第3章 第6話 ニュルンベルクのクリスマスマーケット
輝たちが歩くドイツの街は、クリスマスの色に染まっていた。橙色のあかりが、雪の白と混じり、かすみを帯びてぼんやりと浮かび上がっている。
輝がドイツに来てからはじめて経験する12月だった。
輝は周囲を見渡す。
ドイツの夜空は、群青色を重ねたような青をしている。今は雪を孕んだ雲がそれを筆で描いたように覆い、隙間からその藍色が覗いて彼らを見下ろしていた。完全な黒に染まらないのだろうか、と大学の窓や自室から空を見上げると、いつも思うのだ。夜が深まるにつれて、雲はじわりじわりと黒く染まってゆくのだが。
今はそこに雪の白い粒が入り混じっていて、なんだか水彩画家が描いたようなデザインだ。
ドイツの冬は、ほとんど太陽が差さない。日々短くなる日の長さに比例するように、心も沈んでゆく。だが、その凍てつく冬と呼応するように、人々の心を温かく守るように、作られたものがある。
「俺ドイツのクリスマスなんて、はじめてだわ」
「ーー日本とは違うの?」
「んー、やっぱ街並みもあかりのつき方も違うし……。全然違うかな」
「そうなんだ」
「あっ、なんかあっち盛り上がってる」
輝が口を逆三角形にして、あかるい笑顔を浮かべた。ゆるくあげた右手のひとさし指が示す先は、橙や黄色に透き通った赤がさっと上に重なったように入り混じったあかりが、少し濡れた黒の道路に、てらてらと照らされている。その先に小さな店・シャレーが連なっている。数列に並行になったシャレーは、赤と白のストライプの屋根の上に、じゃらりとした深緑色のもみの葉を載せ、小さすぎず大きすぎずといった形を保っていた。
リヒトは青のひとみにあかりの色を蝋燭のように灯しており、やがてふるりと水面を震わせ、街の賑わいの意味を悟った。
「ああ、クリスマスマーケットだよ」
「くりすますまーけっと?」
輝がリヒトの方を横目で見やる。雪のように白くなめらかな頬に、溶けるようなあかりの色が舐めている。
彼の表情には、慣れたものを見るような空気感があった。
「ドイツを中心に行われる、ヨーロッパのクリスマスのイベント。各都市ごとに色が違うんだけど、クリスマス限定の市場ができるんだ」
「ほーん」
「日本ではクリスマスっていつの時期なの?」
輝はぼんやりと空を見上げた。
「んー、メインになってんのは24日のクリスマス・イヴと二十五日のクリスマスかなっ」
「ヨーロッパではちょっと違うな。24日を祝日にしてる国はごくわずかなんだよね。25・6日の二日間を祝日にしている日が多いかな」
「へーん」
(そういえば今日は25日だったか。忘れちまってた)
グローブ越しに冷えた両手をズボンに突っ込み、わずかに上体を落とした輝は、鼻歌を歌うようなぼんやりとした態度をとりつつも、興味を惹かれていた。彼も文学部の学生で、研究者の素質がある若者だった。
ドイツで最も有名なクリスマスマーケットが行われているのはニュルンベルグの「クリストキンドレスマルクト」。子供たちがサンタクロースよりも気にしている、クリストキントという「こども姿のキリスト」から名前をとっている。ブロンドの巻き毛に白と金の衣装を身につけた天使の姿で表され、南部ドイツではクリスマス・イヴにプレゼントを配る存在だ。11月下旬に会場となる
「ニュルンベルグ以外にも、ドレスデンや、ハイデルベルグなんかでもやってるんだよ」
「あー、ハイデルベルグって古城とネッカー川があるとこだっけ」
「ああそう。観光地として元々人気だったんだけどクリスマスの時期は特に綺麗でね。ハイデルベルグ城がライトアップされるんだよ。赤や紫に点滅されて、幻想的でね……歴史を感じるものが、近代的な色彩で照らされるのが面白く感じるのかな……」
リヒトの鼻先に雪がひとつ舞い降りる。熱と交わり静かに溶けると、代わりにリヒトの鼻が桜色に染まった。今いる場所よりも遠くのことを考えている時の彼は、どこか凛とした空気感を纏う時があった。
その月の暈のようなうすぼんやりとした膜を剥がすように、輝は声をかけた。
「歴史あるところやアカデミックなとこに、やんや観光客が盛り上がるのってあんま好きじゃねえんだよな。騒がしいのは嫌いでね」
