第34話 それは突然やってくるもの(1)
「新年の御祭り騒ぎも落ち着いてきましたから、我々警邏隊の出動回数も少しは減少してくれると有難いですね」
トゥーリッキと面会をして、アトリの心残りを解消できたあの日から、一ヶ月半ほどが経過した。心の片隅に潜み続けていた憂いを取り払えたヴェルザはホルティ曹長から渡された調書に目を通しながら、雑談にも応じる。
「浮かれきって外に出てくる隙だらけの人間と、酒に飲まれて人事不省に陥る人間の数が減ってきているので、窃盗と住居侵入の件数は減少しているようですが、強盗の件数は横這いでしょうか。前者は金目の物を盗まれるだけで済む場合がありますが、後者の場合は道端で眠ってしまい、最悪、凍死してしまう可能性がありますので……お酒は嗜む程度で済ませて頂きたいものです」
先程まで外回りの仕事をしていたからか、鼻先が赤くなってしまっているホルティ曹長は「全くです」と肩を竦めてみせた。
「季節の行事の期間は稼ぎ時だと豪語している窃盗と住居侵入の常習犯がいましたね。彼は今、何度目かの牢屋行きになっていますが」
手にしていた調書を一度置き、コーヒーを口にしたヴェルザはやや顔を顰める。熱々のものを持ってきたはずなのに、もう温くなってしまっていたのだ。
「御祭りは男女の別無く、何歳になっても楽しい行事ですから、羽目を外してしまいたい気持ちになるのは理解できます。ただ、それが犯罪の呼び水になってしまうこともありますので、警戒心までも解き放たないで頂きたいです。犯罪の件数が少ないことは、悪いことではないのですか、ら……くしゅっ!失礼致しました」
咄嗟に上体を捻ってくしゃみをしたホルティ曹長に「風邪ですか?」と問いかえれば、彼は照れ臭そうに「いいえ、鼻に何やらが侵入してきたようです」と返してきた。
「先程、外回りをした際に近隣の奥様方に伺ったのですが、昨年の終わり頃から王都では質の悪い風邪が流行しているようです。こじらせてしまうと命を失う恐れもありますので、体調管理には普段以上に気をつけなければなりませんね。我々の職務は健康な体が資本ですから」
「そう、健康な体でなければ、現行犯逮捕の機会を逃してしまう確率が上がってしまいます。特に、あの白鳥は無駄に足が速い。……おほん。王都の治安を守るのも大切なことですが、家族の健康を守るのも然り、です。お互いに気をつけましょう」
「仰る通りです。それでは休憩に入りますので、失礼致します」
「御苦労様です、ホルティ曹長」
部下の背を見送り、ヴェルザはカップの中に残っていたコーヒーを一気に呷ると、不意にあることを思い出す。
(そういえば、トゥーリッキも風邪のような咳をしていましたね。ちゃんと御医者様に診て頂いていると良いのですが……)
先日、ヴェルザはハルジを誘い、彼女の勤め先である酒場に顔を出した。其処は港で働く、屈強な海の男たちのたまり場のようで、とにかく喧しい。酒を飲んで気が大きくなっているのか、小さな諍いから殴り合いの喧嘩まで発生しているのに、刃傷沙汰にでもならない限りは誰も気に留めない異様な空間と化していた。
――こんな場所で小柄なトゥーリッキがやっていけるのか。と、ヴェルザは心配したが、酔っぱらいを上手にあしらい、しつこく絡んでくる泥酔した客にはきつい一撃をお見舞いしている姿を目にして、安堵した。だが、時折隠れるようにして咳き込んでいるのを見かけたのは気になった。
『アトリが言ってたこと冗談だと思ってたんだけど、本当のことだったんだね……』
酒場の雰囲気に合わないヴェルザとハルジの二人は酔っぱらいたちの餌食となり、大酒飲みと大食らいの勝負を持ちかけられた。二人は得意分野を選ぶと勝負を受けて応え、圧勝した。勝負にかかった費用を全額支払うことになった敗者と、まだまだ余裕がある二人を目にして、トゥーリッキは唖然とする他なかった。その際も軽く咳をしていたトゥーリッキに「体調が優れないなら休ませてもらったらどうか」と話かけたのだが――
『風邪のひき始めだから、栄養のあるものを食べて、あったかくして寝ればすぐに治るよ。あ~、うん、分かった!ちゃんと医者に診てもらうって!ありがと、ヴェルザ姉さん』
自分のことより他人のことばっかりに気にかけるところ、アトリにそっくり。やっぱり姉弟だね。そう言って笑っていたトゥーリッキの顔色はやはり悪くて――
(……いけませんね、勤務中にも拘らず、うっかり物思いに耽ってしまいました)
はた、と我に返ったヴェルザは頭を左右に振り、集中力を取り戻そうと、コーヒーのお代わりを淹れに行き、熱々のコーヒーの芳香を楽しんでから一口味わうと、机の上の調書に目を戻した。
小銭泥棒の常習犯の女の次の調書は、男性下着専門の窃盗犯の男のもので「他人の使用済みの下着でないと興奮できない」という動機で犯行に至ったのだと記載されている。
(そのようなことを言われましてもね……)
何とも言い難い気持ちにさせられたヴェルザは、訂正箇所がないことを確認してから、彼が再犯をしないことをどこか他人事のように祈りながら、調書に署名をした。作業を繰り返すこと、暫く。執務室の扉を叩く音に続いて女性の声が聞こえてきた。入室を促すと、受付を担当している事務係の女性が怪訝な表情をしつつ、入ってきた。
「アジスラと名乗る女性が受付にいらっしゃいまして、ステルキ准尉に直接お伝えしたいことがあると仰っているのですが……」
「アジスラさん、ですか?心当たりがないのですが……どのような女性ですか?」
「あっ、失礼致しました。『トゥーリッキが働いている酒場の女主人だと伝えたら分かってもらえる』や、『これを見せたら、より信用してもらえるんじゃないか』とも仰っていました」
ヴェルザは席を立ち、事務係に近づく。彼女が手にしていた紙切れを差し出してきたので、それを受け取り、中を見てみる。それにはヴェルザの直筆で、彼女の自宅や仕事先の住所が書かれていた。
――困ったことがあれば、頼ってくださいね。私でもカウピさんでも、どちらでも構いませんから。そう言って、トゥーリッキに渡したことを思い出したヴェルザの胸に一抹の不安が押し寄せる。
(トゥーリッキのことを思い出したら、その日のうちに、こんなことが……若しかして、彼女の身に何かあった、とか……?)
