4 舌を踊らせ怒りを煽る

 壱檻萩野いちおりはぎの。これが私のフルネーム。姓であり役職であり肩書き。私はこれがすごく嫌っている。……嫌いという表現は不適切か。私はこれを心の底からうんざりとしていて、いっそ憎々しく思っている。こんな激情、私にあったのかと驚くくらい心が搔き乱される。まあ、そんなことはどうでもいいとして。


「なあ、見たか? ボスが雇った掃除屋」

「見たさ。噂以上にいい女だったぜ。酒の肴にしたいくらいだ」

「ああいう女が好みだったのか? 確かに綺麗な面をしていたが無愛想を極めた能面のような表情だったろ」

「分かってねェな。その顔を崩して鳴かせるのがイイんだろ」


 下劣な会話が耳に入る。低い笑い声が痛む頭に響いてきて不愉快だ。黙るか少しばかり声を潜めるかしてほしい。背中で縛られた手首から自分の状況を察してその思いは口にはしない。相手が近やイオンならともかく、素性の知れぬ男を相手に挨拶代わりの文句を言う気にはなれない。

 男たちの声に意識を傾けると口を滑らしてしまいそうなので、視覚を閉ざしたまま他の五感を駆使して情報を集めることにする。


「お前の性癖に付き合わせられる女は可哀想だな」

「んなこと言ったらお前の方がひでぇモンだろ」

「ははっ。否定はしねェ」


 聴覚を刺激するのは変わらず続く男たちの下劣な会話。小さいが他の声もある。この部屋にいるのは見張りの役割を担っているであろうこの二人で、外には他にもいるのだろう。となると、ハープ家の屋敷で遭遇した人買いは組織を形成していることとなる。なんて面倒臭い。次に刺激されたのは嗅覚。ほのかに甘い香りが混ざっているが、これは火薬の匂いだ。つまり私は武器庫かなにかに置かれていることになる。商品管理が雑すぎる。それに混ざって煙草の匂いもしてくるものだから少しばかり冷や汗をかく。火薬の近くで火を扱うなんで商品管理どころか危機管理も杜撰だ。危機感が薄くて鈍すぎると近に言われる私が思うくらいなのだからかなり酷い。

 皮膚感覚から察するに私はうつ伏せになって転がされているので、ほんの少しだけ目を開いたところでお喋りに夢中な見張りは気付かないだろう。薄らと目を開いて、狭くてぼやける視界で近くを確認する。まず目に入ったのは木箱だった。優白のように優れているわけでもないので、あまり当てにできない嗅覚から推測するに火薬の匂いはここからする。ほんの少しだけ視線をずらせば私の横には1人の少年が同じように背中で手首を縛られる形で転がされていた。

 ここで私は思う。なぜこの男たちは私たちを手首だけ拘束して両足は自由にさせているのか。一瞬、いつまでも続く下劣な会話から嫌な予感がするが気のせいだろう。


「この女もそれなりに綺麗な身なりをしてるだけに惜しいな」

「ガキ相手に興奮してたらいよいよ救いようがねェな」

「そういう奴に売るのが俺らの仕事だけどな!」

「違いねェ!」


 下品な笑い声が響く。音の具合からしてあまり広くない部屋なのだろう。加えて、木箱が積まれているため部屋の面積はかなり狭いものだと予測される。ああ、なるほど。そういうことね。一人で納得すると同時に物凄く嫌だなあと頭を抱えたくなる。両手は背中から移動させることができないので気持ちだけ。

 そろそろうつ伏せも息苦しくなったので寝返りを打ちたいと思い始めた頃、タイミングよく男たちに酒を一緒に飲もうと誘う声が飛び込んできた。考える間もなく男たちは部屋を出ていく。私たちの両足が自由なのはガキ二人が何をしようと力で押さえ込めるから問題ないという慢心の表れなのだろう。


「にしても意外。少年も空気を読むことができたとは」

「どういう意味だ」

「本当に起きているとは思わなかった」


 足音が遠のいたことを確認してからようやく仰向けになる。圧迫されていた肺は存分に広がり、砂っぽい空気を取り込んだ。それから少しの間を開けて声をかければ隣で転がっていた少年は不貞腐れた返事をする。どういう意味かを答えれば騒がれそうなので無視をして、本当に起きていたことへの驚きだけを返す。

