第3章 第4話 あきらめきらきら

白を含んだような金の髪が、薄暗い教授室の中でかすかに揺れていた。


「……リヒト・ハインベルグくん」


 静かな凪のように佇んでいるリヒトの目の前に座る教授は、裁判官のようだった。その教授は美術史科の中で1番年嵩で、かつ文学部の学長であった。ディーデリヒ・ヴォルフ。人に怒ることで己を保つような、そんな性格の男だった。

 リヒトは学業の面で、何回か彼と関わりを持ったことがあったが、権力者にはなびき、弱い立場にいる者には厳しく接するそんな態度が嫌で、本能的に彼を避けるようになった。ーーまさか、こんな形で真正面から関わらなければいけないことになったとは。


(ハインベルグ……)


 リヒトの周りには、その他に複数の教授もおり、アーダルベルトもいた。彼はリヒトを庇おうとしたが、他の教授陣の圧に勝てず、歯痒くくちびるを噛んで、責められるリヒトを薄暗闇の中で見守るしかなかった。


(エミリアだな)


 リヒトは静かにことの犯人のことを思った。

だが、不思議とエミリアに憎しみの感情はなく、ただただ切なさと、彼女への哀れさが滲むだけだった。

 闇の中を揺蕩っていた、彼女の炎色の髪がぼんやりと閉じたまなうらに浮かんで、何も残さず消えてゆく。

 四角く彼を囲う無機質な色をしたデスクが、天井にぽつりと灯る白い照明を跳ね返してリヒトの頬を照らす。その人工的なまっさらさが、さらにリヒトの心を冷えさせた。


(どうでもいい。すべてがどうでもいいな)


 そんな「どうでもいい」世界の中で、はっきりと陽光色の輪郭を纏っているのは、彼が親友だと感じているひとりの男だけだった。


(他のどうでもいい人間には、僕のことをどう思われても構わない。でもアキラ……君にだけは)


「……君にだけは知ってほしくなかった」


「発言はこちらがして良いと言ったときにだけするように」


 ディーデリヒからわずかに右へと視線を逸らし、静かにつぶやいたリヒトに鋭利な釘が刺された。

 ディーデリヒの、怒りを含んだ低い声。次いでぱたりと鳴ったのは、ディーデリヒが太く毛の浮いたゆびで摘んだ鉛筆で、デスクを鈍く叩いた音。


「もう一度聞こう。ここに書かれていることは本当なのかと聞いているんだ」


 ディーデリヒが語尾を強めた。そうして手元の書状に目を落とし、汚い羽虫でも見つけたかのように顔を歪めた。


「……いくら20歳を超えているからといって、不純異性交友が過ぎるだろ」


 リヒトは青い眸だけを彼に向ける。その視線が氷のようにつめたかったので、さらにディーデリヒの怒りを煽った。


「……はっ、本当のようだな。娼婦のような目をしおって」


「ヴォルフ教授! 今の言葉はあまりにひどいのではーー」


「いいんです。どうせ僕はどこへ行ってもこうなのですから」


 諦めたような乾いた笑いが、形の良い桜色のくちびるから漏れた。

 リヒトの顔は、前髪が下がり、目元の表情が見えずらくなっていたが、どこか切なさと悲しみを帯びていた。

 ディーデリヒは咥えていた艶を帯びたワインレッドのパイプタバコをそっと尖ったくちびるから離すと、リヒトに届くかのように煙を吐いた。

 リヒトはかすかに消えゆく煙のはしきれを鼻先とまつげに受けてしまい、不快そうに顔を歪めた。

 ディーデリヒは焦がした飴色の革を張ったシングルソファに背を深く預けると、リヒトを見下すように小首を傾げた。


「……反省の色が無いようだな」


 仕方ないな、と他の教授に同意を求めるように周囲を見渡す。


「リヒト・ハインベルグ。君を冬の間、停学処分にする」


 リヒトがゆっくりと顔を上げた。

 ひとみはまっすぐにディーデリヒを見つめている。静かなふたつの氷のつぶが揺らいで、その奥に青いガスの炎が燃えているようだった。


「冬の間!? それでは後期試験が受けられない。進級のかかったそれを受けられないというのは、あまりに酷いのではないですか?」


「大学中の生徒にはれんちな記事を見せて、混沌させた罪は重いだろう。……こんな生徒の将来など知ったことか」


 アーダルベルトがさらにディーデリヒに抗議しようと体を前のめりにさせたが、リヒトは片手をアーダルベルトの方へ向けて、それを制した。


「甘んじて受けましょう」


「ハインベルグ!」


 リヒトはうっすらと口角を上げていた。そして羽織っていたラベンダー色のコートのポケットに両手を入れ、踵を返して教授室を出ようとする。

 古びた鋼色のドアノブに白く細いゆびさきをかけた刹那、背後から含み笑いが聞こえ、動きを止めた。


「まぁ噂の通り、間近で見れば君に惚れる者の気持ちもわからんでもない。私にも性接待して、停学を撤回するという手もあるんだよ?」


「……失礼します」


 リヒトは先ほどよりも一層ドアノブに込める力を強めた。勢いよく引いて、廊下の冷えた秋の終わる空気を感じたとき、何か諦めに似たものが、彼のなめらかな頬を撫でた。


 等間隔にあかりが灯っているはずの廊下が、すべて灰色に見える。ラベンダー色のコートからピーコックグリーン色のスラックスをゆるりと交互に動かし、歩いていた。床を辿るような足取りは、ぼやけて揺れているようだったが、瞳は虚なまま、かたりと大きく傾いで、狭い廊下を両端から阻む壁のひとつにその身を預けた。

 ずるりと下へ落ちるように、リヒトの体が団子のように丸くなる。ラベンダーのコートにその震える体を守られているようだった。


「……アキラ……」


 リヒトはさらに青く白くなった顔で、己の細い身を抱きしめると、ただひとりの友の名前を呼んだ。

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