3 無知は罪なり、知は空虚なり

 通話の切れたデバイスを机に投げ捨てる。机とデバイスがぶつかる硬い音が狭い室内に響く。あれもイオンの手で改造された物なのであの程度でディスプレイが割れるわけがないと分かっていても少し心配になって振り返る。ひび一つ入っていないことを確認したら、固いマットに寝転がる。深く息を吐き出す。眼精疲労からやってくる頭痛を解すように目元を揉んでいく。ツボを押してもあまり効果が見られないので、背中や首や肩を回す。

 約束の定時連絡は21時。それに三十分遅れただけでメールが三十件も届いていることには少し寒気がした。一分に一通、しかも長文。過保護。過干渉。過激的。あらゆる言葉が浮かんだが、そうこうしているうちにもう一通届いたので慌てて電話をした。案の定、定時から遅れたことを怒られた。そこから長々と話をして、現在時刻は23時。二時間も話し込んでいたことになる。まるで現役女子高校生の夜の長電話みたいだ。なんとなくそういうイメージがあるのは中学校に通っていたときにいた数少ない友人の影響だろう。あの子、彼氏大好きでおやすみの時間まで何時間も電話をしていたから。


「萩野ー。電話、終わったかあ?」

「うん、終わった。静かにしてくれてありがとう」

「どーいたしまして。つーか、なんでデバイスを携帯しないんだよ。せっかく多機能かつ丈夫に、そして俺が近くにいればどこでも電波がバリ3になるよう改造してやったのに」

「半径5kmは近くって距離じゃないからね」


 一休みしているとイオンがドア越しに声をかけてくる。身体を起こし、柔らかいスリッパを履く。注意をされたばかりなのでデバイスをポケットに入れる。その際、入れっぱなしたまま答えが出ていない空の小瓶の存在を思い出す。夕食のときに確認すればよかったと思うが、きっとツナグは答えなかっただろうと首を横に振る。最後に机の照明を消してドアを開けば私のマグカップを片手にしたイオンが立っていた。中身を覗けばホットミルクが注がれている。ほんのり甘い香りから蜂蜜が入っているのだろう。

 それを受け取り、数秒ほどホットミルクと睨めっこ。見た目と匂いは普通だ。普通すぎて逆に怪しい。なぜならイオンは料理が壊滅的だから。創作的というか独創的というか。とにかく良かれと思っていろいろつめこみ、結果躊躇いながらも口にできたとしても咀嚼と嚥下に苦しむ食べ物を作り上げる。そんなイオンが作ったホットミルク。牛乳を鍋に注いで温める。温まった牛乳をマグカップに移し替え、その後蜂蜜を垂らす。ホットミルクを作る行程なんてそれくらい。それくらいなのに警戒しなければならないなんて、末恐ろしい男だ。


「蜂蜜しか入れてないから安心しろって」

「本当の本当に蜂蜜のみ?」

「本当の本当に蜂蜜のみ。チョコとか入れてやろうとか考えたんだけど、焦がしそうで」

「英断よ。イオンがチョコを溶かそうとした日には焦がすだけじゃ済まない」


 その言葉を信じて一口、ホットミルクを口に含む。確かに牛乳と蜂蜜が混ざりあった味しかしない。安心のあまり頬が緩み、それを見たイオンはけらけらと笑う。そこまで笑わなくてもいいのではと思うが、イオンの美的感覚と笑いのツボは理解しようとしてできるものではないのでスルーする。

 ホットミルクを飲みながらダイニングテーブルのある部屋に移動し、椅子に座る。甘いものが脳と身体に染み渡ったところで思考の休憩を終了とする。


「イオン、情報整理に付き合って」

「屋敷に戻んないのかよ。笑流が心配するぞ」

「出た情報はその日のうちに整理したいの。そういうイオンこそ屋敷に入らないの?」

「ベッドが変わると眠れないくらい繊細だから、俺」

「繊細という意味を調べ直しておいで。辞書は近に貸してあるから」

「正しい意味を理解した上で使ってるっつーの」


 膨れっ面になったイオンは適当なメモ用紙を持って向かいの席に座る。なんだかんだで情報整理に乗り気らしいので今日見た情報、聞いた情報を伝えていく。イオンはそれらの情報を簡潔にまとめ、図式まで付け加えてくれる。なんて分かりやすい。