「いや、ハイデルベルグはそこまでアキラの好まない観光地化しているわけではないんだよ。学生たちはグリューヴァインの屋台のカウンターで議論を交わし合ったり、市民の生活の一部になってるんだ。そんな光景を見ながら、カップを片手に持ってカウンターに立つと、自分が観光客であることなんか忘れてしまうほどなんだよ」
「ふーん、お前のファミリーネームと似てるし、雰囲気も似てる感じなんだ」
「……なにさ」
リヒトの頬が、何故か鼻とひとしく、かすかに桜色に染まった。
先程の寂しげな様子から打って変わって饒舌になるリヒトに、輝はなんだか安堵していた。少し怒ったように眉を寄せてハイデンベルグのクリスマスマーケットについて弁明するリヒトは、好きなものを親に否定された少年のような必死さがあった。この顔をずっと見ていたいがために、どこかからかい続けてやりたいような嗜虐心がほんのり心に灯っていた。
口を開き、ハイデンベルグについてもっと罵ってやろうか、という意地悪な心が飛び出そうになる。だがくちびるの先に雪の破片が触れたことで、しんと冷えたものが頭のそこに舞い降りて、心も冷静になり、何か「落ち着け」とアイスブルーの雪雲に言われているように感じ、やめた。
「まだ古城の方には行ってねぇから、来年あたり行ってみようかな」
「うん」
「お前が案内してくれよ」
「え?」
「ははっ、冗談。俺もそんときまでに調べとくよ」
「……いいよ。案内する」
「へ?」
「案内するよ。僕の方が君より圧倒的に詳しいからさ」
互いに真横を見て、視線がかちあう。
そして何か今までになかった気恥ずかしい火花のようなものが、バチッとふたりの間に発生した。
輝とリヒトは本能でそれを感じ取り、胸を揺らして「はははっ」と笑った。彼らの大きく開けたくちから、わたあめのような白い吐息がぶわりと広がって、またすぐに闇に溶けて消えてゆく。
笑いの波を、互いの顔色を見やってしずめると、自然と沈黙が訪れる。
それから光を求めるように、足は共にクリスマスマーケットの入り口へと向かった。
雪に濡れた黒道が、シャレーから解き放たれるあかりを受けて一層てらてらと色彩を照り返す。赤、金、橙が入り混じって、ぽんぽんと水を含んだ筆で地面に落ちた色。内側からもれいずるそれらは、人間の体内から生まれる血潮のように、生き生きと生命力を感じさせる色をしていた。こんな寒く青い聖夜に。
「っぷし」
「アキラ、大丈夫? 本当に寒いんじゃないか。ほら、君のコート、やっぱり返す……」
「いいって! お前の方が細っこくてしろっちぃんだからそのまま着とけよ」
「で、でも……」
「着とけって」
寒空の下、がさりと音を立てて今にも厚いコートを脱ごうとするリヒトの目の前に、ぴっと五本の指を揃え、静止する。
それを受けて、渋々リヒトはコートを着直した。中が外側よりもより濃い黒をしているそれは、リヒトの手の動きに合わせるように、表面にすっと水が流れるような白い光沢を宿した。
マーケットの入り口は、夜の部にこれから入ろうとする者たちが、列をなして入っていくところだった。輝たちもそれにならい、チケットを購入して門を潜る。白いペンキが塗られた柱の上に、金色の文字で大きく「クリスマスマーケット」と書かれている。なんだかそれだけでわくわくして、輝はそっと胸元に指を置く。
マーケットの中で先ほどよりもシャレーに近づくと、頂点に金色の星が一粒飾りとして乗せられていた。
「アキラ、何か気になったり、みたいものある?」
リヒトは輝を気遣って彼をちらと見やる。
輝は自分で気づいていないのか、リヒトよりも歩調が早くなっていた。すっと通った首を巡らせながら、あちこちのシャレーへ目を泳がせている。とても興味を持っているのだろう証拠だ。だが、彼自身気づいていない。
(ドイツの歴史あるクリスマスマーケットを初めて訪れたのだから、留学生である彼が好奇心旺盛になるのも無理はない)
リヒトは心の中で静かに納得した。
「へ?」
シャンパンの泡が弾かれたようにリヒトに顔を向ける。
「んー……、そうだなー……」
