第28話 彼女と家出

 「ただいま~」


 返事を待つその言葉は、暗い部屋の中を空虚にこだました。

ルビアは寝ているのだろうか。いや、普段ならこの時間、午後八時くらいはまだ起きている時間のはずだ。

何か嫌な予感がする。あの日以来、一カ月間彼女と生活しているが、こんなことは一度も無かった。

俺は暗い中、おぼつかない手つきで明かりをつけた。

その部屋に照らし出されたのは、彼女の痕跡だけが消え去ったいつも通りの光景だった。


「ルビア‥‥?」


 トイレ、お風呂、キッチン。手あたり次第、順々に巡って声をかけても、隅々まで探しても彼女の声も姿も見当たらなかった。それどころか彼女の歯ブラシや着替えなど生活道具すらなくなっていた。

 まるで、彼女が来る前に戻ったかのように。

 そして、残す部屋はリビングのみとなってしまった。そんなリビングのドアノブに手を掛ける。

だが、ドアノブにかけた手が震えて開けられない。

大丈夫、きっと寝てるだけだ。俺が他所で美味しい物食べてきたから不貞腐れているだけ。そうに違いない。自分にそう言い聞かせる。

目を閉じて、大きく息を吸い、ゆっくり吐き出す。頼む、そうであってくれ。

閉じていた目を開け、扉を開いた。

その先に広がっていたのは、綺麗に整理された部屋、そして一通のメモ紙だけが残されていた。ああ、そうか。その部屋に広がっていた綺麗な赤色は、もう色あせてしまったみたいだ。

 きっと、あのメモは彼女の書置きだろう。早くみなければいけない。そう思う程、やけに遠くに置かれてある気がした。崩れ落ちた膝を持ち上げ、重い足をテーブルの上にあるメモ用紙へと運ぶ。

そこにある文字を読むのを躊躇われる。たまらなく怖い。まだ買い物に行った可能性だってある。そのための書置きかも。それか、大家さんの家に泊まりに行ったのかも。そうだったら明日辺り向かいに行けばいいか。うん、きっと帰ってくる大丈夫。大丈夫、だよな?

 言い訳のような言葉は次々と出てくるのに、それ以外の可能性が出てこない。いや、逃げている。

目を開けるのがとても怖かった。けど、これを見ない分には何も始まらない気がした。

俺は重く閉じた瞼をゆっくりと開き、向き合うことにした。


『私たちの関係はやっぱり普通じゃないんだと思う。アンタには十分世話になったからこれ以上迷惑はかけない。アンタを殺す気はないから安心して。警察にこのことを言っても構わないから。今までありがとう。アンタとの生活楽しかったよ』


 それが彼女の書置きの内容だった。

苦しくて、辛くて、「どうして」という言葉で脳裏までいっぱいに埋め尽くされていく。けれど、まだ涙は流れていない。

凍えそうなほどの寂しさに襲われていても、心の中にはわずかな火の粉が揺らめいている。

どうしようもない喪失感に包まれながらも、奥底にはまだ諦めていない自分が生きていた。

 そうだよ。まだ、終わりじゃない。だって、俺はまだ彼女に自分の気持ちを伝えていないから。だから、まだ終わらせられない、俺と彼女の物語を。


――普通じゃないんだと思う


普通じゃなくていい。最初から普通の道なんて歩けると思っちゃいない。それでも、それを分かって、俺は君と歩きたいと思ったんだ。


――これ以上迷惑はかけられない


迷惑だなんて、勝手に決めるなよ。俺はルビアを迷惑だなんて思っていないから。だって君とこれからを生きていきたいから。

絶対に見つけ出す。見つけ出して、今度こそ俺の本心を彼女に伝えたい。「好き」だと伝えて見せる。

 居なくなったのは俺が出かけてから帰ってくるまでの間だ。彼女は公共交通機関を使えない。なら移動手段は徒歩だ。それならそう遠くには行っていないはず。少なくとも隣町までは行けないはずだ。

俺は財布と携帯を握りしめて家を飛び出した。


 一番可能性が高いのは、大家さんの家か‥‥。

まず先に浮かんだ大家さんの家を、俺は尋ねることにした。


「すいませーん」


ベルを鳴らし、声をかけると、遠くから「はーい」という返事と慌てたような足音が聞こえてきた。


「あら、どうしたの?こんな時間に?」

「夜分遅くにすいません。あの、こちらにルビアが伺ってたりしませんか?」

「ルビアちゃん?いや、家には来てないねぇ」

「そう、ですか‥‥」

 

 大家さんの返答に肩を落とした。まだ、わずかばかりの希望を残していたがそんな希望はあっさりと打ち砕かれてしまった。いや、分かっていたはずだ。ここに居るならあの書置きをする意味はない。可能性の一つが消えただけそう考えて切り替えろ。

 

「一つだけ、聞いても良い?」

「はい!?」

 

 大家さんの言葉にぎくりとする。さすがに、怪しいことだらけで疑問に思っても仕方ないか‥‥。だが、大家さんの質問は、そんな俺の浅慮を躱して、深く重く胸を突き刺した。

 

「あなたの今やってることは、本当に正しい事?」

「‥‥‥」

 

 いつもそうだ。この人は全部見通したうえで厳しいところを突いてくる。普通な「ルビアちゃんがどうかしたの?」とか聞いてきそうなところを正しいかどうか、か‥‥。実際、客観的に見れば間違いなのだろう。そもそも始まりから俺とルビアは間違っていたんだと思う。そんな間違いを見て見ぬふりをして誤魔化してきた、そのつけが今になって回ってきたのだろう。

 なんて答えるのが正しいのだろう。少し返答に迷う。いや、答えに迷っているわけではないか。自分の中の答えはもう持っている。けど、これが答えになるかが分からなかった。

だから、俺は大家さんへの答えに、こう前置くことにした。

 

「答えになってるか分からないんですけど――」

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