 布の擦れる音が聞こえてきたので何をしているのだろうと目を開いて確認をすれば少年は見張りが居なくなった途端に起き上がり、部屋を物色し始めた。


「動きすぎると起きていることに気付かれるよ」

「あんだけバカ騒ぎしておいてそれはねぇだろ」

「それはそうかもしれないけれど」

「はんっ。お前、もしかしてお仲間がいなくなったとたんに弱気になるタイプか!」


 人の忠告を無視したうえに挑発をしてくる少年にひっそり溜め息を吐く。少年は煽っているつもりだろうけれど、相手が悪い。私はそんな挑発に乗るような性格をしていないし、そもそも私は誰かが傍にいようといまいと関係ない。何かをなせるような力を持っていないので面倒事は避けたいし、託せる相手がいるなら少しばかりの助言をして丸投げをするだけなのだから。だから途端に弱気になったとかそういうわけではない。

 ……この場から脱する解決策は既にあるけれど、成功率とかそれ以前の話で嫌だなあと消極的になっていることは否定しないけれど。これから行うべき行動と見知らぬ輩に売られてからの生活。どちらの方がマシだろうと考えてしまう。


「くっそ。窓ひとつねえ!」

「あまり大きな声を出さないで。余計な怪我をしたくないでしょ」

「お前はなんでそんなに落ち着いていられるんだよ! 俺たちは今、売られようしているんだそ!」

「じたばたしたところで状況は好転するわけでもないし。なんとかなるときはなんとかなるし、ならないときはならないからね。諦めも大切だよ」


 汚れが染み付いた天井を眺めながら少年を宥める。あそこの染み、人の顔みたい。シミュラクラ現象をこういう場で目撃すると余計なことを考えてしまって不気味だ。例えば騒がしくする商品を口止めするために顔の皮を剥ぎ取り、見せしめとして天井に飾っているとか。指を差す代わりに視線で誘導しながら話せば、騒がしかった少年は黙り込む。やはり子どもは怖い話で脅すに限る。

 静かになったところで少年を観察する。汚れが蓄積されて変色した浅黒い肌。骨に皮が張り付いているだけの酷く細い四肢。サンドベージュの髪はべたついている。町中でよく見かけた不清潔で不健康な容姿。唯一違うのは髪より少し濃い色をした瞳は澱んでいない。いつ倒れてもおかしくない身体だけれど、目を見れば生を感じる。さすが、弱っている身体に鞭を打って、旅人を襲ってでも生きようとしているだけある。

 そこで思い出す。声色からしてこの少年はあのとき屋根を伝って私たちを追いかけてきた、所謂リーダー格であろう子どもに違いない。あの場には少年以外の子どもといた。しかし、ここにいるのは少年一人。


「そういえば少年。きみ、お仲間は?」

「……」

「なるほど。密会していたのはきみ一人だけで、そこで捕まったというわけか」

「なっ」

「大物と密会するときは上手くやりなよ。バレ方によっては相手を刺激させて最悪な手段をとられるからね。まあ、時既に遅しというやつだけれど」


 私に対する警戒心からか少年は黙り込む。プライドか、それとも彼女を庇おうとしてか。しかし、挙動の分かりやすさといったらもういっそのこと同情して優しい言葉の一つや二つかけてあげようかと思ったくらいだ。思っただけで口にすることはないし、そもそもその優しい言葉というものが少しも浮かばないのだけれどもね。

 温かくて美味しいビーフシチューを食べる少し前にした会話。溜め息を吐くほど分かりやすくて誤魔化すこともできないクラム・ハープを思い出す。少年は彼女に少し似ている。具体的に述べるならば図星を指されて目を右へ左へと忙しなく動かしたときの表情とか。おかげで私がなんとなくクラム・ハープにかけてみた鎌が見事に引っかかっていたことを確信する。


「あ。きみの事情なんてどうでもいいのだけれど、一つだけ確認したいことがあった。きみが捕まったのはクラム・ハープの目の前で? それとも会う前か会った後?」

「なん、で」

「最悪なパターンは会った後に捕まってることなのだけれど……私としては目の前で捕まってくれていた方が助かるわ」

「だから、なんで!」

「クラム・ハープと会っていたことを知っているのかって? 彼女の性格と子どもたちの環境を照らし合わせれば想像するまでもなく分かることだよ」


 初めはなんとなく、そういう可能性もあるな程度だった。生に執着し、血走った目で追いかけてくるのであればなりふり構わず屋敷の中までとはいかずとも近くまで来る方が自然だ。しかし、少年は距離を置いて止まった。近には冗談半分で悪戯ができるほど肝が据わっていないと言ったが、実際はああいうことをしているなんてクラム・ハープに知られたくなかったのだろう。どうして知られたくないのかなんて理由まではさすがに分からないけれど。

