第3章 第5話 月から降る雪 

 輝の前からリヒトが姿を消して、およそ二ヶ月の時が流れた。


「もう十二月か……はえぇもんだ」


 テラコッタ色の大学内を、ちら、ちらと白い雪が舞っていく。あまりにも儚いそれは、あえてはめていたブラックの手袋を外した輝の熱いゆびさきに触れると、すぐに溶けて消え、透き通った雫となり手のひらへ流れ落ちる。

 輝が着ているコートも、十月に着ていたオリーブ色のウールコートではなく、ダークブラウンのダッフルコートとなっていた。綿雪のような内側の白いもこもこが、彼の熱を保って守ってくれていた。

 

「ドイツの雪ってのは、最初こんなもんなのかな。綿雪っつうより、粉雪みてぇに、ちらちら降ってくるもんなのかな。なぁんか、想像してたんと違くてさ。こっちって、クリスマスとか日本より国中あげて豪華な印象があるし、有名だから、もっと盛大に降ってくるもんなのかなって、勝手に思ってたんだよね」


 なぁハインベルグ、といつものように隣を気取らぬ笑顔で振り返る。


「あっ……」


 そこに宇宙の奥のような青いひとみと、白と金を混ぜたようなブロンドのウェーブがかったツートーンの髪と真珠色の肌はなかった。あるのはただ、冬色に染められた灰色の空気ばかりである。


「ハインベルグ……」


 低くつぶやいた友の名は、輝のうすく開いたくちびるから白くけぶった吐息と共に冷めた空気に溶けて消えていった。そこにあるのは切なさと悲しみと、心配、そしてほのかな怒りであった。

 灰色の雪にヴェールを貼られたテラコッタ色の大学の校舎を見上げる。

 先ほどまで、輝が後期の試験を受けていた場所。そこにリヒトの姿はなかった。


「後期試験も受けさせてもらえねぇなんて……」


 あの日、薄い青空に舞い上がった醜聞の白い紙。桜吹雪のようにはらはらと散ったあれら。小麦色の額に受けたあれら。

 あの時自分は何をどう行動してやればリヒトを救えたのか。いや、リヒトにとって大学に繋ぎ止めておくことが幸福だったのだろうか。こんな汚い大人がいる大学で? だが彼は研究をしたがっていた。勉強することに一種の楽しさを見出していた。それは本や図録を眺めているときの彼の青い眸の輝きで感じとることができた。薄水色の水晶が宿されたように、まぶたを半分閉じて、きらめいていたあのひとみ。


「……わかんねぇ」


 灰色が濃くなってくる空を仰ぎながら、ぼんやりと呟く。またしてもそれは白い吐息となって天へ上がっていった。


(タバコの煙みてぇだな。タバコなんか吸ったこともねぇが)


 わざと口を窄めてふたたび吐息を途切れ途切れになるように吹いてみる。白いそれは、呼吸の泡となって天へ上がり消えていった。


 リヒトもどこかで、この灰色と白がまだらになった、この空の色を見ているのだろうか。

 

 大学の友人たちにリヒトの居場所を聞いてみたが、誰も知らないという。それもそうだ。リヒトと最も密に関わっていたのは、輝だったからだ。その他の人間は、リヒトと表面上の付き合いはあり、彼の深淵な魅力に惹かれる者も多かったが、輝ほど深く踏み込んだ付き合いをした者はこれまでいなかったように感じていた。


「……かくいう俺も、ハインベルグの家すらも知らねぇんだよな」


 友達だというのに、連絡先すら交換していない。いや、というよりも、リヒトはそういうことをどこか必要としていなかったように感じていた。ただ自然に人と人が寄り添うような関係を求めていた。会話や行動を主軸とした関係。それ以外のものを必要としないシンプルさ。


「だから俺も、あいつのことが気に入ってたのかもしれねぇな」


 互いに干渉しすぎず、その場の空気感や時間を大事にしているのが居心地の良い関係であったのかもしれない。桜の花弁が自然と枝から剥がれ落ちるように、赤い椿の花がぽとりと頭を白い雪の上へ落とすように。矢車菊の青紫の細かな花弁が、時を経て枯れて茶色く染まるように。ただただ、互いの自然に身を任せて。近づく時は近づき、離れる時は離れ。


