第3章 第2話 ライトブルーの爪 

「あらぁ、リヒト。久しぶりじゃなぁい?」

 

 ミルクチョコレートを急に熱して溶かしたような、甘ったるい声だった。そこには甘さだけではなく、奥深くまで味わえば毒のような苦味のココアニブがざらりと残っているかのような。そんな女の声が、清らかなオレンジだけが漂っていた場所に鈍く響いた。


「あ?」

 

 輝はリヒトから視線を剥がし、閲覧室の扉の前に目を移した。

 ーー胸のでかい女が、腕を組んで仁王立ちしている。

 第一印象はそんな感想だった。

 女は自分にたいそう自信があるようだった。

 先ほど輝たちが包まれていたオレンジの世界。その光にダークチョコレートを混ぜたような色をした、艶のある波打つ赤毛を、ゆるりと伸ばして右肩へ投げるように垂らしている。威嚇する猫のように釣り上がった翡翠色の瞳を覆うまぶたの上には、濃い紫のアイシャドウが塗られており、星屑のごとく散るラメが、ギラギラと異様に眩しかった。見開いた視点も、どこか焦点が定まっていないかのように感じる。閲覧室の夕陽色の窓からわずかに死角になり、薄い闇を孕んだそこは、彼女の髪のすじや、纏っている胸元の開いたベルベッドのダークグリーンのワンピースに、妖しく鈍い灰色の光沢を宿していた。

 

「ハインベルグ。お前の知り合い?」

 

 輝はポーカーフェイスでかたわらのリヒトを振り返った。そして驚いて瞠目した。

 先ほどまで花が咲いたようにあかるく笑っていたリヒトは、青いひとみから光を消し、石のように硬直している。真っ直ぐに女を見ているが、そこには一切の感情が感じられなかった。


「ハインベルグ……?」


 輝がリヒトを心配する前に、女は鼻を鳴らすと一歩こちらに近づいた。

 隣にいたリヒトが、さらに身を固くし、女への警戒心を強めたのを気配で察した。

 何か異様である。

 輝は咄嗟にリヒトの前に立ち、リヒトと女との間の緩衝材となった。

 女はそれが気に食わなかったのか、余裕のある表情から一点、怒りをあらわにするように、上体を少し落とすと、肩を上げ、髪を逆立たせた。輝を下から睨み上げるような体勢である。


「ああ、今はこいつがあんたの男なんだぁ。あたしの体、散々弄んで捨てたくせに、次はこういう健康そうな黄色いサル男が好みになったんだねぇ!」


 語尾を荒げ、鼻息荒く甲高い声を上げると、

女は胸元に片手を置いた。

 見下ろした女のネイルの色が、その醜態と似合わぬほど鮮やかなライトブルーだったので、輝は一瞬その色に惹き込まれてしまった。

 女は輝の隙をついて、彼の手首をもう片方の手で掴み、爪を立てた。鋭く尖ったそれは、鋭利なカッターのような切れ味をしており、輝の小麦色の皮膚をなめらかに裂いた。


「っ……!」


「アキラ!」


 輝の手首から二の腕にかけて、斜めに赤い彗星が落ちるように血が走る。さすがの輝も瞼をひとつ閉じて顔を歪めた。


「はっ、こんな素朴でつまんなそうな男のどこに惚れたってぇのよ!」


 女は白目に糸のような血の線を走らせていた。飛び出そうなビー玉みてぇな目玉だ、と輝はふと思った。そんな女の凶暴な爪が、もう一度迫ってくる。ライトブルーがいやに鮮やかで、輝は自分の眼球をそれに傷付けられるかもしれないというのに、思考は雲ひとつ浮かばぬ秋空のように冴えていた。


(あんま人に執着とかない人生送ってきたのに、人に傷つけられるときって、こんな執着の塊みてぇなやつにやられんのな)


 草原で昼下がりにぼんやりと両手をつき、空を見上げるような心地で、のんきにそんなことを思った。人なみに男の腕力はあるので、殴ろうと思えば女を倒すことができたが、女に手をあげるのは彼の性分ではなかったため、ただ起きていることを静かに受け止めようとしていた。