 それでは、この二人の。正確には領主の娘と困窮した子どもの関係は何か。クラム・ハープの第一印象が押しに弱いお人好しであった。第一印象通りのお人好しであれば、町の現状を看過することはできないが、改善策を出すこともできない。クライ・ハープの目があるから大々的に炊き出しすることもできず、目を盗んで子どもたちに自分の食事を分け与えていたのだろう。だからクラム・ハープは夕食をあまり食べ進めていなかった。そして、炊き出しの案に対して中途半端で残酷だと指摘したときに今にも死にそうな顔をしていた。つまり、少年たちはクラム・ハープの庇護対象である。結果として庇い守れていたかは別として。


「全部お見通しっていう顔、すっごい腹立つな」

「それは聞き慣れた言葉だね。で、質問の答えは?」

「……姉ちゃんの前で、頭ぶん殴られた」

「そう。ならなんとでもなる」


 クラム・ハープに会った後のことであれば少年の拉致が発覚するまでに時間を要する。しかし、会う前であれば来ない少年をおかしく思うだろう。彼女の頭が救いようがないお花畑でない限り。クラム・ハープの目の前でなんて贅沢は言わない。せめて会う前であってほしい。そんな私の願いは喜ばしい意味で裏切られた。それはクライ・ハープの望んだ形なのかは定かではないけれども、少なくとも私にとっては朗報。

 クラム・ハープが自分の力でなんでもできると思っている自信過剰でなければ、一人で成し遂げようと思う愚か者でなければ。目の前で拉致された少年を救ってほしいと誰かに助けを求めるはずだ。

 そして、不幸中の幸いにも。どこぞの誰かさんの思惑によって招かれた偶然によりあの屋敷には見るからにトラブル慣れしている旅人たちがいる。他人のトラブルなんて興味を惹かれることがない限り知ったこっちゃないと無視しそうな男が若干名、一名ほどいるけれども。そこは私が巻き込まれている可能性が高いということで動いてくれるだろう。……あ。近が本当に動いてくれるか心配になってきた。彼のことだからこの機会に食うことしかしない女を置いていこうとか言いかねない。


「何をどうしたらその余裕が生まれるのか、僕も聞きたいですね」


 私の考えていることなど欠片ほども察することのできない少年は乾燥して荒れた唇を尖らせた。笑流がやればさぞかし可愛らしく見えるだろう不満を訴える仕草。名前も知らない、汚れにまみれた少年がやっても子どもっぽくて可愛げがほんの少しだけ感じられた。だからと言って甘やかすとか優しくするとかする気にはならないけれど。

 そのときだった。空気に溶け込むように。意識に染み込むように。静かな声がなんの違和感もなく私たちの会話に入り込んできた。思わず返事をしそうになったところで何かが変だと脳が警鐘を鳴らして声を呑み込む。視線を向ければそこには月の光を糸にしたような、柔らかな金の髪をした人形のような男が私たちを見下ろすように立っていた。


「そう警戒なさらないでください。ただ、退屈を凌ぎに来ただけですから」

「商品と雑談することしかやることないなんてよっぽどお友達に恵まれないのね」

「おや。何か誤解されていますね。そこの子どもは確かに商品ですが、お嬢様は違いますよ」

「……は?」

「お嬢様は人質です。貴女にはそれだけと価値があるのでしょう」


 警戒するなと言われて分かったと警戒を解けるほど私も馬鹿ではない。なんたってこの男が、正確にはこの男が従えていた巨体の男が私をここに連れてきたのだから。少年も同じくこの人形のような男に拉致されたのだろう。姿を視認するなり少ない語彙でめいいっぱい噛み付いていた。人形のような男は少年の言葉を全て無視して喋り続ける。まるでお前には眼中がないとでも言うようだなと思いながら、少年の存在そのものを無視して近寄ってきた人形のような男を見上げる。

