第23話 彼女と留守番Ⅰ

翌朝。俺はいつもより早めに起きた。いつもは日が差し込むベランダの窓が、今日は曇りのせいで陰りを帯びていた。いつもよりも早く朝食の準備に取り掛かる。

「おはよ、ルビア」

「うん、おはよ‥‥」

朝食の匂いに誘われたか、はたまた、別の思惑があったからなのか、彼女もいつもより早くに目覚めていた。それでいつも通りの食卓で、いつも通り「いただきます」を言って。そんな「いつも」を俺は楽しんでいた。けれど、その時間ももうすぐ終わってしまう。

憂鬱になりそうな気持ちを誤魔化すように、汚れの落ちた食器をいつまでも擦り続けた。

今日の講義を確認して、荷物をまとめる。久しぶりの大学で緊張しているのか、やけにバッグが重く感じられた。そんな荷物を抱えながら玄関まで行くと、ルビアが見送りに来てくれていた。

「ルビア、俺そろそろ行くから」

「‥‥うん」

素っ気ないルビアの返事を寂しく感じながら、スニーカーの紐を結ぶ。

「あ、そうだ。もし困ったこととかあったら大家さんを訪ねてくれ。お昼は冷蔵庫に入ってるし‥‥後は――」

心配故か、俺の語尾はいつまでも完結せずに、いじらしくその続きを探していた。

「大丈夫だから!」

「――そっか。じゃあ行ってきます」

子供扱いされたのが気に入らなかったようで、少し語尾が荒くなっていた。心配が消えることは無かったが、これ以上はさすがにしつこく言い過ぎと、言葉を止める代わりに「行ってきます」に置き換えることにした。

ドアを閉める直前、彼女と顔が合う一瞬、恥ずかしそうに小さく「行ってらっしゃい」と呟いたのが聞こえた。彼女の声を聞いた途端、不思議と身体が軽くなった気がした。彼女の見送りがあるなら、外出も案外悪くないなと思えた。顔を上げると、淀んでいた空はいつの間にか穏やかになり、雲間からは陽が差し込んでいて、まるで出迎えてくれているかのように思えた。


「お、来たな。サボりの貴公子」

「何だ、その不名誉過ぎる異名は。ケンカ売ってんのか?」

「お、そんなこと言っていいのか?誰がノートとプリント取ってやってると思ってんだ?」

早速、挨拶代わりに一週間欠席を突かれる。こいつに貸しを作ったのは失敗だったな。俺はため息を零した。それにしても、今日はやけに周りの空気が変というか違和感を覚える。まあ、前々から関わりのない男子からは良く思われていなかったけど。でも、それは深空先輩と仲がいいことに対する嫉妬心であって今は何というか――警戒心?

「なあ、なんか見られてないか俺ら」

「俺らっつーか、お前だな」

「俺?何かしたっけ」

どうしよう、全く心当たりがない。友人はそんな俺の表情を見て微笑んだように見えた。それが逆に不気味で余計に困惑した。

「お前が大学これなくなったのって、ちょうど一週間前だろ?一週間前っていうとちょうどこの周辺で殺人が起った日と重なっちゃうわけ。だから、何か関係あるんじゃないかみたいな噂が立ってるんだよ。俺は思ってないけどな」

「ああ、なるほ――」

そう言われてまず先に納得してしまった。ああ、そういえばそっか。俺は殺人犯の正体がルビアであることを知ってるから怖いも何も無いけど、他の人にとってはまだ近くに犯人がいるかもしれないと思ってるのか。しかも、タイミングが合ってるならなおさら、怪しまれても仕方ないか‥‥。うん?怪しまれてるって‥‥ヤバくね?

「え、ヤバくね?」

思わず心の声が漏れる。だがもし、噂を真に受けるような連中が現れたら?正義感を振りかざして情報を提供したら?不安の種が一気に芽吹いていく。いや落ち着けよ、俺。ここで慌てることが怪しまれる元凶だろ。自分に言い聞かせて冷静さを取り戻し、冷静にレスポンスをとる。

「そそそんなわけ、ないだろ。いいいい加減な噂だななな」

アレ?思いっきり動揺してね?慌てすぎてバイブみたいになっちゃてるよ。

「ほら、コイツこんな慌てるフリして身を削るギャグかませるんだぞ?犯人なわけないよな?」

アハハと笑いながら俺の肩をバシバシ叩いた。良かった、コイツがアホで。友人のおかげで冷静さを取り戻すことに成功した。だが同時に、友人にも火の目が向くんじゃないか、そんな心配が頭に浮かんだ。

