚れている。こんな手で触れて、笑流の綺麗な髪を汚れるなんてとんでもない。だというのに、笑流は頬を膨らませて寸前で止まった手に頭を擦り寄せてきた。灰色がかった青い髪が煤で汚れていく。それでも笑流は気にせず、満足気に笑う。この仕草を見たイオンは真顔で頷く。


 閑話休題。


 イオンは固定された右腕に触れる。そして見事な固定だと口笛を吹く。技術屋のイオンに褒められるとはなかなかなことだ。そう思っている間に固定を解かれる。ツナグ印の薬を飲んだ後だから痛みは一切感じられないけれど、折れた腕を動かされるのはあまりいい気分がしない。それをいち早く察した笑流は駆け足でトレーラーの中に戻り、そして出てくる。その手には一口サイズのチョコレート。なんてできた子だろう。


「意外と綺麗に折れてるな。これなら整復でなんとかなる」

「本当に言ってる? ピンヒールで骨を砕かれたと思ったんだけど」

「そんな骨折だったら簡易的な魔法じゃ痛みを取り除けてなんかいない」

「黙っていただけではなく魔法に手を抜きやがったのね」

「失礼ですね。鎮痛効果はあくまでもおまけ。本来の目的は防御ですよ。発動後は無傷でしょう」


 チョコレートを頬張りながら、いじくり回される右腕から気を逸らす。イオンの診断を聞いて確信を得る。舌打ちをし、あの人形野郎と罵声を漏らす。次いで、ツナグの魔法を愚痴る。すると、音もなく背後にツナグが立っていた。細腕の中にキィの姿はない。どこにやったのよと睨めば、いつもの笑顔を浮かべて指を差す。辿るようにその先を見ればクラム・ハープに抱き締められる子どもたちの姿があった。


「幼い子の扱いが分からなくて早々に手放したのね」

「笑流のような扱いやすい子どもならまだしも、あのような子はねぇ」

「子どもらしさという点において語るなら笑流は大人びている方だから求めるハードルが高すぎるというものだよ」

「笑流が大人びている……?」

「わたしは大人びているんです、えっへん」


 こういうところは子どもっぽいけれど、という言葉は控えておこう。手を腰に当てて胸を張る笑流を優しい目で見守る優白がすぐ傍にいるからね。余計なことを口にして吠えられたくない。近に余計なことしか言わない口と評価された私の口もこういうときは空気を読むのだ。

 ところで、だ。そんな失礼な評価を下した近は今どうしているのだろうか。ツナグ印の薬のせいか、それとも知らぬ間にイオンが麻酔でも打ったのか、感覚が麻痺してきている右腕を他人事にして目をやる。


「近が劣勢、だよね」

「見た目だけで言うとそうですね」

「やっぱり戦闘を生業にしている相手には敵わないのかな。ほら、近曰く護身術程度のものらしいし」

「そうでしょうか。戦闘スキルの高低や経験値の有無というよりも、己の美しさを引き出し方が異なるだけだと思いますが」

「双方とも美しく戦っているということ? こんなときに、わざわざ?」

「意図的に計算して行っているのか、それとも身体に染み付いた動きなのか。それは私の知りませんがね」


 確かに、と納得できるところはある。交わる武器が連結可能な三節棍とモップなんてところはさておきとして、完璧な美を形に男とした神秘的な美を体現している女の戦いは舞のように美しい。一瞬にして半壊した子どもたちの住処は二人な美を際立たせる背景となる。この場面だけを切り取ると観客になった気分になる。

 けれど、実際はそうも言っていられない。無傷で涼しい顔をしている白い女に対し、息を切らした近は服も皮膚もところどころ破れ、血を滲ませている。地面に散った赤い花は近の血だろう。


「完璧な美対洗練された美って感じね」

「どういうことですか?」

「近はどんな姿になっても、どんな所作をしようと、綺麗でしょう。近がすればそれが美しいのだと神が判定を下すように。対してあの女は指先から、毛先の一本まで洗練された美しさなの。穢されることが罪となるように、強迫観念にかられそうなくらい」

「なるほど……つまりわたしたちの近がすごいってことですね!」

「うん、そうだね」

 

