5 心臓が叫んでいる
いつだったか、死の話を題材にした授業を受けた。死とは何か。身体が死を迎えたとき、魂はどうなるのか。死後の世界とはどういうものなのか。その授業に対する反応は様々だった。いつかやってくる死を受容できず不安に襲われた者。中学生という若さもあって死についてイメージができていない者。宗教じみた内容に興味が一切なくて聞いていない者。
ちなみに私はどれにも該当しなかった。どちらかというと私の関心は誰しもが必ずしも死を迎え、それまで持っていたものを手放すことになる。心を、人生をどれだけ充実させていようと……むしろ、充実させていればさせているほど手放すものも多くなる。では、そもそも生きている意味とは何なのか。生まれたときの環境が恵まれていて、欲しいものはなんでも手に入って楽しい人生なら分からなくもない。でも、辛くて苦しくて痛みを伴って。それでも生きようと必死になるのはどうしてなのか。
「そんなの決まってるじゃない。次生まれたときまで息がつまる思いをしたくないもの。だから次の私のためよ。あと、陰で画策するのは楽しいものだから」
野心家な彼女は何を当たり前なことを言っているのだ。自分以外のために生きるわけがない。そんな顔をしながら来世の自分のためといもしない他人のために法を整備しようとする姿には矛盾しているのではないかと思わなくもなかったけれど、輪廻転生について信じている様子を考えたら納得もできた。
その隣で赤色の眼鏡が良く似合う彼はこんなにも魅力的な美女の野心のために使われる人生とか最高じゃないかとかふざけたことを言っていたので無視をした。当然の反応だと思う。彼の言い分は理解できるできない以前の問題だった。
「……したいことはたくさんあるし、一緒にいたい人もいるからじゃないかな。それで満たされているのに、死ぬこと考えるなんてやだなあ」
「お前が知らないことを俺が知るわけないだろ」
無邪気な彼女は豊かな想像力により死を生々しく思い浮かべて顔色を悪くしていたし、目を潤ませながら盲目的に恋している彼氏に抱き着いていた。彼女の場合はそうなるだろうなと想定の範囲内だったので手持ちにあった桃味の飴をあげた気がする。口腔内に広がる甘みに顔をほころばせる単純さには呆れを通り越して羨ましくなった。
顔色の悪い彼女を宥めていた堅物な男は彼女が顔をほころばせたことに安堵する。それからお前は何を言っているんだというように、答えを私に丸投げした。私の評価が高すぎだと思ったが、国の性質上、そして彼の性格上そうなるかと文句を言うのはやめた。彼にとってこの話題に関心はなく、どうでもよいことだからというのもあって思考停止させているのだろうし。
三者三様。それぞれの回答を聞いて、私の中ではしっくりこなかった。けれど、らしいなとは思った。
あいつはなんて答えていたかだけが思い出せない。印象に残らない、ありきたりなことしか言わないから全然覚えていないや。でも、少し考えれば容易に想像できる。あいつはそういう男だから、こうとしか答えないだろう。
「賢い奴らの考えなんて俺には全く理解できないな。死んだ後のこと考えるより、生きている今を一秒でも長く楽しめることに全力を尽くすべきだろ」
後先を考えず、目の前のことしか見えなくなる彼らしい答えだ。この答えもしっくりきたわけではないけれど、なんかこれが1番いいな。薄らぼんやりとしか覚えていない彼の声と雲一つ浮かんでいない青空のように爽やかな笑顔を思い出して、張っていた気が弛んでいった。
「なんて、思い出に浸れるということは私はまだ生きているってことね」
しかも、笑う余裕もあるときた。意外にも強い己の生命力に驚いた。満身創痍の中、小麦粉による粉塵爆発。それを受けて次々と誘爆する木箱に詰められた火薬。その中心に立っていたら私の身体は生きることを諦めて簡単に命を手放すものだと思っていた。
激痛の走る右腕に顔を歪め、動く左手で押さえながら身体を起こす。そこで私は首を傾げる。それなりに威力の高い爆発が起こる計算をしていたけれど、その割に軽傷で済んでいる。というか、ジャージが少し破れていること以外は無傷だ。右腕だってあんな折られ方をしていたのだからもっと痛んでも不思議ではないというのに、激痛は激痛でも歯を食いしばって顔を歪めれば耐えられる程度のものだ。
「どうやらツナグは私の信用を裏切らなかったらしい」
疑問は私の身体を包んでいる光る鱗粉によって解決される。小瓶を地面に叩きつけたとき、小麦粉と共に煌めく粒子が宙を舞っていた。ガラスの破片だと思っていたが、あれはツナグが小瓶にかけていた魔法だったのだろう。魔法と魔術の違いすら理解していない私がこの鱗粉だけでは何の魔法なのか推測することもできないけれど、きっとこれが爆発から身を守ってくれたのだ。それ以外で考えられる要素がない。
記憶を遡れば、いつだったか訪れた国の争い巻き込まれたときツナグはこんな風に光り輝く鱗粉を纏った魔法の壁を張っていた。防御系のものだとかどうとか言っていたけれど、全然理解できなかったので私はやはりそういうものとは縁も素質も無いのだと改めて思った覚えがある。
「多分これ、鎮痛作用もあるのね。だとしたら、消える前に皆と合流しないと地獄が待っているというわけだ」
鎮痛作用がどれくらい持続するのか分からないのでできるだけ早く合流したい。となれば問題はここがどこで、私は誰に連れてこられたのかだ。拘束はされておらず、固くてごわついたベッドのようなものの上に寝かされていたあたり人買いたちのところではないのは確かだ。再び寝転がり、少しの刺激で細かな欠片が剥がれ落ちてきそうな天井を凝視して考える。
粉塵爆発によって人買いたちのもとから脱出することには成功したと捉えて良い。しかし、私は爆発の衝撃によって意識を飛ばしていたので自力で脱出したわけではない。というか、意識があったところで自分の足では逃げ切れなかったと思う。逃げようと一歩踏み出しただけで転倒するくらい救いようのない運動音痴なのだから。
