第2章 第6話 リヒトのドレス

 その日を境に、リヒトの輝に対する態度が徐々に変わってきた。

 まず、朝の教室で顔を合わせたときの会釈が、他人行儀なものから、あたたかなものへと変わった。つめたい冬の薄氷が割れ、穏やかな春のそよ風が、その隙間から漏れ出ずるような、そんな変化。

 リヒトの着ている衣の色合いが、シックなモノクロから徐々にあかるいものへと、変わってゆく。水をふくんだ筆で滲ませて、グラデーションを描いてゆくような、そんなふうに。

 輝はリヒトのことを注視しているわけではなかったが、それでも、すれ違ったり、教室で彼の方から挨拶をしてくるたびに、彼が以前までと違った匂いのあたたかな空気感を纏っていることを感じ取っていた。


(なぁんか、あんな泣かせちまって心配して悪いような気持ちになっちまってたけど、結果的によかったじゃん)

 

 輝はリヒトからそういった空気を感じ取るたびに、にこりとくちもとを笑ませて一瞬だけ彼を見やり、また逸らすのだった。

 それは、大学のゼミ遠足の終わりの出来事だった。

 輝たちはゼミの教授・アーダルベルトの誘いで、学外へと足を運んでいた。

 大学の授業内の、学外。

 

「はぁ〜、今日の特別展示、まじさいっこーだったな」


「クルト、くっさ……。まぁ、確かにねー。日本から取り寄せた、螺鈿の箱が綺麗だったわ。今でもあの青い貝殻の光が、頭に思い浮かぶもの」


「ははっ、アデリナは詩人だねぇ」

 

「うっさい!」


 クルトがワイングラスを片手に、テーブルに腰をもたらせながら天を仰ぐ。ため息がワイン臭くて、そばにいた同じゼミの女生徒・アデリナはあからさまに眉を顰める。少し赤っぽいウェーブがかった髪を、ショートボブにしている。彼女が着ている黒のマーメイドドレスは、童顔な彼女にはいささか不似合いだったが、背伸びした感じが可愛いとクルトはこっそり思っていた。

 

「それにしてもさぁ。サイオンジのタキシード、まぁ、にっあわねぇの!」


 笑いを抑えきれず、クルトは口に含んでいたわずかに残った紅色のワインごと唾を吹き出し、アデリナに嫌な顔をされる。

 輝の本日の服装は、黒のジャケットに白のシャツ、黒のネクタイ。黒のスラックスと、それはそれは輝には似合っていなかった。野球部を卒部して、1年目のような髪型をしている輝は、シンプルなTシャツとジーンズという出立ちが一番格好良く見える。

 

「そう? あたしは結構好きだけどなー」


「……どーも」


 自分の話題にも、さも興味なさそうに輝はポーカーフェイスで応える。

 すっくと立ち、首元のネクタイをいじってみる。

 

「ホテルボーイって言われりゃ、ちょっとは納得するかもな」


 クルトが笑う。

 

「後で化粧室きなよ。ワックスつけて、それっぽくしてやったらきっともっとよくなるよ」

 

 アデリナは輝に顔を近づけて、耳元でそっと囁いた。普通の男だったら彼女の髪色と呼応したような、厚いくちびるに塗られた紅の艶と、金色に光沢を持つ耳にかけられた髪、わずかにはだけた胸元から見える白い胸の谷間に、心臓を高鳴らせたかもしれないが、輝はただ、わずかに一重のまぶたを伏せて、(ワイン飲んでて酒臭ぇなー。いつものアデリナの方が好きなんだけど)という感想にしかならなかった。

 輝はそんな学友たちの楽しげな様子を横目に、視線を会場へと移した。くちもとには片手で持ち上げたワイングラスを当てながら。

 会場には黒や赤のタキシード、ドレス姿の男女がひしめきあっている。皆微笑みを浮かべながら、楽しそうだ。

 

(あれ? そういえば、ハインベルグどこ行った?)