 人形のような。私がこの男をそう認識したのは造形の整った顔立ちを賞賛してというわけではない。それなら近の方がお似合いだ。言ったら冗談抜きで急所を殴られそうだから口にはしないけれど。そういう美しさからではなく、この男は人形のように表情が固定されているのだ。しかも、よりにもよってチェシャ猫のような笑顔をだ。今時、アンドロイドだってもっと表情豊かだと舌打ちしたくなる。


「まさか、本当に彼らがただの人買い組織だと思っているのですか?」

「……」

「だとしたら意外と平和ボケしているのですね。こんな貼り紙を回されていることも気付いてないようでしたし。いや、この場合は不用心に貼り紙を回す人たちの方が平和ボケしていると考えるべきか」


 恐らくだが、私はこの男と相性が悪い。今だってこうやって、その笑顔と嫌な言葉回しで着実に私の心をざわつかせてくる。

 滑らかな顎に指をあて、考え込むポーズで呟くように発せられる言葉。本当にポーズだけで考えているわけではない。確信を避けるような言葉選びで話の核心を曖昧にしているようで、当事者には伝わる嫌な言い回し。私も人のこと言えないけれど、やられる側になると物凄く不愉快だ。

 人形のような男の言葉を耳に入れたくなくて、しかし塞ぐ手は依然として背中の後ろで縛られたままなので。僅かな抵抗として視線を逸らし、話に置いてけぼりとなった少年に目をやる。喉を鳴らして威嚇する様はまるで優白みたいだ。狼のように剥き出す牙もなければ少しも怖くないけれど。あれだ、もっと近いものは恐怖心を誤魔化すように小刻みに震えて威嚇する小型犬。そう思えば少年に少しは優しくできる気がする。優しくするから目を逸らす私を許さないと顎を掴んで顔を近付けてくるこの人形のような男をなんとかしてほしい。今すぐに、これ以上余計なことを言われる前に。


「訳が分からないって顔をしていますが、実際は理解しようとする思考を停止させているだけなのでしょう」

「……」

「無言と無表情を保とうとしたところで僕には無意味ですよ。なぜなら」

「貴方は魔法使いだから」

「その通りです。やはりお嬢様はとても賢い」


 無視をしても会話を続けるところがうちの魔法使いとよく似ている。人が嫌がりそうな呼び方を強調してくるとか尚更。私のことをどこまで知っているのかは分からないけれど、少なくとも私が何者であるかは把握されていると思おう。そして、その肩書きを理解したせいでどこにでもいる凡人に過ぎた期待をしているのだろう。

 これ以上心に荒波を立てるようなことを言われたくないので本題に移すことにした。こちらもなかなか面倒臭そうなので触れたくなかったのだけれど、精神衛生上はこちらの方がましだと思う。ましであってほしい。深い溜め息を吐いてから文字通り目と鼻の先にある彼のガラス玉のような青い瞳を睨む。私にしては珍しく自覚している好きなもの、青色であるのにどうしてこんなにも不快感を抱くのだろうか。笑流の色が恋しい。


「魔法使いさんが私に何を求めているのかしら」

「貴女に大役を担っていただきたいのですよ」

「……はあ?」

「安心してください。大役は大役でも、僕たちの人生においてのという意味です」

「意味が分からない。今日初めて会った男の、しかも私をこんな状況に陥らせた魔法使いの人生の役に立てと」

「こんな状況にならなければ頷いてくれないかと思いまして。頷いてくれたら貴女の命の安全を保証しますよ」


 意味の分からない提案だった。これまでも何言いたいんだと言葉を遮りたくなることばかり言われていたけれど、最悪なことにこの人形のような男の指摘した通り、回り続ける思考が何を言おうとしているのか理解していた。が、こればかりは全くと言っていいほど理解できなかった。

 唯一分かることと言えば、少しも崩れないチェシャ猫のような笑顔から命を握られている貴女が断れるわけないことは分かっているでしょうと上から目線で物を言われているということだけ。見下されることを腹立たしいと思う質ではない。基本的に私のスペックは低いものだと認識しているから当然のことだと思っているし。けれども、いい加減嫌になってくる。

