第25話 彼女と犬

次の日もまた、彼を見送った。

これから、毎日あの時間がやってくると思うと憂鬱な気分になってしまう。私は遠くなる彼の背中をベランダから見えなくなるまで見ていた。

さて、どうやって時間を潰そう。ゲームでもやろうかな。いや、一人でやってもあの時ほど面白くないんだろうな。

「あれ?」

ベランダから去ろうと思った瞬間、視界の端にこちらを凝視している生き物がいることに気付いた。あれは、犬?確か、あの家は大家さんの家だった気がする。

しばらく眺めていると、大家さんが家から出てくるのが見えた。そして、犬の目線を追って、私の存在に気付くと、手招きするように私のことを呼んだ。私は一礼してから、ベランダを離れた。

どうしよう。あの犬はちょっと気になるけど‥‥。

私は机の上に置かれた鍵を見つめる。あの人は好きにしていいと言ってくれたけれど、やっぱり家主を差し置いて、私が出入りするのは抵抗がある。

私が悩んでいると、インターホンが弾ける音がした。

一瞬、ビクッと身体が強張るが分かった。恐る恐る足音を立てないように扉の前まで忍び寄った。そして、ゆっくりとドアののぞき穴から向こう側を確認する。映っていたのが大家さんだったことにホッと胸を撫でおろした。

私は扉を開き大家と対面する。

「おはよう、ルビアちゃん」

「お、おはようございます‥‥」

まだ少し慣れない、あの人以外との会話。ぎこちなさがむず痒く感じる。

「ちょっと、家に遊びに来ない?さっき家の犬見てたじゃない?気になるのかなって思って」

「え、えっと‥‥‥良いんです、か?」

「ええ、ぜひ」

私は半分、押される形で大家さんの家にお邪魔することになった。


大家さんの家に来るのは初めてだな。そんなことをボーっと考えながらいると、さっきベランダで見た犬と遭遇する。

「この子、ダンって言うの。柴犬でね、あんまり他人には懐かないんだけど」

ダンと呼ばれたその犬は、律儀に座り、舌を垂らし、へっへっへっと細かい呼吸を重ね、つぶらな瞳でこちらを一心に見つめる愛くるしい様子に私の中のなにかが爆発しそうであった。

「触ってみるかい?」

大家さんに尋ねられた私は、自制などとっくに忘れてしまったように首を勢いよく縦に振っていた。

私はダンの頭に優しく手を乗せた。ふわりと柔らかい毛が心地よく何度も撫でたくなる。

「く~ん」

私が撫でると気持ちよさそうに返事をした。しっぽを振っていて嬉しいのが漏れ出ていた。

「へえ、この子が懐くなんて珍しいねぇ」

「いつもはこうじゃないんですか?」

「ああ、この子元々は捨て犬でね、あんまり人に懐かなかったんだ。今も家族以外には吠えたりするんだよ」

「そうなの?ダン~、よしよしよし」

大家さんの話を聞いて、なんだか余計に可愛く見えてわしゃわしゃと撫でまわした。

そっか、この子は捨て犬だったんだ。今は良い人に拾われて、良かったね。私はわざとらしくそんな言葉を呟いた。

私はしばらく大家さんの庭にお邪魔して、ダンと遊ばせてもらった。



午後の講義が休校になったため、俺は早めに家に帰ることにした。アパートへは前に使ったバス停から街灯三つ過ぎたところを曲がった場所にある。その曲り角には大家さんの家がある。

