第3章 第1話 すべてがオレンジだった

 ほろほろと白い砂糖菓子がいくつもライトブルーの空からこぼれ落ちてくる。

 輝はそれらの光をてのひらで受け止めて、温度を確かめたい気持ちになった。だが、今の自分のてのひらは、ほどよい弾力をはらんだ自転車のハンドルを握っている。小粒の砂を蹴るように駆けるそれは、陽光に照り映えてなめるような鈍い光の粒をぽつぽつと黒い車体に浮かべている。感触はないだろうが、どこかその光には、やわらかくほどけるような感触が宿っているような気持ちになっていた。それほどに、心が坂道を駆け下るのと同時に、空に近づいて浮き上がるような、そんな秋の昼下がりであった。

 九月。

 初夏の夜会から数ヶ月が経ち、肌を焼くような暑い真夏を通り過ぎると、いつの間にか涼やかな空気に満たされ、息のしやすい季節が肌が撫でている。季節の移り変わりはいつも突然で、自分の周囲の人間との距離感もいつの間にか変化している。

 リヒトとの関係は、あきらかに夜会の前後で変わっていた。いや、その前にサンドイッチを共に食べたあの透き通った夜の公園からだろうか、今となっては曖昧すぎてわからない。

 ただ彼らはそれからというもの、示しあわせもせずに隣で過ごすことが多くなった。呼吸をするように、土が水を求めるように、リヒトはいつの間にか、猫が飼い主の元へそっと歩いてくるかのように、輝の隣に自然といる。輝もそれを違和感を感じず、いつの間にか受け入れていた。彼は人間関係への執着が人よりもないため、寄り添ってくるものは拒まず、また去っていく者も拒まない性格をしていた。

 リヒトにはその距離感が、ひどく心地よかった。


「アキラ。見て」


「へ?」


 輝が能天気な顔に似合わず、背後の友人に対する関係の変化への物思いに耽っていると、

 朗らかなリヒトの声が自分を呼ぶのを感じた。男の声だというのに、水を含んでいるような透明感がひそんでいると、輝は密かに感じていた。彼に告げることはなかったが。

 頬が輝の頬を撫でる。なめらかで真夏を越えてわずかに焦げた健康的なそれは、川辺の水を含んだような心地よいつめたさを宿す風に触れても、動じることはなく、ただ受け止めて流す。

 輝の腰を力強く掴んでいた華奢な二本の腕が剥がれ、ふわりと宙へ舞い上がる。

 輝は刹那、首をわずかに曲げ、背後の彼を仰いだ。

 リヒトはバランスを保ちながら、すっくと

 上半身を伸ばしていた。西洋人らしくすらりと背の高い彼の、光を凝縮したような色をしたうすい黄金色の髪が、やわらかな風に静かになびいている。

 同じ色をした長いまつ毛を上向かせ、彼は心からの笑みを、その白い顔に浮かべていた。


「ははは! 気持ちがいいや。鳥になったみたい」


「おい、あぶねえから長時間はやるなよ。気ぃつけろ」


「はいはい。わかってますよ」


 そう言いながらも、リヒトはけらけらと楽しそうに煌びやかな笑い声を立てている。もう二十はたちを過ぎてた青年だというのに、こうしているとただの幼い少年のようだ。

 輝は鼻をかすかに鳴らすと、前を向き、背後の友人と共に秋の穏やかな風を受けた。

 ドイツの公園に広がるみどりは幾重も糸を織り込んだかのように深く、黄土色の道を走る彼らを飲もうとするようにも、やわらかくいだいて見守っているようにも見えた。ちらちらと虹色を帯びた太陽のひかりが、輝のまなうらを差し、彼はときおり目を細めた。額に滲んだ汗は、すらりと乾いていて嫌味を感じないものだった。髪と同じように、短く刈った黒い眉に光を取り込んだ汗が粒を持って降りてくる。


 一瞬、輝の声も、リヒトの声も空気の中から消えた。

 自転車が、からからと土を蹴る小君良こきみよい音だけが、彼の耳朶じだの中を転がる。土と葉が擦れる、さやかな昼だけがそこにあり、輝は自転車を漕ぎながら風景に溶けてゆくように感じた。通り過ぎてパステルカラーに入り混じっていく緑と黄色の色彩を視界いっぱいに感じながら、輝はリヒトの夜会での姿を思い返していた。自分でも無意識に像を浮かべていた。緑と黄色に重なるように、ふわりと陽炎のように淡い紫のドレスを纏ったあの日のリヒトが現れる。青を重ねた夜の色。白い星が砂のように散っているあの日の窓から見えた空に重なって、リヒトが輝の手を引いて、からからと笑いながらくるくるとつま先を立てて踊る。彼の白い頬の片方を、夜の薄青の星あかりがさざなみのように撫で、赤と金のシャンデリアが天からふりそそぐ夜会の舞台の中に淡く滲んでいた。