逃げようとして、そこで思い出す。爆発の寸前、私はあの少年と一緒にいた。肉壁一人分でもあった方がましだろうと抱き寄せていたはずだ。近くにいない少年はどうなったのだろう。珍しく他人に優しくしようと思って行動したのだから報われたいものなのだけれど。
「あ、目が覚めた?」
亜麻色の柔らかい髪を揺らした少女が顔を覗き込んできた。くるりと上を向いた睫毛に縁取られた栗色の瞳が煤で汚れた私の顔を映し出す。
この子は誰だろうか。質問に対して返事をせず考えていると少女は寝起きでぼんやりしているのかなと独り言を呟き、ほつれた編み籠から薄汚れた包帯らしきものを取り出す。何をするつもりかしばらく観察していると、少女はその包帯を片手に私の折れた右腕を持ち上げた。
「痛い痛い。ちょっと、ほんとうにいたい」
「動いたらもっと痛いよ。もうちょっと我慢してね」
「動かなくても動かされたら痛いってば……!」
いくら鎮静作用によって激痛が緩和されていたとしても、こうも動かされてしまえば悲鳴の一つや二つあげたくなるというもの。恥も外聞もなく、左手で硬い地面を叩く。それに対して少女は手を緩めことをせず、私の腕を触る。嫌な汗が額に伝い始めた頃、少女のやろうとしたことは終わったらしく解放される。
「大人なのに情けないなあ」
「一応、私もまだ子どもの部類でね。年齢的な意味で」
「そういうのへりくつって言うんだよ」
「……難しいことを知っているようで」
手を腰にあて、頬を膨らませながら喋り始める少女。全体的に器用なのだろう。今にも切れそうな脆い縄で束にされた細い木の枝を添え木に固定された右腕を見れば分かる。固定されるまでの間、あーでもないこーでもないこうだったかなあ、なんて記憶を辿るような発言があったから数はこなしていないことが分かる。それでこの固定具合だから誰かに正しいやり方を学んでいたのだろう。やせ細った手足であれだけ激しく動き回るのだから応急処置の知識だけでもあった方がいいということか。……見るからに顔色も悪く、いつ栄養失調で倒れてもおかしくない身体なのだから骨折1つで命取りになりそうなものだけれど。
固定されるまでの間、激痛で視界は滲んだし悲鳴もあげた。持ち上げられたと言っても包帯を通すために少しだけのことだったから、治療を受けるときはもっと痛みそうだ。ツナグの魔法でぱぱっと治してもらえたらいいのだけれど……無理だろうなあ。憂鬱な気分が増し、起き上がる気力が沸いてこない。両足と左腕を投げ出すように脱力し、後片付けをする少女を横目で見る。あの少年と同じような擦り切れた服を着て、伸びる手足は簡単に折れてしまいそうなくらい細い。亜麻色の髪はべたついているし、色もくすんでいる。肌の色は少年に比べると綺麗だ。
「あの人、蹴り飛ばされても腕を折られても悲鳴をあげなかったんだぜ……」
「そんな大人を泣かせるとかアミィこえー……」
暇潰しがてら少女を観察していると、小さな声が聞こえてくる。声の主を探せば少女の後ろ、正確にはこの部屋の入り口付近にいた。扉のない入り口なので顔を覗かせれば丸見えだし、いくら声を潜めていようと丸聞こえだ。話題の人となっている少女は振り返り、煩いと少年たちを怒る。少年たちはというと怖い怖いと言いつつも本当に怯えている様子はなく、カラリと笑う。こういう光景、小学校で見たことがある。
子犬の戯れのように言い合う少年少女らを見て理解する。つまり私が気紛れに少年へ与えた優しさは無駄にならなかったらしい。
「ここは少年たちの住処なのね」
「ボロボロなところに住んでるなあって思ったでしょ」
「雨風凌げる場所に身を置けるなんて意外と恵まれているなとは思ったかな」
「その通りなんだけど」
「だけど?」
「ちょっと残念。イシアのことをよく知らずそういうことを言ってきたら昨日やられた分を含めて嫌味で返そうと思っていたのに」
少女はそう笑いながらシャドーボクシングのごとく何も無い宙にパンチを繰り出す。風を切る音なんて少しもしない弱々しいパンチは私でも簡単に受け止められそう。そんな貧弱な見た目のわりに血の気は多いらしい。被害者は私たちの方だというのにあのときのことを根に持っているとアピールする少女の言葉に私は頬を引き攣らせる。
どういう態度をしたらいいのか。一応助けてもらった身であるからしおらしくしておけば良いのか。そっちの方が楽なのかもしれないと深く息を吐き出してると顔が煤で汚れた少年が勢いよく覗き込んできた。いつの間に近づいてきたのか。
「思っていたよりも元気そうだな」
「右腕以外はね。少年は想像以上に丈夫なんだね」
「誰かさんのおかげでな」
唇を尖らせて私を見下ろす少年。何か言いたげなのは気付いているが、あえて聞かないでおく。あのやり方について不満を抱いているのは少年だけではない。私だってツナグに文句を言いたいのだ。
少年から目を逸らし、彼と一緒に近寄ってきたもう一人の少年に目を向ける。彼も二人と同様に手足がとても細い。そして、文字通りどんぐりの背比べになるが一番背が高い。私と目が合った少年は快活に笑う。この笑顔一つでなんとなく性格が読めたので絡まれる前に目を逸らした。
さて、右腕が固定されるまで続いた激痛も落ち着いてきた頃合だ。そろそろ状況を把握しよう。
「私がここにいる経緯を教えてほしいのだけれど」
「クラムおねえちゃんに夕食を分けてもらうために出ていったっきり帰ってこないシーナを探しに行ったら爆発音が聞こえてきたの。駆けつけたらお姉さんに抱き締められたまま気絶しているシーナを見つけてね。状況はよく分からないけど、とにかく二人を運んで逃げなきゃと思って」
「律儀に私まで運んでくれたのね。その細腕じゃ重労働だったでしょう」
「でもおねえさんがシーナを助けてくれたんだろうなと思って。それに近くにあれが転がっていたから」