 その作業が終える頃、イオンは手を止めて顔をあげる。それから不思議そうに目を瞬かせ、首を傾げた。なんとなく、イオンが聞こうとしたことが分かった私は温くなってきたホットミルクに口をつける。


「今回は何が萩野の琴線に触れたんだ?」

「さあ」

「お前が思考し続けるのは鮪が泳ぎ続けるのと同じようなものだと思ってるんだけどさ」

「さすがにそこまで極端じゃない」

「窒息死はしないけど沈むだろ」


 灼熱の太陽が私を真っ直ぐ射抜く。もしも、イオンの瞳が本物の太陽でできていたら、私は今この場で消し炭すら残らず焼き付くされていたことだろう。その目から逃れたくて、視線を落としてホットミルクの水面を揺らす。けれど、そんな程度で太陽が逃がしてくれるわけがない。もし本気で逃れたいのなら、ダイニングテーブルの下に潜ってその身を影に隠すべきだろう。それは面倒臭い。私は自分の鈍臭い一面を客観的に評価している。そんなことをしたら出てこようとしたときに椅子にジャージを引っ掛けるかダイニングテーブルに頭をぶつける。

 ジャージの下に隠しているペンダントをいじりながら考える。考えたところで私の選択肢は嘘を混ぜ込んだ回答をするか、本当のことを話すか。……こんな話にわざわざ嘘を考える方が面倒臭い。イオンは私と同様に少しでも違和感を抱けば情報収集と整理をしたくなる質だ。しかも、私以上に精密な分析をする。けれど、引き際も弁えている。だったら細かくは語らないけれど納得のできる回答をするのが最適解だ。


「イオンはさ。イシアの出身者が書いた絵本を読んだことある?」

「ない。つーか、今知った。言い方は悪いけど、この町に絵本を作れるような奴がいるとは思えないし」

「出版されたのも随分と前だし、部数も少ないからね。その絵本にはイシアという町がとても美しいものとして描かれているの。きっと作者はこの町が大好きだったのでしょうね」

「それが理由?」

「それはきっかけ。こんなにも愛されるなんて、どれだけ素晴らしい町なのだろうと気になって。まあ、ここにあったのは変わり果てたイシアだけど」

「でも、だからといってそれで情が移る柄でもないだろ」


 否定はしない。イシアが変わったのは政治を学んできた正統な領主から夫だからという理由だけで旅をしていた画家が領主に変わったから。必要な知識を持っていない者が義務と責任ばかり重たい席につけば当然こうなる。原因が分かったところで同情するつもりはないし、したところで何かできるわけでもないから不要だろう。されるだけ虚しくなるというもの。

 では、そこまで考えていてなぜ集めた情報を整理して、イオンに付き合わせて分析をしようとしているのか。今までの旅の経験から薄々察してはいる。ここをつつくとろくでもないものが飛び出てくるということに。それでも、だ。

椅子の背もたれに体重をかけ、息を深く吐き出す。ペンダントを軽く握り、目を瞑る。思い出すのは夕食前に見たあの絵。初めて私の心を揺さぶった女性の肖像画。


「見たかった花が1輪も咲いていなかったから気に入らなかったという理由が3割」

「その花、絶対食用だろ」

「ちょっと、私にも花を愛でる心があるのかもしれないでしょうが」

「あるのか?」

「ないけど」


 綺麗だと思う心はさすがに持っている。けれど、その次に浮かぶのは調理したら美味しいのかしらということ。イオンの指摘を肯定しよう。そして認めよう。美しい花を愛でたいから見たかったのではなく、他に下心があったから求めていたことを。絵本にはイシアの民なら知っていて当たり前、この町で生きるのであれば知っていなければならない。とまで書いてあったから花屋に陳列しているか、道端にでも咲いているかを想定していたのに1輪もなかった。さすがにこれはがっかりする。だから腹いせだ。いくら町を納める知識がないとはいえ、そんなに重要視されているものなら保存しておいてよ。