輝はくるくると自分たちを囲むシャレーの群れに目配せしていたが、やがてある一点にとめた。
「あれとか」
「あれ」
輝が白い息をうすく開いたくちから漂わせながら、平行に上げた指の先を見やる。
そこにあったのは、レープクーヘンのシャレーだった。
ショーウィンドウに並べられたキャラメル色やココア色の丸くうすいそれら。輝は初めて見る食べ物に興味を惹かれ、いつの間にか足取りかろやかにそのシャレーに近づいていった。
リヒトもそれを追う。
「へぇーこんなん初めて見たわ」
輝の肩先から、リヒトがひょっこりと顔を出す。
「エリーゼン・レープクーヘンがおすすめだよ」
「『エリーゼン・レープクーヘン?』」
リヒトは視線でかの『エリーゼン・レープクーヘン』を示した。
「レープクーヘン自体はスパイス、穀物粉、ナッツパウダーからなる焼き菓子なんだ。最高級の『エリーゼン』を名乗るためには、生地の配合に規則があるんだけど……」
「そんなんいいわ! とりあえず……すみませーんおじさん! このレープクーヘンください!」
「……じゃあ、僕もそれで」
輝が選んだのは、他のレープクーヘンよりもさらに濃い色をしたものであった。
輝はおおざっぱに頬張り、リヒトは両手で大事そうに持ち、歩きながら食べていく。
その後、シグナルレッドのサンタのブーツの形をしたマグカップにグリューヴァインを入れて飲んだり、冬の昼の空のような色をしたクリスマスボウルを買ってみたり、屋台で炭火で焼いたニュンベルガー・ソーセージを食べたり、人並みにクリスマスマーケットを楽しんだ。
リヒトも先ほど会ったばかりの時よりも、輝と会話を重ねたことにより顔色がだいぶあかるくなってきていた。
クリスマスマーケットから離れると、リヒトと輝の間に徐々に沈黙が訪れた。降り積もる雪が、地に落ちていくごとに、白く染まってゆくごとに、リヒトの口数が減ってゆく。
輝はそれを気にしていたが、気にしていない素振りを見せて、一方的にリヒトに話しかけるようにしていた。
「さっきのグリューヴァイン。酸っぱいのか甘いのかわかんねぇ味だったなー。日本では酒は20歳超えねぇと飲めねぇんだけど、ドイツでは16から飲めっからな。スゲェと思ったよ」
「……」
「でも酒ってあんな味すんのな。あったかいワインっつうか……。俺はまだカフェオレの方が好きかな」
「……オレンジ浮かべたらまだ飲みやすくなったんじゃないの」
「あー。まぁそうだったかも」
リヒトは輝の方を向かずに、彼に相槌を打っていた。
輝もだんだんリヒトに気を使うのが疲れてきたのか、一つため息をこぼした。それは白くけぶるあたたかな吐息のかたまりとなり、冬の溶けた闇の中を漂う。ほのかなグリューヴァインの香りがした。
「お前んちどっちだっけ」
「え?」
「ほら。道分かれてる」
輝は顎だけで先を示した。
リヒトはくちを丸く開けたまま、前を向く。
白い雪でまだらにうつくしく汚された黒い歩道が、枝が分かれるようにふたつとなっている。
リヒトの髪がさらりと揺れて、背後の闇に端が白く溶ける。急停止したからだ。彼がくちをゆっくりと開け、何かを紡ごうと息をかるく吐いたが、それは白い吐息となって闇へと消えていった。
輝は彼が何か言おうとするのを待った。
「僕は……帰りたくない」
「……」
リヒトのひとみが揺れる。
目の前を自動車が通り過ぎて、そのあざやかなライトが彼の蒼いみなもを震わせる。
気付けば、リヒトの片手は輝の腰の衣服をぎゅっと掴んでいた。
「アキラ……僕を君の家へ連れて帰って」
さざなみのように儚く消えていきそうな声であった。
リヒトが輝の方を向く。何か切迫したものを訴えるような顔色だった。白金の花弁を持つ大きなひとみは瞠り、小石を落とされた泉のように震えていた。
雨に濡れて怯えた白い子猫のようだった。
ふたたび自動車が一台通り過ぎる。雪を踏むしゃりしゃりという音がする。
輝の黒曜石色のひとみが、青白いライトのあかりを反射するが、彼の感情はそこから感じ取れなかった。
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