少女が指差した先にはハンドルは歪み、ボディが焦げた台車があった。まさか、あれに積んで運んできたと言うつもりか。よく見るとキャスターは無事みたいだし、できなくはないだろう。
にしても、本当によくやったと思う。台車で運ぶにしろ重いに変わりはない。台車に乗せるまでも苦労しただろう。私なら身内だけ連れて他人は無視する。けれど、子どもたちにとってはそうじゃないらしい。少女は無邪気に笑って当たり前のように言う。根は良い子たちなのだろう。食料を求めてよそ者を襲ってきた子どもたちと同一人物だとは思えない。どれだけ思えなくても事実に変わりはない。飢えとは恐ろしいものだ。
「ちなみに、見つけたのも運んだのはオレだからな!」
「そう、ありがとう」
「……こうも素直にお礼を言われるとは思ってなかったぞ」
「心から感謝しているのは本当よ。建物からの脱出は粉塵爆発でなんとするとして、そこから先はノープランだったから」
「何も考えてなかったのかよ!」
どうだどうだ、すごいだろう! そう言いたげな顔をして、実際にそのようなことを言いながら。少年は誇らしげに胸を張る。きっと日頃からクラム・ハープに向けてやっているのだろう。元気よく跳ねている栗色の頭が差し出される。言われずとも分かる。これは笑流もよくやる仕草だ。
どうしたものか。悩んでいると少年は重かったなあ、すごく疲れたなあとわざとらしく声をあげる。出会って間もない赤の他人の私にされて嬉しいものなのか分からないけれど、言った通り後のことはノープランだったから彼が運んでくれたのはとても助かった。というか、てっきりツナグは粉塵爆発直後に現れるつもりで準備させていたと思っていたのだけれど違うのね。そういう意味では信用を裏切られた気分だ。
少年のぺたつく髪を掻き混ぜるように撫ぜれば、少年はこれ以上にないくらい頬を緩める。満足していただけたのなら良かったわ。そう言いながら手を離せばまだ足りないぞと膨れっ面で手の平に頭を押し付けてくるのでしばらくの間続けることになった。それを見て少年と少女が羨ましそうな顔をするので、この子たちは褒められることにも飢えているのかもしれない。子どもが身を寄せて生活している時点で親がどうなったのかなんて聞くだけ野暮というものだし、身近に大人がいれば甘えたくなるのも仕方がないのかもしれない。私もその対象に該当するというのだから人懐っこすぎるのではないかと思わなくもないが。
「経緯が分かったところでもう一つ聞こうかな。きみたちは昼間に私たちを襲ってきた子どもたちで間違いないよね。人数減ってない?」
刺すような視線に負けてサンドベージュの頭も亜麻色の頭も一通り撫でまわした。少年は仏頂面で羨ましいなんて思っていないし、子ども扱いするなと怒っていたが抵抗はしなかった。素直じゃない。これがツンデレというものだろうか。対照的に、少女は破顔していた。両手を頬を薄紅色に染める姿はなんと愛らしいことか。
三者三様の反応を観察していたところで気付いた。記憶を遡り、私が抱いた違和感を形にする。そう、人数が足りない。昼間、どれだけ時間が経ったのか分からないけれど、私の体感では昨日のこと。あのときは屋根から降りてきた少年を合わせて7人いた。でも、どう見てもここには少年二人と少女一人。合計三人しかいない。
「……珍しい話でもないよ」
「特にここ最近はひどいぞ。少ししか一人にしていないのにその隙にさらわれているんだ」
「拉致被害が酷くなっていることを知っているのに少年は夜中に一人で屋敷まで来ていたわけね。馬鹿なの?」
「そうなの。すーぐ周りが見えなくなるおばかなの」
「キィちゃんが腹減って泣き出したんだからしょうがないだろ!」
「それで一人走っていっちゃうのがダメなの! シーナがさらわれたのはぼくのせいだってファルまで泣いて大変だったんだから!」
再び子犬の戯れを始める子どもたちを眺める。舌を出して煽ったり、頬を抓って怒ったり。本当に仲が良い。
会話から察するに、あと二人いるのだろう。つまり、この場には五人の子どもがいる。私たちを襲ってきたのは昨日のことだと仮定しても一日に二人、私と一緒に逃げ出せた少年も加えれば三人捕まっていたことになる。ペースが早い。クライ・ハープは火急的速やかに、子どもたちを排除したいらしい。彼の言葉を借りれば娘に群がる悪い虫を。文字通り、燃やす勢いで。
血走らせた目で叫び、ありったけの憎悪をぶつけてきたクライ・ハープの姿を思い出す。背筋が寒くなる。あの様子だ、事が上手く進まなければ本当に焼き始めかねない。
「つーか!」
「さっきから言おうか悩んでいたのだけれど、できるだけ大声は控えてもらえないかしら。傷に響く」
「あ、ごめん。……じゃなくって!」
「シーナ、言われたばかりなのにうるさぁい」
「やっぱりバカだバカ」
「うるっせえ!」
クライ・ハープの恐ろしさを再確認していると少年は大きな声をあげる。よくもまあその身体で声を張れるものだと感心した。私なんてもう何年も声を張り上げるなんてことしていないのに。
膨れっ面で私に詰め寄る少年に面倒臭い予感がするので適当なことを考えながら聞き流す態勢をとる。そうすれば再び子どもたちのじゃれあいが始まったので本題に戻ることはないだろう。その考えは甘かった。少年は二人と騒いだ後、先程と同じ膨れっ面で私に向き直る。
「少年ってなんだよ、少年って!」
「名前を知らないからつい。支障もないことだし」
「あーるー! 俺が嫌だ!」
「親しい間柄でもないのに」
「一緒に逃げた仲だろ」
駄々をこね始める少年に隠すことなく溜め息を吐く。やっぱり面倒臭いことになった。懐かれすぎると後々困ることになるから程よい距離を保ちたいし、そのためにも少年少女呼びが丁度よいと言うのに。