 さて、これが3割の理由。これでイオンは納得するだろう。大変不服なことに、本当に不満でしかないのだけれど。共に旅をしていてイオンたちの中でものぐさな私を動かしたいなら食を餌にすればいいと考えている節がある。そんなイオンならそれなら動くだろうと頷くだろう。でも、賢い彼のことだ。それが全てではないことも察する。これが近や笑流なら素直にそれが全部なのだと納得してくれるのに、本当に面倒臭い。だから私は先手を打つことにする。


「残り7割を聞き出そうとするならイオンの秘密と交換になるよ」

「おっと、それは知らない方が身のためってやつだな」

「そういうこと。まあ、あとはツナグの思惑が読めないから手が届く情報は入手しておこうかなって。あって困るものではないし」

「あの野郎、寄りたいならトレーラーに魔法をかけず口で言えってんだ」

「それができたらイオンは困ってないでしょ」


 故郷を離れ、国境を超えて、当てもなく旅をする。そんな私たちが何かしらの事情を抱えていないはずがない。どこにでもいるような凡人の私ですらある。であれば、外見から特徴的な近や笑流にも、何も語らずただ微笑んでばかりのツナグも。世界に通ずる豊富な技術を有するイオンにだって他人に語りたくない秘密がある。私たちは旅を共にするにあたってお互いのことを詮索しないことをルールにする。どうしても知りたいのなら、掘り返そうとするのであれば。そのときは自分の秘密と交換するという条件をつけて。だからこう言えば決まって引き下がる。

 今回もそう。そこまでして知りたい? そう首を傾げれば、イオンは両手をあげて首を横に振る。見たかった花を1輪も目にすることができなかったので腹いせにつつこうとしているという理由で手を打ってくれるらしい。ああ、よかった。これ以上零せば私の事情に辿り着かれる可能性があったから。安心した途端、手の平に鋭い痛みが走っていることを知覚する。どうやらいつの間にかペンダントを握る力を強めていたみたいだ。手を緩め、指先でいじりながら脱線していた話を戻す。


「で、萩野が気になってることは」

「クライ・ハープがどこから資金を調達しているか」

「……また随分と勢いよく切り込んできたな」

「町の状況とか、町民の状態とか。他にもあるんだけど、やっぱり行き着く先はそこなのよね」

「確かに、クラムさんの健康状態からハープ家は恵まれた生活をしているよな。けど、イシアの経済事情から納められる税を推測しても」

「足りてない」


 イシアが変わり果てたのは領主の交代がきっかけ。前領主が流行り病で倒れたということはそれによる町の復興作業はクライ・ハープが領主の座についてから行ったのだろう。西地区は被害が大きかったので被害の小さい東地区から優先して行う。大きい小さいというがそれがどれくらいの規模だったのかは分からない。けれど、感染力がかなり強く致死率も高いものだと聞いている。小さい被害もイシアのような小さな町には大打撃だっただろう。だから西地区にまで手は回らなかった。私の予想では東地区の復興を終わらせた時点で町の資金は底を尽きている。まだ実際に見ていないので東地区がどのような状況なのかは分からないけれど、よそから商人が来てくれるくらいには栄えているのだろう。クライ・ハープはそこで諦めた。いや、満足した。西地区の復興を諦め、東地区だけで異シアを成立させることを考えるようになった。なるほど。そう考えれば、よそで聞いていた貧富の差が激しい町という情報に違いはない。