 人工的な薄青色が視界いっぱいに広がったと感じた刹那、それを破ったのは、ぱらりと広がった金色の糸くずたちだった。


「……ハインベルグ……」


 水色をひとしずく垂らしたような色をしたオフホワイトのシャツが、輝の目の前で静かにうなだれていた。吐息をつく温度感のある音で、彼が咄嗟に輝と女の間に立ち塞がってくれたことを知った。その時、輝は瞬きを数回して事実を確認した。瞬きするたびに、目の前のリヒトのブロンドの金色が、光を増しては失うように感じた。

 リヒトの真珠色の首筋に、うなじから流れた透明な汗のしずがひとつ、たらりと流れ落ちていくのと同時に、彼が大きく息を吐いた。


「リヒト……」


 女も驚いたらしく、翡翠色のひとみで目の前の金色の男を見上げている。その表情には哀れな怯えが浮かんでいた。骨張った顎の皮膚も、ひくひくと震えている。

 リヒトは女の手首を片手で握っていた。犯人を捕らえたように、女の白く細い腕を掴み、高く掲げている。

一拍置いて、リヒトのシャツからわずかに突き出た白い腕から、たらりと鮮やかな紅色がこぼれ落ちた。


「……僕の友人だ。手を出すな」


「……っ」


「頼む、エミリア……。僕を許して」

 

(エミリア)

 

 輝はリヒトからこぼれ落ちた女の名前を反芻した。

 リヒトは瞳孔を開いた女ーーエミリアを静かに見つめていた。彼の顔はエミリアにしか見えず、輝からは、彼の白くけぶるような横顔の頬と首筋しか見えなかったが、彼の声音にどこか泣き色が混じっているように聞こえた。

 女ーーエミリアはうすく開けたくちびるを震わせ、そこからわずかに覗く八重歯さえも震わせたが、目尻に涙を盛り上がらせると、ローズピンク色の口紅を塗った下唇を前歯でぎゅっと噛んで俯き、リヒトから一歩後退りした。

 リヒトはエミリアが暴力的な敵意を失ったのを感じ取り、すっと彼女の手首を離した。

 彼と彼女が剥がれる間に、ぱらぱらと血のしずくが落ちる。古びた薄暗い閲覧室の床に、その紅色だけが、地に落ちた後に、やがて茶色く枯れていく定めの十一月の紅葉のように鮮やかだった。

 リヒトは凪いだ感情の浮かばない顔でエミリアを見つめていたが、やがて一歩足を踏み出した。

 エミリアの爪によって傷つけられた、己の血のしずくが、彼の履いていた黒い革靴に踏まれ、ぱちゃりとひとつに繋がっていく。

 輝が「あっ」と思ったのと同時に、リヒトは片手を平行に伸ばすと、ひらりとエミリアの頬を張った。

 よくふくらんだ水風船を、子供が夜の下で叩いた時のような、ぱちん、という小君良い音が響いた。

 エミリアは唖然と瞳を見開き、叩かれた方へ促されるように横を向いていた。叩かれた右頬はかすかに震え、やがてじわりと赤らんでいった。頬の血色と呼応するように、女のまなじりから涙がぽろりとひとしずく落ちていく。


「……君との関係はもうだいぶ以前に終わったはずだ。もう僕と関わらないでくれ。僕も君の人生から消えよう。そのほうが互いの今後のためになる。帰ってくれないか」


 静かな沈黙が流れた。

 リヒトはエミリアを叩いた方の片手を藍色のズボンのポケットに入れると、そこからさっと何かを取り出した。

 若葉色をした、シルクのハンカチーフだった。端に、淡く朧な小花の刺繍があしらわれている。

 リヒトは桜色の薄いくちびるを引き結んだまま、骨張った手で腫れた頬をおさえるエミリアに差し出した。下から上へ突き上げるように、ふわりとリヒトの指の間で舞い上がった若葉色を、エミリアは光を失った瞳で見やった。