どうやって流そうか。目を逸らして考えていると、少年は地面を叩いて硬くて薄い音を立てる。砂埃が舞うし小石が飛んでくるからやめてほしい。眉間に皺を寄せて寝返りを打つように背を向ける。すると、少年は遠慮なく私の肩を揺すってきた。近ならこの時点で少年をクソガキと呼んで舌打ちしていたことだろう。私も舌打ちはした。
それでも少年は自分の要求を貫く。こういうときの子どもは頑固だ。笑流で十二分すぎるほど知っている私は渋々と視線を少年に向ける。
「いいから少年呼びはやめろ。俺にはシーナっていうちゃんとした名前があるんだからな!」
両足を肩幅まで広げ、手を腰に当てる。なんともまあ可愛らしい仁王立ちだことか。そのまま元気良く名乗り、名前を呼ぶことを要求してくる少年の姿に私は頭を抱えそうになった。
私は深入りするつもりなんてないのに。どうしてこんなに懐かれたのだろう。私に言われたくない言葉だなと近あたりが言いそうだけれどあえて言おう。この少年も、他の二人も。人買いに連れ去られたばかりだというのに他人に対する警戒心が弱すぎではないか。
少年ことシーナの自己紹介を皮切りに子どもたちは我こそはと名乗りをあげる。一斉に喋り出すものだから誰が何やら分からず、八割ほど聞き流していた。それに気付いた子どもたちは怒り始め、ちゃんと話を聞けと未だ寝転がっている私を起こした。
一応気遣ってはくれてはいるようで、少年三人が私の身体を支えようとしてくれた。体格差もあるし、何よりその痩せ細った身体で健気なものだ。私も鬼ではないのでだらけることなく
「すごく痛い」
「聞いてくれなかったからつい」
「ついで叩き起こされる私の身になってほしいよね」
「じゃあちゃんと聞けよ!」
「そーだそーだ。それにもうたっぷり寝ただろ」
打ち身も骨折も寝ただけでは治らないのだけれどね。肩を左右に揺らしてくれる少年二人に既に疲れた私は反論する気力もない。左右に揺らすのもやめてほしいけれど、それ以上に右肩を掴むのをやめていただきたい。
遠い目をしていると少女が少年二人の頭を小突いて叱る。どうやら少女は少年たちに便乗することはあれど、基本的にはしっかり者の長女という立ち位置らしい。毎度、少年たちがやりすぎる頃に止めてくれる。できれば便乗することなく、少年たちが何かをやらかす前に止めてほしいところだけれど。
「それじゃあもう一度自己紹介するからちゃんと聞いてね」
「きみも諦めないね」
「えっへん、すごいだろう」
「褒めたつもりはないからね」
「でもわたしは褒められた気分になったもん」
手を腰にあてて胸を張る。私が何を言おうと聞く耳持たずで二度目の自己紹介を強行する。きっと私がちゃんと聞くまで繰り返すのだろう。少女と出会って体感で一時間にも満たないけれど、確信を抱く。
これは聞き流すよりも一度聞いた方が早いと諦めた私は両手を挙げて降参のポーズをとる。気を良くした少女は鼻を鳴らして上機嫌に自己紹介を再開する。
「わたしはアミィ。年は十二歳くらいになるかな。好きなものは雨あがりのお日さま、苦手なものはカンカン照りのお日さま。簡単な手当てとかならできるから怪我をしたら教えてね。……まあ、物は少ないから限界もあるけど」
「え、名前だけでいいよ。きみたちに興味ないし」
「自己紹介って言ったでしょうが!」
想像していたよりも詳細な自己紹介だった。そこまで必要はないからもっと簡単にしてほしい旨を伝えると小さく頬を膨らました少女、アミィに睨まれる。黙って聞けということか。
小さな溜め息を吐いてから続きを促す。折れた私を見て少年二人がアミィとハイタッチしていた。自己紹介できることがそんなに嬉しいことなのか。身近にいる子どもが笑流しかいないので扱いがよく分からなくて困ったものだ。
「俺はシーナ。好きなものはあったかいご飯。嫌いなものは腹が減ること。力が出なくて走るのもしんどいからなあ」
「きみ、本当に分かりやすいよね」
「なんだと」
「あー、はいはい。喧嘩はオレの自己紹介終わってからな」
「喧嘩というほど盛り上がってないよ。はい、じゃあ最後のきみ、どうぞ」
「オレはサシェ。好きなものはキーンッてなるくらい冷えた水。嫌いなものはぱっと浮かばねぇや。あっ、アンタたちが悲鳴上げてたあの仕掛け。あれ、オレがつくっだあっ!」
「失礼、つい」
あの危険なトラップを仕掛けていたのは貴様か。恨みがましい気持ちが先行し、文句を言うよりも先に手が出た。近のやり方を真似た手刀は背の高い少年ことサシェの額から鼻先にかけて綺麗に決まる。小さな手で押さえられた鼻先は見事に赤くなっている。私にしては上出来な攻撃。いつもなら手刀を受けたサシェの鼻よりも私の手の方がダメージを負っていた。
鼻の痛みに悶えながらサシェを指差して笑うシーナ。煽られたサシェは地団太を踏んで私に詰め寄ってくる。暑苦しいから近寄らないでほしいと言いながら左手でサシェの額を押さえる。
「あと二人いるんでしょう」
「人の話を全然聞かないと思ってたらちゃんと聞いてるんだな」
「まあ、一応ね」
「兄のファルと妹のキィ。年の離れた兄妹ですっごく仲いいんだ」
「年の離れた、ね」
人間の生殖本能に貧富も環境も時代も関係ないということか。それにしても個々の情報量が意外と多い上、気になる点が多々ある。どこからどう処理していこうか。三人からされた自己紹介を思い返しながらジャージの下にあるペンダントに触れる。触れようとした。
一瞬で全身の血の気が引いた。頭が真っ白になって思考が止まり、呼吸をすることを忘れる。酸素ってどうやって取り込むんだっけ。視界が揺らいで身体に力が入らなくなる。後ろに倒れそうになる。後頭部を地面にぶつかる寸前でアミィに支えられる。
「ちょっとちょっと、どうしたの?」
「……ない」
「え?」
「ペンダントがない」
「ペンダントって首にかけるやつだよね」
「さ、探しに行かないと……っ、たあ……」
「急に動いちゃだめだよ! おねえさん、普通にしてるけどいっぱい怪我してるんだから」
「だけど、あれがないと。あれをなくしたら」