 では次に考えるべきこと。それはクライ・ハープの人物像だ。彼は実に分かりやすい性格をしているので助かった。まず嘘が下手。これは父子で共通している。次に愛妻家であり子煩悩。娘が成人してもなお幼少の頃に使用していた椅子を食卓に並べていたというのが証拠だ。倉庫かどこかに片付けていたものを笑流のために出てきたという可能性もなくはないが、あの椅子の定位置はあの食卓だ。椅子の隙間にも埃が積もっておらず、綺麗だったのだ。


「それは子煩悩というより過去を引きずっていると捉えたほうがしっくりくるな」

「幼いクラム・ハープに焦がれているって?とんだ毒親だね」

「そうじゃなくて。笑流が使うような子ども用の椅子ってことは10歳前後の子が使うものだろ。クラムさんの正確な年齢は分からないけれど、外見から予想するに20代前半。そこから計算すれば合うだろ」

「……流行り病によって妻が亡くなった時期」

「そう。つまり、領主は幼いクラムさんが使っていた物を捨てられないんじゃない。愛しい妻と幸せに過ごした思い出を捨てることも片付けることもできない。毎日視界に入る場所に置いておきたいくらい、引きずっているってことだ」


 だとすると。クライ・ハープが愛妻家であるという言葉だけでは表現が弱いのかもしれない。愛妻家である男が最愛の妻を失い、十年以上も引きずり続けている。大切な人を失って引きずることを悪いこととは言わない。けれど、彼の場合は引きずりすぎているのだ。もしかしたら未だに受け入れきれていないのかもしれない。

 その人物像をもとにクライ・ハープが領主としてどう動くかを考えてみる。前領主はこのイシアの町を愛していた。これは誰かに聞いたわけでもない。私がイシアを知るきっかけとなった絵本の作者が彼女だから知っていたこと。肖像画に記されていた名と絵本の作者名が一致していたので同一人物であることは確定だ。最愛の妻が愛した町を当然クライ・ハープは守りたいと思うだろう。けれど、彼の手腕では全てを守りきれない。だから東地区だけを守ることに徹し、西地区を切り捨てた。一人娘を手塩にかけて育て、健康的かつ文化的に暮らすためならお金を使うことも躊躇わない。では、そのための資金はどこから手に入れるのか。今のイシアが、クライ・ハープが金品に変換できる物といえば屋敷内にあった骨董品や絵画だ。けれど、あれらに手をつけられた形跡はない。クラム・ハープ曰く、あれらは母親が趣味で集めたコレクションだという。手をつけるとも思えない。妻が大切にしていたものを、妻との思い出を手放すくらいならクライ・ハープはきっと。


「萩野」

「何」

「行き着いちゃいけない答えってのがあるだろ。それが事実だとしても俺たちは何もしないし、手を加えちゃいけない。そういう決まり事だろ」

「……そうだね」


 イオンの手によって視界が遮られる。突然のことに驚き、あと少しで嫌な答えに辿り着きそうだった思考が途切れる。何をするのと不満を込めて睨めば、彼は静かに首を横に振る。私より先に分かったのだろう。分かった上で止めた。知ってもろくなことにならないから。何もしないのに知るだけ知ったら後味が悪くなるから。そういうことなのだろう。イオンがそう言うなら従おう。それを振りほどいてまで理解したいとも思わない。

 考えすぎて疲れたので残ったホットミルクを一気に飲み干す。沈んでいた蜂蜜が最後に塊になって流れ込んできたのでとても甘く、脳に染み渡る。一休みしたところで私はもう1つの疑問を思い出してポケットに手を入れる。指先に触れた空の小瓶を摘み、ダイニングテーブルの上に転がす。