 クラム・ハープたちの方に視線を向ければ、彼女たちは揃ってこの光景に文字通り釘付けとなっていた。逸らしたくても逸らせない、瞬き一つすら許されないという気持ちを味わっていることだろう。このまま見続ければ良くて性癖を拗らせる、悪くて狂することになるだろう。これが正しい反応、あるべき姿。あれを見てこんな風に観賞し、雑談している方がおかしいのだろう。

 とりあえず、狂されたら面倒なので早くあれをなんとかしろと暇そうにしているツナグに目で訴える。察したツナグは肩を竦め、背を向ける。どうやるのだろうかと観察していると、ツナグは釘付けとなっているクラム・ハープや子どもたちの顔の前で手をひらつかせる。無反応な姿に駄目だこれはと溜め息を吐き、人差し指をくるりと回す。次の瞬間、彼女たちの身は宙に浮く。


「とりあえず、こんなもんだろ」

「ありがとう。いつもながら見事なものね」

「整復中によくもまあ回る舌だな」

「褒め言葉かしら」

「お好きにどうぞ」


 指揮者のように指を振り、クラム・ハープたちをトレーラーの中へ収納しているツナグの様子を見守っているとイオンに左肩を叩かれる。どうやら整復が終わったらしい。確認すると右腕は清潔な包帯でしっかりと固定されていた。イオンは右橈骨動脈の触知をしながら指先の痺れの有無を問う。開閉を繰り返す。問題ないことを伝えて、骨折の処置が終了する。

 この世の地獄味を飲み干したかいあって、処置中の痛みは一切感じられなかった。そう伝えれば不幸中の幸いだなとイオンは笑う。やれやれ、全くだよと頷きながら立ち上がれば笑流はすかさず椅子を片付ける。本当によくできた子である。


「さて、イオン」

「近を回収して撤退だな」

「その通り。増援が来る前に逃げるよ」

「あの女、単独タイプって感じじゃないか?」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

「ふうん。まあ、萩野がそう言うってことはそうかもしれないってことなんだよな」


 なるほど、なるほど。そう、数度頷いたイオンは運転席に着く。そしてエンジンをかけ直す。トレーラーの中に押し込められ、よくやく我に返ったシーナたちはツナグから少しでも距離を置くようにしながら私のもとに来る。

 どういう状況だ。というかさっき空を飛んだぞ。みたいなことを次から次へと聞いてくるシーナたちに適当な相槌を打ちながら考える。さて、どうやって近を回収しようか。打楽器の演奏がごとくリズミカルに打ち合う二人の間に割って入るなんてできるわけがない。

 煤まみれのジャージを摘み、不安げな表情を浮かべる笑流の頭を手の甲で撫でる。ほんのりと、表情を和らげた笑流は腰に抱き着いて腹に顔を埋めた。顔が汚れるよと言っても離れないので好きにさせることにする。きっと離したら笑流の鼻先は黒く染まることだろう。そんなやりとりをしていると、ハンドルに肘を乗せ、頬杖をついていたイオンが唐突に物騒な質問を口にする。


「あれ、轢いても死ななさそうか?」

「死なないと思う。なんたって、太陽の下を歩くアルビニズムの人だからね」

「そりゃ良かった」

「……ちょっと待って、イオン。何をしようと」

「ん? 萩野のご希望通り、早期撤退だけど」

「待て待て待て。それでなんで運転席に」

「安心しろ。俺の運転技術は一流だ」

「それでは私は助手席に」

「ツナグ、そこに座るな。こういうときにきみは煽ることしかしな」

「イオン、発進です」

「ぶち抜いてやらァ!」


 この二人の付き合いがどれくらいのものは正確には分からないけれど、そして出会い方も聞いていなけれど、最初に合流したのはこの二人である。魔法と科学、正反対のものを習得している二人は物事の考え方からアプローチまで異なっている。なのに、なぜかこういうときはやけに意気投合する。イオンが閃き、ツナグが煽り、イオンが実施し、ツナグが事態を悪化させる。つまり、手の付けようがない。事前に止められるものなら止めたいけれど、それが簡単にできるものなら苦労はしない。

 外に出る頻度が高いから私がトラブルを招くみたいなことを言われるけれど、それを言うならこの二人はトラブルを自ら起こしている。どちらの方が質が悪いのか、その判断は巻き込まれる者に委ねるとして、だ。