勢いよく立ち上がったせいで身体が悲鳴をあげる。和らいできた激痛が再び襲ってくる。けれど、混乱に陥った私はそれを冷静に受け止めることができるわけもなく、ペンダントを探しに行く。
それができたのは数歩だけ。すぐに足がもつれて顔から転倒する。額や鼻が硬い地面に激突し、じくりじくりと熱を帯びる。擦りむいた場所よりも目の奥の方が熱い。視界もままならないし最悪だ。
「だめだってば!」
「けど、だけど」
ペンダントをなくした場所に心当たりはある。粉塵爆発を起こしたあのときだ。今ならまだ見つけられるかもしれない。ここがあの場所からどれくらい離れているのか分からないけれど、栄養の足りていない子どもの足で来れるところだ。気の遠くなる距離ではないだろう。
倒れた身体を起こそうとする私にアミィは慌てる。制止の声を聞かずに行こうとするものだから咄嗟の行動だったのだろう。背中に飛び乗ってきた。十二歳の体重にしては軽いが子ども一人分の体重を軽々と扱える力は私にない。手足をばたつかせてもがくも大した抵抗にならず、抜け出せる気がしない。
どうしよう、どうしよう。それしか考えられなくなっていると、つむじを突かれる。顔をあげればサシェが親指と人差し指で丸を作って首を傾げていた。
「なあ。それってこんくらいの、空が中に入ってる丸いやつ?」
「そ、それ!」
「あれならファルが持ってるぞ」
「え」
「二人を見つけた場所に落ちてたのを拾ったんだ。きれいだし、キィちゃんにあげ」
「どこにいるの」
「うえっ」
「その二人は今どこにいるの」
サシェの言葉は混乱に陥った私の思考をクリアにさせるのに十二分なものだった。膝を折ってしゃがみこみ目線を合わせようとしたサシェの肩を掴む。間抜けな声をあげながら指差した先は扉のない部屋の入口。私の場合は出口になるのか。
背中に乗ったアミィをそのままに、文字通り身体を引きずって向かう姿を見た彼らは私を引き止めることを諦める。アミィが背中から降りるなり起き上がって駆け出そうとする私の手をシーナが握る。せめてゆっくり歩けと声をかけられた気がするが、その声は私の耳を右から左へと素通りしていった。
「あー!」
「キィ、どうかしたの?」
「う!」
「後ろ? ああ、おねえさん、起きたんですね」
乾いた風が頬を撫でる。長いこと薄暗い部屋にいたからか、良いとは言えない日当たりでも眩しく感じた。眉間に皺を寄せて周囲を観察していると、舌足らずの幼い声が響いた。目を向ければ青みがかった暗い鼠色の髪を一つにまとめた幼女が私の方を指差していた。幼女に服を引っ張られて私の方に目を向ける、幼女と同じ髪色をした少年と目が合う。今までの会話の流れから少年がファル、幼女がキィだろう。
ファルは椅子代わりに座っている岩から立ち上がり、背筋を伸ばしてお辞儀をする。ぎこちなく、けれど丁寧な挨拶をされる。その動作に目を細めて観察していると、私が探していたペンダントがファルの手に収まっているのを発見する。
それを返して。詰め寄って言おうとしたが、私が動くよりも早くキィが私の腹部に頭突きをしてきた。そしてまんまるな目を輝かせて、木炭のような黒い塊を載せたひびの入った木皿を差し出してくる。
「あい!」
「え、何これ。真っ黒なんだけど」
「西地区では欠かせないパンです。お姉さんのお口には合わないかもしれませんが、シーナとお姉さんが連れ去られてからおよそ一日半が経っています。少しでも栄養をとった方がいいかと」
「でも、これって」
「いいから食べてください」
「たべうの!」
「……いただきます」
「めしあれ!」
パンと称されている木炭のような黒い塊。恐る恐る手に取り、顔の前に持ってくる。私が食べることを今か今かと待ちわびる幼女を無視して、パンの匂いを嗅ぐ。柔らかくて、甘くて、熟れた花の匂い。
意外だった。このパンに遭遇するとしたら領主の屋敷だと思っていたけれど、もてなしに出てこなかった。町もこんな有様だし、絶滅した可能性もあると肩を落としていたくらいだ。食べられると思っていなかったパンを想定外のところで食べられる感動。感謝の意を込め、両手を合わせて小さな声で、はっきりと挨拶をする。それから一口、食む。
パンとは言い難い硬さ。ガリガリ、バリバリ。咀嚼する度に口腔内に広がる音が脳に響いてくる。広がる花の風味が気休めにもならないし、これはスープがあっても誤魔化されない。初めて食べた私でも分かる。原材料に親でも殺された復讐でもしているのかというくらい素材の味を殺しているような、調理方法を間違えたパンだ。
それでも、美味しいでしょう? とでも言うように下の前歯の抜けた口を横に広げてキィは笑う。肯定も否定もせず、乳歯が生え変わる時期の幼女がよくもまあこのパンを食べ続けることができたものだ。今はまだ前歯だからなんとかなっているものの、臼歯が抜けた後にさぞかし苦労することだろう。
「なあ、ファル。オレが拾ってきたやつ、この姉ちゃんのなんだって」
「そうだったんだ。サシェの拾い癖が役立ったね」
「なんでもかんでも拾ってるみたいな言い方すんなよなー。キィちゃん、ごめんな。これ、気に入ってただろ」
「うー!」
「うん、とっても綺麗だね。でもキィ、これはお姉さんのものだから返そうね」
「ぶぅ」
「キィはいい子だからどうぞも上手にでしるよね」
握られたペンダントから目を離さず、パンを咀嚼し続ける。唾液を染みこませながら、ガリガリ、バリバリと。自分がどういう顔をしているのかは鏡がないこの場では確認しようがないけれど、頬を引き攣らせたサシェが声を潜めて話すので相当なものだったのだろう。どれだけ声が潜められていても目の前で繰り広げられる会話だから筒抜けだけれどね。
