第3話 活字化

次に目を覚ました時、私は本の中にいた。

何度も嗅いだことのある紙の匂いがしてそれがわかった。

自分の体を確認してみるととても小さくて細くて頼りない。

子供の指一本で隠れてしまうほどの大きさだ。



「私、『お』になったんだ」



活字になる人は自分にとって身近な活字になるという。

私が「お」になったのは名字が岡田だからだろう。

ということは、信行は原田の「は」になっているかもしれない。

どこかの本「は」の誤字があるだろうか。

そう思いながら私は活字の世界を泳ぎ始めたのだった。


☆☆☆


活字化して「お」になった私は縦横無尽に本の世界を行き来する。

大好きな冒険シーンに入り込んで主人公たちが目の前で戦っているのを観戦した。

ラストに主人公が無事に家に帰るシーンではその光景に涙が浮かんで来てしまった。

活字になることを恐れてはいなかったが、両親や友人たちと会えなくなってしまうことは少し悲しかった。


だけど悲しさを実感している暇などないくらいに活字の世界は目まぐるしく、色々なことが起きていた。

大好きな本の中を何度も行き来してすべてのシーンを体感した私は、一度この本から出てみようと考えた。

本の活字になると、隣に並んでいる本に入り込むこともできる。


だから、本が沢山ある場所が人気になっているのだ。

私は表表紙の前まで移動してきて大きく息を吸い込んだ。

本から本への移動は初めての体験だ。

うまくできなければ本の虫として床に落下してしまう。


そうなればもう活字ではいられなくなり、本当の虫になってしまうのだ。

人間でいたころも様々な試練があったが、活字になってもそれなのりの試練があるというわけだ。

飲まず食わずでただ活字を満喫できると思ったら大間違いだ。



「さぁ、行くよ」



私は自分に言い聞かせるように呟いて、まずは右手を本の表紙から突き出してみた。

ハードカバーの感触が腕にあり、少しだけ痛みを感じた。

だけど私の右手はすぐに隣の拍子に触れて、そしてその中に入り込むことができた。

その感覚に私はエイッと思い切ってジャンプし、見事隣に移ることができたのだ。


別の本の中に入ると肌で感じる空気も変わった。

地下室のドアを開けたとき空気の変化を感じるときと同じようなものだ。

隣の本に入った瞬間全身に鳥肌がたち、私は一瞬うろたえた。

この本は一体なんだろうかと確認したとき、それがホラー小説であることがわかった。

その瞬間血の気が引いていくのを感じる。

血なんてとっくの前に通わなくなっているのに、不思議なものだ。

とにかく、私は怖いものが苦手だった。

いくら活字だと言ってもホラー系は遠慮してきた。


それがまさか活字になって入り込んでしまうなんて思ってもいなかった。

活字になるとシーンひとつひとつが目の前で実際に起こっているのと同じなのだ。

すぐに元の本に戻ろうとしたとき、女の声が聞こえてきて動きを止めた。

今の声はなに?


ゆっくりと視線を移動させると、暗い空間の中に白い服を着た女が立っているのが見えて喉が震えた。

こんなに暗闇なのに女の長い髪の毛や表情まではっきりと見えるのはどうしてだろう。

私は一歩後ずさりをすれば女は一歩近づいてくる。


また下がればまた近づいてくる。

私が動くことで物語も進んでいくのだから当然のことだった。

でももう元の本には戻れなかった。

目の前の女から逃げるためには全力で物語の中を走り抜けて、更に隣の本にうつるしかない。


私には女の横をすり抜けて行く勇気はなかった。

私は女に背を向けて全力で走った。

周囲でなにが起こっていてもキツク目を閉じて足は緩めない。

早く次の本へ移りたいあまり、後ろから化け物が追いかけて来ていることにも気が付かなかった。


本のページの終わりを感じたのは、違う空気がこの本に流れ込んできているのを肌で感じたからだった。

ハッとして目を開けるとあと2ページほどで本が終わる。

よかったこれで助かった!

そう思った瞬間気が緩み、歩幅が狭まった。


それを見計らっていたかのように後方から低い声が聞こえてきて、つい振り向いてしまう。

そこにいたのはさっきの女だった。

しかし物語の始まりで見たときよりもその体は大きく、目はぎらぎらと光、爪は鋭利な刃物のようになっている。


物語が進むにつれて凶暴化しているのだ。

女は私に手を伸ばす。

私は女の顔に釘付けになってしまい、足を絡ませた。

その場で転倒し迫ってくる女の手が目前まで伸ばされる。

もう、終わりだ――!!


覚悟を決めた次の瞬間、私の手は強引に引っ張られ少し痛みを感じたかと思うと隣の本へと移動してきていた。

さっきまで感じていた、体に重たくのしかかってくるような空気は消えて、暖かくて胸の奥がむずむずしてくるような空気が流れている。



「もしかして蘭?」



それはとても久しぶりに聞いた名前だった。

私が「お」になってから、人間の名前で呼ばれたことなんてなかった。

視線を向けるとそこには誤字の「は」がいた。

「は」は私の手を握りしめていて、あの女から助けてくれたのだとようやく気がついた。



「信行?」



私は「は」をまじまじと見つめて言った。

どれだけ見つめてみても「は」は「は」なので信行かどうかなんてわからないのだけれど、そうしてしまう。



「あぁ、そうだよ。そっか、蘭も来たんだね」



信行は弾むような声で言った。

私も信じられない思いだった。

何百、何千冊と本が置かれている図書館で本当に信行を見つけ出すことができるなんて思ってもいなかった。

もしかしたら、私達の両親が気を利かせて近くの本棚においてくれたのかもしれない。



「この本はなんなの?」

「これは恋愛小説だよ」



信行は少し照れくさそうな声色になって答えた。

胸がくすぐったくなるようなこの感覚はそういう理由があったみたいだ。

とにかく苦手なホラーではないようで一安心だ。

それから私達は自分たちが見てきた冒険の話をした。


大好きな本の中に入れた感動や、両親を悲しませてしまった罪悪感も、信行が相手ならなんでも話せた。

それから信行は最近の図書館について教えてくれた。

この活字化の病気が出始めてからはほとんどの図書館が閉園してしまった。


この図書館もいつ閉まるかわからない状態らしい。

それでも影で紙の本を探す人はまだまだ多いらしく、利用者さんは後をたたないそうだ。



「ただね、表立っての営業はできないからこの図書館はいつでも電気が消されているんだ。表には閉館の紙まではられている」

「そうなの?」

「あぁ。図書館司書の人の話しが聞こえてきたんだから、間違いないよ」



紙の活字がそこまで切羽詰まった状態になっているとは思ってもいなくて、胸が痛む。



「だけど大丈夫さ。僕たちはもう活字になったんだ。今はこの生活を思い切り楽しもう」



信行はそう言うと私の手を握りしめて恋愛小説の中を泳ぎ始めた。

主人公たちの出会いから始まり、デート、そして切ないすれ違い。

けれど最後にはお互いに理解し合えってハッピーエンドだ。



「素敵」



間近で最後まで彼らのことを見ていた私はホッと息を吐き出して呟く。



「本当だね。僕らも彼らみたいになれたらいいのに」



ぽつりと呟いた信行の言葉に私は驚いて目を見開いた。

信行はすぐに自分の失言に気がついたようで慌てて「じゃあ、次の本に行こうか」と、動き始めてしまった。

私は信行の後を追いかけながら、いつかこの小説のキャラクターみたいに告白してくれる日が来るのではないかと、期待を膨らませていたのだった。

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