 

 輝はうすくくちびるを開く。

 共に展覧会にゼミの遠征に来ていたはずのリヒトの姿が見当たらなかった。

 もっとも、今回の彼は、いつもよりも目立たず、影の薄さを保っていたが。輝の周囲のものは、それを不思議に感じていたが、輝は特になんとも思っていなかった。夏の蜻蛉の皮のように、透明な膜が、リヒトの周囲にだけうっすらと張られていた。

 輝がぼんやりと周囲を見やっていると、ある者に目を留めた。

 ざわざわと笑い、ひしめきあう煌びやかな着飾った者たちの中から、ひとりだけが輝の興味をひく。

 それは、宵闇の中に浮かび上がる、白い暈を纏った月のごとく。

 

「ハインベルグじゃん」


 ぽつりと輝が呟いた。


「えっ?」


 呆けた顔をしていたクルトが拾い、輝の視線の先を見て、目を丸くする。持っていたワイングラスを落としそうになり、そばにいたアデリナに、丸い頭をしばかれた。


「リヒトじゃない……」


 アデリナも叩いたクルトの頭をひと撫でしてから顔を向け、オリーブ色の瞳を瞠る。

 

「みなさん。こんばんは。ごきげんよう」

 

 わざとらしく、畏まった挨拶をして、リヒトは微笑んだ。

 彼の白い首筋から緩やかな曲線をひいて、肩のラインが剥き出しになっている。

 それに気づいたクルトは、椅子からひっくり返った。彼が手放したワイングラスが、床へ昏倒して砕け散る前に、アデリナが腰をかがめて細い腕を伸ばしてキャッチする。

 

(ハインベルグ、お前その格好……)

 

 輝はリヒトの姿を見て、軽く目を瞠ったが、思っていることは口にしなかった。

 リヒトが身にしていたもの、それはドレスだった。その色合いは、今日の特別展示で目にした岩絵具を用いた古代の絵巻に登場していた藤の花のような、綺麗な品のあるパープルだった。彼が僅かに動くたび、まだらな白い光沢をうっすらと表面に浮かばせる。ちらちらと散るそれは、単色だらけのこの会場で、異彩を放っていた。輝の眸の表面にも、それは星屑のように咲く。

 彼の胸元を花弁のように重なった淡い薄さのレースで覆い、同じ色の細いシルクのリボンが腰元で纏められているそれは、彼の腰の細さを際立たせていた。

 そこからまた、花弁が咲くように淡い薄さのレースが幾重も重ねられ、彼の足を覆っていた。咲いたちいさな花と大きな花を、茎のもとで両端で合わせたような、そんな儚げなドレス。触れれば消えてしまうかというほどに。闇に浮かび上がり、端から溶けてゆく。

 リヒトが一度だけ目をまばたき、くちもとを咲ませる。

 ざわざわとうるさい、周囲の声や物音が潮が引くように遠のいていき、この豪勢な空間にリヒトという存在しかいないような静寂が、輝の中に訪れた。

 やがて音がふたたび響き始める。ダンスを誘う音楽を、楽団が奏で始めたのだ。

 リヒトが真っ直ぐに輝を見つめる。

 ワインレッド色の紅を塗ったくちびるが、半月を逆さにした形で、妖しく笑む。

 眩しい。輝はそう思った。

 リヒトはくちびるを笑ませたまま閉じて、輝に近づいた。つかつかというハイヒールの音が響く。ミッドナイトブルーに、金の雫をひとつこぼしたように踵に飾りのついたもの。

 ひらりと舞った輝の胸の前で舞った手は、ドレスと同じ藤色のイブニンググローブを纏っていた。


「アキラ・サイオンジ」


 目の前から玲瓏な男の声がする。


「僕と踊ってくれませんか」


 輝がリヒトの腕から顔を上げる。

 距離の離れたところにあるはずなのに、その白い顔は、輝と鼻が触れ合うほどの距離にあるように、彼を真っ直ぐに見つめ、彼を捉えた。輝はその刹那、心臓が大きくどくん、と跳ねるのを感じた。自分の体を前へ引っ張るほどに大きく。ーーそれは恋愛のときめきとは違う、生命力のあるものへ惹きつけられる魂の慟哭だった。