「なあ、俺と一緒にいるとお前も変な噂が立つんじゃないか?」

「あん?気にするなよ、俺とお前の仲で。それよりも合コンの日程なんだけどさ、今週の土曜になったから」

「あ、あー‥‥うん、分かった」

コイツには欠席時のカバーや、今日も気遣ってもらった借りがあるし断れないよな‥‥。断らないと決めていても気乗りしない自分がいた。そういえば、やけに俺を合コンに誘おうとするんだよな、何でなんだろう。

「そういえば、お前は何で一週間も休んでたんだ?」

「それは、まあ、家庭の事情?みたいな感じだよ」

「ああ、前言ってたやつか」

「そういえばさ、何でお前はそんなに俺を合コンに連れて行きたがるんだ?」

「へ?それは‥‥アレだよ、知ってる奴と一緒の方が盛り上がりやすいからさ」

「ダウト。お前、前は俺のためとか言ってただろうが。それに、俺じゃなくても他の奴誘えばいいだけだし。何か俺じゃなきゃいけない理由があるんだろ」

勘ぐるような俺の視線に居心地を悪そうにし、額には汗が滲んでいた。友人の口から真実が語られるのを心待ちにしていたが、ちょうど教授が講義室に入室してきた。

「とりあえず昼食の時で良いか?」

「まあ、しょうがないな」


久々の講義だったが、今日の予定にテストが無かったのは不幸中の幸いだったな。そんなことを思いながら、食堂にできた列に友人と並んでいた。思えば、自分で作らない昼食はすごい久しぶりな気がした。ルビアは今どうしているだろうか。

「おい、順番だぞ」

どうやら友人に声を掛けられるまで、俺は物思いにふけっていたようだった。

「チキン南蛮ください」

注文を終え、食堂内の二人掛けの席に腰掛ける。

「大丈夫か?さっきボーっとしてたけど」

「ああ、ちょっと心配事があったけど大丈夫だ。それよりさっきの話だよ。何なんだ?お前の目的は」

「なんつーか、言いづらいというか‥‥」

「言わないと行かないぞ?」

「だああ!分かったよ。誰にも言うなよ?実は、お前が行くなら合コン組んでくれるっていう女の子が居るんだよ。ホントは口止めされてるんだぞ?」

確かに、コイツに俺が行くことのメリットがあることは分かった。問題はそこじゃない。俺が行くなら行く女子なんて心当たり無いぞ?そもそも、女子と縁なんて全くなかったし。

「お前、心当たり無いって顔してるな?」

「いや、実際無いんだけど‥‥」

「お前はもっと自分への評価を見直すべきだ。悔しいが、お前はモテる、意外と。それを自覚しないとお前が欲しいものも手に入らないぞ」

「俺が欲しいものって‥‥。それに俺の周りに女の影が無いのはお前も良く知ってるだろ?」

事実、俺の欲しいものはもう手に入ってしまってるしなあ。いや、その先のことを言っているのだろうか。まあ、それにしたって「モテる」なんて言われても全く実感が持てない事には変わりない。そんな表情を汲み取ってか、友人はまるで苦虫をつぶしたような表情でこちらを凝視していた。

「な、なんだよ‥‥」

「はあ‥‥。別に?ただなんていうか、やるせないというか何というか‥‥。よし!一回シバかせろ」

「何でだよ!?」

とりあえず友人の話を深く考えるのは後回しにすることにした。どうせ、自分だけで考えてみても答えの出る問題じゃないからだ。この先、周りの異性への接し方をもう少し考え直すという形で落ち着こう。

考えがまとまったところで、注文したチキン南蛮に手を付けた。

「ん、美味いな‥‥」

しかも、この味は多分家にある調味料でも再現できそうだ。ルビアにも出してあげたら喜ぶだろうか。そんなことを考えるだけで、楽しく感じる自分の単純さに可笑しくなってしまう。

「なあ、お前なんか変わった?」

「いや、別に特には‥‥」

「まあ、そっちの方が良いかもな」

別に変わったつもりは無いが、そうだな。変わったというならそれはきっと彼女のおかげなんだろう。気づけば、何かにつけては彼女のことを思い返してしまう。この一週間で彼女のいる日常が当たり前になったからだろう。なんていうか、新婚みたいだな。そんな考えのせいで、背中がむず痒くなってしまう。ああ、早く帰って彼女と話がしたい。

俺は、そんな気持ちをため息にならない吐息に乗せて吐きだした。

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