「クラム・ハープ、そこの子どもたちをしっかり抱きとめておいて。ここまできてそれすらできなかったらきみは偽善者にすらなり損なうよ」

「え、えっ」

「笑流!」

「合点承知之助です!」


 誰だ、そんな言葉を教えたのは。こんな場面で、そして焦った表情を浮かべる様子から笑流はふざけてなんていない。大真面目に言っている。そしてあろうことか優白が呼応するように吠えた。笑流の将来のために後で訂正しよう。それから犯人がどちらか問い詰めよう。

 ろくでもないことばかり閃いて、とんでもないことばかりしでかす二人を睨む。私の視線なんて気付きもしない二人は豪快に笑いながらハイタッチを交わす。それと同時に車体は大きく揺れた。

 そうだ、今はこんなことしている場合ではなかった。私は左手で手すりを掴み、転倒しそうになりながらもただ一言、近が確実に反応する言葉を叫ぶ。


「近ちゃん!」

「こんなときまでふざけた呼び方すんじゃ……はあ!?」


 青筋を立てた近は白い女を薙ぎ払い、私を怒鳴るためだけに振り返る。そして、迫り来る毒々しい色をした塊が迫り来ることに珍しく悲鳴をあげていた。それでも大型トレーラーは止まらない。むしろ加速していく。

 イオンの宣言通り、小さくて脆い建物はぶち抜かれる。というか、破壊される。ここまでくると、よくもまあ一度目の突進で全壊しなかったなと感心した。






「次、俺を轢き殺そうとしてみろ。その前にお前の血という血の全てを抜いてやる」

「いやん、熱烈的な求愛行動に俺は酔っちゃいそう」


 静かな怒声に黄色の悲鳴。この温度差に震え上がるクラム・ハープに激しい揺れや破壊音に悲鳴をあげる子どもたち。唯一ファルだけは声を上げることをしなかった、というよりも住処の全壊に呆然として声も出ない状態という様子。それでもキィをしっかりと抱き締めているあたり兄の鑑といったところか。


「あー! 数少ない野菜売っているお店が!」

「オレが作った仕掛けがあ!」

「そこ、人、人住んでるから、あーー!」

「へい、オーディエンス! 盛り上がってるかい?」

「こちらは上々、とっても盛り上がっていて最高ですよ」

「うはは。それはなによりだ」


 トレーラーの衝突によりぼろい建物が次から次へと破壊されていく。その度に子どもたちが声をあげる。悲鳴の内容を聞く限り、住民がいるようだ。確かに見覚えのある景色。そう、近と寄った澱んだ目をした店主のいる店だ。それと子どもたちと鬼ごっこをした道。これ、何人か轢いているのではなかろうか。

 頬を引き攣らせて馬鹿みたいな騒ぎ方をしている2人に目を向ける。イオンの言葉にご丁寧に反応するツナグは指揮者のように両指を振り続けている。その指先は粒子が煌めく。おそらく、何かしらの魔法を使っているのだろう。この状況で使うとしたら……。


「おい、なんでバカの横にアホを座らせてるんだよ」

「止める間もなく座ったのよ。多分だけれど、行く先々にいる人たちを魔法で移動させてるんじゃないかな。轢かないように、きっと」

「願望が混ざっていないか?」

「これ以上にないくらい混ぜているよ」


 危うい足取りを見ていられなくなったとでも言うように、近が私の腰に腕を回して支えてくれる。血が付きそうだと思わなくもなかったが、このジャージは十分に汚れているから今更血の汚れ一つや二つ増えたところで代わりないかと口にするのをやめる。代わりに、傷つく度に磨かれるのねと笑っておいた。そして結構な勢いで頭を叩かれた。

 私と近がしょうもないじゃれあいをしている間に笑流は消毒液とガーゼを両腕いっぱいに持ってくる。揺れない間なんてない激しい走行の中、よくもまあ危うげもなく歩けるなと感心する。ここで笑流が転倒なんてしたら優白が怒りそうだから下手に動かないでほしいという本音もある。ちなみに怒られるのはこんな運転をしているイオンか、消毒液を必要とする状況を作った近か、それとも笑流に取りに行かせて動かない私か。……間違いなく全員怒られる。


