第3話 霧峰 律―3―
律達が帰宅する頃には、すっかり日が沈んでいた。
一旦家に帰り、家族に帰宅を知らせてから、隣の家へ行く。インターフォンを鳴らしても、相変わらずうんともすんとも言わない。外に漏れる明かりがなかったが、在宅してるんだろうとあたりをつけて、合鍵を使って中へ入る。
「……お邪魔しまーす」
寝ているかもしれない、と、一応、声の大きさは控えめに。廊下を歩き、リビングを覗く。居ない。再び廊下へ出ると、階段を上って二階に向かう。一番端の、彼の部屋をノックした。返事はない。ゆっくりと、その扉を開く。小さな隙間から顔を出し、中を確認する。居た。目が合う。
「……なんだよ」
「帰ってきたぞー」
「煩いな。自慢しに来たのかよ」
「そんなこと言っていいんだ?」
拒絶されなかったことにほっとして、律は部屋の電気を点けた。急に眩しくなった視界に、
「先輩の写真も沢山撮ってきたぞ」
「……そういうの、盗撮って言うから」
「はーん? 見ないんだ?」
「見ます」
腕組みをして、静かに見下ろすと、「……見せて下さい」と朔也はしおらしく頭を下げた。ふふん、と得意気に鼻を鳴らして、律は朔也の横に腰を下ろす。
「ほら! 鹿! 鹿が居た!」
「いや、鹿じゃなくて、先輩……」
ベッドを背もたれにして、カメラの小さな画面に二人して覗き込む。頭なんて、すっかりぶつかりそうだった。お互いの息を吐く音さえ聞こえるような距離。当たり前の、二人の距離感だった。
「くっそ……先輩、やっぱり可愛いわ。眩し過ぎる。太陽でしたか……。先輩だけの写真集とか欲しい……」
「変態かよ」
同じことを考えたことは伏せて、律は「引くわー」なんて言うなり、演技がかって自身の身を抱いた。「どうせお前も同じことを思ったんだろ?」と冷ややかな目で図星を突かれ、少しの間の後、素直に頷いた。
「ほら見ろ!」
指差して笑う幼馴染みに。律は。
感じたことの無い感情の存在に、気が付いてしまった。
(………朔也が、変わるなら。あたしの手によってだと、そう思っていた)
かつて、その幼馴染みが荒みに荒み、不登校になってしまった日々のことを思い出した。足繁く隣に通い、会話し、ご飯を共にした。それでも、彼が律の手によって『変わる』事はなかった。
「……お前が誰かを好きになるんなら、……それは、あたしなんだと、思ってた……」
「はぁ?」
自分でも思いもよらぬ言葉が零れて、慌てて口を覆った。朔也のしかめた顔がその瞳に映る。ああ、何言ってるんだ、あたし……。
(……こんなの、まるで……)
ざわざわと胸がざわめく。
駄目だ。深く考えては、駄目だ。
得体の知れない感情に、本能がそれを追及することを拒絶した。
「………あ、お土産……。お土産が、ある。先輩からも、預かってる」
朔也から目を逸らし、傍に置いたリュックを振り返る。帰ってきたまま、荷物を置かずに朔也の家を上がったのは、そのカメラの中にも、リュックの中にも、沢山、朔也へのお土産が詰まっていたからだった。
「はい。これ。あたしから」
「お、おう。……何これ、しゃもじ?」
「あとこれ、先輩から」
「……」
律からは小さなしゃもじのキーホルダー。咲桜からはもみじ饅頭と鹿の絵が描いてある栞だった。
「……だから、本は読まないんだって」
栞を見るなり、眉毛を寄せて困った顔をしているくせ、愛おしそうに、朔也は笑った。
律は、不意に、泣きたくなった。
(………全部、違った)
朔也が誰かを好きになるなら、それはあたしなんだと思っていた。
朔也が『変わる』のなら、その傍にはあたしがいるのだと思っていた。
ーーー零れ落ちてしまいそうになった涙を、必死に抑え。取り繕って、笑った。朔也は栞やもみじ饅頭に夢中で、そんな律には気が付かない。
(あたしは、ただの幼馴染み……)
ただ、見ているだけ。
自覚する。なんでもすっかり知っているつもりになって、その実、律は朔也に対して、知らないことが沢山あった。遂に、朔也の心の中に入ることは出来なかった。
(そうだ、あたしはきっとーーーー…)
思い出す。
その白くてきめ細かい肌。小さな顔。黒目がちな大きな目。ふっくらとしたピンクの唇。ふわふわで色素の薄い長い髪。シャンプーの甘い香り。細長い手足。豊満な胸。柔らかい肌。優しい声。雰囲気。花が綻ぶような笑顔。価値観。感性。言葉選び。全部。
その人の隣に、よく知っているはずで、まるで知らない、幼馴染みの姿。ーーーー…ああ。
あたしは、
律は静かに目を閉じた。
一滴、涙が零れる。
「なぁ」
「なっ、なにっ!」
急にかかった声に、慌てて涙を指で拭った。朔也は怪訝な顔でそれを見守った。「どした?」「……目にゴミが」そんな、典型的な言い訳に、朔也は納得したのか興味がないのか、「ふーん?」と言うなり、本題に戻る。
「土産、ありがと」
「………なに、突然」
いつの間にか、咲桜からの土産を床に置いて、律からの土産を掲げていた。小さなしゃもじに、『朔也』と書かれている。指定の文字をペン入れして貰えるらしく、既に一言メッセージが書かれていて十分可愛かった既存のそれらと悩んで、結局、名前を入れて貰ったものだ。
「……………俺さ、お前が、幼馴染みで良かった」
「………なに、とつぜん、……」
朔也ははにかむように笑った後、照れた顔を見られたくなかったのか、視線を手元のキーホルダーに落とした。
「俺の事見限らず、いつも、傍に居てくれてさ…。実は、ちょっと、……感謝してる」
「…………なに急に、……気持ち悪っ!」
両手で体を抱えて、ぶるりと大袈裟に身震いした。朔也はそれに顔を上げ、いつもの顔で「おいっ」と指摘する。
「あーっくそ! やっぱ、此処に居るのが先輩だったらなぁああ!」
「いつもそれじゃん。それ、ほんと、あたしの台詞だから」
「はーっ! くっそ。今日も幼馴染みが可愛くない!」
「お陰さまで~」
一通り、いつもの調子で軽口を叩いてから、バンッと律の手が朔也の背中を叩いた。
「ぃって!」
「……早く、仲直りしろよ、馬鹿」
「………べつ、ケンカしてねぇし……」
律は、仕方の無い奴だな、と笑った。
「うかうかしてると、誰かに取られちゃうぞ」
「……『取られる』って何。そもそも、あの人、俺のもんでもねぇし……」
「………それでいいの?」
律はやっぱり、困ったように笑みを浮かべた。
「……」
朔也は、罰の悪そうにその視線を逸らした後、小さく「………分かったよ」と、呟いた。
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