「ああ……」

 

 輝はリヒトを見やったまま、片腕を彼に向けてそっと上げる。

 リヒトは先ほどよりも深く笑むと、輝の手をとり、己の腕と絡めた。

 

「え、お前らーー」

 

 クルトが驚いて声をかけるも、リヒトは流麗なヴァイオリンの調べにその身をまかせ、ゆうるりと下から上へ流れるように体を動かす。

 輝は日本で乗ったメリーゴーランドを思い返していた。確かこんな浮遊感とリズム感だったはずだ。

 リヒトのステップに促され、輝は右足を前へと出す。そして月下美人の花が閉じるように、もう片方の脚を前へ出し、両揃いとなって脚を閉じる。

 

「サイオンジ」

 

「へ?」

 

 音楽に乗り、踊りながら彼らは会話をする。

 

「この前は、どうもありがとう」

 

「あー、サンドイッチのこと? なぁんか無理矢理連れ出して食わせて悪かったなーって反省してたよ」

 

「スクランブルエッグ、6年ぶりに食べたんだ」

 

「んー、そうなんだ。……って、え? まじかよ……」

 

「ああ」

 

「へー……、まぁ、よかったじゃん。なんか」

 

 そこでリヒトが吹き出し、彼らのダンスは一時停止した。

 やっとダンスのリズムが掴めてきた輝は、そこでバランスを崩してしまい、後ろに倒れそうになる。

 

「おわっぷ」


「危ないよ」

 

 目と口を大きく開けて脚がもつれそうになったが、手を繋いでいたリヒトが前へ引っ張ってくれてなんとか難を逃れた。

 ふたたび、流れてゆく音楽にその身を預ける。

 

「君のそういうところが、僕は好きだ」


「えっ、なんつった?」


「その、興味ないことに、興味がないところ。深く詮索してこないところが、さっぱりしている。今まで会ったことのないタイプの人だよ」

 

 リヒトが盛り上がってきた音楽に、大きく腕をひろげ、片方を上げる。

 釣られて輝も彼に手をひかれ、腕を高く上げた。

 

「うわっ」


「ははっ」


「おい、ハインベルグ! お前酔ってんだろ! 顔が真っ赤だぞ」


「あはははは! リヒトって呼んでよ」


「は?」


「リヒトって呼んでいいよ! アキラ!」

 

 一度伏せたリヒトのまるい瞼がふたたび開く。蒼い水晶のような眸を覆う金色のまつ毛が、流し目になった彼の切長で大きな目を守ように咲いてけぶっていた。

 シャンデリアのあかりが、きらきらと夜の星が溶けてこぼれ落ちてくるように、彼らの頭上に降り注ぐ。

 溶けたバターのような色をしたリヒトのブロンドは、屋内だというのに、木漏れ日に照らし出されるように、きらきらと白い光の粒を宿して揺れる。少し巻いた彼の耳元の髪が上がり、真珠色の肌に、ぽつりとひとつ、恒星が浮かび上がるようにアメジストのピアスが濃い紫を見せている。

 輝は次第に大人びた風情を溶かし、子供のように笑い、くるくると両手を引いて満面の笑顔を向けるリヒトを、困ったような笑顔で見やっていたが、彼も訳が分からなくなり、その分からなさが頂点に達すると、腹の奥からどうしようもないほどの笑いが込み上げてきて、声をあげて爆笑した。

 似合わない黒のタキシードを着た髪の短いアジア系の青年と、スミレの花のようなドレスを着たブロンドの青年は、いくつも円を描き、ヴァイオリンの演奏が止まっても、笑い転げながら遊ぶように踊り続けるので、周囲から訝しげな視線を贈られていたが、とうのふたりは心からのよろこびを感じ合っていた。

 やがて時が満ち、会場に誰もいなくなると、あかりを消しに来た警備員が目にしたのは、輝に抱きつくような形で、床に折り重なって転げて笑うリヒトの姿で、子供のような無邪気さが、たいそううつくしく、彼の目に映った。

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