(だから一緒にいられたんだろうな)


 リヒトとの日々を思う。枯葉色に色づこうとして、舞い降りてきた木の葉の間を共に駆けた自転車が起こした風。あのひんやりとした感触を、彼も同じように感じていたのだ。それだけで、どこか心が満たされた。今もそうだ。この十二月の雪の混じった冷えた空気を、彼もどこかで感じているのだろう。


(それだけで、俺もまだ動ける気がする)


 輝にはやることがあった。それはリヒトのために。

 輝は今度はスッと己の意思で右手のひとさしゆびを胸の高さまで上げると、指の腹を天へ向けた。それを合図にしたかのように、ひら、と粉雪がひとつ舞い落ちてくる。彼の熱に触れたそれは、さらりと砂糖菓子のように

溶けて、彼の肌の一部となった。

 輝はそれをそっと込めるようにてのひらの内側で握りしめた。雫は熱い涙のように手首に流れ落ちた。

 輝は走り出した。小さくとも降り積りはじめた粉雪が、シャリシャリと彼の踵に蹴られて割れたガラスのような綺麗な音を奏でた。透き通ったそれらは氷の花弁となって、輝の足元で花咲かせる。

 

 雪が重くなってきた。辺りの空気も闇を帯びてきて、さらに青を濃くこく重ねたような黒になってゆく。だがあまり粘着きもなく、透き通ったその闇は、輝の頬を表面から撫でて冷ましてゆく。

 そこに舞う白い雪は、よりくっきりと浮かび上がり、輪郭に街のあかりを反射して時折橙や黄色に色づき、ひらひらちいさく光っては、道路の白に重なって消えていった。

 ときおり雪道をかき分けて走ってくる小型自動車がオレンジと黄色を混ぜたようなあかるいライトを、まるでふたつの目玉のように灯して輝の輪郭を風景に溶かすように照らしては去っていった。

 

「ちくしょー見つからねぇ。どこにいやがるんだ……」

 

 リヒトがいそうなめぼしいところはすべて巡ったが、彼は見つからなかった。

 ずっと家にいるのだろうか。この薄暗い冬景色の中、自宅で? ひとりで?


「暖炉にでも当たってくれてりゃあいいが……」

 

 茜色の暖炉の前に座って、彼の頬や鼻筋が金色に照らし出されている光景が、目にあざやかに浮かび上がる。そこに映る青い眸は、夜の泉の水面のようにただ切なくさざめいていた。

 

「ハインベルグ……」

 

 彼の家庭環境を詳しく聞いたことはなかったが、エミリアの発言を聞いてから、秘められた知られたくなかった過去があったのだろうと感じていた。

 

『ーーそんであんたは昔、双子の弟がLGBTだって知って、自殺に追い込んだクソ兄貴だってこと』

 

「……」

 

 衝撃的な内容だったが、エミリアの一方的な話だけで、リヒトの過去を断言することはできない。彼女の発言については、深く考えないようにしている。リヒトが話したいタイミングが来たら、話してくれることもあるかもしれない。それまでは、自分からは聞かないことにしようと考えている。

 ただ、今はリヒトの心と体のことだけが心配だった。

 雪は降るごとに重みを増していく。白さも積もるごとに際立ち、内側から発光しているかのように、闇の中で光を増してゆく。


(あいつんこと見つけたら、もし外にいる用だったら、俺のダッフル)


 輝のさしていた赤い傘の上に、時間をかけて降り積もった雪の束が、右側へずれ落ちていく。


 どさり。


 輝の足にかからぬよう、気を利かせたようなところに白が積もった。


「あっ」


 輝は視線でそれを追った。

 黒い道路に落ちた雪は、浮かび上がるほどに輪郭を白く光らせ、目に痛いほどにまばゆかった

 輝は目をすがめて顔を上げた。傘をさっと右へ振って、ふたたび元の位置に戻した。

 前を見る。

 

