最終話

 駐輪場へ降りる。虫かごを見る。


 はたしてぞうくんは、まだ虫かごの上に乗っかっていた。


「ごめんごめん! 降りられへんわなぁ」

 ぼくは、虫かごと地面の間にダンボールを渡す。


(さいたま市 さいたま市 さいたま市……)

(ただ今 ただ今 ただ今……)

(光化学スモッグ 光化学スモッグ 光化学スモッグ……)

(注意報が 注意報が 注意報が……)


 スピーカーを使った市のアナウンスだ。金属的な声が、空に飛んでいる。

 ふと目を上げると、塔状雲とうじょううんがズゴーンと青に突き刺さっていた。なで風がより多くの汗を呼び寄せる。夏やねぇ。今年もまた、夏が来たねぇ。


 ぞうくんをちらりと見る。

 だけどぞうくんはダンボールに乗っかるどころか、虫かごの縁をちょろちょろと歩き回るばかり。うむうむ、鼻がかわいいね。その鼻が象に似ているから、ぞうむしっていう名前をもらったらしいね。


 ぞうくんはとうとう、割り箸のてっぺんでぴたりと止まってしまった。


 怖いのかな。

 また、土の中に潜って、涼しいところで暮らしたいのかな。


 ぼくがそう思った瞬間、ぞうくんの身体が二つに分裂した。

 いや、ほんとにそんな感じに見えたんだ。ぞうくんの身体の間に、白いカーテンが広がっている。


 そして。


 ぞうくんは少し身震いした後、微かな羽音を立てて滑空した。


「わっ!」


 ぼくはびっくりして、しゃがんだまま半歩ほど後じさりをする。


「おまえ、飛べるんか!!」


 そうかぁ。

 ぞうくん、おまえ。飛べたんか。


 初めて飛んだんやな。そりゃ、緊張したよな。怖かったよな。


 ぞうくんは自転車のタイヤへと着地した。そして満足そうに鼻を振る。誰にも聞こえなかったろうおまえの羽根の唄。ぼくはにやっと笑って、それを賞賛の言葉代わりにした。


 ぞうくん、よかったな。


 ここからが始まりやで。昆虫の寿命は短いとか、人間はばかなことを言うけれど、そんなもん人間が勝手に決めた話や。短かろうが短くなかろうが、おまえは精いっぱいこの世界を楽しんでくれよ。


 うまいきゅうりはもうないで。いつも涼しいわけやない。


 それでも、ええやろ。

 なかなか、ええもんやろ。


 ぼくはもうわからへんで。このへんでぞうむしを見つけても、それがぞうくんなのか別のぞうむしなのか、わからへん。だからここでお別れなんよ。後は自由に、好きなようにやったらええんやで。


 でもな、ぼくは思うねん。

 この世のあちこちで生きてるやつらな。みんなぞうくんみたいに、しっかりと生きてきたんやって。どんな辛いことがあっても、苦しんでも、今生きてるやつはみんな、今生きてることに間違いはないんやないかって。

 そりゃゴキブリが出てきたらびっくりする。蜂とか怖いし、そもそもぞうくん、おまえも害虫って言われてるみたいやん。それでもぼくは、生きてるモンが嫌いになれへん。だってみんな、今を生きてるんやからさ。そして今までも、生きてきたんやから。


「あれ?」


 さっきまでタイヤにへばりついていたはずのぞうくんがいない。


 自転車をあちこちから見回したのだけど、ぞうくんの姿はどこにもなかった。


 過ごしやすいところを求めてフレームの下に潜りこんだのか。

 それとも疾風迅雷しっぷうじんらいの素早さで茂みに走っていったのかはわからない。


 だけど答えは一つだけ。


 だからぼくはその答えに従って、部屋でアイスコーヒーを飲まなければいけない。

 ぼくは膝を伸ばして、小さく叫んだ。


「さぁ、夏やで!」


                                    了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

羽根の唄 木野かなめ @kinokaname

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