第8話


 光の中、彼という存在は大きく変わろうとしていた。

 死に瀕していたもとの身体は既にほどけ、消滅してしまっている。

 残ったのは、魂だけ。

 不思議なことに、違和感も不安もなかった。

 繭のように彼を包む光が優しく、濁りなかったせいかもしれない。

 とくん、と――温かい鼓動を感じる。

 彼の魂、むき出しになったありのままの感覚に、それはじんわりと広がっていく。熱い力が内側から湧き立ち、やがて奔流となって駆け巡る。

 新たな身体が編み上がるまで、彼は生命の心地よさに存分に浸った。













 ――夢を、見る。



「貴様、何者だ!?」


 そう問うた相手を、青年の彼は容赦なく斬った。

 答えなかったのではない。

 答えたくとも、答えられないだけだ。

 そもそも、彼には名がなかった。






 ――或いは、遠い過去を思い出す。




 くしが通される都度、美しく長い髪はつやつやと黒く輝いた。

 まだ幼い彼が背後から見ていることに気づいたのだろう、母が振り向く。

 次の瞬間、その手にあったはずのくしは彼の額にぶち当たっていた。


ね!」


 転びバテレンに戯れに孕まされ、望まず産み落とした我が子に、母は名をつけることはなかった。

 故に、彼には名がなかった。







 ――記憶と精神が、構成されていく。



 独りになった少年の彼が狩り場としたのは、決まって戦場跡の周辺だった。

 コウモリのように行き場のない彼は、落武者や合戦への復讐に燃える農民たちを殺し、食う糧を奪い得て生きるしかなかったのだ。

 出会いを果たしたのは、関ヶ原――日ノ本の国史上最大にして最後の大戦の地。

 西の勢力に付いたと思われる一人の武将の亡骸の下に、一振りの刀があった。

 それが持つ美しさと獰悪さに、彼は途方もなく惹かれた。

 以降、彼はその刀を生涯の得物とすることになる。

 刀には、東の勢力が忌み嫌うという名があった。

 だけれども、彼には名がなかった。






 ――そして、己という存在を思い出す。



 切っ掛けは忘れたが、青年の彼はさる流派の腕の立つ剣士を斬った。

 以降、彼は闘争と決闘を繰り返し、剣士として名声と悪名を上げていくことになる。


 あの凄腕の剣士との決闘に敗れ、終焉を迎える、その時まで。






 ぼんやりと、目を見開く。取り巻くのは、真っ暗な闇だけ。

 妙な浮遊感に包まれているのに気づく。それは重く、冷たい。

 ということは――ここは、水の中なのだろうか?

 なんとなく、思い出す。そういえばガキの頃、密航に失敗し、こっぴどい目に遭ったことがあった。

 居合わせた連中全員から死ぬほど殴られた挙句、「サメのエサにでもなっちまえ!」と、甲板から海に放り込まれたのだった。

 と、その時、視界の片隅の闇の中、青い光が爆発する。

 瞬間――彼は、意識を覚醒させる。












 松明を手にした兵士たちが、湖の周辺を走り回っていた。

 太陽は、もうとっくに沈んでいる。亜人の少女が落ちて、かなりの時間が経過していた。

 死体は、未だ見つかっていない。故に、生きている可能性がある。

 頼むから死んでいてくれよ――と、ハインツは思っていた。逃げる背中に向けて、スリングを投げた兵士だ。

 あの後、散々だった。仲間たちから「獲物を水ん中に落としちまいやがって!」と罵声を浴びせられたのだから。

 そもそもの元凶である亜人の少女を、ハインツは心の中で深く呪っていた。

 苛立つが故、気付けなかったのだ。ハインツだけではない。その場の兵士たち、全員。

 風が吹いてもいないのに、湖にさざ波が起こっていた。

 唐突に、轟音!

 湖から、水柱が、大きくド派手に噴き上がる!

 突然のことに、兵士たちは全員、仰天した。水柱にではなく、水柱を上げた存在に対して。


「貴様、何者だ!?」


 対し、そいつは――


『何者かって?』


 この世界に降り立った彼は、口端を歪め、ひどく楽しそうに笑った。


『俺は、剣士だよ。【名無し】のな』













 語り継がれる法則によれば、剣士を倒すのは力であり、力を宿すのは刀であり、刀は剣士を産むのだという。

 それは、彼という剣士を生誕させうみおとした。

 或いは、転生だったのかもしれない。人間忌まれ生きる者から、剣士闘争と決闘に生きる者への。

 名声と悪名、剣技と強敵とも――そして、彼はついに名を得る。


【名無し】の剣士。



 それは、彼が剣士として得た唯一の誇り。

 そして、剣士である彼が生きるための、唯一の証。

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ルーザー=デッド・スワロゥ 企鵝モチヲ @motiwo

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