第22話 彼女と温もり
九時に始まった清掃も、終わるころには十一時に差し迫っていた。
清掃活動の最後はいつも決まって、大家さんが豚汁を作ってくれる。この豚汁目当てに参加している人もいるくらい絶品だった。
それにしても年四回もやってて、しかも朝早い清掃活動なんて最初の頃は誰が参加するんだろうと思っていたけれど、ふたを開ければ毎回多くの参加者であふれていた。
これもひとえに大家さんの人柄の良さ所以だろう。
人の群れをかき分けながら大家さんを探していると、ルビアと萌黄ちゃんが二人で話をしているのが見えた。何の話をしているかは聞き取れなかったが、年も近いし、気が合うのかもしれない。二人が仲良くしてくれることに越したことは無いしな。それに、二人が一緒ということは大家さんが今空いているかもしれない。
大家さんの家の前まで来ると、豚汁の支度をしている大家さんの姿を見つけた。
「あ、大家さん」
「あら、何か用ですか?」
「あの、相談したいことがあって」
「はい?」
大きく深呼吸して、心を落ち着かせてから口を開いた。
「俺がいない間、ルビアが大家さんを訪ねることがあったら相手をしてあげてくれませんか?ルビアの事情知ってるのって俺と大家さんくらいしかいないし、ルビアも大家さんには心を開いてるように見えたので」
自分でも不躾なお願いをしていると分かる。彼女の居場所になりたいと、大家さんの前で担架を切っておきながら、早速他人を頼りにしようとしている自分が恥ずかしくなる。
けれど、今頼れるのはこの人しかいない。たとえ俺が何と思われても、彼女が笑えるならそれでいいと思えた。
「お願いします!」
「いいわよ?」
「無礼なお願いなのはわかってます。それでも――え?」
あまりに簡単な返事に、俺の下げた頭は上げどころを見失っていた。
「私も、日中は暇してたし、話し相手が欲しかったのよ。うふふ」
大家さんの醸し出す独特のゆったりとした間は、いつも俺の拍子を抜いてくる。真面目な話をしようと緊張していても、そんなコリをいともたやすくほぐしてしまう。年季が織り成すものなのか、この人の性格なのか。ともかく、俺はいつもこの間に救われているような気がした。
「――ありがとうございます!」
「良いの良いの。私も今日こうして助けてもらってるんだし、お互い様よ。ほら、あなたも冷めないうちに豚汁どうぞ」
もう一度深く頭を下げて俺は大家さんのもとを後にした。アパートの前の開けた空間に参加者が集う中、俺は少し離れた壁沿いにもたれかかるようにして腰を落とした。疲労感よりもどこか達成感で満ち、吹き込む風に心地よさを覚えた。
俺は大家さんが注いでくれた豚汁を口に運んだ。温かくて優しい味がした。少し塩味が効きすぎているのも、疲れた身体を癒すためなのだろうか。いや違う、涙か。なんで泣いてるんだろう、俺は。
ああ、そうか、そういうことか。人のやさしさはこうも温かいものなんだな。溢れた涙を拭い、俺は胸の奥の温もりが冷めないように豚汁を流し込んだ。
その後、大家さんの口から感謝の言葉が述べられ、清掃活動はお開きとなった。
帰ったら、ルビアと今日の話でもしようか。ルビアがどう過ごしてたのかも気になるし。何より、何故か今、無性にルビアと話がしたかった。
焦る気持ちを飲み込みながら、俺は他の人が帰っていくのを待った。ルビアは大家さんと一緒だろうか。そんなことを考えていた時であった。
背中から甘い香りと共に勢いよく抱き着かれたのは。
驚きに身を包まれ慌てて後ろを振り返ると、そこに居たのは綺麗な赤い髪の女の子だった。
「あの、ルビア‥‥さん?」
「こっち向かないで」
「はい、すみません」
何なんだ?これがモテキというやつなのか?
変な汗かいてないか。汗臭くないか。心臓の音が彼女に伝わってないだろうか。そもそもこんなところ誰かに見られたら不味いんじゃないのか。様々な不安が頭の中で渦巻いていた。
「――ありがと」
「へ?もう良いの?」
「別に、躓いただけだから」
「あ‥‥そう」
案外、あっさり離れてしまったことに俺は肩を落とした。しかも、躓いただけか‥‥。まあ、それもそうか。この気持ちは俺が一方的に抱いてる感情だしな。うん、抱き着かれた感触と温もりと香りだけ覚えて今日は帰ろう。
俺は気持ちを切り替えて、ルビアの真横に並んだ。今日は話したいことがたくさんあるしな。
「なあ、ルビア――」
話しかけようとルビアの顔を見ると、真っ赤に染まった顔を腕で覆い逃げるように部屋へと駆け込んでいった。
俺はその顔が忘れられなくて、その場から動けなくなってしまった。
心臓の音が耳の奥の方で反響し、うるさいほどにスタッカートを奏でている。
もしかしたら、躓いた結果、抱き着く形になったことが恥ずかしかっただけかもしれない。或いは、暑い中頑張ったせいなのかもしれない‥‥‥けど、
「本当に躓いただけ‥‥なのか?」
四月の下旬、たかが春の陽気、温かい程度の気温帯。それなのに、様々な温もりにあてられて火照った身体は、いつまでも冷めてはくれなかった。
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