第3章 第7話 君に真の友情を明け渡そう 

「着いたぜ俺んちー」


 ばさり、と輝が自分のコートやバッグをベッドへ置く音がする。

 動かないリヒトからパラソルを受け取り、自分の傘と共に鈍い銀色の傘立てに立てた。反動で傘についていた粉雪がはらはらとこぼれ落ちる。

 輝の部屋は灰青色に染まっていた。冬の夜が静かに訪れている空気の中、背後でリヒトが黙って立っているのを感じ、輝は急いで部屋のあかりをつけた。ぱちぱちと明滅したあかりは、ぱっと華やいで部屋を人工的な白に染める。

 ゆっくりと背後を振り返ると、怯えたような顔で俯いているリヒトがそこにはいた。

 輝は頭をがしがしとかいて、リヒトに手の差し伸べたが、寸でで思いとどまってそっと腕を下ろした。


「俺の部屋、怖い?」


「いや……別に」


 輝はリヒトの腕を見下ろす。かすかに震えている。赤いパラソルから逸れた粉雪が、さらりと剥がれる。

 リヒトのめた白い横顔は、ひどく不安そうに見えた。

 輝は眉を寄せるとリヒトを己の白いベッドへと誘導した。


「座れよ」


「……うん」


 リヒトのうすい背中に片手を伸ばし、ゆびさきでそっと触れると、かすかに震えているのが伝わってきた。

 輝はさらに眉を寄せる。リヒトを数秒見つめた後、ひとつ吐息をこぼし、キッチンへ向かうと、腰をかがめて棚から自分のマグカップをふたつ取り出した。

 ひとつはヘブンリーブルー、もうひとつはピーコックグリーンの色をしていた。

 割と手際良くホットミルクを作り、銀のさじにひとさじの琥珀色のはちみつを垂らすと、ぷくり、ぷくりとはちみつの気泡きほうのようなものが浮いてくる。

 輝はそれを確認してから、両手でふたつの取手を掴むと、リヒトの方へと戻り、ヘブンリーブルーのマグカップを彼に差し出した。

 リヒトは最初うつろなまなざしでそれを見ていたが、マグカップから乳白色の湯気が立っているのを見つめ、徐々に生気が戻っていった。青が濃くなっていくのだ。


「おら」


 輝はリヒトの鼻先で、軽くマグカップを振った。ミルクの水面が揺れ、きらりと琥珀色が光る。

 リヒトのひとみにも、同様の琥珀色が揺れる。彼は立ち上がり、食事以外の何かを求めるように、マグカップにそのゆびさきを伸ばした。


「……ありがとう」


 リヒトが細く白いゆびさきで左右から覆うようにマグカップを持つ。雪色の花弁が閉じるようなその仕草に、指の先に淡い紅色がともっていた。そして、小刻みに揺れてかすんでいる。


「……飲め」


「……ん」


 白いのどぼとけが上下し、ホットミルクがリヒトの血肉になっていくのがわかった。細い体からは一見わからないが、尖った彼ののどぼとけの存在が、彼も男なのだと明確に告げている。輝とおなじ。

 雪のように白くさめていたリヒトの頬が、桜が開花したようにゆっくりと薄紅に染まっていく。ホットミルクが、リヒトの血肉になっていく。芯から冷えていた彼を温めてゆく。


「……はっ」


 リヒトが頬と同じ色をした桜色のくちびるをカップから離した。わずかなリップ音がする。

 リヒトが顔を上げる。

 凪いだ静かな青が、輝の黒曜石色のひとみをまっすぐに打つ。揺れる彼のそれに、輝は静かだった心をかすかにざわつかせた。


(こいつ……ほんとにやべえやつだ)


 人にそれほど深く興味を示さない輝でも、リヒトのまなざしや白い肌、声、白を含んだウェーブがかった金髪には惹かれるものがあった。彼の魅力に惹かれない方がおかしな気がする。輝も友人としてそばにいながらも、どこか胸がざわつく瞬間があった。それは心の奥底で埋み火のように一度爆ぜては何事もなかったかのように、ただ静かに消えてなくなるものではあったが。ーー輝は異性に対しても、同性に対しても、恋愛脳ではないからだ。