「あっ」

 

 今度は別の意味の声が出る。

 リヒトがいた。

 黒と白に染まりゆき、わずかにテラコッタ色を残す街の灯りをその白金色のやわらかな髪に受け、暈を纏ったようにぼんやりと発光して景色の中に浮かび上がっている。

 

「月……」

 

 輝はうすく開けたくちびるから言葉を紡いだ。

 リヒト自身が月のようにほのかに光り輝いていた。彼に近づく雪は、きらきらとプラチナ色に色づいて爆ぜて消えていくように見える。

 リヒトは桜色のくちびるをうすく開け、瞳を上向けながらシーグリーン色の手袋をはめた両手をそっと上向けている。無のてのひら。何かを捧げるような、祈るようなそのポーズは雪化粧を金色の髪の粒につけて、どこか神々しかった。横顔から見える真珠色の頬と、

青いサファイアのひとみが、どこか透き通って儚げに見えた。リヒトもこの雪が降り終われば、共に闇に溶けて消えてしまうかのようで。うつくしさと切なさが、彼から匂われている。

 彼が着ていたのは、女物のドレスだった。

 あの夜会で着ていたものとはまた違っていた。月の色とひとしい、薄いクリーム色をしたレセプションドレスだった。腰のふくらみはなく、首すじまでを覆う薄い生地やレエスが幾重も重ねられた胸元。朝顔をひっくり返したかのようなフレアスカート。だが、彼の細い足首や、黒いブーツは見えるほどのほどよい長さ。薄くうすくクリームが重ねられたそれは、色を増して金色に煌めいているように見えていた。

 彼は肩に引っ掛けるようにパラソルを開いていた。

 パラソルの色は闇を溶かしたような黒。先端を覆うのは牡丹の花を象ったレエス。雪がパラソルに触れるたびに、白が黒の中に浮かび上がり、牡丹に触れて落ちてゆく。それだけで幻想的な絵となっていた。

 彼自身が月から舞い降りた天使のように、ぼんやりと暈を纏って輝いていた。

 

「ハインベルグ」

 

 輝は友の名前を芯に込めて強く放った。この黒い景色の中、雪のひかりを帯びて友に届くように。

 リヒトの金のまつげが震える。そこに乗っていた雪のなごりが、はらりと舞い落ちて闇に溶けた。

 

「……アキラ」

 

 蒼いひとみがはっと見開き、輝をまっすぐに射抜いた。瞳の水面は震えている。久しぶりに会った輝に驚いているのか、そこに喜びはなく、どこか怯えているようにも見える。罪人が見つかった時のような顔。灰色の影が彼の頬と目の間にうっすらと纏われている。

 ひときわ大きく震えたリヒトの瞳は、やがて海の荒波が夜になっておさまるように、静かに沈んでいった。

 リヒトの顔が自分からかすかに逸らされたのを合図に、輝は一歩彼へと近づいた。

 

「大学戻ってこいよ」

 

「停学されているが」

 

「……じゃあ教授に一緒に頭下げてやる」


 リヒトは乾いた笑いを漏らした。

 

「僕は何も悪いことをしたとは思っていない。恋愛なんて、個人のプライベートなことじゃないか。それを関係ない教授陣が何故詮索してくる? 自分のことと、他人のことの区別ができない大人なのかな。そして君もそうだよ。君だって一番関係ないじゃないか」

 

「関係あるだろ」

 

「なんで」

 

「友達だからだ」

 

「……」

 

 リヒトは黙った。

 気のせいか、彼のひとみのまなじりが潤んでいるように感じる。

 はぁと一呼吸つくと、リヒトは深く俯いた。


「……大学はこのまま辞めようかと思っている」


 輝はそれを聞いて、一拍置いて「はぁ?」と顎を大きく開けた。


「なんでだよ!」


「こんなことがあったのに、戻れるわけないだろう」


 輝は上体を落とし、がしがしと頭をかいた。

 ふたたび顔を上げる。

 