「話が変わるんだけど、イオンならこの小瓶に何をつめる?」

「送り主はツナグか」

「そ。いつものよく分からないキーアイテム」

「使用用途が分かったときは役立つんだけど、それまでが謎なんだよな。他には?」

「100から0.1μ」

「ふむ」


 こんな数値を聞いて瞬間的に理解できるのはイオンくらい。なら、答えを教えてくれないツナグより理解したイオンに聞く方が早い。

 しばらくの間小瓶の上に人差し指を置いて、前へ後ろへ行ったり来たりさせる。もう片方の手は顎に添えて考えるポーズ。それもほんの数十秒のことで、立ち上がったイオンはキッチンの引き出しに開ける。そこから出してきたのは今日、私と近が買ったものを入れていた買い物袋。野菜類は冷蔵庫に入れたので、残っているのは……。


「これかな」

「……えー、冗談でしょ」

「冗談であってほしいけど、該当するものはこれしかない」

「最悪」

「使う機会がないといいな」


 数値と実物。これが揃えば使用用途は分かる。でも、一体全体どんなタイミングでやれというのか。そんな場面、絶対に遭遇したくない。下手したら死ぬし、いや即死ならまだいい。でもそうじゃないなら絶対痛いじゃない。勘弁してほしい。そんなものを必要とする場面に遭遇すると分かっているなら事前に助けろよ。なんて口汚くなりそうなところで咳払いを一つ。

 溜め息を吐き、唸り声をあげ、顔を覆って小さく悲鳴を漏らしている間にイオンが小瓶の中に移し替えてくれた。小瓶になみなみいっぱい注がれたそれを憎々しげに睨み、嫌々と受け取る。とても嫌だけれど、だからといってここに置いていったことでつむのも困るからね。もう一度溜め息を吐いてから中身のつまった小瓶をポケットに入れる。


「ホットミルクが効いてきたし、そろそろ戻ろうかな」

「眠いならここで寝くのもありだぞ」

「イオンが言ったんでしょ、笑流が心配するって。朝起きても戻ってなかったら泣くわよ、あの子。そして優白に牙を剥かれそう」

「目に浮かぶ」

「それにこういうときじゃないとふかふかなベッドで寝ることもできないからね」

「ここのマットを柔らかいのに変えてもいいけど、お前落ちるだろ」

「寝ているときに走られたら確実に落ちる。起きていたとしても揺れと弾みで落ちる自信がある」

「だろ。じゃあこの案はなしだな」


 喋り疲れた。定時連絡と合わせれば一生分喋った気がする。一度伸びをしてから立ち上がる。使ったマグカップに水をいれて、流し台に置いておく。洗うのは明日にしよう。

眠気が襲ってきたことを自覚すると、どっと疲れも押し寄せてくる。あくびを1つして目を擦っているとイオンが屋敷まで歩かずここで寝ると魅力的な提案をしてくれたけれど、笑流が寂しがるだろう。今日は一緒のベッドで寝るって約束したから。

 トレーラーを降りれば夜空には満天の星が輝いている。街頭とか建物の明かりとか余計なものがないからよく見える。天体観測の名所にでもすればいいのではないかと考えながら、振り返っって見送りをしてくれるイオンに手の代わりにだるだるに伸びた袖を振る。


「おやすみ、イオン。良い夢を」

「おやすみ、萩野。素敵な夢を」






 満天の星が煌めく夜空。私の好みは真っ白な雲がまったりと流れる青空だけれど、これはこれで見応えがある。今日一日走ったり喋ったり考えたりと忙しく、頭を真っ白にするにはちょうど良い。もっとも、走っていたのは近だし、イオンが指摘した通り、基本的に何かを思考していないと落ち着かないので考え続けるというのは日常的なこと。つまり普段とあまり変わったことをしていないのだけれども。

 屋敷までの帰り道。星空を眺め、星座を結んで逸話を思い返す。ここに笑流がいたら天然のプラネタリウムを楽しむことができたというのに残念だ。そうやって、前を見ることをせずふらふらと歩いていたせいか、もしくはただ運が悪かったのか。