 あの時のなんともいえぬ高揚感と一体感は、今まで一度も味わったことのないものだった。

 握られたリヒトのてのひらの温度。それは男にしてはかすかにつめたかった。清らかな水に浸した手を、純白のタオルで拭ったような。己の厚く乾いた小麦色の手を掴む彼の手は、指が長く肌理きめが細やかで、踊る動きと合わせて表面がきらきらと真珠色の光沢を放っていた。彼の笑顔と合わせて、まぶしさにこの世のものとは思えないような酔った心地。あの感覚は、いまだに奥底に潜められた輝の細胞を震わせている。彼でも気づかないほどのこまやかさで。


 両腕を広げて低い空を滑空していたリヒトの指先の腹が、触れるか触れないかという重みで、輝の肩に降りてきた。その感触で、輝は一重の瞼をそっと上げた。


(そういえば、なんでハインベルグは俺の渡したスクランブルエッグのサンドウィッチを食べながら泣いたんだろう。なんで夜会で女物のドレスを着てきたんだろう)


 背後の友人に対する疑問がふわりと湧いてくる。だがその疑問に対する答えを、聞けるほどの気軽さは、未だに輝の中では生まれていなかった。その真意についてはわずか時を経た今でも、知らずにいる。

 ドレスを着たリヒトは、何かの闇から解放されたかのように見えた。だがその闇の正体が何かはわからない。そのことについて、こちらから聞かない方がいいような気がしている。


「ちょっとアキラ! 危ないよ! 前見て前!!」


「へっ? うわっ!!」


 キキーというブレーキ音と、黒く細い車輪が不自然に横を向く。細かな砂が宙を舞い、ぱらりとまた土の上に戻った時に、輝とリヒトを乗せた自転車が横倒れになる。

 輝は咄嗟に、右腕で自転車を脇にあった深緑の草むらの方へ投げると、背後のリヒトを支えるように両腕で抱えた。

 リヒトは訳もわからないまま、目の前のあたたかな体に目を瞑ったまま抱きついた。


 うすぼんやりとした灰赤色の視界が横に破れ、輝の黒曜石色のまなこは、雲ひとつないライトブルーの空、下方からちらちらと揺れる金の葦のようなーーリヒトのブロンドが映った。


「ハインベルグ……」


 リヒトは輝の胸に左頬をそっとあずけ、鼻からかすみのような息をしている。白く丸い瞼は、時折血流が動いでぴくぴくと動き、彼の花弁のようなわずか上向いた長いまつ毛を震わせている。毛筋の間に宿る雫は、彼らが身を投げた草むらの朝露が跳ねたものであろう。

 そのひとしずくが、はらりと輝の胸板に落ちた時、リヒトははっと目を覚ました。

 空よりも濃い色をした、彼のひとみが、ガラス玉がこぼれるようにあらわれる。リヒトは呆然としていたが、やがてひとみを震わせる。


「ハインベルグ、大丈夫か?」


 輝もまた薄くくちびるを開け、己の胸板に上半身を預けてくたびれているリヒトを見下ろしていたが、唖然とした顔で自分を見つめるリヒトが、徐々にその白い頬が開花していく桜の花弁のように染まってゆく。

 輝がリヒトへと緩く片腕を伸ばすと、リヒトは、弾かれたようにばっと上体を起こした。

 何かに怯えたようにもみえるその行動は、彼の飴細工のような心の繊細さを際立たせた。


わりぃ! 怪我なかったか!?」


 輝も夢から現実に引き戻され、頬を叩かれたように上体を起こした。そうしてリヒトに顔を近づけると、リヒトは恥ずかしそうにぱっと横に彼から顔を背けた。


「べ、別に」


 耳と前髪の横から覗く頬が、白い光の輪郭を描き緩く流れている。そこからもれいずるように、赤みを増して熟れた桃色に染まった頬が見えている。

 だが輝は、その赤みはリヒトが怪我をしているものかと勘違いし、リヒトのこめかみへと手を伸ばそうとすると、リヒトは恥ずかしがってその手を羽虫を落とすように軽く叩いた。