「これ、取ってきました」

「ありがとう、笑流。さ、近」

「あとでつーさんに治してもらうからいら」

「せっかく笑流が持ってきてくれたのよ。ツナグの手が空くまで応急処置にいいじゃない」

「顔、顔が笑ってる。お前、面白がってるよな」


 そんなはずがない。私を助けるために、痛いことを嫌う私が早々にイオンの治療を受けるために、時間を稼いでくれた近の傷口に消毒液を塗り込んで楽しむ悪趣味を私が持っているはずなんてない。と、言ってみせてもこういうときばかり仕事をする表情筋のせいで説得力がないらしい。思い切り頬を抓られる。その隙にガーゼに消毒液を浸していた笑流。片手は私の腰に、片手は私の頬に、近の両手が塞がって絶好の機会だと判断した彼女は可愛らしい掛け声と共に容赦なく腕の傷口にガーゼをあて、近が驚きの声をあげた。

 一度目をやってしまえば二度目なんて同じことだと意を決した近はそのまま大人しく笑流の手当てを受け始める。なんて微笑ましい光景と思えたのも束の間。あろうことかこの男、消毒液が染みるのを耐えるように私の腹を摘みやがる。的確な嫌がらせに抗議すべく思いっ切り足を踏んでやろうと、右足を上げたところでトレーラーは一際大きく揺れた。


「なんてことするんですか!」


 何事かと運転席に目を向ければファルがイオンに掴みかかっていた。なるほど、これは急ブレーキもかけるはずだ。

 私たちは顔を見合わせる。どうしましょう。止める? 面倒臭いな。声なきやりとり、つまりアイコンタクトで話し合い、少しの間見守ろうという結論に至る。


「僕の、僕たちの家を、皆の家を」

「経年劣化をした欠陥住宅なんて更地にした方がましだろ」

「なっ、貴方たちにはボロボロでみすぼらしい家かもしれませんが、僕たちにとっては大事な場所で」

「安心しろ。壊した分は事が片付いたら俺が直してやるって」

「そういうことを言いたいんじゃないんです!」


 クラム・ハープを筆頭に子どもたちは怒るファルを止めようと声をかける。けれど、それは他の子どもたちも抱いていることで、かける言葉が弱々しい。まあ、当然と言えば当然だ。

 この町にとって雨風凌げる場所というのは恵まれた環境なのだ。加えて、子どもたちにとってあの場は思い入れがある場所でもある。それを突然、奪われた。しかも、見るも無惨な形にされたとなれば怒りたくもなる。

 だがしかし、それを根無し草の旅をする私たちには共感できない話。更に言うとこのイオンという男、この手の話に関して誰よりも薄情になる。


「あそこには父さんや母さんたちと過ごした、皆で生きてきた思い出が」

「道具に記録を託すなんて、やるべきじゃない」

「僕が言っているのは家の話で」

「家だって大きな道具だ」


 まさに一刀両断。

 感情を込めて、熱を帯びて、ファルの必死な訴えはイオンの冷ややかな声によって切り捨てられる。

 イオンの話は極端過ぎるが分からなくもない。今は無事だから恵まれた環境とも言えるあの住処。地震や台風なんて自然災害が起こればあっという間に崩落する。それだけで済むならまだ良いけれど、間違いなくそれが原因で誰かが怪我を、下手したら死ぬ。ならばイオンの宣言通りに壊したうえで作り直した方が安全だ。この技術屋なら材料さえあれば短期間で有言実行することだろう。壊した家全てとなればそれなりに時間がかかることになるが、今は考えないものとして。