「アンタも悪い奴だな。あんなんでも一応国民だろ」

「悪い虫は早々に駆除するものだ」

「悪い虫ねェ」

「ああ。こいつらは娘の優しさにつけ込み、寄生しようとする害虫さ」

「そりゃあ、なんともまあ過保護なことで」

「こんな国で生きているんだ。過保護なくらいがちょうどいい」


 まず、道に迷った。空を見ながらふらふらと歩き回っていたら当然のことかもしれない。とはいえ、景観を整えた庭というわけでもない。遮蔽物になる飾りや植物もないので屋敷の壁に沿って歩けばそのうち玄関に着くだろう。そう思って来た道を戻ることせず、歩き続けた。そして遭遇してしまった。

 心洗われる美しい星空の下で行うとしたらロマンチックな逢い引きなと相場が決まっている。けれど、このような町でそのようなことが行われることは少ないだろう。実際に行われているものは哀れな子どもに心優しい淑女が食事を分け与えるということ。それに遭遇するのも面倒臭そうだから避けたいところだったのに、それの更に上回るものを目撃してしまった。


「これが今回の支払いだ」

「……随分と安くないか? 子どもは高く売れるものだろ」

「痩せこけたガキなんざたかが知れてるさ。最低でも見た目が良ければ売れただろうが、買い手がいなけりゃバラされる。そうだとしてもコイツは大した額にはならねェよ。健康的なな中身をしてるとは思えねェ」

「まったく。虫は虫でもせいぜい益虫にでもなってくれればよいものの」


 見つからないように物陰に隠れ、息を潜める。今すぐに来た道を戻り、トレーラーに逃げ込めばイオンがいる。けれど、私は自分のことをよく知っている。こういうときに動けば必ず小石を蹴ったり、小枝を踏んだりして気付かれるのだ。周りにそれらしいものはないけれど、その場合は足音を立てずに去ることに意識しすぎて転ぶに違いない。普段ならそんなことをしても近がフォローしてくれるが、今この場にはいない。無力な私は身を縮め、息を潜めるしかないのだ。

 そうしたとしても、何かしらのトラブルが生じるものだと私は知っている。これは旅を通して学んだこと。大概の旅人はトラブルメーカーとなるものなのだ。物凄く不本意ながら。なので念には念をいれて、ポケットに入れていたデバイスのボイスレコーダーを起動させる。


「他のガキはどうする?」

「好きにしてくれ」

「領主様は冷たいねェ。おかげで俺たちが儲かるけどな」

「儲けは少ないという話をしたばかりじゃないか」

「数打ちゃ当たるもんだ。苦楽を共にしてきた子どもたちを箱庭に入れて、最後の一人になるまで殺し合わせる。なんていい趣味をした奴もいるからな」


 二人の男が会話を続ける。一人はクライ・ハープ。これは領主様という単語も聞こえてきたことだし、断定してもいい。もう一人の男は……会話の内容から察するに人買い。ほんの少しだけ身を乗り出せば男の足元に布製の袋が転がっている。膨らみから何かが詰め込まれていることが分かる。それが何かは考えるまでもない。人間だ。少しも動く気配がない様子から中にいる人間は気絶もしくは死んでいるのだろう。

 せっかくイオンが深入りしないよう、答えに行き着く前に思考を切ってくれたというのに。私は答えをこの目で確認してしまった。なんということだ。こんなことならイオンの誘いに乗ってトレーラーの自室で寝ればよかったと酷く後悔する。


「ハープ家の資金源は民の命、か」

「教養どころか栄養も行き届いていない命なので雀の涙ほどにしかなりませんがね。屋敷にある骨董品や絵画の方が金になる」

「っ!」


 ハープ家の屋敷には金目になるものがそれなりにあった。それを全て売ったとしてもイシアの再興に足りないかもしれないけれど、取っ掛りにはなっただろう。だが、それらに手を出している形跡はない。全て、宝物のように保管されていた。