例え、サシェがその会話の中に私の悪口が含められていてもそんな些細なことを気にするつもりはない。ペンダントが首元になくて心穏やかじゃないし、無理して動いたところがあるから身体中が痛いし、期待していたパンが期待通りの製法で作られたものじゃないから再び肩を落とすことになったし。どれか一つでも早急に解決したいという気持ちの方が強いから。特に、ペンダントを失ったという火急の事態を真っ先に。
「どーぞ」
「……ありがとう」
「ぶぅ」
「これはね、とっても大切なものなの。だからごめんね」
「たいせつ?」
「そう、大切。ペンダントと食べ物どちらかしか取れないと言われたらペンダントを選ぶくらい大切なの」
説得に理解はしたけれど納得はできない。小さな頬にいっぱいの空気をつめこみ、唇を尖らせて不満も未練もあるという顔をしながらファルから受け取ったペンダントを返してくれる。駄々をこねられたら面倒臭いし、嫌がられたら柄にもなく無理矢理にでも取り返すつもりだったから嫌々ながらにも素直に返してくれて安心した。口腔内に塊で残るパンを強引に飲み込んでから膝を折って視線を合わせ、お礼を言う。
ペンダントを綺麗と褒められたことは満更でもない私は珍しく饒舌に語る。口を動かしている間も、私はペンダントに傷がついていないかをその場で確認をする。
球体の輪郭を指先でなぞり、つっかえるところがないことからひび割れていないことが分かって胸を撫で下ろす。それから錆び付いたトタン屋根の隙間から差し込む陽の光にかざす。球体から反射した陽の光は空色に変色して地面を輝かせる。白い雲の隙間を通り抜け、球体からすり抜けてきた陽の光は眩しくて目を細める。その光景にアミィとキィは感嘆の声をあげる。
切り取った空をレジンの中に閉じ込めた、そんなペンダント。回り続ける思考を止めてくれる私のお守り。
問題なく、無事に戻ってきたことに目の奥が熱くなる。それに気付かないふりをしてペンダントを首にかけようとしたところでチェーンが変わっていることに気付いた。粉塵爆発の衝撃でチェーンが切れて落ちたこと。それをサシェが広い、ファルが代用できるものに取り替えたのだと理解する。私にとって大事なのはチェーンではなくペンダントトップだけなのでその点は気にならない。旅の最中に何度か交換しているし。
「拾ってくれて、加えて直してくれてありがとう」
「い、いえ。お礼を言われることでは」
「そうだよ。オレなんてキィちゃんにあげるかお金にするかと思って拾っただけだし」
「それでも。これは私にとって大切なものだから」
改めてお礼を言えば少年たちは頬を掻く。気まずそうに目を逸らし、歯切れの悪い返答をする二人を気にせず私は続ける。意外だと言われようと、素直な態度が逆に気味悪いと言われようが、それだけの価値があるのだから気にする必要性がない。
子どもの扱いに慣れていないので、こういうときに笑流にやると喜ばれることを行ってみる。例えば気まずそうにしている二人に構わず頭を撫で回してみるとか。誰も彼も髪がべたついているけれど、ここまでくるともう気にならなくなってきた。そんな私の態度を見て、シーナは不思議に思ったらしい。木皿に載ったパンをカリカリと齧歯類のように音を立てて齧りながら首を傾げた。
「……生きることにしゅーちゃくしていないって言ってたわりに、物にはしてるんだな」
「あの状況でした話をよく覚えているね」
「あんな状況だったからだよ」
「ふうん、なるほど。……西地区は貧困が激しいというのは間違いないのだろうけれど、想像していた以上に賢いのね」
「バカにしてんのか」
「褒めているの。教育の場が整っていないどころか物事を教える大人もそういないだろう環境でよくぞここまでって」
シーナのいかなる状況でも人の話をきちんと聞いて記憶している、なんてことに限った話ではない。経験値は低くて不慣れな手つきだったが応急処置の正しい知識を有しているアミィ。町中に過激かつ的確に獲物を追い詰める罠を仕掛けることができるサシェ。丁寧な言葉遣いと所作を心掛けているファル。キィについては前歯の抜け具合から6歳前後だと仮定して、歳のわりに言葉の発達が遅れているような印象だからなんとも言えないけれど、年相応に無邪気なわりに聞き分けは良い。
不釣り合いという言葉以上に子どもたちに相応しい賞賛の言葉が見つからない。それくらい、今のイシアの環境で生まれ育った子どもにしては賢いと思った。環境に飼い殺されている言っても過言ではない。もっとも、子どもたちにとってはそういう環境に身を置いているからこそ必死に蓄えた財産であり、恵まれた環境に身を置いていた培われることのない能力だったのかもしれないけれど。
私の褒め言葉が上手く伝わらず、眉間に皺を寄せて不服そうにしているシーナに向けて分りやすく、言葉を噛み砕いて説明する。咀嚼するように私の言葉を繰り返し、飲み込むように理解をする。そうして最初に口を開いたのはファルだった。
「十年前に流行り病がイシアを襲ったことはご存知ですよね」
「クラム・ハープから聞いてる」
「それ以前までイシアは商いで栄えていました。とはいえ、環境的に動物や植物を育てることには向いておらず売り物になるものは少ない」
「それもそうね。経済的に困窮している以前に環境が恵まれていないわ」
「なのでイシアでは知識や技術を売り物にすることにしました。幸いなことにアルケミアとテクノロリアの中間に位置する町として立地は良かったのでね。西地区ではアルケミアより訪れた商人を、東地区ではテクノロリアから訪れた商人を。彼らから聞く物語を知識として吸収し、技術として昇華する。そしてアルケミアの商人から得たものをテクノロリアの商人へ、テクノロリアの商人から得たものをアルケミアの商人へ。イシアはこうして盛り上がっていたんです。しかし、流行り病が広がったことで町の財産と言うべき人材を失いました」