 輝は叩かれた己の手の甲を唖然とした顔で見やると、むっとしてリヒトを睨みあげた。


「人が心配してやってんのに、なんだよその態度! まぁ怪我ねぇんだったら、俺も別に構わねぇけど」


 輝は諦めたようにリヒトから視線を剥がすと、片手を後頭部に置き、黒く短い髪をがしがしとかいた。

 リヒトは輝のことを真顔でじっと見つめていたが、一度まばたきし、不貞腐れたように顔をそらした。気のせいかくちびるがかすかにとがり、少し青みのある桜色のそれに木漏れ日の白く清らかな光が当たっている。

 輝は軽くため息をつき、膝を払うとぱっと立ち上がった。そしてリヒトの方へ数歩足を進め、背を曲げて彼にすっと腕を差し伸べた。

 リヒトは眸だけを動かし、目の前に差し出された輝のゆびさきを見やる。白い昼のあかりの灯った輝のそれは、今だけリヒトには眩しく見えたらしく、彼はそっと瞳をすがめた。

 その様が輝にはリヒトが自分を拒絶しているように思え、かすかに眉間を寄せた。


「なんだよ。嫌なのか」


 リヒトは輝に視線を落とした。見下ろすような形で、彼の蒼いまなこが真っ直ぐに輝を射抜く。


「……嫌なわけないだろうが」


「ん?」


 小声のつぶやきは、彼らの頭上に吹いた、水をかすかに含んだひややかな肌感触はだざわりの秋風によってすぐに消えた。秋の色に彩られた小さな葉の群れが、擦り合い、さらさらとした音を奏でる。重なりは緑と黄色が萌えるような濃き匂いを生み出し、さらにそれに雲ひとつない天からの真白い陽光が重なり、彼らの頭上で輪郭をまばゆく光らせていた。

 リヒトと輝はいつの間にか共にうすくくちびるを開き、秋の葉をあおいでいたが、ふっと意識を互いに戻し、首をかすかに落とすと互いを見つめた。

 今まで葉の間からこぼれていた空の色が濃くなったような青が目の前に迫っていると輝は感じた。その青は、リヒトの瞳の色だった。

 彼のそれは、中央へ向かうごとに空色が海の色と混じり合い、青くあおく滲んでゆく。空を飛び越えた奥深くの無空間が、その奥に広がっているように輝は感じ、何故だかそれを危険に思った。

 そっとその色から目を逸らすと、ふいにリヒトは切なげに金の眉を寄せた。彼の瞳が一瞬灰青色に鈍く光ると、まぶたを伏せて沈んだ海の底の色に変わり、冷めたものを残した。

 輝はリヒトが自分と等しく目を逸らしたのを首筋の気配で感じ取り、彼にふたたび視線を戻した。

 顔を横に逸らしたリヒトは、右側の首筋だけに、陽光のひかりが撫でるように灯っている。きらきらとした朝露あさつゆのような白が点を描くように等間隔に彼の輪郭をぼやけさせている。

 輝はそれを茫としたまなざしで見つめながら、今ならリヒトに涙の理由やドレスの意味を訊けるのではないか、と考えていた。

 だが、彼がふたたび輝を真っ直ぐに見つめ直したのを感じ、青の虚空と視線がかちあうと、それをすることを無意識にやめて、横たわった自転車を取り戻すために、ためらいなく立ち上がった。

 

「おわっぷ……!」

「ははっ、アキラ。大丈夫?」

 リヒトのけらけらとした笑い声だけが、この薄暗い書庫にある、金色のともしびのようだった。

 輝とリヒトは学科の閲覧室にふたりでいた。

 他の学生はもうすでにおらず、扉の開いた書庫と、隣にあるデスクがいくつか置かれた閲覧室。夕日が窓ガラスからいくすじか差し込み、使い込まれて飴色になったデスクの表面を舐めている。きらきらとした鈍い火の粉は、ほこりが夕日色に染められて穏やかに舞い降りているもの。