 となると、クライ・ハープは何を売って資金を得ていたのか。答えは簡単だ。人間を売ればいい。生きていれば奴隷として、奴隷としての価値がないのなら中身を。死体にも需要はあるだろう。世界は広い。ありとあらゆる目的で人間の身体を求める者がいる。確かに、これは部外者が行き着くべき答えではない。

 頭の痛くなる状況に溜め息と共に吐き出された呟き。これに返事が返ってきた。喉元まで上がってきた悲鳴を呑み込んで振り返る。


「お嬢様はこんなところで何をしているんだい?」

「……社会見学?」

「勉強熱心だね」


 月明かりに照らされる金の糸が生ぬるい夜風に揺られる。三日月型に細められた青色のガラス玉。チェシャ猫のような笑みを貼り付けた人形がそこに立っているかのようで寒気がした。

 もちろん、それは人形などではない。貼り付けた笑みを剥がすことなく、ゆったりとした足取りで近付いてくる。一歩、また一歩。近付かれた分だけ後退する。


「おや、萩野様じゃないですか。このようなところでどうかされましたか?」

「トレーラーに忘れ物を取りに行っていたら道に迷ってしまって。この町から見る星空はとても素敵ですね」

「そうでしょう、そうでしょう。私がこの町に来て、二番目に心を奪われたものです。一心不乱に夜空を、夜のイシアを描いていたあの頃が懐かしい」

「でしょうね。けれど、私には関係ないことね。思い出は自分の心の内に、美しいものとして独り占めすることをお勧めするわ」

「全くの無関係というわけでもないでしょう」


 後退すれば当然クライ・ハープに見つかる。夜の密会を見られたことを焦るとか、今の話を聞かれたのではないかと警戒するとか。そういう反応をすると思っていた。そうしたら身の危険を覚えて声をあげようと決めていた。声一つあげれば優白が気付いてくれる。彼は私の身の安全なんてどうでもよいものとしているが、私に何かあれば笑流が悲しむからという理由で助けにきてくれる。

 しかし、クライ・ハープの反応はどれにも当てはまらない。柔らかい笑みを浮かべ、何事もなかったように雑談を始める。何を考えているか分からず、気味が悪い。しかし、一つだけ。近にお前は鈍すぎて警戒心が薄いんだと冷ややかな目で見られた私でも察せるものがある。


「私、貴方に恨まれることをした覚えがないのだけれど」

「まさか、まさか! 本当に心当たりがないと仰りますか!」

「ええ、ないわ。もしも私が男で、貴方の娘に言い寄っていたのなら心当たりの一つになったけれども。そんなことしてないもの」

「ふふ、ふはは! もしもそれを本気で言っているというのであれば、どうして貴方を恨まずにいられるのか! むしろ恨み言しかない!」


 柔らかな笑みは豹変する。満天の星空を貫くように大きく笑い、両腕を広げる。目を血走らせ、唾が飛ぶ勢いで喋り続ける。私に声をかけてきた人形のように美しい男も、クライ・ハープと取り引きをしていた人買いの男も。面倒臭い。煩わしい。鬱陶しい。目でそう語っていた。私も同様に。しかし、クライ・ハープは止まらない。

 口を挟む気にもなれないので、ヒートアップしていくクライ・ハープの言葉を右から左に聞き流し、人買いの男を観察する。とはいえ、月明かりだけが頼りの中ではよく見えないのだけれど。仄かな月の光を反射させる皮膚に浮いた鱗が印象的だった。


「私たちの幸せを! 私の宝を奪ったのはお前だというのに!」

「人違いをしているのでは? 貴方とは今日初めて出会ったし、イシアに来たのだって初めてよ」

「そう、そうだ! 初めてだ! お前が、お前たちがこの地に来たのは今日が初めてだ! なんたる記念日。祝杯をあげよう、盃に溢れるほどの金を注いで乾杯できる日が来るとは夢にも思わなかった!」