 そもそも、私たちがイシアに訪れたのはツナグがトレーラーに魔法をかけたから。私がここで捕まっているのも買い出しに行く前にデバイスのような高価なものを持ち歩くのは危険ではないかとツナグに言われたから。そしてそのツナグはというと私がこういう目に遭うことを予知していて役に立てたくないキーアイテムしか渡してこなかった。そう、全てあの自称底辺魔法使いの思惑通りに事が進んでいる。この上、この魔法使いの思惑にも流されろと言われたら反発したくなるというもの。

 だから私はこう返すことにした。


「私、生きることにはあまり執着していないのよね」


 痛いことは嫌いだけど。なんて自ら弱点を明かすことは愚策なので付け加えることをせず。代わりにべぇっと舌を出しておいた。






「ふぅん」


 愉快で愉快で仕方がない。人の心を煽るそんな声が途端に低くなった。直後、腹部に衝撃。数秒遅れて背中に激痛。それと同時に背中からの衝撃によって肺が圧迫される。何が起きたかすぐには理解できなかった。木箱が崩れる音と大きな物が地面に落下した音と少年があげた怒声が鼓膜を揺らし、ようやく理解する。この男、交渉決裂がした途端に腹部を蹴り飛ばしてきやがった。

 蹴り飛ばされた腹部もあろうことか木箱の角に打ち付けた背中。というかその後に地面に叩きつけられたせいでもう全身だ。全身の痛みに悲鳴もあがらず、背を丸めて咳き込むしかできない。今の衝撃で両手首を拘束していた縄が解けたが、それを喜ぶ余裕はない。


「っ、けほ」

「これで立場を弁えてくれますか」

「……ますます、嫌と言いたくなるわ」

「強情ですね」


 幸いなことに、私の思考はこの程度の痛みで揺らぐことはない。視界と意識はぼやけているけれども。ここまでくるとイオンの私にとっての思考は鮪にとってのという話を否定しきれなくなってくる。本当、染み付いた習性というのは嫌なものだ。

 背を丸めて咳き込む私を転がすように蹴り、力なく投げ出された右腕をヒールの高いブーツで踏みつけ、もう一度意思確認をしてくるこの男の鼻を明かしてやりたくなってきた。口腔内に溜まってきた血を吐き捨て、拒否の姿勢を貫きながら考える。


「おい、なんの音だ!」

「ディア、何してやがる! その女は大事な人質だろ!」

「おや。人質が美人だったら一通り犯してもいいのかと聞いていた人の口から出るとは思えない意見ですね」

「そうかもしれないがそうじゃなくて。人質殺す気かって聞いてるんだ!」

「まさかそんな。過ぎる口に対して少々お仕置をしているだけですよ」


 どこが少々だ。私の言葉は物音を聞いて駆けつけた男が代弁してくれた。男たちの会話を聞き流しながら、今のうちに少しでも距離を置こうとする。しかし、人形のような男はそれを許さない。声色は低くなり、態度も変えてきたくせに表情は眉1つとして変えないまま。彼は私の右腕に体重をかけていく。


「これでも声をあげないとは。少し見誤っていました」

「ディア!」

「そんなに声を荒げなくても分かっていますって。人質は生きていてこそですからね。気絶されても面倒ですし」


 骨の砕ける音がした。喉奥から込み上がってきた悲鳴は唇を噛むことで防いだ。悲鳴を上がろうと状況は変わらないのだろうけれど、僅かにある私のプライドがさせた抵抗だ。

 不幸中の幸いと言うべきか、右腕が踏み潰された激痛により朧気になっていた意識が清明になった。人間の身体とは自分が思っている以上に丈夫なものである。

 駆けつけた男たちに肩を掴まれ、私から引き離される人形のような男に目を向ける。どうやら私が人質という立場であることは組織内共通の認識であるらしい。私を人質にすることで最も困る人たちは……そこまで考えて私は激痛を誤魔化すように深く息を吐く。


「時に、言葉は偉大だと私は考える」

「は?」


 こんなときに何を言っているんだ。そう、誰かが言った。それが誰かなんて分からないし、知らなくても支障はきたさない。

 砂塵が舞う町によく似合うサンドベージュの瞳にたっぷりと涙を溜めて、今にも泣き出しそうな少年に目を向ける。自分だって私たちに対して危険極まりないことをしたくせに、同じ立場になれば感情移入してくるとはなんと素直なことか。少年が私と目が合ったことを確認したら、視線を誘導するように1人の男に目を向ける。そこにあるのは腰に取り付けられたナイフ。私が言いたいことが少年に伝わったかどうか確かめる術はない。目を丸めてから唇を噛み、真剣な表情を浮かべた様子から伝わったと信じよう。


