神経心理学

 学生時代の筆者の専門なので少々長くなってしまうかもしれないことを先に断っておく。


 神経心理学とは主に脳機能と精神活動の関係性について研究する学問である。脳の損傷を受けた患者を対象に言語、思考、認知、記憶などといった「高次脳機能」と呼ばれる機能と関係のある脳部位について解明していく学問である。


 早い話が「脳みそのここが壊れた結果、Aという脳機能に不具合が起きたからAという脳機能を担当していた脳部位はここだね」というようなことを研究する学問である。


 読んで分かるだろうが「壊れた人間がいる」ことが前提の学問である。治療はしない。脳みその壊れた患者がより過ごしやすくなるよう社会的な補助について研究することも稀にあるがそちらは主眼ではなくあくまで補佐的な内容である。主なテーマとしては脳みその特定部位が損壊したことによって発生する高次脳機能障害(失語、失認、健忘などなど)について研究する学問である。


 筆者が経験した事例をいくつか紹介しよう。


 大学三年生の時、一年間ほど高次脳機能障害の自助会(患者同士で集まって情報を共有したり助け合ったりしていこうという自主的な会合)と繋がって「高次脳機能障害の患者が社会で生きやすくするにはどうしたらいいか」というテーマで研究をしたことがある。結論としては「まず高次脳機能障害という言葉を知っている人が少ない。だからパンフレットを作って啓蒙しよう」ということに行きつき、それぞれ高次脳機能障害(一口に高次脳機能障害と言っても様々な症状がある)についてレポートをまとめ、かわいらしいイラストや分かりやすい文章などを作成しパンフレットにまとめた。


 この研究で分かったことは、高次脳機能障害を抱えた場合でも様々な方法で失われた機能を取り戻したり、また自分らしく生きていくことができる、ということだ。


 例えば失語。言語野のある左脳に損傷が起きると流暢性失語(ウェルニッケ失語)や非流暢性失語(ブローカ失語)などといった障害が起こる。流暢性失語は「すらすらと話せるが言葉の理解や話の構成に難が出る」という障害で、「今日はいい天気ですね」と話しかけても「そりゃあ、昔がどこ、に負けずですね」などと意味が通じない言葉を「流暢に」話す。逆に非流暢性失語は「今日はいい天気ですね」と話しかけると「ギョ、ハ、イー、デン」など、言おうとしていることは分かるが発話に難が出る。一例しか知らないが何を話しかけても「キョットントン」としか返せなくなる事例もあった。では「脳みそがやられているから完全に頭がおかしくなっているのか?」というとそうではなく、障害を抱えた当人は今これを読んでいる皆さんと同じ精神活動をしている。すなわち「自分がおかしくなってしまったことは自覚している」のである。「どんな言葉を話そうとしても『キョットントン』しか話せなくなってしまったことを自覚している」のである。自分がおかしくなってしまったことは分かっている状態なのだ。患者の立場になってみると如何に難儀な状況か分かるだろう。「いっそのこと完全に頭がおかしくなった方がよかった」という声はよく聞く。


 こうした失語症を抱えた患者でも、発話の訓練、または言語以外に意思疎通を図る訓練などをすれば健常者とある程度のコミュニケーションは可能になる。筆者が一番感心したのはたゆまぬ努力と健康管理で健常者並みの発話を可能にした非流暢性失語の方だ。濁音やカタカナ言葉などの発話は苦手なようだったし、時折不自然な間が入ったり、口を動かすのに難儀している様子はあったが、それでも分かりやすいジェスチャーや発話をゆっくりするなどの工夫で大きな問題なく「おしゃべり」をすることができた。


「手話に切り替えればいいじゃん」と思う方もいるかもしれないが、そもそも頭の中で言葉を構成することに困難が起きたり(流暢性失語)、左脳の損壊に伴い半身不随になっていたり、記憶障害が起きて新しい技能を習得できなかったりなどという事例がほとんどなので流暢に手話が使えるケースはほとんどないと言っても過言ではない。


 今でも覚えている。ある高次脳機能障害患者が口にした言葉だ。

「我々高次脳機能障害の患者には食事制限がある(嚥下などが難しくなるケース、高血圧などで脳の血管が破裂して食事管理が必要なケースなどがあるため)。昔のように大好きなものを食べることができない。でも、食べることができるものを美味しくする工夫はできる。例えば野菜。スーパーで買っただけだとただの野菜だが、苗から育てて収穫すればそれは本当に『美味しい』野菜になる。どんな困難でも工夫すれば、人生は楽しめる」


 大学三年。まだ人生の右も左も分かっていない時期に聞いたこの話は大変貴重であった。障害者は社会のお荷物だ、などと主張する人間は一部いるがとんでもない。彼はこうして筆者に人生への向き合い方を教えてくれた。お荷物なんかじゃない。彼はどんな教師よりも有益なことを筆者に教えてくれた。


 大学四年の時、院生の手伝いとして高次脳機能障害患者の脳外科手術に立ち会ったことがある。脳腫瘍の切除手術で、切除に伴いどうしても重要な脳部位を損傷してしまうので、「どこまで切り取っていいか」を判定するために心理学の院生、教授が呼ばれて検査をするのである。


