第16話 彼女と亀裂Ⅲ
「ごめんください。萌黄ちゃんいますか?」
「萌黄は忙しいのでいません」
「いや萌黄ちゃん、返事したら意味ないよね?」
困ったな。向こうに会う意思がないのに、俺にできることなんてあるのか?時間を空けて出直した方が良いんじゃないのか?
いや、彼女とこのままこじれるのはきっと良くないと思う。ここで暮らしていく以上、彼女にだって認めてもらわなきゃいけない。
「少し話がしたいんだ。それとも少しでもだめかな」
「いえ‥‥少しくらいなら、空いて無くもないです」
奥の方から、ゆっくりと萌黄ちゃんが顔を覗かせていた。そのまま居間に上がらせてもらい、彼女は俺の前にちょこんと腰を下ろした。
何て言うのが正解なのだろう。嘘を言うのは簡単だ。でも、嘘なんてものは遅かれ早かれ劣化して剥がれ落ちてしまうものだ。そして、本当が露わになった時、きっと俺は、また彼女を傷つけることになるだろう。
ならば、正直に述べるべきなのだろうか。いや、それは論外だ。
ここは大家さんの言う通り、嘘に本当を織り交ぜるのがベストか。
「で、お兄さんの何なんですか、あの人は」
「えっと、そのなんていうか‥‥」
「やっぱ‥‥‥彼女、なんですか?」
「いや、彼女とかじゃないんだ、ホント。ただ、関係性を明確化できないというか。彼女は知り合いの妹で、家庭の事情で学校に通えてないんだ。でも、誰も面倒が見れないみたいで、変わりに俺が面倒見てるんだよ」
即興にしては悪くない設定ができたんじゃないのか。
「そうだったんですか。でも、お兄さんまだ二十歳ですよね?しかも大学生だし。あの人どう見ても私と同じか一個上くらいにしか見えなかったんですけど。そんな女の子を年頃のお兄さんに任せますかね」
ぐぐぐ、妙に鋭い‥‥。さすが、大家さんの孫だ。
「ていうか、萌黄はあの人の素性とか正直、どうでも良いんです!ただ‥‥、年頃の男女が一つ屋根の下っていうのが心配なんです!だって、あの人すんごい可愛かったし‥‥」
ハッ!た、確かに!?あれ?そういえば、最初の俺もおんなじ心配をしていたような…。いや、今の俺にそんな心配いらないはず、思い出してみよう、今までの生活を‥‥生活を‥‥生活‥‥。
‥‥‥いや!大丈夫だ。手は出してないからセーフ。思想の自由は人権だろうが!
まあそれにしても、やっぱり近い年齢同士心配になるのか。
「い、今のは違くて――」
「大丈夫!萌黄ちゃんが心配するようなことは一切してないし、しないと約束するよ。にしても、萌黄ちゃんはいい子だな。会って間もない子を心配するなんて」
「‥‥‥はい?」
「だって、会って間もない女の子が俺に何かされてないか心配で今日駆けつけたんだろ?」
「お兄さん‥‥」
「ん?」
「お兄さんのバカ!」
「なにゆえ!?」
「うるさい、バカ、アホ、変態、性犯罪者!」
「え、いやだから何もしてないって、てか性犯罪者!?」
何て言われようなんだ。いくらお兄さんでも傷ついちゃうよ?
「もうなんかどうでも良くなっちゃいました!また勉強教えてくれたら今回のことチャラにしてあげます。でも、変な事をしたら殺しますからね」
「は、はい。分かりました!」
なんか怒らせたっぽいけど、一応認めてはもらった、のかな?
「萌黄ちゃん」
「な、なんですか」
「ありがとうね」
彼女のおかげで、俺は大切なことを思いだすことができた。だから、ちゃんと感謝すべきだと思った。
「そ、そ、そ――」
「ソ?」
「そういうところですよ!!」
「だから何が!?」
しばらく彼女がまともに相手してくれなくて、少しショックを受けたことはここだけの話だ。
時間は少し巻き戻る。
私は、彼と大家?さんが話している別の部屋で待機させられた。
「何、話してるんだろう‥‥」
別に、あの人が私をどう思ってるか気になるとかじゃなくて、その‥‥監視!監視対象として話を聞いておきたいだけ!
私は良くないことと思いつつ、ちょっとだけ扉を開いて向こうの様子を伺った。
彼は、ほんの少し暗い顔をしていた。何の話をしているんだろう。
二人の会話に私は耳を澄ました。
「正直、俺も分かりません。彼女がどこの誰で、何があったのかも。でも、彼女は現実に絶望して、俺と出会ったあの日、あの場所に居たんだと思います。そして、この前ようやく彼女に居場所と言ってもらえたんです。彼女はとても良い子で、「おはよう」が言えて、「ごちそうさま」が言えて、「ありがとう」が言えます。簡単なことだけど、いや、簡単なことだからこそ何よりも大切な事だと思うんです。だから、俺はそんな彼女を一人にしたくないんです。彼女の居場所になり続けてあげたいんです」
分かっていた。彼が私のことを通報する気なんてない事くらい。彼が、私との生活のために外に出たがっていることも知ってる。彼と会ったあの日からずっと、彼が優しい人ってことは分かっていた。それでも、彼の一人での外出を許せないのは、多分、自分のことが許せないからだ。私は、人から優しさを与えられてはいけない人間なのに、彼の優しさに付け込んで、彼の生活を蝕んでいる自分のことが許せないんだ。
だから、彼を束縛して「殺人犯」を纏うことで、罪悪感に気付かないふりをする。そうじゃなきゃ罪悪感に押しつぶされそうになるから。
彼にはもう彼の生活があって、彼を慕うたくさんの人がいて。私は彼の幸せを土足で踏み荒らしている犯罪者だ。
私は――。
「はい。それじゃあ行ってきます」
話は終わったらしく、彼が私のいる部屋の前を通った。私はそんな彼の服をつまんだ。
「ねえ、私‥‥‥」
途中まで出かかった言葉が喉の奥で詰まる。
「大丈夫、あの人なら。だから、言われたことに素直に返答すればきっと、このままここで生活していけるさ」
彼の言葉に遮られて、私の言葉が彼に伝わることは無かった。けれど、それでよかったのかもしれない。
だって、「私はここに居てもいいの」なんて聞いてどうするつもりだったのか自分でも分からなかったから。
そんなことを言ってしまえば、この生活の根底を崩すって分かってるのに。
私はこの生活が決して幸せな生活なんかじゃなく、歪で脆く、簡単に壊れてしまうものだということ改めて思い知り、苦笑いが零れた。
私はそんな気を誤魔化すように、彼に感謝を告げようと声を発した。
「‥‥‥ありがとう」
けれど、絞り出したその声は、誰にも届かないような「ありがとう」だった。
その証拠に目の前の彼には返事がなかった。
ああ、嫌になる。
彼が褒めてくれた「ありがとう」を自分の罪悪感を紛らわす道具にした事。そして、そんな「ありがとう」すらまともに言えない自分が、嫌になる。
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