「言葉があるから人間は思考をすることができる。そして、言葉があるから会話というコミュニケーションをとることができる」

「おい、どうしてくれるんだ。恐怖のあまり頭がイカレちまってる」

「恐怖? いいえ、これは同情心からの助言よ」

「あ?」


 この場にいる男たちの意識を私に傾けさせる。きっと、今ここにあの少年を気にしている者はいないだろう。骨に皮が張り付いているだけの酷く痩せ細った子どもを警戒しろという方が無理な話だ。

 けれど、私は知っている。この少年が生きることに執着していることを。そのためにその身体からでは想像できない力を発揮することを。

 これは小型犬に見えた少年に対して与えるほんの少しの優しさ。今から私がしようとすることに少しでも生存率を高めるために与えた機会。もしこれでお互い生きていたら質問をさせてもらおう。


「貴方たち、人間が生み出した偉大なる言葉を全く活用できていないんだもの」

「テメェ!」

「人間の皮を被りたいならもっと言葉の使い方を学ぶべきよ。まあ、言葉を上手に扱えたところでその獣臭さが隠せなきゃ意味のない話なのだけれど」


 彼らにとって私は人質である。そして、彼らは私を旅人として見ているのではなく、壱檻という役職についた女として見ている。反吐が出る話だ。けれど、そうと分かればこれ以上に扱いやすいものもない。

 痛みで顔が歪みそうになるのを堪え、男たちを嘲笑する。獣臭い。ああ、なんて不愉快なのだろう。こんな稚拙なやり方で鬼の首を取ったように喜ぶとは、人間の皮を被っていても頭の中は獣のように愚かなのね。そんな風に馬鹿にし続ければ男たちは顔を赤くし、目をぎらつかせる。大股で近寄って来るのでもう一押し、感情をコントロールできないなんて理性を有する人間とは思えないわ。なんて付け加える。

 もちろん、私は獣を下に見たことはない。むしろ獣は人間が思っている以上に賢くて理性的だとさえ思っている。ソースは優白。


「よく回る舌、引き抜いてやろうか」

「野蛮な発想ね。知性の欠片も見られない。そんなのだから切り捨てられるのよ」


 とどめの一言。

 怒りで男の動作が荒くなる。胸倉を掴み、持ち上げられれば重力に従って垂れ下がる右腕が更に痛む。ここまで悲鳴を噛み殺せていること、褒められてもいいと思う。ご褒美にソフトクリームが食べたい。厚い雲がゆったりと流れる青空を眺めながらソフトクリームを食べたい。熱を帯びた身体を冷やすのにもちょうど良さそうだし。

 罵声を飛ばす男から現実逃避をするように他事を考えていると、物音を立てないように注意を払いながら少年が動き始めるのを視界の端に捉えた。怒りに染まった男の意識が私から逸れることはなさそう。他の者も恐ろしい目で私を睨みつけているので少年のことは眼中になさそうだ。ただ1人、私と目が合って愉快そうに目を細める人形のような男を除いて。

 どうやら、彼の鼻を明かすのは難しいらしい。もういいや。身体は痛いし、疲れたし、お腹も空いてきたし、何より痛いし。それは諦めよう。身体の力を抜き、一呼吸。そして少年が立ち上がると同時に目深に被られた男のフードを左手で弾き落とす。


「なっ」

「お、おい。これでよかったんだよな!」

「上出来よ」

「こんのクソガキが!」

「動かないで。人質は生きていてこそ、なんでしょう」


 フードが落ち、露わになった顔。それは人間と獣が混ざったものだった。ベースはなんだろう。特徴的な鼻をしているから豚かな。

 隠していたものを不意打ちで晒されたら誰でも動揺する。その一瞬の隙を少年は見逃さず、豚の男の腰に体当たりをする。通常なら痩せ細った子どもの体当たりに耐えるなんて容易いこと。しかし、思考が怒り一色に染まり前のめりになっている今はその軽い衝撃で転倒する。

