第35話 それは突然やってくるもの(2)

 トゥーリッキが生活の場としていたのは、勤め先の酒場から少しばかり離れた区画にある、三階建ての古びた集合住宅の一室だったようだ。終業の時刻を迎え、夜勤の責任者に情報の引継ぎをしてから退勤したヴェルザは自宅がある独身寮には寄らず、アジスラから託された住所を頼りにして、この場へと辿り着いた。


「こんばんは、ステルキ准尉」

「……あら、こんばんは、カウピさん」


 太陽が沈んで更に気温が下がった空の下、呆けたように建物を見上げて佇んでいるヴェルザに声をかけてきたのは、ハルジだった。アジスラからトゥーリッキの訃報を聞いた彼も、お別れをしにやって来たのだ。


「トゥーリッキの自宅はこの建物の二階の二号室でしたね。行きましょう」


 足を進められずにいたヴェルザの手を取るなり、ハルジはずんずんと進んでいき、程なくして、目的の場所へとやって来てしまう。心の準備を整えきれていないヴェルザの様子を気にすることもなく、彼は玄関の扉を叩いた。僅かの間の後に扉が開き、アジスラが中へと招き入れてくれる。


「二人とも来てくれて、ありがとうね。遺体の状態が悪くなるといけないから、この部屋の暖房は控えめにしてあるんだよ。だから、上着は着たままでいてちょうだいね、凍えちまうから」


 単身者向けの格安賃貸物件なのだという部屋は狭く、玄関から全体が見渡せてしまうほどだ。故に、死出の旅支度を或る程度済ませて、寝台に横たわっているトゥーリッキの姿をあっという間に見つけられて、あっという間に傍に行ってやれた。


「どうか、顔を見てやって」


 顔に掛けられている布を、ヴェルザが慎重に外す。最後に会った時よりもやつれているようだが、苦悶の表情を浮かべていないことを確認して、ヴェルザは安堵の息を小さく漏らす。彼女の隣に佇むハルジは普段と変わらない仏頂面ではあるものの、僅かに悲し気に目を伏せている。

 ――藁の死を迎えたトゥーリッキの旅路が安寧でありますように。

 二人は祈りを捧げ、トゥーリッキの顔に布を掛け直す。死者の視線には生者に害を及ぼす力が宿っているという、古くからの言い伝えがあるからだ。


「トゥーリッキは、どのようにして亡くなったのですか?」


 膝をつき、永遠の眠りについているトゥーリッキに目線の高さを合わせて、彼女を見つめるヴェルザの背中を見つめながら、ハルジは普段通りの淡々とした口調で、アジスラに疑問を投げかけた。


「二日前のことだけど、トゥーリッキがあんまりにも具合を悪くしてるみたいだから、何日か休みをあげるから、しっかりと体調を整えてきなって言ったんだ。あたしも夫も、従業員にはできるだけ無理をさせない方針だからさ。体を壊しちまったら働けなくなって、あっという間に生活ができなくなっちまうからね、あたしらみたいな庶民は」


 トゥーリッキとはそれなりに長い付き合いなので、休めと言われて大人しくしているような性分ではないとアジスラは知っている。彼女がちゃんと休めているかと気になって、昼前に様子を見にやって来て、愕然とした。


「床に倒れて動けなくなってるのを見つけて、急いで医者を呼びに行って此処に連れてきて……診てもらったけど……」


 質の悪い風邪をこじらせてしまい、すっかり体が弱ってしまっていたトゥーリッキには治療の施しようが無いと告げられた。


「息をするのも辛いのに……『ヴェルザ姉さんとハルジには、あたしが死んだことを伝えないで』って……それが、最期の言葉だったよ」

「……女将さんはどうして、トゥーリッキの最期の言葉に従わなかったのですか?」


 ハルジにはアジスラの行動が不思議に感じられたので、彼女に問うた。


「あんたたちは、この子の大事な人たちだと思ったのさ。だから、見送ってあげてほしかったんだよ」


 大酒飲みと大食らいの奇妙な二人組はどういう知り合いのなのかとアジスラが尋ねた時分に、トゥーリッキは二人について、嬉しそうに語っていたのだ。


『ヴェルザ姉さんとハルジ、また会いたいなぁ。会ってくれるかなぁ。アトリの話、いっぱい聞かせてほしい。でも、あたしみたいなのと付き合うのは、二人のためにはならないんだろうなぁ……』