 なんて言ったところでそう簡単に切り替えられるものでもない。感情とはとても厄介なものである。

 イオンはハンドルに肘を乗せ、頬杖をつく。唇を噛み締めて今にも泣き出しそうなファルの様子に目を細める。


「生きていたいなら覚えておけ」


 そんなファルに、顔を歪める他の子どもたちに。太陽を思い浮かべる灼熱の赤に似合わない冷たい目を向けて、イオンは淡々と告げる。


「道具に執着して捨て時を間違えるな」


 静寂に包まれる。

 誰も口を開こうとしない中、私は胸元に垂れ下がるペンダントをいじりながら考える。そして思い至る。

 確かにイオンの考え方は間違っていない。経年劣化により更に脆くなった建物は危ない。が、しかしだ。それをどうするかを決めるのはイオンではない。


「とはいえ、所有者の許可なく壊すのはどうかと思うよ。この町じゃ人買いよりもイオンの方が悪人かもね」

「ははっ。そのときはこう返すだけさ。先に喧嘩を売ったのはそっちだ、俺はそれを買ったまでだ」

「トレーラーの窓を割ったら家を壊されるとか、思いもしなかっただろうね」

「人の物を壊すときは自分の全てを壊される覚悟を持つことだな」


 窓を割られたことについて根に持っていることがよく分かる。私も笑流の髪を引っ張った輩については許していない。なので、その者に対しては仕返しで済ませよう。だが、子どもたちには罪がない。……いや、私や近が襲われてるし、ドラム缶が坂道を下って追いかけてくるとか鉄パイプの雨とか命の危険を感じる仕掛けもあったので無罪ではないか。しかし、それを差し引いても私はこの子たちに恩がある。あと、何より意外と気に入っている。

 なので、イオンに言いくるめられて手を離したファルの代わりに目に痛い赤い頭を小突く。素手で小突くと私の手が痛い思いするのでその辺にあった雑誌を丸めて勢いよく。

 私の攻撃は予想していなかったのか、イオンはその衝撃に耐えることできず顔面をハンドルにぶつけていた。同時に鳴り響くクラクション。


「馬鹿なことしてないで先に進んで。追いつかれるよ」

「おま、お前な!」

「開けた道に出たし、もういいでしょ」

「雑誌って、雑誌っておい。せめて肘で小突くとかさ、他にやり方ってものが」

「あ、ファルもやっておく? 壊した住処と置いてきたパンを返してあげることはできないけれど、仇討ちの機会はあげられるから」

「え、い、いや、それは」


 目を丸めて狼狽えたファルは頭と両手を左右に振って遠慮する。じゃあ代わりにシーナかサシェがやるかと声をかければ二人も一斉に頭を横に振る。その隅でシャドーボクシングをして身体を温めているアミィの血の気の多さを見習うべきだと思う。

 ちなみに、やる気満々のアミィに声をかける前にイオンがトレーラーを再び走らせ始めたので実行することはできなかった。残念。

 先程までの爆走が嘘のようにゆったりと走り始めるトレーラー。それでも揺れは大きいのでこのまま立っていたら転倒するよとファルたちの背中を押してソファーに座るよう促す。素直にソファーに座った子どもたちは途端に目を輝かせる。柔らかい座り心地がお気に召したようだ。対して近はというと子どもたちの目が輝くほど、顔が歪んでいく。どうやら汚れている子どもたちがソファーに触れることが嫌らしい。なんて心が狭いのだろう。せめてもう少し顔に出さない努力をしてほしい。


「で、どうやってクラム・ハープと合流したの?」

「え、あ、あのこの流れで話が進むのですか?」

「というか、迎えに来るのが遅い。この子たちが来れる場所ってことはそう遠くないはずなのに遅い」

「その文句はつーさんに言って。ティータイムを終えてからつって動きやしねえ」

「そこは引きずるなり置いていくなりしてよ」


 近の素直な表情筋を咎めるべき、白い頬を抓る。腹立たしいくらい良い肌艶。爪跡でも残してやろうかと思うと同時に、察した近により手を叩き落とされる。叩かれたところが薄らと熱を帯びたので冷ますように振りながら未だ落ち着きのないクラム・ハープに目を向ける。

 私と目が合ったクラム・ハープは大袈裟なくらい肩を跳ねる。そして質問に対してアップルグリーンの目を忙しなく左右に動かす。本当に落ち着きのない人だ。可哀想だとは思うけれど、この場においてそんなクラム・ハープに優しく声をかけたり、落ち着くのを待ったりする人はいない。話が進んでいくことでそれを察したのか、視線を落として呟くように話し始める。


