第2章 第5話 スクランブルエッグのサンドイッチ
夜の公園は、なんだかわくわくする。輝はそう感じていた。
街灯の茜とはまた違った、どちらかというと純白に近いあかりがひとつ、ふたつと灯っている様は、しんとした空気の黒白を分けるようでうつくしい。
公園を覆うみどりは、闇夜に溶けて漆黒に染まっていた。ときおり吹く風によって、さわさわと葉が擦れる音が静かに鳴り響く。
輝とリヒトは、一人分の距離を置いてベンチに腰をかけていた。ふたりの隙間を、風が通り抜けていく。暖かな優しい風だった。しばし無言が闇の中に溶けていった。互いにそばを吹き抜ける風が肌を流れる感触を楽しんでいるようだった。その心地よい沈黙を破ったのは輝だった。
ふいにリヒトの方を振り向くと、黒のカバンの中にそっと入れていたサンドイッチを取り出し、彼に見せる。
「さっき買ったやつ、まだあったけえぜ。食うか」
リヒトは少し顎を落として俯いたまま、静かに両手を両膝の間に落とした状態で、瞳だけで輝を見やると、「ああ……」と一言呟いた。
本当は腹が減って仕方なかったので、輝から早くサンドイッチをもらって食べたかったが、そんな素振りを少しも感じさせない冷えた返事を返した。
輝はそんなリヒトの態度は毛ほども気にせず、にかりと笑う。蛍光灯の白よりも白さを感じるほどの眩しさだった。リヒトは刹那、目を見開いて蒼い瞳をゆるりと震わせたが、再びその水面を凪に鎮める。
「んじゃあっ、どっちがいい? ハムとスクランブルエッグかぁ。フィッシュゼンメル」
輝はさも嬉しそうに、瞳を半月の形に咲ませてリヒトの目の前で両手を顔の横まで上げて、サンドイッチをふたつ見せつける。
リヒトはその動きにつられて、輝の顔を真っ直ぐに見やった。一人分の距離を置いた先に、何の含みもない笑顔を向けてくれる存在がいる。それだけでまぶたに熱を帯びる。不思議な感覚だった。
「ーーそれじゃあ、すまないがフィッシュゼンメルをくれ」
「フィッシュゼンメルね。スクランブルエッグとハムはいらねぇの?」
「……スクランブルエッグは苦手なんだ」
リヒトは瞼を閉じた。サンドイッチを視界から遮断するような、そんな素振りだった。
輝はそれを見て驚きから目を瞬き、「そうか」と小さくつぶやく。それ以上も、以下もなかった。
「なんで苦手なんだ?」
「それ聞くの?」
リヒトはわずかに鼻で笑った。
「味が嫌なのか?」
「味は嫌いじゃない。別に」
「はぁ? じゃあなんで」
輝は眉をハの字に寄せる。リヒトはそれをちらりと見やる。いつか目にした日本のコミックのキャラみたいな顔だなと思って、なんだかおかしくなり、掠れた声を漏らして笑った。
輝は急に厳かな雰囲気だったリヒトが崩れたので、さらに訝しむ顔になる。
ひとしきり笑の渦が終わると、リヒトは自分を取り戻した。何か憑き物が落ちたような、かすかに晴れた顔をしていた。
「トラウマがあるんだ。昔にね」
「へー。勝手にアレルギーかなんかかと思っちまった」
深く追求しようとせず、かといって話題を変えようともしない輝の横顔に、リヒトは心を覆っていた澱がわずかに軽くなったかのように感じた。彼の滑らかな頬を、公園の白い灯りがすっと撫でている。穏やかな輝の笑顔に、その白い色はなんだか似合っていた。
「すまねえ。そしたら悪かったな。ほら、フィッシュゼンメル」
輝はスクランブルエッグとハムのサンドイッチを太ももの上にそっと置き、右手に取ったフィッシュゼンメルの包みを柔らかな顔でリヒトに差し出した。包み紙は灯りに照らされてさらに白く見える。
リヒトは体勢を変えないまま、その包みを
リヒトの青と、輝の黒が互いの色を映す。
「いや……」