 知らせないでくれと言ったのは、遠ざけることが二人のためになると考えたのかもしれない。人間の嫌な部分を幼い頃から沢山目にしてきたトゥーリッキは、それらからヴェルザとハルジを守りたかったのではないか、と、アジスラがどこか寂しそうに語った。


「やっぱり、あの時ああしておけば良かったって後悔したくなくてね」


 だから、あの言葉には従わなかったのだと言ったアジスラに、ヴェルザたちは感謝した。


「トゥーリッキの葬儀はどのように行われるのでしょうか?宜しければ、御手伝いをさせて頂きたいのですが……」

「ああ、そのことなんだけど……未だ、葬儀屋には相談をしに行っていないんだよ。突然のことで、あたしも頭があんまり回らなくて……段取りが悪くてごめんよ」


 夫である酒場の店主と相談をして役割分担を決めると、アジスラはトゥーリッキを弔うために必要な手続きをしたり、ヴェルザたちを呼びに行ったりなど、色々な事をしていた。そうしているうちに夜になってしまい、葬儀屋の営業時間を過ぎていることに気が付き、明日の営業開始時刻に駆け込むつもりだと彼女は言った。尚、店主はアジスラが不在の酒場を一人で仕切っているのだそうだ。従業員にも生活があるから、急には店を閉められないと。


「簡素な葬儀だったら、この子が持ってるお金に、あたしと夫が不足分を出してやれば、何とか賄えそうだね。流石に墓までは用意してやれないから、遺灰は海に撒くことになるだろうけど、誰にも弔われないよりはマシさ」

「そう……ですね、そうなりますよね……」

「ああ、そうだった!ステルキ准尉が来たら、これを渡そうと思ってたんだ!」


 古びた傷だらけの衣装ダンスの上に置かれている物を手に取り、アジスラはそれをヴェルザに渡してくれた。


「アトリとトゥーリッキが並んで写っている写真、ですね。このようなものがあったとは……初めて知りました……」


 アトリの遺品の中で、トゥーリッキと関係しているものは、あの金の指輪だけだったと記憶しているヴェルザは、驚きを露にする。


「優男のアトリは、あんたの弟なんだろ?あんたが良ければなんだけど、この写真、形見として貰ってやってくれないかい?この二人は幸せにしてたんだってこと、あんたなら忘れないでいてくれるんじゃないかって思ってね……」

「有難う御座います、女将さん。大切にします。……あら、カウピさん、御覧になりますか?どうぞ」


 写真を覗き込んでいるハルジに気が付いて、ヴェルザは渡してやる。彼はじっくりと写真を眺めると、隣に立つヴェルザを見上げて、もう一度写真に目を戻した。


「やはり、ステルキ准尉とアトリは姉弟ですね。笑っている顔が……よく似ていると思います」


 何時何処で撮影されたのか分からない白黒写真に、彼の日のアトリとトゥーリッキが写っている。幸せそうに微笑むアトリはトゥーリッキの肩を抱いて、彼女は不貞腐れたような表情で正面を睨みつけている。彼女のことだ、照れ臭かったのかもしれないと想像出来て、ハルジは薄っすらと笑う。


「出来ることはやっておこうと思って、荷物の整理をしてたんだけど、形見分けで渡せそうな物はその写真と、この子がしてる指輪くらいでさ。指輪はこの子が大事な人から貰ったものだから、勿体無いけど、遺灰と一緒に海に撒いてやりたくてさ」


 だから、ハルジに渡せそうなものはないのだと、アジスラに申し訳なさそうに言われた彼は「どうぞ、僕のことはお気になさらずに」と返す。ヴェルザにこの写真が渡るのであればそれで良いと、彼は素直に思ったようだ。


「それからね、最後くらいは綺麗な服装にしてやりたいと思ったんだけど、お洒落な服も装飾品も全然持ってないんだよ、この子。年頃の娘なのにお洒落をしない子だと思ってはいたんだけど、ここまではとはね……」


 衣装ダンスにしまわれていた服は全て着古したものばかりだったと、アジスラが深い溜め息を吐く。ヴェルザは寝台に寝かされているトゥーリッキに目をやった。彼女が着ている服は少し色褪せており、襟元や袖口、スカートの裾には擦れた跡があり、小さな穴を繕った後も幾つか見られる。床に置かれている靴も、使い古している感が否めない。