長い話になるのでどうぞと勧められた岩の椅子に腰をかける。座り心地は控えめに言って良いとは言えない。旅をしていれば野宿することもあるからあまりこだわる方ではないのだけれど、怪我人には辛い。加えて、キィが膝の上によじ登ってきて座ってきたので一瞬だけ顔をしかめてしまった。けれど、無邪気な笑顔でペンダントを眺めていたいからと言われてしまったら私は断れない。手放したくないし誰にも貸したくないものだけれど、夢と希望に満ちた目で眺められることは満更でもないから。だから、私の身体を気遣ってキィに膝の上からどくように説得しようとしたファルとアミィを止めた。
私と対面になるように座ったファルはイシアのことを語り始める。それは絵本に記されていた内容と合致していた。これが大なり小なり国をあげて行っていた商売なら可能性もあった。しかし、鳥籠の従属国であり、一日で回りきれる小さな町であるイシアで行うなんてありえないと思っていた。けれど、それは嘘偽りのない真実なのだと知る。だとするならば、あの絵本に描かれた物語のほとんどが嘘も誇張もない現実のものだ。つまり。
鼓動を速める心臓を鷲掴みするように服を握る。血流が速まると身体が熱を帯びて怪我の痛みが強まりかねないので一呼吸置いて落ち着く。それについても考えたいけれど、今ではない。
深呼吸を繰り返していると、シーナとサシェが私が座っている岩の椅子を叩き始める。何? そう問いかけるように首を傾げれば二人同時に好き勝手喋り始める。
「アミィの父ちゃんがお医者さん、ファルの父ちゃんと母ちゃんが先生でさ。生きている間にいろいろなことを教えてくれたんだ。だから俺たちは今こうして生きているってわけ」
「つまり運が良かったってやつだな。オレとシーナの親は流行り病が広がってすぐにくたばっちまったし」
「あのときは本当にもうだめだって思ったもんな。チビの頃だったから何も覚えてねーけど」
「ファルがオレたちを見つけてなきゃ今ここにいないよなー」
聞いていないのに語られる各々の出生。そして各々両親。決して愉快な話ではない。年齢と流行り病の時期的に物心つく前からそうだった可能性が高い。それでもシーナとサシェは笑いながら、楽しそうに、けれど思い出に浸るわけでもなく今を生きている話をする。
医師の子、教員の子とイシアの中でも恵まれた環境に生まれらしいアミィとファルは笑い話じゃないんだけどなあ、なんて呟きながらも話に便乗する。苦労話を苦労だと思わず、どちらかというと九死に一生けれど俺たちはそれを乗り越えて生きているのだと武勇伝を語るように。子どもたちは賑やかに雑談をする。
けれど、その内容はやはり過酷なものだ。空腹を通り越して飢餓。不健康による苦痛。荒れていく治安への不安。その他もろもろ、物心ついたばかりの子どもたちが、本来なら大人の保護下にいるような年頃の子どもたちが、すべき経験ではない。
それでも子どもたちは試行錯誤して、可能な手段は全てとって、必死に生きようとしている。それが今に繋がっている。
がむしゃらに生きるその姿に、私は思う。
「そこまでして生きたいの?」
煩いくらいに会話を弾ませていた子どもたちが沈黙する。それから、八つの目が私に注目し、刺すような視線を送ってくる。気にせず、私は続ける。
「飢えに苦しんで、身体に鞭打って動き回って。時にはよそ者を襲って、挙句の果てに危ない奴らに攫われて。それでも得られるのはほんの少しの食料だけ。そこまでして、どうして生きたいの?」
この子どもたちを初めて見たときに思った。
飢えて、痛くて、怖くて、苦しくて。わずかな食事を分け合いながら、時には人から奪って。みすぼらしくて、惨めな生活。楽でもなければ、褒められることもない生き方。いっそ死んだ方が楽になれそうな人生。
そうまでして、必死に生きようとする意味が理解できない。
「心臓が動いてるし」
迷いなく、真っ直ぐに、シーナは答える。
目的があって生きているわけではない。誰かのために何かを成そうとしているわけでもない。心臓が動いているから、生きているから生きたい。今まで聞いてきた答えの中で誰よりも単純で、誰よりも純粋な答えだった。
呆気に取られた私は音にならなかった息だけを吐き出す。何も言わない私にサシェは笑いながらシーナの頬をつついてからかい始める。
「シーナ。今、バカまるだしなこと言ったぞ」
「バんカみたいってなんだよ、バカみたいって。だってそれ以外ないだろ」
「だからって心臓はないよ。あはは、本当にバカじゃん」
「わーらーうーな!」
沈黙が笑い声によって破られる。真剣に、当たり前のことを笑われることが不満なようで顔を赤くして怒り始める。アミィとサシェも本気で馬鹿にして笑っているわけではないということは晴れやかな笑顔から読み取れる。ただ、迷いなくそう答えられる素直さに思わず笑いが零れてしまうのだろう。こんな環境で生まれ育っていれば、シーナのような存在は心の支えになるのかもしれない。
しかし、そんなことをシーナ本人が気付いていないのか、それとも気付いていたから照れ隠しをしたいのか。服の上から左胸を握りしめ、ヤケになったように声を張り上げる。
「心臓が動いているってことは俺の心が生きたがっているってことだろ!」
「あー。うん、そうだねー」
「心がそう叫んでるんだよなー」
「なー」
「お前らがそういうことばっか言うからキィちゃんが真似したじゃん。教育に悪いぞ!」
「むしろ正しい教育じゃん」
「キィちゃん。シーナの真似はしちゃダメだからねー」
「ねーっ」
砂埃が舞い、乾いた町。
澱んだ目をした町の大人。
薄汚い欲に目がくらんだ領主。
悪を認識していても何もせず、一人前に心は痛めて中途半端に手を出す偽善者。
まさに掃き溜め。ろくでもない環境。子どもたちが生きて歳を重ねることができるだけでも奇跡だとするのなら、笑い声を響かせている姿はなんと言うのだろうか。
「シーナがああいう感じだから、僕たちも頑張っていられるんです」
「心臓が動いているから生きようって?」
「はい」
「……、……あはっ」
シーナを中心にじゃれあう4人。1歩引いたところで見守っていたファルは穏やかに笑う。