「お前は研究に才能がある。少なくとも俺はそう思ってる。大学でやりたいことがあって入ったんじゃねぇのかよ」


「……君みたいな清純な人間が、僕みたいな汚れた男と関わっちゃいけないよ」

 

 リヒトは薄ら笑いを浮かべた。

 

「は? 友達に清純も汚れてるもねえだろ!」

 

 雪景色の中で、輝のがなり声が響く。ぼやりとした反響を残すそれは、リヒトの白金色の前髪を揺らした。

 リヒトはしばし驚いて目を瞠っていたが、

やがて腹の中央を親指で押された子供のように、けらけらと笑いはじめた。

 

「アキラ……、本当に……、君は……僕が今まで出会ったことのないひとだよ」

 

 先程までの切なさや哀しみから、からりと抜け出したように、殻の中に隠された蝉のような薄青い生まれたての笑顔がころころと転がっていた。

 輝はため息のように鼻を鳴らすと、リヒトへ向かって歩き出した。

 彼らを隔てていたのは、人間ひとりぶんの背の高さを持つような黒い道路ひとつだけだった。

 リヒトが「あっ」と思う間もなく、輝は長い足を数回動かしただけで彼へと辿りついてしまった。

 目と鼻の先に、金色の友人がいる。

 親友と、呼んでもいいのだろうか。

 今はまだ、わからない。

 むすっとした顔をした輝を、唖然とした顔をしたリヒトが見つめている。目と口はまるく、サファイア色の瞳が降る雪をうつして、きらきらと水色のあかりの粒を灯している。

 

「アキラ」


「ほらよ」

 

 輝は自分が首に巻いていた椿色のマフラーを片手で解くと、そのままくるりとリヒトの首へ巻いた。

 レセプションドレスから覗いていた細く白い首すじは、雪の上に椿の花弁がいくつも落とされたように真紅を纏った。

 

「ア……」


『アキラ』と紡ぐ前に、目の前の夏を体現したような髪をした友人は、ポーカーフェイスの表情を崩さずに、くちびるを引き結んだまま自分の着ていたダッフルコートを脱ぎ出した


「はっ……? ちょっとアキラ何をっ……!」


「うるせー。お前は細っこいんだから、これも着とけっ」

 

 有無をいわさず少し強い力で、リヒトの背中を片手で寄せると、輝の顔に近づいたリヒトの頬は、ほのかに薄紅に染まった。

 輝はそれに気づかず、中に着ていた黒のシャツ一枚となると、「さみぃ」と歯噛みして一言呟いてから、リヒトへ己のダッフルコートを着せた。

 ふわりとマントのように纏われたそれは、リヒトの細い体をさらにさらに包み込んだ。

 未だ冷めやらぬ輝の体を包んでいた名残の熱が、しんと雪で冷えかけていたリヒトの体をじんわりと外から温める。

 リヒトの透き通るように青褪あおざめていた白い肌も、じわりじわりと首すじから桜色にのぼせ上がり、それにつられるように輝を見上げた。

 

「ほら帰るぞ」

 

 リヒトのあどけない青い瞳と視線がかちあうと、にこりとはにかんだ。

 

「アキラ……君は?」

 

 リヒトは長い金のまつげを震わせながら輝を見上げた。間にある暗闇と星くず、そして雪がそっと彼の鼻先に舞い降りて触れ、深夜の湖のように潤んでいる青いひとみに吸い込まれそうになるのを拒みながら、輝は言った。

 

「夏生まれの道民なめんじゃねーぞ」

 

「ドウミン?」

 

 輝はこたえず、体をくの字に曲げて大きなくしゃみをひとつすると、リヒトの背中に腕を回して、彼を雪景色の中から連れ出した。

 青と白の闇の中に、ぼんやりと漆黒のパラソルと赤い傘が残像のように浮かび上がって街のあかりに溶けて消えていった。

 ふたりを見かけたドイツの民は、恋人が雪の日に待ち合わせたのかと勘違いしていた。

 ただ、男はコートを着ていない強さを持っており、いぶかしさを人々に残したが。

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