エピローグ
四月の朝。
高校の校門前に、一人の少女が立っている。真新しい地味目のブレザーの制服、そして他の人とは少し素材の違う靴下、薄く色のついた眼鏡をかけて辺りを忙しげに見回している。
とはいえ、それらはさして珍しいものではない。彼女の格好で最も人の目を引いたのは、つばの広い帽子と、そこから腰の辺りまで伸びる真っ白な髪の毛だった。
彼女が門をくぐると、道路に沿って植えられた花と葉の入り混じる桜が出迎える。桜というのはいかんせん間の悪い花で、卒業式にはまだ咲かず、入学式には殆ど散ってしまう。残っている数少ない花も、風が吹くたびに小さな吹雪を巻き起こして、地面に花弁を散らしていく。
苔むした灯籠と、さらさらと流れる庭園の小川がそれを受け止めながら、道を通る人々を見つめている。
彼女は花びらを踏みながら、昇降口を目指して歩いていた。しかし、視線は相変わらず一点に定まっていない。まるで、ここに居ない何かをずっと探している様に、右へ、左へ…。そして、昇降口に辿り着いた時、少し寂しげに下へと落とされた。
彼女は下駄箱から靴を取り出すと、校内へ足を踏み入れた。
校内は流石国立というべきか、すっきりと整えられ、古い学校の姿と新しい機能性が微妙なバランスで同居していた。壁際には、生徒の優秀さを誇る様に、幾つもの賞状やトロフィーが所狭しと飾られていた。
彼女はその前で帽子を取る。今までつばに遮られて来た素顔が、ガラスケースに映し出された。
少し長く伸びた白い髪、それと同じくらい白く…否、色を失った肌。だが、それを見据える瞳は四年前とは違う。悲しさの代わりに、毅然とした誇りが。晴れることのない怒りの代わりに、自己を受け入れた安らぎが。そして、この場にいない誰かに応える様な、希望がいっぱいにたたえられていた。
彼女は顔を上げて、教室へと向かう。三階の一番奥の突き当たり。一年七組と書かれた部屋、そこの通路側に彼女の席はある。日光からは最も遠い場所、という注文を学校が受け入れてくれた結果だった。
教室にはまだ誰も来ていない。彼女は下げていた鞄から教科書を出して整理しながら、ふと前の黒板を見た。
『入学おめでとう』…と花で彩られたメッセージが飾られている。
「『おめでとう』…か」
その言葉を彼女は舌の上で転がす。彼女にとっては、大きな喜びと寂しさ、そして悲しみの思い出を持つ言葉だった。
かつて彼女はその言葉を二回貰ったことがある。一度目は悲しみと共に。そしてもう一つは心からの喜びと共に。
入学式を待つ間、彼女は今までの思い出を回想していた。去年の夏から続くその思い出は、今までの白黒の写真とは対照的に、鮮やかに色付いて、瑞々しい輝きを放つ映画の様だった。
今ここにいられる理由、これから歩いて行ける理由。全てが彼女の宝物だ。
「それじゃ皆さん、式が始まるから外に並んで下さい」
担当の教員がクラスメイト達に整列を促す。彼女も教室外の廊下に出て、出席番号順に並ぶ。
「新入生、入場!」
宣言と共に、講堂に新入生達が入ってくる。新しい生活の始まりに、大きな期待と少しの不安をミックスした表情を浮かべている。
彼女自身もその一人で、たくさんの人の話を聞きながらも、自分の心を占める思いに沈んでいた。
…『その時』が近づいてくる。
だが、その一方で彼女の中では不安が激しい流れとなって噴き出しつつあった。これからの生活への不安、受け入れてもらえるかの不安、また一人ぼっちになるのではと言う不安…。ついさっきまでは、思い出に浸っていたが故に押し殺されていた心中の思いが巨大な濁流となって心を埋め尽くそうとしていた。
隣に座る同級生は、ほんとに信頼できるのだろうか。担任の教師は昔会った奴らの様に、私を無視したりしないだろうか。先生は良くても、クラスメイトは…。ここにはもう、彼女と共に過ごしてくれた友人達はいない。
彼女の思いは、新しい環境に際して人間が抱く、ごく当然の思いだった。しかし、彼女の今まで背負って来たものは、その思いを何十倍にも重く、辛いものに変え、彼女の心を押し潰そうとしていた。心臓が不規則に早鐘をつき始め、呼吸と視界が段々と乱れていく。咄嗟に彼女は襟元のボタンに手で触れた。
襟元で締められた紐ネクタイ。それをまとめる小さな木のボタン。それだけ。しかし、たったそれだけで、彼女の不安は退き始めた。真っ黒な不安は明るい希望へ、不規則で激しい鼓動は、規則的で静かな鼓動へと変わる。冷たい感情の代わりに、温かい思い出が、彼女の心を満たした。
大丈夫だ。もう、不安は無い。私は一人ぼっちじゃない、人を信じないで、一人の底に埋もれるのはもう終わりだ。
「…君がくれたものが、わたしに勇気を与えてくれる」
心の中で、彼女は呟く。明るく、優しい笑みを浮かべる一人の青年が、そこにはいつもいてくれた。そして、彼が、彼らがいてくれる限り、彼女はどこへだって進んで行けるだろう。
「新入生の言葉。新入生代表、津深葵!」
「はい!」
彼女は目を開けて立ち上がった。毅然とした態度で階段を上がり、壇上を目指す。彼女は演壇で向き直り、講堂に満ちた人々を見下ろした。
新入生、上級生、保護者、教師…。千人以上の目が彼女に注がれている。
「…大丈夫。だから見ていて。わたしの、一番大切な友達」
遠い遠い、彼に向けてそっと呟くと、彼女ー津 深葵はマイクのスイッチを入れ、話し始めた…。
恋愛以上、友情未満 津田薪太郎 @str0717
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