 今だけーー今だけ、そこは彼らだけのものとなっていた。

 輝はリヒトと共に書庫で選んだ数冊の論文集や図録を両腕に抱えて、閲覧室へと移動した。

「レポートとかマジでめんどい……。なんで文学部なんかに入っちまったんだろうって思うわ」

「4000字とか5000字書いてるとき、自分って文章のマゾなんじゃないかって思うときあるよね」

「あるある」

 他愛無い会話をしながら、リヒトの方が窓に近い席へ、輝がその隣へと座った。

「アキラは何について書くの?」

「あ?」

「レ・ポー・ト」

「あー……」

 リヒトの頬は、西日に当てられて輪郭を橙にじわりと染めている。

 輝は真珠色と暈のように入り混じったその色に魅入られそうになる自分に気づき、あえて興味なさそうに手元の資料に視線を落とした。

 節くれだったゆびさきで、図録のカバーをそっと撫でる。

 ざらりとした質感のそれは、暗緑色あんりょくしょくでかすかに青緑の光沢をしている。細やかなすじを撫でていると、舞い降りるほこりのような気持ちになってくる。穏やかで凪いだ感情だ。 いつの間にか撫でることに意識が集中し、無意識に背中を丸めると、彼が着ている紺青色のベストの毛羽立ちに、リヒトとひとしく橙の日の光がひらひらと撫で始めた。

 リヒトはそれを見やっていたが、閲覧室に漂っていたかすかなほこりが、輝のそれにふわりと落ちたのを見て、そっとかたわらの窓を開けた。金色に染まったほこりは、光を凝縮した粉雪のようで、リヒトの青いひとみの表面にまぶした金がちらつき、一度まばたきをする。

「雪舟にしようかなって考えてる」

 夕方の穏やかな沈黙を破った輝の声は、低いがよく通るものだった。

「セッシュウ?」

「ほら、水墨画家の」

「……ああ」

 輝が図録から顔を上げてリヒトの方を向く。

 その手はいつの間にか分厚いページを開いており、雪舟の一枚の絵画を指し示していた。

 リヒトはわずかに彼の方へ肩を寄せ、あどけなく目を丸くして図録を覗き込む。

 輝が示した先にあったのは、雪舟作・慧可断臂図えかだんぴずだった。ぼかしたほどの薄さで描かれた太い筆の輪郭で描かれた仏の男が、もうひとりの仏の男に切った己の腕を差し出している。仏の男は苦悶の表情を浮かべている。切った己の腕からは、水墨のモノクロの世界に似合わずあざやかな血があふれており、なまなましい痛みを表していた。

 リヒトは思わず形の良い眉をひそめた。だが、目を逸らせないほど、何か心の奥底を惹きつける魅力のある絵画だった。あまりにも有名な絵画。だからこそ伝えられ続け、人々の記憶に残り続ける。

「これ? この絵が雪舟の中で一番好きなの?」

 苦虫を噛み潰したような声出しやがって、と輝は思ったが口には出さなかった。

「まあな」

「ふうん。良いんじゃない。アキラっぽいよ」

 俺っぽいっ、てなんだよ。

 そう突っ込もうかと黒く凛々しく太い眉を寄せて隣のリヒトを見やったが、リヒトも同時に輝の方を振り返ったのか、金色の花弁のような長い睫毛に覆われた青い眸と白い頬、くっきりとした二重が目と鼻の先にあった。輝は身を固くした。

 リヒトは輝と間近で目が合うと、頬を緩くふくらませて、含み笑いを浮かべた。白い頬の頂点が、オレンジの薔薇色に染まる。彼の髪は背後の硝子窓からの逆光を受け、外側から燃えるように橙に染まり、微かな波のごとく揺れていた。

 窓からさす夕日は、透けたうすいシルクのように、幾重にもゆらめいて古い匂いの満たされた閲覧室の中を揺蕩っていた。

 今この時だけ、すべてがオレンジだった。

 時間も、光も、本たちも、リヒトと輝も、すべてがオレンジに染め上げられていた。

 

 輝は橙に染まるリヒトのまるい瞼とその先に広がる金の睫毛のすじを見ていてぼんやりと己の心に湧き上がるものの輪郭を触ろうとしていた。

(俺がこいつに感じてる、このよくわかんねぇ気持ちはなんなんだろうな……)

 目の前のリヒトが、どこかおぼろに見えるのは、意識を自分の感情へと移しているからであろうか。

 リヒトは輝が自分をまっすぐに見つめているのを感じ取って、うっすらと口角を上げて嬉しそうにしている。頬の頂点は桜色に染まっている。橙の空気の中でもその薄紅は、揺れるようであるが、はっきりと色彩を放っている。