「連れ去られるシーナを見て、私はしばらくの間動けなくて。それで、ようやく動けたときには大きな身体をした男性に担がれる貴女の姿を見かけて」

「助けを求めたってことね。……ねえ、やっぱり動き始めるの遅くない?」

「そうでもありませんよ」

「ツナグが意図的に、合流するタイミングを調整してたとしか思えない」

「有意義な時間を過ごすため、必要なことをしていたまでです」


 真っ黒な目を私に向けて、柔らかに細める。片手に持ったティーカップの中身はアップルティーだろうか。甘酸っぱい香りがここまで漂ってくる。その香りに刺激された腹の虫が鳴き始める。こんなときまで食欲旺盛か、なんて視線がすぐ傍の麗しい濡羽色の瞳から突き刺さるが無視をしよう。

 さて、それよりも私はツナグに問いたい。その有意義な時間とやらは誰のために何を目的として設けられたものなのか。

 その質問をするために開かれた唇から発せられたのは、あっ。という一文字。そして脳裏を過ぎる昨晩の出来事とクラム・ハープの言葉。冷や汗が背筋を伝い、頬が引き攣る。

 私の反応をすぐ傍で見ていた近が深い溜め息を吐いてから尋ねる。まるで、今度は何をやらかしたのだと私を責めるように。なんて失礼な聞き方だろう。私がいつも何かやらかしているみたいじゃない。


「今度はなんだ」

「今の会話で思い出した」

「何を」

「トレーラーで町中を爆走するっていう逃走手段、正解だったのかも」


 まあ、やらかしただろうと言われたら否定できないけど。

 近の質問に答え終えると同時に、車体は大きく揺れる。慣性の法則に従って、ソファーに座っていた子どもたちは進行方向に向かって倒れていく。積み重なるように倒れた子どもたちを横目に急ブレーキをかけたであろうイオンに近付く。そして、踏みっぱなしのアクセルを見て察する。イオンはブレーキをかけたわげではない。それどころか、今でもアクセルをベタ踏みしている。にも関わらず、トレーラーは動かない。

 フロントガラスのその先に釘付けとなっているイオンの視線を辿るように正面を見る。そして額に手を当て、先程の近に負けないくらい深い溜め息を吐き出す。


「……なあ、萩野。その思い出したっていうの、大きな身体をした男性って話とかじゃないだろうな」

「残念なお知らせよ、イオン。まさにその通り。褐色肌をした巨体の男がいたの」

「それは黒い結膜に赤い瞳を浮かばせ、額に角を生やした巨体の男かな」

「あー、どうだろう。そこまで詳細には見てなかったわ。……その特徴を聞くとまるで鬼みたいだね」

「そうだな、鬼みたいだな。というか、鬼じゃないと説明がつかないよな」


 成人男性の平均身長を170㎝程度だとして、頭一つ分以上高く、横幅も一回りは大きい巨体が大型キャンピングトレーラーの前に立ちはだかる。伸びてきた大きな手がトレーラーを掴み、肉食動物のように鋭く尖った歯をぎらつかせて巨体の男は吠えた。タイヤが甲高い音を鳴らし、男の咆哮と混ざる。耳障りな音に車内にいる誰もが耳を塞いだ。

 イオンは負けじとアクセルを何度も踏み直すが前には進まず、苛立ったようにクラクションを荒々しく鳴らす。三つ目の音の参戦に耳が痛くなり、遅れながら私も耳を塞ぐ。

 怪力故成せる業の一言では片付けられないこの状況。この巨体の男が人間ではないと断言してもいい。フロントガラス越しに、太陽の下でこの巨体の男を観察し、昨晩の状況を思い出して背筋が凍る。

 この男に首を絞められて気絶したのか。首の骨、よく無事だったわね。……いや、実はひびが入っているという可能性が捨てきれない。後でイオンに診てもらおう。


「鬼って実在したのね」

「俺、鬼って山とかそういうところに住んでいるものだと思ってた」

「それは偏見というものですよ。種族によって適した環境というものはあります。同時にどのような種族にも個性というものがあります。つまり、居たい場所に居る」

「そういうものなの?」

「はい。案外身近にいるものですよ」


 助手席に座るツナグの説明に私とイオンはそういうものなのかと理解を得る。テクノロリアでは人間以外の生き物、正確には魔力を有する生き物がほとんどいないから知らなかった。

 鬼についての雑談に花を咲かせていると、慌てた声をあげた近の腕が腹部に回る。何よと振り返ると同時に車内が傾く。近の腕がなければ間違いなく頭をぶつける形で転倒していたし、なんなら支えがある今でも危うくて慌てて近にしがみつく。顔を上げて目に入ったのは転倒しかけた笑流が必死に両手をぱたつかせる姿。耐えきれず倒れていった笑流の先には当然優白がいて、彼女の愛らしい顔は硬い床ではなく柔らかな白い体毛へ埋もれた。