 このような光景を、輝は今まで目にしたことがなかったため、唖然としていた。彼の朗らかな人生には、男女のもつれや修羅場などは存在しなかったからだ。

 エミリアはあどけない少女のような顔になり、もう片方の手でハンカチーフを受け取ろうとしたが、ハンカチーフに輝とリヒトの鮮やかな血がライトブルーの爪から落ちていこうとする。現在進行形で生きている人間から溢れ落ち、自分が盗み出したその赤をみとめると、エミリアは目を釣り上げてわなわなと深緑色の網膜を揺らしはじめた。

 爪を尖らせた右手で、今にも掴もうとしていたリヒトのハンカチーフを叩き落とすと、顔を上げて彼を睨み上げた。白い歯を食いしばり、目尻を赤く染めた女が鬼のような形相で、儚げな美しい金色の男と対峙しているその様は、どこか遠い時代の国で描かれた一幅の絵画のようであった。

 エミリアは吠えるように言った。


「あたしの体、あんなに好き勝手に抱いて置いて! 無邪気な笑顔で人を近づけて、あんたといれば幸せになれそうだって騙して傷つけて! あたしもそうだった! あたしも!! 今まであんたに翻弄された女や男たちと同じように、そいつもあんたのトラウマの発散のために好き放題いじられて、抱き潰されてボロ雑巾みたいに捨てられるんでしょ! あたし知ってるんだから……! リヒト。あんたが顔が綺麗なことをいいことに、花の匂い嗅がせるみたいに色んな人を蜜蜂みたいに引きつけて、人生めちゃくちゃにする娼婦みたいな汚らわしい男だってこと!!」


 一気にまくしたてられた罵詈雑言は、閲覧室の鉄を含んだ壁に反響し、しばらくわんわんと響いていた。響きが薄らいで消えてゆくと、エミリアの荒い息遣いが前から聞こえてきた。彼女の横に流した前髪の間から覗く、白く異様に光った富士額から、つーっと熱い汗のしずくが垂れ落ちる。小鼻の横を通り過ぎたそれが、厚いくちびるに到達すると、彼女は深く息を吸い直し、甘い息を声と共に交えて吐き出すと、うっすらと口角を上げた。


「ーーそんであんたは昔、双子の弟がLGBTだって知って、自殺に追い込んだクソ兄貴だってこと」


「……え?」


 それに反応したのは、輝だった。

 驚いて目を瞠った輝を横目に感じたリヒトは咄嗟に叫んだ。


「やめろ!!」


 リヒトの白い顔に、焦りから汗の粒が、光を孕んで浮き始めた。

 何か大切な記憶を暴かれた者の、切羽詰まったような声だった。今まで同じ時間を共に共有した輝ですら聞いたことのないような悲痛さ。

 エミリアはそれを聞いて何か面白くなったのか、顔は蒼白なまま、さらに影のある笑みを深めた。

「ははっ。やっぱ今の男には言ってなかったんだね。言われたくないもんねー。綺麗なきれいなお人形のリヒト様が、そんな薄暗くて汚い過去持ってたなんて!」


「ハインベルグ、俺はーー」


 輝が心配してリヒトを見やると、リヒトは魂のどこかを壊されたかのような白い顔をして、ただ立ち尽くしていた。

 エミリアはひとしきり壊れたように笑い、やがて静まると、頬と笑い疲れたうすい腹を、どちらも両手で押さえて、ふらふらと幽鬼のごとく廊下の左右の壁に体をぶつけながら去っていった。赤毛が残照のようにはらりはらりと燃えながら揺れる。あかりが消えた廊下をおぼつかなく歩いて行った彼女の背中は、闇に溶けて消えてゆくように輝には見えた。

 残された彼らは、とうに夕陽が沈んで闇に浸されているというのに、その場に釘を刺された罪人のように、濃い青の空から白や黄色の星あかりが、砂糖菓子のように彼らの足元へとこぼれ落ちてくるまで、ただただ動けなくなっていた。

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