 豚の男が転倒した拍子に私の胸ぐらを掴む手は離れ、地面に落ちる。少年は私の意図した通り、豚の男の腰に取り付けられたナイフを奪って私のもとに駆け寄ってくる。不意打ちをつかれて転倒したものの、大したダメージはないので豚の男が起き上がるのは早い。なので、手を出される前に少年から受け取った大きめのナイフを自分の首に添える。自傷行為をするつもりは一切ないのだけれどね。何度も言うけれど、私は痛いことは嫌いだ。


「さて、少年。ここからは運試しの時間だよ」

「お前、さっきから意味の分からないことばかり言って。本当に頭がイカレたのか?」

「残念ながらこの程度のことでイカレる頭じゃないのよ。そう躾られてきたからね」


 豚の男を始めとした他の男たちが動くに動けないことを確認し、ナイフで少年の骨張った手首を縛る縄を切る。拘束から解放されると、少年は少しだけ表情を和らげる。それから動作確認をするように手の平を開閉する姿を見ながら、私はもう一度辺りを観察する。

 この部屋にあるもの。それはいくつかの木箱と私と少年、それから人買い組織の男たち。積まれていた木箱は私が蹴り飛ばされたときにぶつかり、あちらこちらに転がっている。幸い、中に詰め込められているであろう火薬は零れていない。そうでなければ物音を聞いて駆けつけてきた男たちが到着した時点で話は終わっていた。全く、なんで火薬がある部屋にたばこを吸いながら来るのか。

 人形のような男の肩を掴んだままこちらを睨んでいる男を一瞥する。あの男もまたフードを目深に被っているが、火のついた煙草を咥えていることは確認できる。


「花の香りが混ざった火薬なんて一定層に需要がありそうよね。嗅覚に優れた種族を誤魔化せる」


 もう一度言おう。私は生きることには執着していない。だから少年のように絶体絶命な状況でもなんとかして逃げようと必死になることはできない。どこぞの誰かさんが意図的に起こした偶然により解決策を有していて、それが最悪なことに痛みを伴う手段であるということ。

 既に満身創痍だし、全身が痛む。特に右腕なんて激痛という言葉以外で言い表せない。こな激痛があるから意識が清明で、変わらず思考ができて口がよく回るのだけれど。きっとアドレナリンが分泌されている影響で痛みが鈍くなっているのだろう。これに更に鞭を打とうとしているのだからマゾヒストかと言われても仕方がない。間髪入れずに否定するけれどね。


「ところで貴方たち、こういう場では火気厳禁と習わなかった? 木箱が崩れた拍子に火薬が零れていたら大変なことになっていたわよ」


 ジャージの下に隠れているペンダントを握り、一呼吸。ああ、やっぱり嫌だな。物凄く嫌だな。憂鬱な気分になりながら、次は何をすればいいのだと落ち着きのない少年を左腕で抱き寄せる。脂でべたついた髪とかいろいろな匂いが混じった体臭とかここまでくると気にならないものだ。

 この態勢になったところで少年への被害が防げるとは思っていないけれど、気持ちの問題だ。爆発に置いて一番恐ろしいものは爆風だから肉壁一人分でもあった方がましだと思われる。こんな物を渡したのだから、私に対してはツナグが何かしらの細工をしてくれていると信じている。なら、少年を庇うことくらいしても支障はきたさないだろう。……ツナグが私の信用を裏切りさえしなければ。


「これを機会に学ぶといいわ。最も、それを活かせる保証はしてあげられないけれど」


 ポケットの中に入れたままの小瓶を取り出す。さすが、場慣れしているだけある。あれだけ怒りに染まっていた男たちは警戒して1歩後退する。

 親指と人差し指で摘める程度の大きさをした小瓶。ツナグの当てにならないヒントをもとにイオンが詰め込んだ100から0.1μの粒子。見た目以上に中身は入るように魔法をかけられた四次元小瓶にはそれがたっぷりと注がれている。

 ここまで来たらなるようになれと、私は勢いよく小瓶を地面に叩きつける。ガラス製の小瓶はパリンと軽い音を立てて割れる。同時にたっぷりと入っていた白い粉、虫が入っているような粗悪品だと近が嫌がっていた小麦粉が煌めく粒子と共に宙を舞う。


「それでは皆様、御機嫌よう」


 火の用心。マッチ一本火事の元。

 彼氏に盲目的な友人の幼い声で再生される台詞に頬を緩めて目を瞑る。最後に見えたものは煙草の火が小麦粉に着火する瞬間だった。

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