事務係を伴って受付に向かうと、其処には、色褪せた金髪を緩く纏めた初老の女性――酒場の女主人アジスラが椅子に座っていた。彼女はヴェルザの姿を見つけるなり、ゆっくりと立ち上がった。
「先日ぶりで御座います、女将さん。私に御用がおありだと伺いましたが、どのような内容で御座いましょうか?」
不安を押し込めて、ヴェルザは努めて冷静に且つ穏やかな声色でアジスラに問いかける。彼女は視線を彷徨わせ、微かに唇を震わせて俄かに沈黙したが、意を決して口を開いた。
「知らせないで欲しいって、
胸騒ぎがする時は、ヴェルザの与り知らない場所で何かが起こっている時だ。その答えが今、アジスラから伝えられたのだと理解して、ヴェルザの思考が止まりかける。冗談だと言って欲しい。だが、アジスラの声色と表情は真実を告げているのだと物語っていて、ヴェルザはその事実を受け止めざるを得ない。
――ヴェルザ姉さん、ハルジ、今度は二人にあたしから会いに行くよ。二人が知ってるアトリの話、沢山聞かせて欲しいんだ!
目映い笑顔を咲かせていたトゥーリッキの体から、魂が抜けだしていってしまった。強い衝撃を受けて、眩暈を覚えるが、ヴェルザの体はぐらつくことなく、頭も不思議と冴えている。
「本日の勤務を終えましたら、其方に伺わせて頂きたく存じます。夜になってしまいますが、女将さんの御都合は宜しいでしょうか?」
ちらり、と、壁に掛けられている時計の針の位置を目にして、ヴェルザは自分に言い聞かせる。あと二時間、あと二時間で勤務が終わる。そうしたら、非常事態が起きない限りは職務のことを気にせずに、トゥーリッキの元に行ってやれるのだから、と。
「……分かりました。あたしはもう一人、眼鏡のにいさんに伝えに言ったら、その後は葬儀の準備やらで、ずっとトゥーリッキの自宅にいますから、遠慮しないで来てくださいな」
トゥーリッキの自宅の住所を書かれた紙を渡されたヴェルザはアジスラを見送ろうと、外に出る。すると偶然にも建物の前を通りかかろうとしている空席の馬車を見つけたので、急いで捕まえる。ヴェルザが料金の先払いをしようとするとアジスラは遠慮したが、やや強引に彼女を乗せて、発車させた。
(勤務が終わりましたら、必ず貴女の傍に向かいますからね、トゥーリッキ……)
その馬車が曲がり角を曲がって姿を消すまで見送ると、ヴェルザは逸る気持ちを押さえようとしたのか、両手で己の頬を思い切り叩いた。我ながら、なかなかの馬鹿力ではないか。物凄く痛いし、脳も揺れたような気がする。この後の業務に支障が出ないことを祈るばかりだ。
真冬の王都の屋外に防寒着無しで出れば、短時間でも体が冷えてしまう。暖房がしっかりと効いている建物のに中に入ると、じわじわと氷が解けていくような感覚に襲われるのと同時に、周囲の人々の視線も集めた。
「あの……ステルキ准尉、その……顔に手形がくっきりとついていますけれど……二つも……」
「暫くしましたら、元通りになるかと思われます。未だ、ギリギリ、若いので、ええ、多分。ですから、どうぞお気になさらず、御仕事を続けて頂きたく存じます」
頼むから何も言ってくれるな。何も見なかったことにして欲しい。
いやに圧力のあるヴェルザの笑顔を見てしまった人々は、壊れた絡繰り人形のように首を上下に振ることしか出来なかった。
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