第3話 元教え子

 春日大社の表参道を歩く。昨日の雨のせいか所々大きな水たまりが出来ている。鹿の角切り行事の前だからだろうか?立派な角を生やした大柄の鹿や子鹿がゆったりと歩いている。


 二ノ鳥居が見えて来た。

 右手には青々と繁る飛火野が見える。大楠の木もこんもりと存在感を示している。


「ところで、橘は何をしにここに来たんだ?」

「あ、実は、春日大社で合格祈願のお守りを貰おうと思ってたんよね。来年になってでもいいんやけど早いほうがいいんちゃうかなと思ってさ」

「そうか。じゃあ、丁度良かったな。これから行くから」


 僕らはさらに奥へと進んでいく。

 うっそうと茂る杉の木を背景に年季の入った石塔が左右に並ぶ。少し湿った道を歩く際に出る音が、とても神聖な雰囲気を醸し出していた。


 春日大社本殿が見えてきた。

 一礼して中に入ると、金色、碧色の灯籠が多数に並んでいる。なんて、神々しいのだろう。


 橘と僕は、賽銭を投げ、二礼二拍手し真剣にお参りをしたのち一礼する。

 僕も、元教え子が無事に志望校へ合格するようにと祈った。


「先生。お守り見てくるからちょっと待っててな」


 僕はバックからライカを取り出すと、背景に三本の杉の木、そして石塔と近くにいた親子の鹿を入れてシャッターを切った。

 ディスプレーには静寂な情景が映っている。僕は満足し電源を切ろうとしたのだが、ふいにお守りを選んでいる橘の方へカメラを向けた。とても自然な表情につられついシャッターを押していた。


「先生、お待たせ!次はどこに行くん?あれっ、カメラ!?写真撮ってるの!?見せて見せて!」


 僕はちょっと焦りながら、さっき撮った石塔の写真を選び、橘に見せる。


「うわぁ。いいなぁ。先生、写真上手いね。凄く素敵だよ!」

「ありがとう。今は、暇だからさ、奈良を紹介するブログをやってるんだ。実は、今日はそのブログに関係する人達とのオフ会だったんだ」

「今、暇なの!?ふーん。まっ、いいか。で、次はどこに行くん?」


 僕は、考えていたコースを説明する。


「ここからさささやきの小径を通って、高畑町にある新薬師寺へと向かうよ。橘は本当に時間大丈夫なのか?」

「うん。私は今日はこのまま先生と散策したい気分だから気にしないで」

「よし、では、行こうか」


 先生と呼ばれるとなんだか切なくなる。

 もう僕は先生ではないし、逃げ出した身なので、先生と言われる資格なんてあるはずない。ただ、橘が呼び慣れているのであれば、仕方ないか、、。


 春日大社から小さな山道が高畑町の方へ向かっている。

 ささやきの小径という名前はいったい誰が考えたのだろう。まさにそのネーミングの通りの情景が流れていく。誰も入ることが出来ない春日大社の神聖なエリア。朽ち果てた樹の横には、次の時代を担う若木が力強く空に伸びている。人の手が加わってない自然が残っていることは本当に素晴らしい。それが理由なのか空気までがとにかく瑞々しいのだ。


「先生、凄く空気が美味しいよね。山歩きしている訳じゃないのになんだか不思議やね」


 橘はとても楽しんでいるようだ。

 そんな彼女をみると僕は、一人のオフ会を実施して良かったと考え始めていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る