 クライ・ハープの言葉に引っかかりを覚え、片眉があがる。当然、クライ・ハープは気付かず悲劇の演説を続ける。いつの間にか私の隣に立っていた人形のような男は気付いたようで、小さく笑っていた。そんなこと、今の私にはどうでもいいこと。

 そう、そんなことどうでもいい。いつの間に隣まで来たのだとか。なぜ隣に来たのかとか。傍に置いている巨体の男はいつから居たのか、存在感のある見てくれのわりに気配が一切しなくて恐ろしいとか。そんなこと、本当にどうでもよかった。

 私にとって今一番問題なのは、クライ・ハープの言葉。私を示すお前という二人称をお前たちと複数形に言い直したことだ。


「民が次々と病に冒される地獄の日々! お前たちが来ていれば何かが変わっていたのかもしれない! 少なくとも、妻を失う絶望を知ることはなかったはずだ!」

「…………」

「お前たちは責任を放棄した。お前たちは義務を果たさなかった。いや、そうであった方がましだった。けれど、お前たちは、お前たちは!」

「関心すら向けなかった」


 警鐘が鳴り響く。それ以上言わせてはいけないと。柄にもなく声を荒らげてでも、手を出してでもいいからあの口を閉ざせと。けれど、それはできなかった。動揺で身体が動かなかったとか、そんなことあるはずがないと当てにならない勘を否定したくて足を竦ませたとか。そんな可愛らしい理由ではない。隣にいた人形のような男が制したから私は動けなかった。これは決して言い訳ではない。私と手首を掴む白い手は血が通っているのか疑わしくなるほど冷たくて、寒気がするし。そして、更にはこの男の隣にあった巨体が睨んできたのだ。こんなの動けるはずがない。

 そうこうしているうちに、クライ・ハープは憎悪を孕んだ目で私を睨みつけて言う。旅人になってから一度も口にしたことのない私の名を。誰にも触れられたくない私の秘密を。クライ・ハープは叫ぶように、慟哭する。出会って数時間の男が、会話した時間はこれを含めて一時間も満たないような赤の他人が。私の地雷を土足で踏み荒らしにくる。


「それでもお前はまだ、自分には関係ないことだと言うか! 壱檻萩野いちおり はぎの!」


 壱檻いちおり

 数年ぶりに耳にした四つの音。私の心を掻き乱すには十二分すぎた。頭の中は脳をかき混ぜられたかのように思考は上手く回らないし、肺を押し潰されたかのように息ができない。夕食に食べたビーフシチューがこみ上げてきそう。もう消化をし終えてる頃合だから実際に出すとしたら苦味と酸味をかけ合わせた最悪の味なのだけれど。

 そんな私の反応を見て、人形のような男は静かに笑う。笑って、そしてこの男もまた私の地雷を踏もうとする。否、先に地雷を踏んできたのはこっちが先かもしれない。この男も知っていたのだ、壱檻の名を。知っていて、だからわざとらしくああ呼んだのだ。


「お嬢様に一つ忠告してさしあげましょう」

「……心に留めるかどうかは聞いた後に判断するわ」

「勉強熱心なのは良いことです。しかし、見学しない方が良い社会というのも存在するのですよ」

「そうね。それは今、身をもって学んだわ」


 十二分すぎるほど学んだし、結構な打撃を受けた。主に精神面に効いた。だからこれ以上の刺激を与えないでほしい。四人の男から距離を置くように一歩後退する。しかし、一歩で開く距離なんてたかが知れている。巨体の長い腕一本で簡単に埋められる。

 褐色肌の大きな手が私の首に回る。太い親指が喉頭を押し潰す。息を吐き出すことも、空気を吸い込むこともできない。二酸化炭素は溜まり込むし、新鮮な酸素は取り込めないし。思考が鈍くなり、身体が動かなくなる。

 ブラックアウト。ちくしょう。こんなことならホットミルクを飲んだ後すぐに眠ればよかった。

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