 頭蓋骨を開く。脳みそが露になる。患者の麻酔を弱め、頭を開いたまま起きてもらう。外科医が切除箇所に電気を流す。


「ここは、どうですか?」

 その一言で検査が始まる。


「(『だんご』という単語を見せて)何と読めますか? 意味は分かりますか?」

「だん……(『だ』と『ん』の半分しか読めない)? 意味は分かりません」

「(指に触れて)感触はありますか?」

「ありません」

「手を握ったり開いたりできますか」

「……(できない)」

「丸を描いてもらっていいですか」

「……(半円しか描けない)」

「(電気を弱めてもらって『だんご』を見せる)何と読めますか?」

「『だんご』」

 以降、外科医が切除が必要な部位に様々なパターンで電気を流したりメスで触れたりしてその反応を確かめた。


 半側空間無視と呼ばれる症状の検査である。文字通り「半分の空間を無視する」障害である。「だんご」の事例でいうと「だ」と「んの半分」しか認識しなくなるのである。視界の半分が見えなくなるわけではない。例えば右側を無視するようになった場合、患者の中で「右」という概念が消失するのである。花を二輪花瓶に差して「絵を描いてください」というと見事に左側の一輪だけ描く。視界の右側にペン立てを置いて「ペンはどこにありますか?」と訊くと視界の右側にペン立てがあった場合「そんなものはありません」と答える。しかし面白いことに、「右側にもう一輪花がありませんか?」「右手にペン立てがありませんか?」などと注意を向けさせると認識するのである。見えていないわけではないのだ。認知できなくなっているのである。


 似たような症状に盲視という症状がある。視覚野が損傷し患者には「目が見えない」状況になっているのだが、目から入った情報が視覚野に到達するまでの途中経過は処理されるので、「見えてないのに見えている」現象が起こる。具体的には何が起こるかと言うと、障害物だらけの廊下を障害物だけを綺麗に避けて歩く、投函口の形状が通常のポストとは変わっているポスト(口が縦になっているなど)にきちんとカードを投函する、などといったことが起こる。当人の目は見えていないのに、だ。これは視覚野が潰れたことで「見えてはいるが認識できない。故に患者には見えていないように感じられる」状況になっているのである。「見えてはいる部分」、つまり「網膜に映り視覚野に至る途中まで」の部分で何とか脳みそが情報を処理しているのである。


 この経験で筆者が思ったのは「人間の意識や心は電気で動いているんだ」ということだった。外科医は様々なパターンで電流を流したりメスで触れたり、あるいは安全だと判断できた箇所を切除したりしたが、その度に患者は態度や行動、認知を変えた。手術中に唐突に怒りっぽくなったり(あからさまに不快な態度を示した)、かと思えば楽しそうにこちらの検査に応じたり、三文字からなる単語を読み取れなくなったり、また手を握ったり開いたりといった動作が不可能になったりと、「電気」で感情や認識、運動能力に様々な変化が起きた。近年、脳みそに電極を埋め込んで鬱病の治療に役立てる、なんていう技術が開発されているが、倫理的問題はさておき極めて効果的な方法だと認めることはできる。


 他にも神経伝達物質についても学んだ。鬱病の患者にセロトニンの吸収を阻害する薬(セロトニンを含め神経伝達物質は処理の過程で必要がなくなると吸収され、除去されてしまう。これを阻害する薬は結果的に脳内にセロトニンを残す薬である)を与えたところ症状が緩和した、という事例から、鬱病はセロトニンの不足から起こる症状なのではないか、ということが分かったなどなど、非常に興味深い学問だった。


 高次脳機能障害には他にも健忘(記憶できなくなったり昔のことを忘れる)や相貌失認(顔が弁別できなくなる)、失算症(四則演算ができなくなったり数字の大小が分からなくなる)など様々な障害がある。気になった方は調べてみてほしい。筆者のおすすめ図書は『脳の中の幽霊』だ。V.S.ラマチャンドラン博士が診察してきた高次脳機能障害の患者について丁寧に記された本である。角川から出ているので是非読んでみてほしい。


 脳溢血や脳震盪による脳の損傷は、誰もがなりうるものである。塩分の高い食べ物が好きな人は確実に脳溢血のリスクを抱えているし、車を運転する人は何かの拍子に事故に遭って脳損傷を受けるリスクがある。そうじゃなくても単なる転倒で損傷を負うことだってあるのだ。自分がそうならなくても、家族や親しい人間がそうなるリスクだって少なからずある。そんな時、どのような障害が出てくるか分からない。高次脳機能障害について理解を深めておけば、例えば失語症のような「話したいのに意味不明な言葉しか発話出来ない」などといった症状に見舞われた時でも、自助グループに入ったり効果的なリハビリに取り組めたりと、何かしらの対策が打てるかもしれない。


 筆者はこの学問触れることができて本当に良かったと思っている。生きる希望も、人の強さも、およそ人生の明るい部分は全てこの学問が、教えてくれたものだからである。

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