「……そういえば、養護院の院長が仰っていました。トゥーリッキは生活に余裕ができると、寄付をしてくれていたと。自分のためにはお金を使わなかったのですね……」


 改めて、部屋を見渡してハルジは気付く。この部屋にはあまりにも物が置かれていなくて、人間が生活をしている雰囲気を感じられない。冬ではなくても、寒々しさを感じる。明るいトゥーリッキには似合わないと、彼は正直に思った。


『親がいたことは覚えてるけど、顔は覚えてないし、名前も知らない。今は何処にいるのか、未だ生きてるのかも分からない。生き延びるのに必死だった仲間と身を寄せ合ってきたけど、家族ってのがどんなものなのかは分かんなくて、でも、街で見る親子連れが羨ましくて仕方がなかった。アトリと一緒になって、あたしの家族、作っていきたかったなぁ……』


 あり得たかもしれない未来を語っていたトゥーリッキの憧れと寂しさ、悔しさが綯い交ぜになった表情が、ヴェルザの脳裏に浮かぶ。ハルジかの手から戻された写真をじいっと眺めると、ヴェルザは決意した。


「女将さん。葬儀にかかる費用は全て私が負担致します。ですから、トゥーリッキの葬儀を私に任せて頂けないでしょうか?」

「……正直に言うとね、うちもお金に余裕がある訳じゃないから、あんたの申し出はありがたいよ。だけど……どうして、そう思ったんだい?」


 トゥーリッキの死を悼んで欲しくて、ヴェルザたちを呼んだだけで、ヴェルザにそこまでしてもらうつもりはない。夫婦で経営している酒場の従業員であるトゥーリッキに身寄りがないために、店主夫妻が葬儀をの手配をしてやろうとしているだけだ。アトリという接点があったとはいえ、知り合って間もないヴェルザがそこまでする理由が見当たらないとして、アジスラはヴェルザの申し出に賛同しかねるという意を示す。


「彼女に身寄りがないからこそ、です。婚姻届けを提出していないので、アトリとトゥーリッキは配偶者として認められていませんが、私は……彼女を家族の一員として扱ってあげたいのです」


 誰かの家族になりたかった。アトリと一緒になって、自分の家族を作っていきたかった。

 叶えられなかったトゥーリッキの願いを、形だけでも叶えてあげられたら、と、ヴェルザは考えたらしい。その突飛な理由にアジスラが目を丸くして言葉を失っていると、沈黙していたハルジが口を開いた。


「何かの本で読んだのですが……葬儀は故人の魂が天上の世界へと向かえるように行われる儀式であり、また、遺された者が故人に対して悔いを残さないために行われる儀式でもあるのだとか。ステルキ准尉がトゥーリッキに対して悔いを残したくないのであれば、貴女が考えうるだけのことを彼女にしてやっても良いのではないかと、僕は考えます」


 アトリの心残りを解消できた日のヴェルザの涙を、ハルジは覚えている。平常心を保って日常を過ごしていると思われていた彼女は、本当は心に苦しみを抱えていたのだと知った。彼女が再びそのような日々を送るのは嫌だと、ハルジは思ったらしい――本人はそれに気が付いていないようだが。


「眼鏡のにいさん、あんた……良いことを言うじゃないか。役人だって聞いていたから、もっと頭が固くて、融通の利かない面白みのないヤツかと思い込んでたよ」

「本来の僕は、正に仰る通りの人間です。ステルキ姉弟に係わるようになってから、稀に自分らしくない行動をとることが増えたんです」

「えっ、ええと、弟ともども御迷惑をおかけ致しまして、誠に申し訳なく存じております……」

「貴女に係わるのが嫌だとは言っていません。ですから、謝罪は一切受け付けません」


 オロオロする軍人のヴェルザと、ふんぞり返っている役人のハルジのやり取りを目の当たりにして、アジスラが我慢しきれずに噴き出す。何なんだろう、この面白デコボココンビは、と。それを目にして恥ずかしくなったのか、ハルジは鼻を鳴らして、そっぽを向いた。二十を半ばも過ぎている成人男性とは思えない、子供っぽい反応である。


「うん、あんたたちが思うように、トゥーリッキを見送ってあげておくれよ。あたしと夫は、あんたたちの手伝いをする方に回るよ」


 この二人になら任せられると確信したアジスラは、ヴェルザの申し出に賛同することにした。ヴェルザは感謝し、ハルジは「いつの間にか喪主の一人に数えられていないか?」と首を傾げていた。

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