リヒトは息を吐き出すように、背を屈ませて沈み込んだ。撒かれる星の粒子のように、彼の前髪が線を描いてこぼれ落ちる。そして、うっすらと切れた瞼の二重を動かすと、ふたたび輝の方を見やった。
「やっぱり、そっちをくれ」
「は?」
「スクランブルエッグの方」
「食べれんの?」
「今なら食べられそうな気がするんだ」
先ほどよりも、確かな重みを感じる声だった。ふとももの上に置かれていたリヒトの片腕が剥がれ、そっと輝の方へてのひらを上向けて差し出される。
輝は丸く口を開けて、リヒトの方をまっすぐ見ていたが、リヒトは俯いたまま、輝と視線を交わさなかった。ただ輝の膝頭と、闇の
「わかった。ほらよ」
輝は鼻からひとつばかりの息を漏らし、リズムをつけるようにリヒトのてのひらの上にサンドイッチを置く。
まだ温かさの残るそれは、リヒトのてのひらに穏やかな熱をもたらした。その熱によって、リヒトは己のてのひらが冷えていたことに気付く。
首を落としたまま、しばしじっとサンドイッチの白い包みを見やる。そしておもむろに片手を伸ばすと、白く細い指先で、そっと剥がしていった。リヒトの桜貝のような淡い爪の色が、その時ばかりはひどく目立った。
ぺりぺりという子君良い音が鳴り、現れたのは薄茶色の耳を残した白く柔らかなふたつのパンに挟まれた小ぶりのサンドイッチだった。天からさす、白いあかりに照らし出され、その白は眩しいほどだった。
リヒトは自分しかわからないほど、かすかに目を眇めた。まなじりに薄い黒の影がさっと筆で描いたように走る。
その白の間に、黄色い泡の粒が集まったような卵の群れがある。白身と黄身がほどよく混じり合い、一つの味わいとなって溶けている。
リヒトはその色合いを切なく見つめていた。
そばで見ていた輝に取っては、一瞬だったが、リヒトにとっては永遠にも思われるような時間だった。初夏だというのに、霜を帯びたような空気が静かに舞い降りて、サンドイッチの表面に触れてくるような気がしていた。
その空気を噛むように、リヒトはサンドイッチに顔を近づけ、軽く口を開けると、
まるで、誰かに
リヒトはひとしきり食べると、突然口を動かすのをやめて、サンドイッチから顔を離した。先ほどよりも瞳を見開く。何かに驚いているかのようだった。そして、ふたたびサンドイッチに口をつけると、先ほどまでとは比べ物にならないほどの速さで咀嚼していった。
その様は、どこか心配になるほどだった。
「お、おい慌てんなって」
輝はたじろぎ、リヒトに向かってゆるく片手を伸ばして制止しようとする。
だがリヒトは止まらない。必死になってぱくつくその様は、普段の彼からは考えられないほどだった。幼い、あどけない少年のおもかげが、そこに蜃気楼のように重ねあわされる。
(これは……)
輝は不思議なものを目にしているような心地になっていた。少年と青年の影がうすく重なり、北欧のオーロラのように緩やかに震えている。青や緑や薄紅に。その神秘のゆらぎは、やがて一つに溶け合い、くっきりと像を結んでふたたび現れたのは、現在のリヒトが泣きながらサンドイッチを頬張っている姿だった。
「は……」
輝は驚きで軽く咳をするような声を漏らした。
金色の花弁のような長く上向く睫毛に覆われたリヒトの大きな眸から、大粒の涙が次から次へとこぼれ、滑らかな真珠色の頬を伝って落ちていく。
涙は公園のあかりを映し、鈍い白の光を孕んで闇へと消えていった。サンドイッチに舞い降りて、濡らしていった涙の粒もあったが。
輝はそのとき知らなかったが、リヒトがスクランブルエッグをくちにしたのは、およそ6年ぶりのことだった。
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