 成熟しきり、あとは時を経て散るのを待つばかりの満開の花のように綺麗だと感じていた。男にこのような感情を抱くのは初めてのことだったので、その感情の輪郭に気づいたとき、彼は無意識に黒の瞳を揺らしていた。

 自分に対し、ほころぶように距離を近くし、心を開いて接してくれるようになったリヒトに対し、輝もどこか彼のことを「可愛い」と感じるようになっていた。その感情は、なんだかこそばゆい。

(俺変なのかなー。男のこと可愛いなんて思うようになるなんて)

 ポーカーフェイスで眉を少し緩め、戸惑う。

(まぁ恋愛感情ではない。確かにない)

 図録に這わせていたゆびさきを離し、両腕をゆるく組む。

(ハインベルグのことを可愛いと思っていることは確か。でもさぁ、これって男に感じてるっていうより、なんてぇの? 懐かなかった猫が、時間かけてやっと懐いてくれた嬉しさってやつ? それじゃね)

 輝は首をかくかくと動かし、自分を納得させた。誰に対しても平等な態度で接し、かつ踏み込みすぎない彼は、自分の新たな感情に戸惑っていた。

 うすい瞼を上げ、リヒトを見やる。

 オレンジのヴェールに包まれた彼は、いつもよりも儚げな印象を纏っていた。

 猫に例えるならば、チンチラゴールデンだな、と感じていた。

橙の陽によって、髪の輪郭が左から溶けて少し焦げた金に染まった女神のようなリヒトを見つめながら、輝はすんなりと素直に感じた。

 図録の古い紙を撫でるオレンジが、より一層濃くなっていく。目の端に捉えたそれが、蜜柑色の光の粒を散らばせていく。

 輝は目の前のリヒトが首を落とし、じっとそれを見つめているのを感じた。儚げなその横顔は、なめらかで少し切なげだ。橙の時の中に白さが際立っている。

「……そろそろ夕日の時間も終わりかな。僕たちもこの部屋を後にしようよ」

「ああ、そうだな」

 リヒトはこの金色の時間を振り切るかのように、ぱっと輝の方を向いた。数秒前と打って変わり、華やかで明るい笑顔の花をその白の中に咲かせている。

 輝は軽く驚いて瞬きをした。

「ねぇ、それじゃあサンドイッチでも食べに行かない?」

「あー、前の公園のところでか?」

「うん!」

 そっと真珠色のゆびさきをデスクの上に揃え、とびきりの笑顔の花を咲かせる。

 輝はきらきらとした夕日色の粒をまばらに宿しているリヒトの魅力的な顔を、動じずもはにかんだ笑顔で見やり、音を立てて席を立った。

「この前は奢ってやったけど、今度はお前が食いたいサンドはお前が金出せよな」

「わかってるって」

「今何食いたいの」

「んー、サーモンとクリームチーズとかかなぁ。輝は?」

「んー俺はー、なんだろうな……あんま腹減ってねぇからリヒトの食いっぷりでも隣で拝んでやろうかな」

「また! やめろよそんな冗談!!」

 にやけ顔で隣のリヒトを見やると、彼は紅葉のように顔を真っ赤に染めていた。

「は? なんだお前ーー」

「うっさい!!」

 輝が訝しんで尋ねる前に、リヒトは顔をしわくちゃに真ん中へ寄せると、輝の肩を片手でバンバンと叩いた。

「いって! てめえ何すんだ!」

「アキラが変なこと言うから!!」

「何も変なことなんぞ言ってねぇだろうが!」

 手の力が叩くたびに増していくので、さすがに毎日の長い自転車通学や、高校時代まで行っていた野球で鍛え上げられた輝の肩甲骨も、うっすらと赤く痛みを覚え始めていた。

「もうやめろって!」

「はは、やめてよ!」

 輝が手を伸ばして、リヒトの手をかわし、彼の白い鼻を摘もうとすると、リヒトは可笑しくなったのか頬の赤みを少し抑えてけらけらと楽しそうに笑い始めた。

 きらきらとした光のような笑い声が、輝の耳朶を麻痺させる。ここは大学の古びた歴史ある閲覧室であるのに、今彼らはあの日の木漏れ日の下にいるような、少し遠くなったあの日の青い闇に包まれていた夜会のシャンデリアの下にいるような。

 その光を錐のように刺したのは、とある女の声だった。重く気だるく響いたその声は、金色の気配を黒く壊すものだった。

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