「あぷっ……えへへ。優白、ありがとう」

「ぎゃあああああ俺の愛車ァ!」

「……待って、ちょっと待って、これ何するつもりで」

「どう考えても投げるつもりだろ」

「ですねぇ」


 反応はそれぞれ。言うまでもないけれど、クラム・ハープや子どもたちは混乱に陥って悲鳴をあげていた。しかし、イオンはそれに負けず劣らず大きな悲鳴をあげていた。大事な愛車が横転させられる、のではなく。上空に投げられようとしているとなれば当然の反応か。

 イオンはハンドルから手を離し、助手席に座るツナグの肩を揺すると、らしくもない行動をする。そして、更にイオンの口から珍しいん言葉が飛び出す。


「ツナグ、魔法、魔法を使え」

「えー。トレーラーに魔法をかけるなと散々怒ったじゃないですか」

「時と場合!」

「あらゆる状況を想定してこのトレーラーを改造しているのに、飛行機能はないのですか」

「んなもの、可愛い可愛い愛車に付けるわけないだろ」

「この機会にえいやと付けましょう。空飛ぶトレーラー、かっこいいじゃないですか」

「なんでもいいから早くして。このままだと全員潰れるよ」

「はぁい」


 改造に改造を重ねてもともと重量のある正規品よりも更に重たい大型キャンピングトレーラーが投げられるという予想外の展開にイオンの思考回路がぐちゃぐちゃになっていることが手に取るように分かる。このままでは混乱したイオンとのんびりしたツナグによる一向に進まない会話が続くだけなので口を挟む。

 ツナグは肩を竦め、やれやれ仕方がないと言いながらティーカップに口をつけたまま、フィンガースナップをする。パチンと音が車内に響くと同時に宙に投げられたトレーラーは重力に従って落下する途中で制止する。地面に対して垂直となったトレーラー。家具類は固定してあるが、小物類が音を立てて散らばっていく。これは後片付けが大変そうね、現実逃避をしたくなる。


「あ、あの」

「何、今きみの相手をしている余裕ないのだけれど」

「下、えっとこの場合は前ですか? とにかく見てください!」

「え。……ねえ、イオン」

「今度は何だ、俺はもう何も聞きたくない」


 いざ魔法をかけられるとそれはそれで心配なのか、できれば魔法を早めに解いてほしいと言うイオンの無様な狼狽っぷりを現実逃避をしていると子どもたちと一緒にソファーに倒れ込んで身動きが取れなくなっていたクラム・ハープが声をあげる。

 窓に手を付けて必死に何かを伝えようとしているクラム・ハープに従ってフロントガラスの方に目を向ける。そこには目を覆いたくなる光景があり、イオンの肩を叩いて指を差す。イオンはというとこれ以上の予想外の出来事を受け入れたくないのか、ハンドルに突っ伏していた。


「あの鬼らしき男、大きな槍を構えてるんだけど」

「あれは……貫かれますねぇ」

「ツナグ。最寄りの森に飛ばして」

「いいのですか? 転移魔法は負担が大きいですが」

「あとでイオンが泣きながら修理すればいいことでしょう。鬱陶しいけれど、串刺しにされるよりましよ」

「そういうことでは……まあ、それもそうですね。それでは」


 見ての通り、今のイオンは使い物にならない。となれば、あの槍の回避手段は一つしか残されていない。

 ちょうどアップルティーを飲み終えたツナグに声をかける。ツナグは私を一瞥し、悩む素振りを見せる。いつもなら喜んで魔法を、しかも派手にやるところなのに躊躇うなんて珍しい。悩みの種が何であれ、今串刺しからの落下以上に回避すべきものはない。

 という判断からツナグの心配を無視して早くと促した数十秒もしくは数分後の私は後悔することになるのだが、今の私がそれを知る術はなく。ツナグのフィンガースナップにより視界はぐにゃりと歪んでから暗転した。




「逃がしましたか」

「……ああ」

「そうですか。では、報告に戻りましょうか」

「……ああ」

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