それは、もしもこの場にシーナがいなければ今のように笑って生きようとすることはできなかったことを意味していた。
私はこういう人間を知っている。特筆に値する能力はなくて、それでも人の心を惹きつける。カリスマ性とか大層なものではない。簡単なことだけれど、口にすることは難しい。それを迷うことなくできる、純粋さ。
こういう人間が1番厄介なことを私は身をもって知っている。
「あははは、はは、ははははは」
ペンダントを握りしめ、背中を丸める。声が掠れ、視界がぼやけてくる。久し振りに笑い声をあげたせいか、喉はひりつくし、お腹は痛い。大きな声をあげて笑い慣れいない私が咳き込み始めるまでに時間はかからなかった。
突然笑い始める女というのは子どもたちの目からしたらさぞかし不気味に映ったのだろう。対面に座るファルの背に隠れ、全く隠れていないひそひそ話を始める。
「ねえ、シーナ。もしかしてだけど、おねえさんは頭も打っていた?」
「かもしんねえ」
「それをもっと早くに言ってよ!」
「あー、大丈夫。頭は打っていないし、私は正常だから。はあ、お腹と喉が痛い」
ひそひそ話の内容は私の頭の心配だった。残念ながらこれが平常である。
痛む背中を無視して、岩の椅子の上で仰向けになる。座り心地も寝心地も良くないけれど、面積があるからどちらもできるというのは便利かもしれない。
肺の中に残る空気を全て出すように息を吐き出し、胸とお腹をへこませる。それから体内の酸素を取り込むように息を吸う。新鮮とは言い難い空気。それでも、ひび割れたトタン屋根から覗く澄みきっている。
ああ、気分がいい。
「今までの中で一番しっくりくるかも」
「お前、いつもこんなアホみたいなこと聞いてるのかよ」
「必死になっている姿を見ているとね、気になるの」
「ふうん。変なやつだな」
とある国の姫は自分を育ててくれる国民に恩を返すためにと仰った。
とある国の騎士は愛しいお姫様を守るためと宣言した。
とある人魚は胸を焦がす恋を探していると夢を見た。
とある魔法少女は皆を幸せにしたいからと呟いた。
とある人形師は最高傑作を作り上げるためだと酔いしれた。
とある、とある──。
「さて、と。私は今すっごく気分が良い。だから、きみたちがここから逃げる手助けをしようかな」
「逃げるって何から?」
「シーナ。私たちは何に捕まっていた?」
「……領主が雇った人買い」
「そう。彼はきみたち、正確にはクラム・ハープに近寄ろうとする薄汚い住民を排除するために人買いを手配したわけ。だとすると、ここも安全とは言えないよね」
あの時、男たちは言っていた。ボスが掃除屋を雇ったと。あの中で毛色が違うものが2人、確かにいた。人形のような男と巨体の男。けれど、男たちの肴となっていた女の掃除屋だ。あの場にいなかったということは掃除屋の役割は実戦的なものだと予想される。例えば、逃亡した商品の捕獲とか。
まさに、今の私たちのこと。
「改めて考えると、話題にするのは遅すぎるくらいかもね。それもあって、一刻も早くここから離れるべきなのだけれど」
「ご歓談中に失礼致します」
凛とした声が割り込む。それまでの間、騒がしく喋っていた子どもたちが口を閉ざし、静寂がこの場を支配する。静けさを破るようにけたたましい警鐘が脳に鳴り響く。心臓が嫌な感じに速まり、喉奥が乾いてくる。
誰かが唾を飲み込む音がした。それを合図に私は錆び付いたブリキ人形のようにぎこちない動きで振り返り、声の主を確認する。
「壱檻萩野様。シーナ・フォント様。アミィ・チェスター様。サシェ・グランフォ様。ファル・エイテル様。キィ・エイテル様。以上でお間違いないですよね」
真っ白な瞳に射抜かれ、私たちは指先一つ動かせなくなる。その反応に慣れているのか、声の主は、どこまでも白い彼女は一歩踏み出す。砂塵の舞う町にも関わらず汚れ一つ寄せ付けない真っ白な髪が揺れる度、太陽の光が反射して眩しい。
一人一人確認するように、目で辿りながら白い女は私たちの名を呼ぶ。この場で誰一人として名乗っていない姓。なぜそれを知っているのか問いかける者はいない。ただ、これはどうしようもなくやばいやつだと察した子どもたちは私のところに駆け寄ってきた。さっきまで私のことを突然笑い出して頭がおかしくなったのではないかと距離を置いていたくせに、なんて素直な行動なのだろう。
「逃げよう、なんて無駄な努力をなさらないでください。私の仕事が増えます」
「ご職業をお聞きしても?」
「人の生きる意味を問うと同様に職調べも貴方のご趣味なのでしょうか」
「……なるほど」
どうやら白い女がここに到着したのは声をかけたときではないらしい。来ていたのならば早々に声をかければよかったものの、私たちの雑談に耳を傾けていたのは時間潰しをしていたからなのか、それとも何か他に目的があるからか。
今にも飛びかかりそうな勢いで威嚇するシーナとサシェの前に左腕を出して制止する。これは地の利とかそんなものでなんとかできる相手ではない。というかこの場を散開することもできるかどうか。
面倒臭いことになった。舌打ちをして頭を悩ませていると、白い女は泥一つついていない真っ白なワンピースの裾を軽く持ち上げて片足を斜め後ろ、内側へ下げる。そして軽く膝を曲げる。私がクライ・ハープに向けて行ったものと同じカーテシー。私がしたものよりも遥かに美しく、優雅な振る舞いだ。
「減るものでもないのでお答え致しましょう。私は掃除屋。この町に巣食う害虫を片付けに参りました」
そう告げた白い女は背負っていたモップに手をかける。それだけの動作が絵になる美しさで、一挙一動から目を離すことのできない。
私はこの感覚を知っている。美しい容貌に、息を呑む立ち振る舞いに。全てを支配されて何もできなくなる感覚を、私は嫌というほど知っている。
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