こんな平日の日中なのにやけに賑やかで疑問に思っていると、塀の隙間から赤い髪をなびかす女の子を見つけ、少し驚いてしまう。

そのまま大家さんの家のインターホンに手を伸ばした。

「はいはーい、あら?どうしたんですか?」

「いえ、もしかして、ルビアがお邪魔してるんじゃないか思って」

「そうだ。あなたもいらっしゃって」

そう流されるまま、俺は大家さんの家の庭に通された。

「えっと、ただいま?」

「あ、おかえ――うわぁ!」

そこには、柴犬に押し倒される赤毛の少女が居た。

「ちょ、くすぐったいよ」

ぺろぺろと舐めるワンちゃんは可愛くはあるのだが、なんだろう、トラブルの香りがするな‥‥。このまま眺めていると犯罪と疑われそうなので、ここは止めに入るとしようか。

「こら、あんまり女の子を困らせ――」

(ガブり)

「んぎゃあああ!?」

犬をほどこうとしたその手を思いっきり噛まれた。思わず涙が出そうなくらいには痛い。なにせ、噛まれた部位にはしばらく感覚が戻らないほどだったから。

「だ、大丈夫?」

「まあ、大抵の人間にはこんな感じなのよね。まあ普段は近づくだけで吠えたり唸ったりするくらいだから、敵対されてるわけじゃないと思うんだけど‥‥」

「いや、これ殺す勢いでしたけど?ほらこの指先見て?血が止まらないんですけど」

滴り落ちる血液を尊びながらも、ダンとのコミュニケーションを試みる。だが、俺の言うことには全く聞く耳を持たず、大家さんと何故かルビアにはしっぽを振って喜んでいる。極めつけは、三人でお手をしたところ俺だけ小便を掛けられ、さすがの俺も怒髪天を衝くようだった。

「ちっ、このクソ犬が、待てぇ!」

「ぷっ、アハハ」

ダンを追いかける俺を見て、たまらずルビアが吹き出していた。そんな様子を見たらすっかり怒りも冷めてしまった。

そんなルビアをどこか嬉しそうにダンは眺めていた。

「まさか、お前‥‥」

そんなダンを見て、もしかしたらと思いを巡らせる。

いや、まさかな。寂しそうなルビアを励まそうとしてくれた、なんてさすがに犬の範疇を越えてるか。

それでも、ダンのおかげで元気が出たのは確かだ。俺はそんなダンに感謝の気持ちを乗せて頭を撫でようとすると、それを受け入れたのかダンが頭を下げた。

なるほど、敵対してても感謝だけは受け取ってくれるのか。昨日の敵は今日の友だな。まあまだ今日だけど。

俺はダンの頭に手を伸ばした。と思っていたが、俺の手を避けてダンは足首に思いっきり嚙みついた。

「ぐわあぁぁ!?元はと言えばお前のおしっこじゃねぇか!いてぇ」

こいつ、自分のおしっこ付きの手で撫でられるのが嫌で、わざわざ避けやがった。

まあでも、あんな笑顔見れるなら、これくらいは許してやるか。俺はルビアの方を見る。目の端を涙で湿らすほど大笑いして、楽しそうにしていた。

「ダン、その人は私の大切な人だから、ほどほどにね」

ルビアが優しくダンに注意する。だが、俺はルビアの言葉が脳裏に焼き付いて離れなかった。どうやら遅れて自分が言った言葉に気付いたのか、徐々に顔が赤くなっていく過程が楽しめた。ナニコレ、超かわいい。

「ちが、そうじゃなくてあの、えっと、その‥‥‥」

「その?」

「ダン、やっておしまい」

「何でぇ!?ちょ、ダン待て?一端落ち着こう?な?そうだ、ドギ――」

「ワン!」

「いぃやぁぁぁぁ!」

トホホ、もうワンちゃんはこりごりだよぉ~。って、なんだこの昭和のギャグ漫画みたいな落ちは。令和だぞ令和。

俺は結局、その後もダンに追われ続け、彼女から言葉の真意を確認することは出来なかった。まあでも、少なくとも彼女の中での俺の立ち位置が一歩ずつ良い方へ進んでいっているのは間違いないだろう。今はそれだけ分かってればいいか。

そう、この時の俺はそんな風に甘く見積もっていた――。

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