 見慣れた白い部屋に、ドレスを着た白い男がいるというのはなんだか落ち着かないことだった。


「エミリアが言っていたことは、真実だ」


「……は?」


 リヒトは罪悪感を抱いたように、輝から目を逸らし、マグカップの白い水面を見つめた。

 輝はその水面がかすかに揺れているの感じていた。リヒトのゆびさきは止まったままだというのに。

 リヒトがふたたび話し出すと、マグカップを覆った彼のゆびさきは、はっきりと震え始めた。

 俯いた彼の顔は、灰色の影をまとい、桜色のくちびるは、ホットミルクを飲んだばかりだというのに、青ざめはじめていた。


「……君も気になっているのだろう。あの話のことを」


 リヒトが試すように輝を見上げてくる。前髪からのぞく蒼い片目は、どこか鈍い狂気を孕んでいるように見えた。いつもの冴えた光が失われている。


「別に。微塵も」


「ははっ、そうか……」


 君のそういうところが、僕は好きなんだなとリヒトがちいさくつぶやいたが、輝には聞こえなかった。


「話したくねぇんだったら、言わなきゃいいんじゃね?」


「……でも、君には、君にだけはいつか僕のことを話しておきたいと思っていたんだ。今日がそのときのような気がする」


「……ふうん。まぁ、お前が話してぇんだったらそうすりゃいいけど。俺は黙って聞いとくだけだからさ。特に解決に向けて、深いアドバイスも出来ねぇし、その話聞いたからって別

にお前との関係変えるつもりもねぇ」


「……ありがとう」


 リヒトは霞のように笑った。そのつぶやきには、冬に灯した蝋燭のような、穏やかなあたたかさが滲んでいるように聞こえた。

 しばしの沈黙の後、リヒトは少し息を吸って彼の過去を語り始めた。


 外で雪が降り積もる音が聞こえていた。さらさらと鈍い鈴が鳴るようなそれは、リヒトと輝のふたりの間にとばりのように流れている沈黙を少しずつ拭うようにさらっていった。

 リヒトはルドルフとのことを全て輝に語った。輝はそれを、驚いた顔もせず、ただくちびるを軽く引き結んで、遮ることなく聞いていた。輝が背後にし、両手を置いた窓の桟は、彼の小麦色のてのひらを、つめたいしずくで濡らしていた。

 輝が指を動かす。

 軽く握られた彼のゆびさきから、しずくが部屋の壁を伝ってこぼれ落ちていく。

 輝はゆるく俯いて足先を見ていた。

 やがて輝は顔を上げる。笑みをたたえたその顔は、背後の黒に白がとつとつと落ちてゆく雪景色を逆光にして、あかるい笑顔を咲かせたまぶたに、白い影を宿していた。


「……ありがとう。話してくれて」


「……アキラ」


「俺、嬉しいよ。お前が話してくれて」


 輝は微笑んだまま、リヒトの方へ歩み寄った。リヒトは何をされるのだろうという気持ちになっていたが、輝はリヒトが両手で覆うように持っていたマグカップをそっと受け取ると、それを近くの丸テーブルに置き、彼を抱きしめた。柔らかな力で、羽が触れるような強さだった。


「アーー」


 輝が僕を抱きしめている。

 リヒトはその事実に体を固くする。みはった目は、より深く青く澄んでいるようだった。

 先ほどまで鈍い揺れを見せていたが、今は微塵も動かない。

 固まったリヒトの視界は白く、時が止まったかのように感じた刹那、輝の抱擁の力が緩んでいくのと同時に、何か濁ったものがはらわれてゆくかのような感覚になった。


「アキラ……。僕はーー」


「リヒト」


「えっ?」


 輝が僕のことを、リヒトと呼んだのか?

 リヒトから剥がれた輝は、彼の二の腕に最後にそっと触れると、本当に溶けるように離れ、真っ直ぐに彼と向かい合った。

 互いに言葉は要らなかった。

 雪だけが、窓の外で降り積もっていた。

 リヒトは、輝に真の友情を明け渡したのだった。

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